楽園の子どもたち

陽澄すずめ

◆全の章◆第1話「村の少年」

「――王子と姫は結ばれて夫婦となり、いつまでも幸せに暮らしましたとさ」


 男の口から語られる童話はそう締め括られ、絵本を閉じる乾いた音が部屋の中に響いた。

 まだ七歳になったばかりの少年は、隣に座る六つ年上の少女につられて拍手をした。


 窓の外では日が傾き、鬱蒼とした木々の陰ごしに室内へと差し込んでいた。

 木目の壁はきっちりと閉じていて、まるで世界からこの空間だけがそっくり切り取られているかのようだ。


「ねぇおじさん、『結ばれてフウフとなる』ってどういうこと?」


 少女の方が、首を傾げてそう尋ねた。眉のところで切り揃えられたまっすぐな前髪が、さらりと揺れた。男を見つめる瞳に灯るのは、理知的な光だ。


 男は軽く苦笑して答えた。


「うん、どう説明したものかな。君たちにはちょっと難しいかもしれないね」

「えー」


 少女は眉根を寄せ、不満そうに口を尖らせた。


「あぁ、ごめん、君が賢い子だということは私もよく知っている。私が言いたかったのは、君たちの生活には存在しない概念だから、うまく説明できるか分からないってことだよ」

「ガイネン?」


 男は、咳払いを一つ。


「そうだ。このことを説明しようとすると、『外』の世界の仕組みを説明しなくちゃならないからね。簡単に言えば、『結ばれて夫婦となる』ということは、つまり二人が『結婚』したということなんだ。『結婚』、聞いたことあるかい?」


 少女は首を横に振った。

 もちろん、幼い少年にとっても聞き覚えのない言葉だった。


「それまで他人だった男と女が、家族になる約束をするんだ。そして一つの家で一緒に生活をする。やがて二人の間には子供が生まれて、家族が増える。『外』ではそういう制度になっているんだ」

「『カゾク』は単家たんかのこと?」

「うん、単家みたいなものだ。この村では単家は『協会』によって決められるけど、『外』の世界では誰と家族になるのか自分で決めることができる」


 男はそこで言葉を切り、間を取った。

 少女は口元に手をあて、しばらく考え込んだ。


「……好きな人と一緒の単家になれるってこと?」


 男は大きく頷き、微笑んだ。


「まぁそんなところだ。さっきの話では、王子と姫はお互いのことが好きで一緒になることができた。だから幸せになったということなんだ」

「それなら分かった」


 幼い少年は二人のやりとりをじっと聞いていたが、もちろんさっぱり理解できなかった。しかし少女が満足そうなので、彼も嬉しくなった。


 男は二人の顔を順に見ると、ぱんと手を叩いた。


「さぁ君たち、そろそろ帰らないと。単家の人たちが心配するぞ」

「単家の人たちには、セイジ兄ちゃんのところにいるって言ってあるから大丈夫よ」

「つまり、ここにいることがばれたらまずいんだろう?」


 少女ははっとし、顔を赤くして俯いた。


「ごめんなさい」

「いや、いいんだ。そうじゃなきゃ、こんな森の奥に一人で住んじゃいないさ。今日はもう日が暮れる。ここにはいつでも来るといい」

「分かったわ」


 しぶしぶ立ち上がった少女に続き、幼い少年も慌てて動いた。


「おじさん、今日はありがとう。『ケッコン』のお話、面白かったわ」

「いいや。分かっているとは思うが、その話は……」


 玄関で二人を見送る男は、少し困ったような顔で口を濁した。


「うん、大丈夫。私たちとおじさんの秘密、でしょう?」


 少女が微笑むと、男は小さく息をついた。


「じゃあ、気をつけて帰るんだよ」


 二人は男に手を振り、その小屋を後にした。



 幼い少年は、自分の手を引いて歩く少女の横顔をそっと窺っていた。

 夕暮れ時の森は薄暗く、辺りにはじっとりとした湿気が漂っていて、気味が悪かった。握った少女の掌だけが、柔らかくて温かい。


 彼女の視線は空に張り付いた北極星に固定されていた。

 それは家に帰ろうとする子どもの目ではなく、遠い真実を追い求める賢者の目だった。宵闇に融ける彼女の横顔は、凛として美しかった。

 まだ幼い少年は、心細い森の中を先へと導く存在に、ただただ心強さにも似た高揚感を覚えていた。

 だから、どこかふわふわした甘い気持ちで彼女に呼びかけた。


「ねぇ、チィ姉ちゃん」

「うん」

「あのおじさんのところにいたことは、ハルじいさんやケイおばさんには内緒?」


 チィ姉ちゃんは、弾かれたように少年の方を向いた。


「ユウマ、この前も言ったじゃない。内緒よ、絶対内緒」

「どうして?」

「どうしてって、それは……あのおじさんが、『追放者』だからよ」

「『ツイホウシャ』って何?」


 彼女の意識が自分の方へ向いたのをいいことに、ユウマと呼ばれた少年は次々に質問をした。もとより、いろいろなことを聞きたい盛りの年頃だ。


「ええと……とにかく、本当はあのおじさんと話をしちゃいけない掟になってるの。だからそれを破ったことが他の大人にばれたら、きっとひどく怒られるわ。ううん、怒られるだけじゃ済まないかも。おしおき部屋に入れられて、一生出してもらえないかもしれない」


