◇一の章◇第2話「区立病院、ハンバーガー、少女」

「どうも釈然としないな」

「何が?」


 一ノ瀬と佐伯を乗せた車は第三十八自治区の市街地を走っている。運転手は佐伯だ。


「太田課長だよ。いつも思うけどさ、あの人、一ノ瀬に甘い気がする」

「そう?」

「そうだよ。さっきだって、一ノ瀬が来る直前までめちゃくちゃ苛々してたんだぜ。それが一ノ瀬を前にした瞬間、あぁだよ」

「休みを返上してわざわざ出てきたのに怒られたりしたら、一瞬で帰るとこだったけどね。佐伯も私に感謝したまえよ」


 赤信号で停車したのを見計らい、一ノ瀬は佐伯の腕を肘で小突く。佐伯は満更でもなさそうに口元を緩める。


「まぁ……こうやって仕事中に堂々とデートできるならいいか」

「あら、どんな高級ランチをご馳走してくれるのかしら」

「冗談です、すみません」

「ほら、前見て前。信号、青」


 相棒の軽口をさらっといなして指さした交差点を越えれば、目的地はもうすぐだ。




 区立病院は、老人で溢れ返っている。待合室の椅子という椅子は全て埋まり、立っている人もいるほどだ。このご時世、混雑しているのは病院くらいである。


 受付に行くと、すぐに担当医のところへ通される。五十がらみの男性医師から、くだんの少女について説明を聞く。


「怪我は膝の軽い擦り傷だけです。最初のうちはかなり混乱した様子だったのも、落ち着きました。ですが記憶障害のような感じで、自分が誰で、どこで何をしていたのかとか、親はどうしたのかとか、一切答えられないのです。脳の検査もしたんですが、特に異常はありませんでした」

「精神的なことが原因の記憶喪失、ということですか?」

「もしくは、何らかの理由でそのふりをしているか」


 一ノ瀬と佐伯は顔を見合わせる。

 思ったより厄介な問題がありそうだ。


「いずれにしてもカウンセリングが必要かと思いますが、この病院では専門の者がいないものでして。ただ、やはり事件に巻き込まれた可能性もありますので、一旦警察局の方で預かっていただきたいのです」

