みどりの日 08
リーゼルが消えた後、何とも慌ただしく時間が過ぎていった。
根っこにやられたと思えないほど元通りになった村を、光磨たちはそれぞれの家に戻りながら見て回った。
光磨の記憶にあるとおりの村で、自分の家の中へ入ると違和感を感じる。どうしてだろうと思うと、この家の窓はつっかえ棒を必要とするもので、こんな透明なものは付いていなかった。
この村に硝子を作り出せる技術はなく、煙突を作るための煉瓦もないために、外で薪をして食事をしてから、中へ入るというスタイルだった。
けれどもこの家は、煉瓦のある暖炉に硝子窓のある家へと1ランクアップしたものへと変貌を遂げていたのだ。
そう言えばと思い出し、光磨は自分の家がこんなんだったらいいと思っていたことを思い出す。記憶にあるところを、冗談で変えたのがこんなふうに反映することに、素直は驚きがあった。
「すげぇな、俺」
自分のベッドに寝転び、天井を見上げながら光磨は思った。そして当然のことのように、アンダンテが腰あたりにいて、寝っ転がっている。
やがて静かな寝息が聞こえてきたので、光磨は自分の布団をそっとかけてやった。
とりあえず、アンダンテはうちで預かることになった。だが、リーゼルに言われて壁の向こう側へ行き、神のいる塔へ向かわなければならない。
音喜の祖父は有頂天で、光磨と鼓動、音喜の手を勢いよく上下に振りたくった末に、旅立つ自分たちへ向けて、衣装を作ろうとまで言った。
その後、そのための採寸やら旅に必要なあれやこれやを説明されたが、正直ほとんど覚えていない。
それよりも、光磨は自分の首にかけられた鈴を見た。静かな中、それはりんと鳴ったがすぐに、消えてしまう。
窓の外を見れば、月がぼんやりと見えた。自分の部屋から外へ出なくても、見られるというのは何だか不思議な気がした。それをした自分、凄いなぁと思う反面、やり過ぎ感を拭い去れなかった。
卵のような月だなと思いながら、鈴をいたずらに鳴らす。アンダンテが起きないように注意をしながら。
りん、りん、りん。
「コーマ、起きてるの?」
「あっ、あぁ」
母親の声に、光磨はそっと身を起こすとドアが開いた。母親は顔を除かせながら、それが天上のものであるかのように恭しくドアを閉める。
「神の使い様が言っていたことなんだけど、コーマ……本当に行くつもり?」
「頼まれっちゃったし、行くしかねぇだろう。それに、困ってる人を放っておくのは最低なことなんじゃねぇーのか」
光磨が物心つかぬ頃から母親は、困っている人がもしいたのなら助けてあげなさい。それをしない人は最低な人間になる。
女の人を泣かせるのは、恥だと思え。そして大切にしなさい。
光磨が母から教わったのはこの二つ。
だから自分はそのとおりにリーゼルの言ったとおり、鼓動たちと一緒に塔へ向かおうと思った。ただそれだけのことだった。
壁の向こう側へ行けることへの好奇心からだとは、たとえ閻魔様に舌を抜かれても光磨は言わなかっただろう。それを言えば、母を悲しませることは分かっていた。
母の教えは、彼女に跳ね返って響いたことだろう。
それでも、行けるのならば行ってみたい。外の世界を知りたいと思うのは、愚かなことなのだろうか。
罪に問われるほど恐ろしい所行なのだろうか。
「お前に危ない目にあってほしくないって思ってる。けど、行くんだね?」
「うん、行ってみたい」
そう言った時、全身に水をかけられたような重く憂鬱なものが、のし掛かってきたように感じた。
「それが、お前の答え……なんだね」
「うん」
そう言うと母は、わかったと短くそれだけ言うと部屋を出て行った。
光磨は知らないうちに張り詰めていた気持ちに、深く息を吸い込んで吐いた。それを数度繰り返し、再び倒れ込んだ。
リーゼルが本当に神の使いかどうかを、確かめる術は持っていない。あの言葉が本当であってほしいと思う。
人を疑うのはいやだった。
村の人たちが醜い争いをするのを見ているのが、辛かった。だから一刻も早く、終わってほしかった。
こういうとき、あっという間に収めてしまえることが出来たらと考えた。しかし、そんな力を自分は持ってはいなかったし、鈴を手に入れた今もそれが出来るとは思えない。