 チィ姉ちゃんが怖い顔で言ったので、ユウマは不安になった。

 自分たちがあのおじさんの家にいたことは、とんでもなく悪いことなのかもしれない。


「セイジ兄ちゃんは?」

「セイジ兄ちゃんは私たちの味方だから、話しても大丈夫。でも、その他の人には絶対に言っちゃだめよ」

「……分かった。僕、内緒にする」


 ユウマの言葉を聞いて、チィ姉ちゃんはようやく頬を緩めた。

 しかし彼の心には、重く不穏な影がずしりと腰を下ろしていた。

 辺りはひどく静かで、がさがさと小路の雑草を踏む二人の足音が断続的に聞こえるだけだった。

 時おり不気味にカラスが鳴いて、ユウマはそのたびびくりとした。身体にまとわりつく湿気が、冷たい汗を引き出した。

 ユウマは思わず、チィ姉ちゃんに手をぎゅっとしがみついた。彼女の細い手首に嵌まった木の腕環がするりと落ち、彼の指の付け根に当たった。


「見て、ユウマ。チェシャ猫が笑っているわ」


 その明るい声に、ユウマは顔を上げた。

 チィ姉ちゃんが示す先の空には、ごく細い下限の月が寝転んでいた。それは確かに、にやりと笑ったチェシャ猫の口元のように見えた。

 『不思議の国のアリス』の話も、少し前にあの男から聞いたものだった。物語の中でその猫はアリスに意地悪を言って、道を教えずに消えてしまったのだ。


「ほんとだ。怖いね」


 チィ姉ちゃんは、ふふ、と微笑んだ。


「大丈夫よ。ほら、家が見えてきたわ」


 視線を空から正面に戻すと、家々の灯りが目に入った。ユウマはほっと息をついた。



 チィ姉ちゃんはユウマを家まで送り届けてくれた。

 その木造の簡素な住居の玄関で出迎えたのは、痩せた中年の女だった。

 彼女は神経質そうに笑みを作り、ユウマの背をぽんと叩いた。


「チィちゃん、いつもありがとうね。ほら、ユウマもお礼を言いなさい」

「いいえ、ケイおばさん。ユウマはずっといい子にしてましたから」

「悪いわね。面倒を見てくれて助かるわ」


 二人の間で行われるやりとりを、ユウマはむずむずとした気持ちで聞いていた。


「じゃあユウマ、また明日学校でね」


 チィ姉ちゃんが行ってしまうと、ユウマは心許ない気持ちになった。

 ケイおばさんのことは少し苦手だ。家の中には野菜の煮込みの匂いが満ちていたが、できることなら夕飯も食べずに、秘密を抱えたまま布団に潜り込んで眠ってしまいたかった。


「さぁ、もうごはんよ」


 ケイおばさんに促されて、ユウマは食卓に着いた。

 単家は四人一組だ。既に同じ単家の人々はそれぞれの席に座って彼を待っていた。


「さぁ、手を合わせて。天主さまの恵みのもとに」

「天主さまの恵みのもとに」


 この単家で最年長のハルじいさんの声に続き、全員が目を閉じて口々に復唱した。


 日常生活を送るために、たくさんの掟があった。単家の全員が揃って食事をすることや食事の前の挨拶は、そのほんの一部だった。

 ここでは掟を破ることが、何よりもの悪とされていた。夕飯を取らないなどという大それたことは、ユウマにはとてもできそうになかった。


 単家替えがあって、まだ半年。

 ユウマはこの新しい単家に居場所を見つけられずにいた。単家替えは三年に一度なので、まだあと二年半もこの単家で過ごさなければならない。そう思うと、ユウマの心は暗く翳った。


 だから自分の単家から離れ、チィ姉ちゃんと一緒にいられる昼間の時間こそが、彼にとってほっと息をつける大切なときだった。夜の時間は何より恐ろしい。


「ユウマ、よく噛んで食べるのよ」

「はい、ミサ姉ちゃん」


 ユウマの隣に座っている二十歳前後の女が、じろりと横目だけで睨んできた。

 彼はこのミサ姉ちゃんのことも苦手だった。何かにつけて意地悪なのだ。


 秘密がばれたらどうしよう。

 ユウマは不安な気持ちで、味のしない料理を口に運んだ。

 正面のハルじいさんと視線が合った。彼は一瞬だけ、目元のしわを深くした。

 何だか心を見透かされたような気分になったが、ユウマは黙々と食事を続けた。もとより食事の間はお喋りをしてはいけない掟だ。彼はそのことに人知れず感謝した。


 夕飯が終わると、ユウマは寝る準備を始めた。

 風呂の日は三日に一回という決まりだった。今日は風呂の日ではなかったため、夕飯が終れば皆すぐに就寝準備にかかる。まだ幼い彼は食事を取ると眠くなるので、風呂でない日は嬉しかった。


 ランプの灯を消すのが、単家内でのユウマの夜の役目だった。

 それぞれが布団に正座し就寝の祈りを唱えた後で、彼は灯りを消した。するとたちまち家の中は闇に包まれた。


 ユウマはすばやく布団に潜り込んだ。

 目を閉じて見える闇の方が、彼には明るく思えた。その闇の中にチェシャ猫の笑顔を思い浮かべながら、彼の意識はまもなく沈んでいった。

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