◇一の章◇第1話「目覚め、エレベーター、第三十八自治区警察局」

 彼女は暗闇の中にいた。

 あまりに完璧な暗闇なので、目を開けているのか閉じているのかすら判別できない。


 試しに視線を動かしてみるが、眼球にわずかな筋肉の収縮を感じただけ。

 今度は前に手を伸ばして、虚しく空をきる。

 唯一感触のある足の裏は、ひやりとした土の地面を捉えている。

 耳をつんざくような静寂に脳幹が痺れる。彼女自身の鼓動すら、息をひそめているようだ。


 ここはどこなのだろう?

 知っている気もするし、知らない気もする。

 不思議なことに、ここからどこかへ移動しようという気持ちにはならない。


 少なくとも、この場所は全てのことにおいて完結している。

 どんな色も、形も、音も、匂いも、全て闇の中に融けて存在しているのだ。

 様々な概念がこの闇から生まれ、また還ってくる。全てのものが彼女を取り囲み、通過し、そして彼女に収束する。


 ——私は闇に護られている。


 強くそう感じる。

 だからこそ彼女は、その場所から一歩も動くことができないでいた。




 聞き覚えのある音が鳴っている。

 その音は混濁する意識の中をふらふらと漂うように抑揚を紡ぎ、次第に意味のあるパターンを形作る。

 彼女は無意識のうちにその音源を手繰り寄せ、指先で沈黙させる。再び訪れた静寂に、思考はまた輪郭を失う。


 しかしそれも束の間、同じメロディが鼓膜を震わせると、彼女ははっと目を開ける。

 着信だ。

 手の中にある携帯端末の画面に目をやれば、『佐伯』と表示が出ている。嫌な予感がしつつも、彼女は画面をタップする。


「お、はよー……」

『一ノ瀬、もうすぐ昼だ。いったい何時まで寝てるんだよ。さっきから何回も電話してるんだけど』


 明らかな寝ぼけ声で応答した彼女に、同僚の佐伯が呆れた声で言う。

 壁の時計を見れば、午前十一時十八分。まだ朝じゃないか。


「一応訊くけど……今日って私、休みだよね」

『その通りだ。でも残念ながら、ゆっくり休んでる暇はなくなったよ』


 やっぱり。

 一ノ瀬はようやく身を起こす。ここのところ出勤続きで久々の休みだったというのに、まったく運がない。


「何かあったの?」

『詳しい話は本部でする。一ノ瀬がなかなか応答しないから、課長が怒ってるんだ。とにかく早く来てくれ』


 佐伯はそれだけ言うと、こちらの返事も聞かずに電話を切った。

 これでは反論も拒否もできない。電話をかけ直したところで、意味がないことくらい嫌というほど分かっている。


 一ノ瀬は大きく溜め息をつき、諦めてベッドから這い出る。

 まずは汗で湿ったTシャツを脱ぎ去り、小さなユニットバスでシャワーを浴びる。これだけでも、随分と頭がはっきりする。

 背中にかかる長い髪を素早くドライヤーで乾かし、洗面所に吊るしっ放しになっていた下着を着ける。

 そのままの恰好で薄いメイクをし、髪を一つにまとめる。白のシャツブラウスを着、紺色のネクタイを締め、同色のトラウザーパンツを穿く。

 仕上げに身分証を兼ねたバッジを襟に付け、腕時計を締める。


 身支度が完成する頃には、すっかり目が覚めている。

 一ノ瀬は最後に洗面所の鏡を覗き込み、小指でリップのはみ出した部分をさっと拭うと、寝室兼居間に置かれたハンガーラックから仕事用の鞄を引っ掴み、アパートを出る。



 一ノ瀬の勤務先は、第三十八自治区警察局の生活安全課である。

 極端な少子化による人口の自然減に歯止めが効かなくなり、国家が財政破綻したのは三十五年前のことだ。

 今や日本の総人口は五千万を割り込み、そのうち高齢者の占める割合は実に五十五パーセント以上となっていた。

 国が国家としての統制を放棄して以降、人々の暮らしは細々とした地方自治に委ねられている。


 第三十八自治区は、全部で百三十五ある自治区の中でも比較的規模の小さい地方公共団体だ。

 旧岐阜県東濃地方にあたる、四方を山で囲まれた盆地。若者の多くは高校を卒業すると都市部に出ていってしまうため、この自治区の人口のおよそ八割は六十五歳以上の高齢者で構成される。

