5 僕の名前は

 少し離れたところから突然怒声が聞こえてきた。おそらく30代くらいの男の会社員風の二人だ。どちらかがイヤホンからもれてくる音楽の音がうるさいと言ったのがきっかけらしい。


 「こんな時に、音を漏らして迷惑なんだよ」


 「うるせー。勝手だろ」


 「みんな我慢してんだよ」


 「そんなの俺も同じだよ」


 どうも収束がつかない口論になっていくようだった。


 私は人ごみのすきまからその二人の姿を見ることができた。周りの人はなにか言ってふたりを止めようにもどうしようもないようだった。年配の男性が二人を制しようとしたが無視されていた。私は耐えられなくなって思わず大声を出してしまった。


 「大川さん。高田さん。ふたりともやめてください。今はみんながイラついているんです。あなたたちだけじゃない。しばらく我慢してください」


 二人の怒声はそれでぴたりとやんだ。私の発言は年配の男性の言ったこととそう変わらない。違うのは二人の名前を私が知っていたことだ。以前、その二人がそれぞれの同僚と車内で話していた会話の中に出てきた名前だった。おそらく自分の名前を知っている私のことを気味悪く思ったに違いない。相手から私の姿が見えなかったようなので、なおさらだろう。



 電車はようやく動き出した。逆行して一つ前の駅に戻ったところで扉が開いた。笹川由美子さんはここからタクシーに乗るということで、私とそれよりも多く高志君に手を振って走って行った。加藤さんは私に軽く会釈をしただけで去った。彼に私の秘密をいつか話したいと思ったが、その機会はおそらくないだろう。


 人ごみの中から最後に出てきたのはやはり「ひろこ」さんだった。倒れたということで心配していたが、もう一人で歩けるようになったらしい。それでもやはりふらついているように見えた。高志君が先に声をかけた。


 「ひろこ姉さんだよね」


 「えっ? そうだけど」


 「あ、私があなたの名前を知ってたんです。それでこの子に教えて・・・」


と、一層怪しまれるだけの説明を私はとっさに始めていた。ひろこさんはあっけにとられたままだ。


 「とにかく、大丈夫ですか。先ほどの事故で倒れた様子だったので、心配だったんです」


 「ああ、私、メールに夢中になっていてとっさの行動が遅れたんで、手すりに頭をぶつけたみたいなんです。それで一瞬くらっとして・・・。でも、もう大丈夫です。さすがに痛いですが」


 といってひろこさんは自分の頭をなでた。


 「ひろこ姉さんのことをね、二人で心配したんだよ。だって僕たちいつも同じ電車に乗る仲間じゃないか」


 高志君の言うことは間違っていなかった。私も小学生なら素直にそう言ったのかも知れない。


 「そうね。君は・・・高志君っていうのね。高志君とは何度か一緒の電車に乗っていた覚えがあるわ」


 「何度かじゃないよ。大体毎日一緒だよ」


 「あら、そうなの。気づかなかった。ごめんごめん。それで・・・」


といってひろこさんは私のほうを向いてたずねた。


 「あなたはどうして私の名前を知っていたのですか」


 「以前、偶然あなたの携帯の画面に名前があるのを見たんですよ。いえ、覗き見したわけじゃないんですよ。偶然、電車がブレーキをかけて傾いて・・・」


 「いいんです。私・・・」


 といって笑顔になって、


 「私、川口裕子って言います。K大の学生です。実は実家が田舎なんでこの辺りにはあまり友達がいなくて、だから大学の友だちかバイト先の同僚くらいしか私が知っている人はいなくて、しかも私を下の名前で呼んでくれる人は一人もいなくて・・・寂しかったんです」


 と言う。私ことをたずねるので、名前と会社員であることと、自分もK大の卒業生であることを付け加えると、いっそう親しげな顔になった。そして裕子さんが、


 「また会えますよね」


 というと高志君は、


 「大丈夫、毎朝電車で会えるよ。電車以外で会いたいなら、約束したほうがいいよ」


 とませたことを言うので、すっかりおかしくなってしまった。



 鉄道の事故は結局、踏み切りに立ち往生した軽トラックに、私たちが乗った先頭車両がかする程度だったらしい。少なくとも搬送されたけが人がなかったのはこの種の事故では奇跡的なことで、まさに不幸中の幸いだった。その日の夜のニュースではほとんどのメディアがこれを大きく取り上げたが、翌朝にはまるで何事もなかったかのように忘れ去られてしまったようだった。朝の風景は前日とまったく変わることがないものだった。毎朝、駅は大量の人を吸い込み、また吐き出していた。


 しかし、大きく変わったことがある。私に身についた人の顔と名前を覚えるという能力に基づく人間関係はいままで一方的なものだったが、昨日の事故をきっかけに相手からも名前を覚えてもらえるきっかけができたのである。以前からの「友だち」の高志君に加えて、品のいい保険会社の幹部とおもわれる笹川由美子さんや、ほぼ同年齢くらいで暑がりの加藤さん。先日は喧嘩をしていたが、本当は仕事熱心な高田さんと、いつも大音量で音楽を聴いていた大川さん。最近は周りを気にして音漏れはかなり小さくなった。そして地方出身で大学の後輩でもある川口裕子さん。そのほかにも多くの人が私に会釈をしてくれるようになった。私には大量の「顔見知り」がいる。そして彼らとともにこの街で生きていることを実感できる。

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