君の名前は

斉藤小門

1 朝、駅で

 あれはまずかった。急いでいたとはいえ、駅の階段を駆け上がっていつもの電車に乗り込もうとしたまではよかった。そもそも、目覚まし時計のスイッチを入れ忘れたときから悲劇は始まっていたのだが、まさかこのようなことに。


 電車がホームに止まっているのが見えた。まだベルは鳴り続けている。これなら乗れる。と思った時、風景に異変があった。急激に移り変わる色彩、一瞬なくなる記憶。そのあとのことはあまり思い出したくない。私は気が付くと階段の途中に倒れていた。数名の人が見下ろしている。母親よりまだ年上と思われる女の人が大丈夫かと声を掛けてくれる。スーツ姿の会社員が大声で駅員を呼んでいる。そして抱えられて、駅務室まで連れていかれた。


 駅長という肩書きのある名札をつけた人が心配そうに尋ねてくる。 左のひじに痛みがあったが、怪我はないことを確認して大丈夫だと答えた。これ以上、もうここにはいられない。いたたまれない気持ちに囚われていた私は、一刻も早くここから立ち去りたかった。


 幸い衣服も破れていない。会社について自分のデスクのパソコンを開くころには、もうひじの痛みにもずいぶんなれていた。周囲に今朝の失態を知る人はいないし、不運な事件と思って忘れようとした。


 私の職場では胸に名札を着けることになっている。互いの名前を覚えるためにはよい方法かもしれないが、こうたくさん社員がいると名札があっても一々見てはいられない。胸の位置にある名札を注視することによって、女性社員からどのような眼で見られるのかと、いらぬ心配さえする。だから、名札があっても面識のある人以外の同僚の名前は覚えていない。それで十分事足りたし、何の不自由も不利益もなかった。




 職場からはまっすぐ帰ることにした。今日はああいうこともあったことだし、寄り道はよくないと思ったのだ。乗り換えた駅の階段を上っていくと、前から恰幅のいい男性が降りてくるのに出会った。思わず、私はこう声をかけていた。


「今朝は、お世話になりました。おかげで助かりました」


 相手は、一瞬戸惑った表情を見せた。しばらく考えた末、合点がいったという顔になって、


「ああ、あの時のお客様ですね。お怪我は大丈夫ですか。それは良かった。でも私の顔をよく覚えていらっしゃいましたね。」


「いや、まあ」


 と、答えて深々と礼をすると、その男性はすれ違っていったのだ。その人は朝世話になった駅長であった。今日はもう非番になったのだろうか。ラフな私服であった。相手に言われてみて確かに変だと思った。朝、世話になったときは駅長は制服を着ており印象もずいぶん違った。どうしてその人が駅長だとわかったのだろう。日ごろ、顔と名前を一致させることに無頓着な私なのに。なんと駅長の名前まで覚えている。先ほどその名前で呼ぼうとして躊躇したのだった。


 どうして名前を覚えていたのだろうか。あれだけショックな出来事だったので覚えたのだろう。そう考えようとした。

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