2 違和感

 翌朝、昨日の失敗に懲りずにまた私は遅刻しそうになっていた。階段を今回は慎重に登る。前を歩く、小学生のランドセルから定期券が下がっていた。アオキタカシという名前が見えた。この混雑の中、電車に乗って通学する小学生もいるのだと感心してしまった。電車に乗り込むと、たまたま隣に立った人は自分とほぼ同じ年恰好で背広の上着を腕に抱えている。裏地が見えてそこには加藤という刺繍がされているのが見えた。この日も電車は満員で、カーブするたびに乗客は振り回されるように揺れた。停車する直前のブレーキが少々巧くなかったらしく、がくんと揺れた。私はバランスを崩してつんのめりかけたが、つり革に懸垂するようにして堪えた。その時、前に立っている客の肩越しに、さっきからずっとメールを打っている大学生らしき女性の携帯電話の画面が見えた。メールの最後に「ひろこ」とあったのが見えたのである。


 こういったことは考えてみれば日常茶飯事のことであり、取り立ててあれこれいうべきことではないはずなのだが、それがこの日からはそうではなくなったのだ。




 職場に着くと受付の山田理恵さんが微笑んでくれた。気がついてみれば彼女の名前が山田さんであることなど知らなかったはずなのに。なぜか目が合ったとたんに山田さんだと分かった。そういえば彼女はこの四月に入社したばかりだ。昨日も例の事件で少々遅れて着いたので、この山田さんにわけを話したのだった。確かその時、彼女の名札を見たからに違いない。でも、もともと名前を覚えるのが苦手な私がどうして山田さんの名前を覚えたのだろうか。確かに山田さんはわが社きっての美人だ。それに知的な感じもする。受付に配属されているのはそのためだろうが、おそらく彼女は社長秘書だってできるに違いない。以前、外国人の訪問客に流暢な英語で対応していたのを見たことがある。だから気になっていたことは確かだった。しかし、彼女の名前を知ろうとしたことはなかったし、たとえその時覚えてもすぐに忘れてしまうのが私のこれまでの常であった。


 自分のオフィスに行くまでのあいだ何人もすれ違ったが、そのつど相手のことが気になって仕方がなかった。なぜなら、その人の名前がすぐに思い浮かぶのだ。ああ、仲村さんが来たとか、尾畑さんは今日も赤いネクタイだなとか具体的な名前がすぐに出てくる。それもふだん親しくしている人だけではない。ほとんどの社員に対して面識があるような気がしてきたのだ。



 この違和感は今までに経験したことがないものだった。昼休み社員食堂に行った時も、まるでわが社の従業員を全部知っているような気がしてならない。おまけに一度胸の名札が目に入ると、顔と名前とがほぼ完全に覚えられてしまうのだ。いつも少しおまけをしてくれる食堂のおばちゃんも、今日は伊藤麻衣子さんとしてはっきりと認識されるし、大学生のアルバイトかと思われるいつも笑顔の女の子は広田美樹という名前だし、働き者だが日本語がたどたどしい留学生のアルバイトは「ちょうさん」であるらしい。名札にはひらがなでしか書かれていない。


 彼女たちの名前はいままでも秘密であったわけではないし、胸のバッチにいつも書かれていたことだ。いままではそれにまったく関心がなかったから、食堂のおばちゃん、きれいなお姉さん、熱心な留学生としか覚えていなかったし、食堂を離れたらそれさえも忘れてしまっていた。ところが、今はどういうことだろう。伊藤麻衣子さんが社員食堂の白衣から、ありがちの主婦のスタイルになって、町のスーパーマーケットで出会ったとしても分かってしまいそうな気がする。広田美樹さんが街角でギャルみたいな格好でいてもきっと見分けられるだろう。留学生の「ちょうさん」が例えば趙という名で、数年後に上海かどこかで出会ったとしても「あの時日本で熱心に働いていた趙さんですね」などと声をかけてしまいそうな気がするのだ。

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