3 多くの知人
社員の一人一人の顔と名前が一致すると今まで気がつかなかったさまざまなことが分かってきた。営業二課の棚倉栄次郎さんはたしか私の3年くらい上の先輩だが、どうも緊張すると缶コーヒーを買いに行くようだ。しかも昼食は決まって天ぷらうどんだ。少なくともここ5日間は同じものをばかりを食べている。三課の島村庸子さんはおそらくまもなく40になる独身女性だが、通勤時にもってくるハンドバッグが毎日違う。ブランド品と思われる高価なバッグを曜日ごとに持ち替えている。反対に庶務課の新人の松山翔太君は逆に毎日同じスーツだ。ネクタイもいつも同じだ。地方出身と聞いたが、一人暮らしでファッションに気を回す余裕がないのかもしれない。私から見ても彼のようなさわやかな男はもっともてていいはずなのに。あのファッションがかなりかなり彼を低く見せている。
名前と顔が一致したおかげで、今までは赤の他人だった同僚たちが、何故か急に親しい人たちのように思えてきたのである。そして、彼らの喜怒哀楽のさまがいちいち気になり始めた。うれしそうな顔をしているものを見れば自分もうれしくなり、逆に悲しそうな顔に出会うとその理由を知りたくなった。私は自分の中にこれほど他人への関心があったことを知って驚いたのである。
これは会社の中だけの話ではなかった。通勤途中の下田さんのお宅には玄関先に小さな庭があって、季節ごとにいろいろな鉢植えを咲かせている。年配の奥さんはいつもにこやかだが、先日駅前でお会いした時に、いつもきれいな花をありがとうございますと礼を言ったら、いつも以上に相好を崩して挨拶をしてくれた。おそらく彼女は私が毎朝、玄関先の花をほんの一瞬だが、立ち止まって見ている事に気がついていたに違いない。しかし、駅前でいきなり言葉をかけられたことには驚いたはずだ。
電車でよく会う小学生のアオキタカシ君とはすっかり友達になった。彼がハンカチを落とした時、思わず「アオキくん、落としたよ」と呼び止めたのがきっかけだった。どうして名前を知っているのかが疑問だったようなので、ランドセルから下がった定期券に書いてあるといったら、納得してそして打ち解けてくれた。「おじさん」と呼ばれるのが厭なので、私の名前を教えたら、それいらい「さん」付けで呼んでくれるようになった。
車内でいつもメールをうっている女子大生の「ひろこ」さんにはさすがにまだ声はかけていない。さすがに若い女性をいきなり名前で呼ぶと誤解されるにちがいない。混雑した電車の車内にも顔見知りが増えた。といっても一方的に私が覚えてしまっただけで、相手は私のことなど関心すらない。「片思い」であってもこれまで単なる群集だった満員電車の乗客が、一人一人の人格の集まりに思えてきた。中にはいろいろなきっかけで名前まで覚えた人もいる。
私にとって街中も、電車の中も、そして会社でも、きわめて多くの「知人」たちに囲まれた世界になったのである。
このような生活を始めて1ヶ月にもなると、私はものの考え方そのものが変わってきたことに気づき始めた。今までは例えばゴミを捨てるのでも周りの目が気になって容易に投げ捨てることはできない。身だしなみとか、マナーとかそういうものも常に意識するようになった。ちょっと窮屈になったともいえる。
しかし、それ以上に大切なことがあった。それはいままで感じていた無機質な群集が、生活圏を共にする隣人として意識されるようになったということである。私が不思議な力を身につけるようになってから知己となった人は多い。私が一方的に知るという段階が最初にあるのだが、目が合うたびに私が会釈をすることを繰り返しているうちに、相手のほうも次第に私を覚えてくれるようになってきた。おそらく、相手の視点を考えるならば、群集の中に取り分けて自分を特別扱いされているように感じているのだろう。無視されるのが不愉快なこととは反対に、自分という存在を認めてくれることほど嬉しいことはないからである。
今では最寄り駅の同じ時間帯に通勤する人の大半の顔を覚え、その中の2、3割は名前を知っている。気持ち悪がられると思っていたが、意外にも私は嫌われなかった。むしろ、友人として認めてくれる人が多いのに驚いているのである。
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