4 事故

 それからまた1ヶ月ほどたった後だったろうか。今日も朝の駅でアオキタカシ君に会った。今日もほぼ満員になった同じ電車に乗り込む。ドアの近くに私とタカシ君は並んで立つことになった。


 「前から気になってたんだけど、タカシ君ってどんな字を書くの」


 「たかい、こころざしで、高志だよ」


 「へえ、高い志ね。いい名前じゃないか」


 「お父さんがね。大きく高い志を持っていれば、いつかきっと叶うって言ってるんだ」


 「そうだね。お父さんのおっしゃったことは正しいよ」


 高志君はうれしそうな顔をした。


 「ねえ、高い志、持ってる?」


 ストレートだが子どもらしい嫌味のない質問だった。


 「え? そうだねえ、持ってた・・・かな。実はね。高い志って持ち続けることが難しいんだよ」


 「そうなの」


 「でも、それができる人が本当に成功できる人ってことだと思う。高志君はその名前があるから、きっといつまでも志を持ち続けられると思うよ」


 「うん、頑張るよ」


 高志君は一層明るい顔になってうなずきながら答えた。その声は少し大きすぎて周りの人が振り向くほどだった。


 事件がおきたのはその時だった。



 突然、電車がブレーキをかけた。線路のきしむような音が響きわたり、数秒後に停車した。立っていた乗客のほとんどは進行方向に体が傾むき、電車が止まると今度は逆方向に投げ出された。女性の悲鳴が聞こえる。高志君は私が自分の胸で受け止めて無事だった。しかし、向こうの方ではどうも怪我をした人もいるらしい。しかし、人ごみでよく見えなかった。車内は人々が不安のあまり出したため息とうめき声に包まれていた。


 私と高志君のいる反対側のドア付近でけが人が出ているようだ。気遣う声が聞こえるが様子が分からない。私はそのちょうど真ん中あたりに加藤さんがいることを発見した。以前、背広の上着の裏地に刺繍されていた文字で名前を覚えていた。


 「加藤さん。そちらが見えますか」


 呼ばれた方は、少なからず戸惑っている。何しろ見ず知らずの私が名前を呼びかけたからだ。私にとっては顔なじみだが、先方にとっては私はまさに赤の他人だ。だが、いまはこの緊急事態が通常の警戒心を緩和している。


 「はい。どうも女性が怪我をしたようです。頭を打ったみたいで失神しているようです」


 「それは大変ですね。早く何とかしないと」


 私たちの会話が周りの人々にも伝わっている。


 「もしかして、その女性が持っている携帯電話には大きなクマのぬいぐるみみたいなストラップがついていませんか」


 「ちょっと、そこまではわかりません」


 「それじゃ、大学生くらいで、髪は肩くらい。色白で女性としては結構背が高い人じゃないですか」


 「そうですね。そんな感じです」


 「もしかしたら、ひろこさんかもしれない」


 「お知り合いなんですか」


 「いやちょっとした顔見知りで・・・」


 私は自分の能力のことを説明するときではないと思ってお茶を濁した。


 しばらくした後、ようやく車掌のアナウンスが入った。どうも踏み切りに立ち往生していた車と接触したらしい。電車のほうは損傷が少ないのでしばらくして最寄り駅に向かうとのことだった。


 


 それからかなりの時間待たされた。しばらくは耐えていた乗客もなかなか事態が進行しないのに痺れを切らしてきていた。


 「いつ着くのかなあ」


 高志君は子どもらしいよく通る声でそうたずねた。その声は明らかにおびえていた。


 「さあ、わからないな」


 私の答えに、周りの人が反応して来た。


 「この子、いつもこの電車に乗っている子ですね」


 隣に立っていた40代くらいの女性が話しかけてきた。名前はまだ知らないがいつも私の乗る次の駅で乗ってくる品のいい婦人だ。おそらく管理職かなにか責任のある仕事をやっている人だと見ていた。時々経済新聞を読んでいることもある。帰りの電車で会うのはかなり遅い時間の時が多い。もちろん先方は私の存在など気にしていなかったに違いないが。


 「ええ、高志君って言うんです。この先の私立の小学校に通っているんです。僕の友だちです」


 「お友だち?」


 その女性は少し笑顔になった。私は自分の名前と職業を紹介すると、


 「私は笹川由美子といいます。保険会社に勤めているんですよ」


 と答えた。由美子さんはきっとお子さんがいるのに違いない。とてもやさしいお母さんの顔になって、


 「高志君、不安でしょうけども頑張りましょうね。もう少し我慢しましょう」


 高志君は女性の声にかなり落ち着いてきたようだ。

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