「……分かりました。彼女に会わせてください」




 この病院は現在満床であるらしい。どの病室のネームプレートも埋まっている。本来なら入院が必要な患者も帰さざるを得ない状態だと、案内してくれた看護師がこぼす。


 連れてこられたのは四人部屋だ。少女は、入り口から向かって右奥のベッドに腰掛けていた。

 その姿を目にした瞬間、一ノ瀬は息を飲む。


 肩までまっすぐに伸びた髪に、色白の頬。くっきりした二重の目は長いまつ毛に縁取られている。驚くほどの美少女だ。

 身にまとっているのは、袖のない白いワンピース。その裾から覗く右膝には、きっちりと巻かれた包帯。

 小さな白い手は、胸元に提げられたペンダントのようなものをきゅっと握り締めている。


 少女が一ノ瀬を不思議そうな目で見上げるので、慌てて笑顔を作って自己紹介する。


「こんにちは、警察局の一ノ瀬といいます。隣は佐伯。あなたは?」


 一ノ瀬の問いかけに、少女の瞳に動揺の色がよぎる。担当医の説明も念頭に置き、深追いはしないことにする。


「えぇと、私の言葉は分かるかな?」


 少女は小さく頷く。どうやら日本人ではあるようだ。


「ちょっと失礼」


 佐伯がポケットから取り出した携帯端末をおもむろに少女の右目にかざす。

 突然のことに、少女はびくりと身を震わせる。

 佐伯の端末の画面には、『登録情報がありません』と表示が出る。


「網膜登録なしか」

「ちょっと佐伯、いきなり何してんの! この子、びっくりしてるじゃない」


 一ノ瀬は勢いよく佐伯の肩をはたく。ぱん、という気持ちのいい音が病室に響き、佐伯が小さく「痛てっ」ともらす。


「ほんっと、無神経なんだから」

「……暴力反対」


 二人のやりとりに少女は目を丸くし、ほんの少しだけ口元を緩める。そんな彼女の表情の変化に、一ノ瀬はほっとする。


「私たち、あなたを迎えにきたの。これからお昼ごはんを食べに行くんだけど、あなたも一緒にどう? お腹は空いてる?」


 少女は一ノ瀬を見上げ、今度はしっかりと頷く。




「それでどうして、こんなジャンクフードかなぁ」


 病院を出た後、三人は自治区内のファストフード店に来ていた。


「給料日前でキツいんだ。今日のところはこれで勘弁してくれ」

「はいはい、今日のところはねー」


 平日ということもあり、店内はそれほど混んでいない。彼らはレジで適当なハンバーガーのセットを注文する。


「あなたは何がいい?」


 一ノ瀬は少女にメニュー表を手渡す。少女はメニュー表に目を落としたまま、戸惑ったように首を傾げる。


「私と同じものでいい?」


 助け船を出すと、少女はまた小さく頷く。

 三人分のセットを持ってテーブル席に移動するなり、一ノ瀬はハンバーガーに手を伸ばす。

 ご馳走ではないとはいえ、店内に充満するフライドポテトの匂いを嗅いでいたら空腹を意識せずにはいられなくなったのだ。


 少女はやはり無表情のまま、目の前のハンバーガーセットをじっと見つめている。


「ひょっとしてハンバーガー嫌いだった?」


 一ノ瀬が少女に問いかけると、彼女は驚いたように顔を上げる。そして佐伯と一ノ瀬を見比べるように視線を移動させた後、再びセットの載ったトレイに目を落とす。


「あの、これ……何ですか?」


 少女の口から初めて言葉が零れる。鈴の鳴るような声だ。

 良かった、口が聞けたと思うと同時に、その言葉の意味するところに一ノ瀬は驚く。


「何って、ハンバーガーよ。覚えてない?」


 少女は曖昧に首を傾げる。

 記憶喪失というのは、例えば『ハンバーガー』とか『洗濯機』とか、一般的なもののことまで忘れてしまうものなのだろうか。

 戸惑いながらも、一ノ瀬は努めて冷静な声を出す。


「まぁ、そんなにすごくおいしいって訳じゃないけど、お腹空いてるなら食べておきなよ。うちの庁舎の食堂のごはんなんて、まずくて食べられたもんじゃないんだから」

「ひどい言い草だけど、俺も同感だ」


 二人が神妙な面持ちで口々に言うのを聞いて、少女はわずかに首を傾げる。そしてまたしばらくトレイを見つめる。

 やがて彼女はそっと両手を合わせ、目を閉じてほんの小さな声で何事かを呟いた後、ハンバーガーの包みを手にとる。


 その様子に、一ノ瀬は何か引っかかりを覚える。

 ハンバーガーは忘れても、生活習慣は覚えている? その違和感ももちろんある。


 しかしそれ以上に、何か説明しがたい違和感があるのだ。

 食事の前に、手を合わせて食前のあいさつをする。それ自体は何らおかしいことではないが、少女のそれはどことなく異質な感じがしたのである。


 いや、むしろ、既視感に近いかもしれない。

 先ほどの少女の仕草を、一ノ瀬はどこかで見たことがあるような気がしたのだ。しかしそれが具体的にいつ、どんな状況だったのかまでは思い出せない。


「うまいか?」


 佐伯が少女に尋ねると、彼女はほのかに微笑んで、こっくりと頷く。




 少女を本部に連れ帰り、応接室に通す。

 太田課長は大仰に一ノ瀬と佐伯を労った。


「いやほんと、ご苦労だったね二人とも。特に一ノ瀬さんは休みだったところをわざわざ出て来てもらって」

「いえ」

「それでだね、一旦あの子を引き取ったはいいが、いつまでもここに置いとく訳にもいかない。どういう素性で、どんな経緯でうちの自治区で迷子になっていたのか不明だからね。どこかで家族が捜索願いを出しているかもしれないし、何かの事件に関係している子かもしれない。だから、早いとこ担当部署に引き渡したいと思ってるんだよ」

