◆全の章◆第5話「見える世界の急変」

 広場では、大人たちが『みつの祭』の準備をしているようだ。

 たくさんの人々が、食卓を移動させたり地面に落ちた飾りや何かを拾ったりしていた。村の大人全員なので、百人近くいるはずだ。


「香の匂い、さっきより強くなってるな」


 セイジ兄ちゃんが言うように、あの独特の甘い香りはいっそう強くなっていた。この場所でそう感じるなら、広場にいたらもっとだろう。

 むっとした湿気と混ざったその匂いは、今や辺り一面に立ち込めていた。嗅いでいるうちに、ユウマはなんとなくぼんやりした気分になった。


 そのまま様子を窺っていると、やがて数人の大人が松明を手に取るのが見えた。

 何をするのかと考える暇もなく、火が、やぐらに移った。

 木でできた櫓はあっという間に炎に包まれ、巨大な火の化け物のように燃え上がった。

 それが、開始の合図だった。


 最初は、何をしているか分からなかった。大勢の大人たちがひしめき合い、蠢いていた。

 目を凝らして、ようやく分かった。

 彼らは身に纏った純白の衣装を、脱ぎ去っているのだ。

 それらは次々に焚き上げられ、黒い煙がユウマたちのいるところまで昇ってきた。


 残りの松明も、燃え盛る櫓に投げ込まれた。

 炎はより一層大きくなり、生まれたままの姿の人間たちを赤く映し出した。


 チィ姉ちゃんが口元を押さえてぽつりと呟いた。


「何なの、これ……」


 今や宴の広場では、全ての大人たちがそれぞれに絡み合っていた。

 それはまさしく動物的な動きで、そこにいる誰もが理性を放棄し、ただただ本能の赴くままに快楽を求め、狂ったようにまぐわっていた。

 ちらちらと風に揺らめく炎がその様子を無作為に照らし、行為を煽った。

 香の匂い、酒の匂い、汗の匂い、それから精の匂いが混ざり合い、茹だる空気を作り出す。

 女の嬌声、男の喘ぎ声、時おり悲鳴のような声も上がった。

 まるで、全体で一つの生命体のように、脈打ち、うねり、呼吸をしていた。


 異常だった。

 あの中に、同じ単家の三人もいるのだ。普段の様子と目の前の光景がうまく結び付かない。

 チィ姉ちゃんはユウマの隣でかたかたと震えていた。燃え上がる炎に照らされてもなお、その顔が蒼ざめているのが分かった。


「……行こう」


 セイジ兄ちゃんが小さな声で言い、チィ姉ちゃんの腕を引いた。




 来た道を駆け足で戻った。学校に到着した時には、三人ともひどく息が上がっていた。

 それでも、ここに辿りつくまでの途中で足を止めることなどできなかった。

 日時計の前に着くなり、チィ姉ちゃんは膝から崩れ落ち、両手で顔を覆って泣き始めた。


「チィ、大丈夫か?」


 セイジ兄ちゃんがチィ姉ちゃんの傍らに膝をつき、そっと肩を抱いた。


「ごめ……なさ……」

「なんでチィが謝るんだ」

「わ、わたし……あんなことが、お、起きてるなんて……知らなくって……」


 チィ姉ちゃんはしゃくり上げながら、セイジ兄ちゃんの胸に頭を預けた。


「それはチィのせいじゃないだろ。いいか、今日見たことは全部忘れるんだ。いずれ大人になる日が来るとしても、子どもでいられるうちは忘れておくんだ。少なくとも、掟を破ったということを誰にも悟られてはいけない」