 住宅街や駅の周辺は昼間でも閑散としており、空き家も多い。ひとたび車を走らせればすぐに人気ひとけのない山間部に分け入ってしまうような街である。


 警察局は、街の中心部にある自治区庁舎の中に入っている。旧時代の市役所をそのまま利用した建物だ。一ノ瀬の自宅からは、車で約十五分ほどのところにある。


 自治区庁舎に到着すると、一ノ瀬は入り口の脇に設置された認証カメラに右目を合わせる。網膜コードが読み取られ、扉が開く。

 自治区の住民は網膜コードに個人情報を登録し、身分証明の代わりとしているのである。


 一ノ瀬はエレベーターホールに立ち、鏡面になっている扉に映った自分と視線を合わせる。

 いつもの職場。見慣れた仕事着姿。今日は夕方まで寝倒す予定だったのに。あーあ。


 チン、と前時代的な音がして、エレベーターの扉が開く。一ノ瀬はさっと乗り込むと、三階のボタンを押す。

 再び扉が閉じられる。彼女を乗せた箱はゴウンゴウンと音を立てながら、ゆっくりと上昇していく。


 エレベーターは苦手だ。この密閉された空気に、息が詰まりそうになる。

 一ノ瀬は目を閉じる。目蓋の裏に三階のボタンが点灯した操作パネルの残像が映っている。

 完璧な闇というものは、この世にはあまり存在しない。



 三階にある警察局本部へ足を踏み入れるなり、背の高い青年が一ノ瀬を出迎える。


「一ノ瀬、やっと来たな」


 年の頃は二十代後半、一ノ瀬よりは二歳ほど年上だ。この街では貴重な『若者』。彼こそが、先ほど彼女に電話をかけてきた佐伯その人である。


 一ノ瀬はちらと腕時計を見やる。十一時五十五分。言われるほどのことでもない。


「別にそんなに遅くないでしょ。佐伯から電話があってから一時間以内に着いてるんだから、頑張った方だよ。で、一体何があったの?」

「とりあえず、説明は太田課長から聞いてくれ。一ノ瀬がなかなか来ないから、課長のやつ俺に文句言うんだよ」

「えー……」

「まぁまぁ、俺を助けると思って、な?」


 いつもの困り顔。精悍な面差しなのに、どこか気弱に見えるのは、こういう表情のせいだろう。

 一ノ瀬は背中を押されて局長のデスクの前まで赴く。


「おはようございます、太田課長。遅くなって申し訳ありませんでした」


 頭を下げると、課長は両手を顔の前で大袈裟に振る。


「いやいや、お休み中ところ呼び出して悪かったね。どうしても一ノ瀬さんにしか頼めないことがあってね。いや、来てくれてほんと助かったよ」


 課長はたっぷりと脂肪のついた腹を無意識にさすりながら、脂ぎった笑顔で言う。

 どこが怒ってるって? 一ノ瀬が隣に立つ佐伯を横目で見ると、彼は釈然としない様子で視線を逸らす。


「私にしか頼めないこと、ですか」


 何となく面倒を押し付けられそうな雰囲気だ。


「あぁ、実は区立病院から連絡が入ってね。ある少女の身柄をこちらで引き取って欲しいそうだ」

「はぁ」

「昨日自治区の北端の山中で保護された子なんだがね。軽い怪我をしてたんで病院に運んだはいいが、特に目立った外傷がある訳でもなし、これ以上入院させておけないらしくてね。ほら、ここんところ病院も人手やベッドが足りてないんだよ。とにかく早く引き取ってくれの一点張り」

「えぇ、それはよく分かりますが」


 一ノ瀬も、昨日少女が保護されたという話は聞いていた。同じ警察局の北方区域担当者から本部に連絡が入っていたのだ。

 しかし、なぜそれが自分にしか頼めないことなのだ?


「その子、身寄りも分からないし、十二、三歳だっていうからね。ちょうど難しい年頃の女の子だし、ここは女性局員が対応した方がいいと思ってね。つまんないことでクレーム言ってくる人いるでしょ。そういうのは極力避けたいからね」


 確かに現在、生活安全課に勤務している女性は一ノ瀬だけだ。二年前までベテランの女性局員がいたのだが、老親の介護のため辞めてしまった。


「だから急で悪いけど、今から佐伯くんと二人で病院へ迎えに行ってくれるかな」


 一ノ瀬は思わず隣の佐伯を見上げる。

 今この課には、自分たち二人と局長を除けば中高年の男性局員ばかりだ。フットワークが重いだけでなく、愛想もない連中である。


 佐伯はまた口の片端だけを上げて、軽く身を寄せてくる。


「本当は俺一人で行く予定だったんだけど、課長がこう仰るので。申し訳ない」

「なるほど」


 一ノ瀬は目を眇め、相棒の肩を叩く。


「今日のお昼ごはんで手を打つ」


 何しろ、起きてからまだ何も食べていないのだ。

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