「はぁ」

「だからついでみたいで悪いんだけど、佐伯くんと一ノ瀬さんの二人であの子の身元を調べて、担当部署に回すところまでやってくれるかな」


 その言い草に、一ノ瀬はカチンと来る。

 まるであの子をお荷物みたいに。

 まだ年端もいかない少女なのだ。上からの指示でなくとも、警察局員の使命として少女を然るところへ送り届けるべきだろう。



 そうは言っても、今のところ少女に関して何の身元情報もないのが現状である。

 一ノ瀬はタブレット端末を持って、彼女のいる応接室に入る。佐伯は通報が入って現場急行したので、一旦戦線離脱している。


「ごめんね、ばたばたして。体調悪くなったりしてない?」


 少女は首を横に振る。彼女の首から下がっているペンダントが、しゃらしゃらと揺れる。

 いや、ペンダントというより、鍵だ。


「それ、おうちの鍵?」


 一ノ瀬が指さすと、少女ははっと気づいたようにそれを両手で握り締め、また首を横に振る。

 何となくではあるけれど、この子、記憶喪失なんかじゃないのではないか。


「まぁ、いいや。私、あなたがおうちに帰れるようにお手伝いするから、よろしくね。それでいくつか教えてほしいんだけど、いいかな。もちろん、言いたくないことを無理に聞くつもりはないわ」


 少女は頷く。一ノ瀬はタブレット端末をテーブルの上に置き、調書のシステムを起動させる。


「まず、さっきも聞いたけど、名前は言える?」


 少女は少し躊躇った後、静かに口を開く。


「……チサト」

「チサトちゃんね。どんな漢字を書くの?」

「知るに、里」


 一ノ瀬は調書に『知里』と入力する。やっぱり。この子は少なくとも自分の名前を覚えている。


「苗字は? お父さんやお母さんの名前は?」


 少女は首を横に振る。それが言いたくないということなのか、覚えていないということなのかは分からない。


「生年月日は?」


 やはり無言。訊き方を変えてみる。


「今、何歳?」

「……十三歳」

「住所は言える? どこの学校?」


 少女はきょとんとした様子だ。


「うーん、じゃあ別の質問にしようか。知里ちゃんは病院に来る前、山の中で何をしてたのかな?」 


 知里は一ノ瀬の目から視線を外し、再び胸元に提げられた鍵をぎゅっと握る。白い拳に骨が浮き上がる。

 伏せたまつ毛が微かに震える。その下にある瞳はゆらゆらと影が揺れている。


 この子は何か、とても恐ろしい目にあったのかもしれない。

 一ノ瀬は口元に柔らかく笑みを作り、できる限り優しい声で言う。


「大丈夫、ここは安全よ。何があっても、私が必ず守ってあげるからね」


 すると知里は顔を上げ、まっすぐな瞳で一ノ瀬を見つめる。


「とりあえず何か飲む? とは言っても、コーヒーかお茶しかないけど。お茶でいいか。ちょっと待っててね」


 一ノ瀬は独り言のように言い、端末を手にして立ち上がる。そして彼女に背を向け、扉を開ける。


「……ホウジョウサイ」


 応接室を出ようとした瞬間、ほんの小さな呟きが聞こえる。


「え?」


 一ノ瀬は振り返る。すると、こちらをじっと見つめる知里と目が合う。

 その瞳には、それまでなかった理知的な光が灯っている。

 知里はもう一度、どこか訴えかけるように口を開く。


「ホウジョウサイ、が……」


 しかし言葉はそこで途切れ、少女は再び俯いてしまう。


 ホウジョウサイ。

 異国語のように響くその語句は、一ノ瀬の思考回路の中に何らかの明確な意志を持って入り込む。

 しかしそれは結局、実体を結ばないまま、音だけがふわふわと宙に漂った。

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