 ユウマはその様子をただ見ていることしかできなかった。


 やがてセイジ兄ちゃんはチィ姉ちゃんを立ち上がらせた。


「ユウマ、一人で帰れるか? 俺はチィを家まで送っていくから」

「うん、帰れるよ」

「ユウマも、今日見たことは誰にも言わないようにな」

「うん、分かった」


 ユウマはそれだけ言うと、くるりと踵を返して家に向かって走り出し、そのまま振り向かず一直線に家を目指した。


 チィ姉ちゃんは、絶対にユウマを頼ってくれない。


 大人たちの祭のことより、ユウマにはそちらのことの方が哀しかった。




 『豊穣祭』の翌日、ユウマが目を覚ましたのはもう昼近いころだった。

 この日ばかりは日頃の勤めもなく、祭の骨休めでゆっくりしても良い決まりになっているのだ。

 ユウマの単家でも、他の三人はその時間になっても布団に収まって寝息を立てていた。

 彼らはいつの間に帰って来たのだろうか。

 家の中にはかすかに、いろいろなものが混じり合ったあの匂いが漂っていた。


 ユウマは三人を起こさないよう、静かに家を出た。

 外は既に日が高く昇り、村全体が白く暖められていた。昨日まで大気を覆っていた湿気は、どこかへ消え去ってしまったようだ。

 太陽の光を強く弾いていた木々の葉の色も、今日は優しく穏やかだ。空は抜けるように高く、澄んだ青にかかる雲は淡い。


 その清々しい風景を見て、ゆうべ目にしたものは夢だったのではないかとユウマは考えた。

 しかしそう思い込むには、何もかもが生々しく脳裏に焼き付いていた。燃え上がった炎、蠢く人の群れ、そして泣き崩れるチィ姉ちゃんと、その肩を抱くセイジ兄ちゃんと。


 家の玄関に目をやると、戸の上に飾られた不格好な飾りがユウマを見下ろしていた。チィ姉ちゃんに教わりながら作ったものだ。

 それを見ていると、なぜか胸が締め付けられるように苦しくなった。

 午後の日差しの中、誰もいない教室に囁くような彼女の声が響いていたあの日。

 それは既に遠い日のことのように思えた。あの時は『豊穣祭』がこんなことになるなど、想像だにしていなかった。

 それまでユウマを取り巻いていた子どもの世界が、ゆうべの出来事ですっかり崩れ去ってしまった。

 チィ姉ちゃんは大丈夫だろうか。ただそれだけが心配だった。


 ユウマはふらりと村の中心へ向かった。

 村人の多くはまだ眠っているらしく、真昼間だというのに村じゅうがしんと静まり返っていた。まるでこの世界に一人きりになったかのようだ。


 広場に辿りつくと、そこには既に先客がいた。セイジ兄ちゃんだ。

 彼は身を屈めて地面に落ちた燃えかすを調べていたようだが、ユウマに気がつくとすぐに立ち上がった。


「あぁ、おはようユウマ。昨日は大丈夫だったか?」

「うん、大丈夫だったよ」


 チィ姉ちゃんは、とはなぜか聞けなかった。


「この櫓さ」


 セイジ兄ちゃんが視線で示す先には、すっかり燃え落ちて黒い炭と化した櫓があった。


「今まで祭の次の日にすっかり燃えてなくなってるから不思議に思っていたんだけど、ああいうことだったんだな」


 ユウマは頷いた。

 村の男たちが十四日間かけて丁寧に組んだ櫓も、あの儀式のために一瞬で燃えてなくなってしまったのだ。


「これも……いったい何なんだろうな」


 セイジ兄ちゃんの右手の指先には、焦げた赤い葉が挟まっていた。あの独特の甘い匂いを出す、香の葉だ。


「僕、この匂いを嗅いでると、頭がぼうっとしてくるんだ」


 ユウマの言葉に、セイジ兄ちゃんは頷いた。


「そうだな、確かに俺もそうだ。今まであまりそのことに違和感を抱いたことはなかったんだけどな。昨日の大人たちの様子を傍から見ていたら、明らかに異常だと思ったよ」

「その葉っぱ、何なの?」

「これは多分……いや、今はまだやめておこう。確証のあることじゃないんだ。少し調べてみるよ」


 セイジ兄ちゃんは葉の残骸を指先から地面に落とした。


「さぁユウマ、今日は一日ゆっくり休もう。何か心配事があったら、遠慮なく俺に相談してくれていいからな」


 ユウマが頷くのを見届けると、セイジ兄ちゃんは軽く手を振って広場から去っていった。

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