だから、光磨は行くと言ったのだ。
ここに止まり続ければ、アンダンテはきっと村の人に何かされる可能性を光磨は否定出来なかった。
人が変わったような村人の姿を見たくなくて、元通りになった村を見た後の自分へ向ける視線に、光磨は耐えられなかった。
音喜はずっと、毎日経験しているんだと思い知った。友達なのに、全然知り得なかったことに気づき、それがとても恥ずかしかった。光磨は音喜に対して酷く申し訳ない気持ちになったが、そういう気持ちになることに、音喜はきっと気づいている。
「情けねぇ……な」
そして、情けないことに母は自分のこんな不安を見通していた。だから、行きたいと言った自分の言葉に重く頷いたのだ。
両親に迷惑をかけている自覚はある。だけど、きっと自分は壁の向こう側へ行かなかったことを後悔する。そして、言った今でも後悔していた。
「光磨、少し……いいか?」
「とう、さん……」
アンダンテを起こさぬように、身を起こすとそこには父が立っていた。
同じ茶色の瞳に黒い髪、身長はすらりと高く、手足も長いから父が幼い頃はもやしと言われて、冷やかされたことを聞いたことがある。そのたびに、周りの子たちを威嚇してのが今の母だということも。
「母さんから、聞いた。だから、男が一度決めたことを容易く、変えるなよ」
「分かってるよ、父さん」
父が自分の頭をやや雑に、撫でるから光磨の瞳からぽたりぽたりと、涙がこぼれ落ちる。
電気の消した月明かりの部屋で、黒い染みが一つ、二つ、と増えて行く。
「全力で、ぶつかってこいよ……お前は俺の、息子、なんだから」
そう言う父に、光磨は何度も頷いた。我が儘を聞いてもらえるありがたさに、胸が一杯だった。
何て言ったら安心するのか、分からない。けど、旅立つ時はきっと何一つ言えないことだろうから。
「父さん、ありがとう。俺……行ってくる」
「あぁ、行っておいで」
嗚咽の声が、部屋に響く。
無事に塔へたどり着けるという保証はどこにもない。そんなところへほとんど何も言わず、送り出してくれる父が好きだった。不安もあるだろうし、これから村は忙しくなる。
交代で行っていた畑の水やりが田んぼの稲刈りなど、自分たちがいなくなれば大変だろう。働き手が三人もいなくなるという現状は光磨でも分かる。
だから心の中で何度も光磨は、父にありがとうを、繰り返した。
***
光磨の父は泣き疲れて眠った光磨を、アンダンテと一緒に寝かすと部屋を退出した。
軋む階段を下りていくと母が、テーブルに腰掛け冷たくなったお茶をじっと見つめていた。
「母さん?」
「あぁ、今……お茶を入れるわ」
夢見心地で母は立ち上がると、自分の分も持って台所へと向かっていく。父は何も言わず、テーブルに座った。
やがて、急須からお茶が注がれるコポコポという音が、やけに身に染みる。母がお茶を持って、自分の前へと置くと、向かいに座った。それを見計らって、父はお茶に口をつける。
「俺は、コーマがやりたいことがあるならそれを景気よく送り出してやりたいって思う。それに、これから先……苦しい事も悲し事もある。でもそれと同じくらい楽しいことや嬉しいこともあると思うんだ。だから、俺たちは元気よく息子を送り出してやろう……母さん」
「えっ、えぇ……そう、ね……兄さん………っ」
父は、妻の肩をそっと掴むと彼女は顔を覆って咽び泣く。口に出してしまえば、光磨の気持ちを揺るがせてしまう。壁の向こう側へ行きたいという気持ちは、幼かった自分もあった。けれども、言うことは憚られる。
誰もが思い、口にこそ出さなかった皆の悲願を光磨が果たせるのはよいことだ。それなのに、この胸に浮かぶのは行かないで欲しいという。息子が遠くへ行ってしまうことへの寂しさとつらさ。そして、自分の孤独感だった。
それを父はよく知っていた。からかわれていた自分を一番気にかけて、泣いていたのは彼女だった。だから彼女を支えられるだけの大人になりたかった。その細い肩を守れるような男になりたかったんだと、父は彼女の頬に手を添える。
すると彼女も、自分が伸ばした手に手を添えてくれたことが、とても嬉しかった。
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