みどりの日 01
世界が緑一色に染まったようだった。
若草や萌葱色に染まる葉の隙間から差し込む光に、背中を太い幹に預けていた少年は思わず手を翳した。
その後ろを自分が見ることのない場所へ飛びだつ小鳥の姿が、目に映る。切り取られたようなその光景に、背を預けていた幹から体を放した少年は、思わず目で追ってしまう。
手をかけたその木は地上から大人の胴回りほどの根っこを浮かび上がらせており、その上に少年は立っていた。
その根はずっと視界の中程まで続き、やがて他の根と混ざって分からなくなる。樹齢数百年の杉の木だった。
その頭上は覆い被さるほどの枝葉を広げ、その間から本来ではあり得ないモノが絡みついている。見ている限り十台の軽自動車が、枝葉に絡み取られ、まるでオブジェのように連なっている。車の木なんて、少年が勝手に付けた名に相応しい有様だ。
しかしこの森にはこの木以外にも、存在しており、少年には珍しくない普通の光景だった。
軽い身のこなしで少年は根っこから下りると、少し歩き出して振り返って空を仰ぐ。
その杉の木の後方には、半円のアーチを描く白い建造物が存在し、かつて車が走っていた高速道路の一片だった。
他にも周りを見渡せば、罅の入った灰色の壁に朝顔が蔓延る建物や倒壊し、崩れた残骸に苔むした石壁など。一つ一つを上げれば切りがないほどに、少年は知っていた。
そしてずっと、向こう。ここからでもはっきりと視覚できるほどに天へと、聳え立つ杉の木々が、少年が暮らすこの町すべてを囲んでいる。
辺り一面を緑の色で染め上げたこの光景を少年は見て育ち、現在に至っている。
かつてここが、日本と呼ばれていた頃を知る人間はもう僅かしかいない。
少年が生まれる数百年以上前に起こった『みどりの日』によって、全てが変わった。
その日を語ってくれた友達の祖父の言葉を、自然と思い出していた。
*
少年が学校に通い始めて一番最初に、その話を聞いた。
それまでは親ですら『みどりの日』について語られることはなく、この村で唯一言い伝える権利を持つ友人の一族のみが語ることを許されていた。
「今から遡ること数百年前、この国は日本と呼ばれ、四十七都道府県に別れていた。ここもその一つだった」
町を見下ろす高台にある巨木の下、友達の祖父はそう切り出した。彼の周りには少年やその友人を含め、学校へ通う他十人が膝を抱えて座っている。
唐突なその話に、少年は最初老人がおかしくなったのではないかと、思ったぐらいだ。けれども老人の真摯な眼差しはいつもと違って、この話が本当のことなのだと悟った。
少年の後ろには平屋の日本家屋があり、そこは村長の家兼学舎が存在する。
その前に開けたこの場所は、天気がよければここで授業を行ったり、町民たちの憩いの場として多目的に使われる。
「今とは考えられないほどの技術で我々は生活していた。けれども、そんなある日………神様が現れたんじゃよ」
両手を合わせ、空へ向かって一礼すると、付き添っていた村長や先生も手を合わせたので、少年も慌てて、手を合わせて頭を下げる。
髪も髭も真っ白で、老人は柚葉色の上着を纏っており、背景と相まって同化しているように見えた。
「突如、現れた神は刀を振るうと大地を揺るがすほどの地震が起こり、やがてコンクリートの壁を突き破って異常発育した枝葉があちらこちらに出現した。そして、道を塞ぎ、車も人も飲み込んだそれらは止まることなく、あっという間に世界を覆い尽くしてしまった」
枝葉はホースのように汚物を取り込み、消化していく様はあまりにも突然で唐突な現状に、人々は恐れた。
全てが終わった後に見た光景は、今まで見て来た世界ではなくなっていた。
天まで届くほどの杉の大木は東西南北を包囲し、壁となって我々の行方を阻んだ。のちにこの壁のことを『みどりの壁』と呼ぶ。
その壁は乗り越えることも、傷つけることもできず、向こう側との交流も出来なくなってしまった。
壁の向こう側が一体どうなっているのか、手がかりすらつかめない現状に、憤りを覚える村民たちもいたが、その後、壁を越える解決方法は見いだせないまま現在に至っている。
「そして神が降臨されたその日を『みどりの日』と呼んでおり、皆も知ってのとおり年に一度祭りがその日に開かれておるのは、我々が過去犯した罪を購うためなんじゃよ」
そう言った老人はその後、どうやってこの村を存続してきたか熱心に語ってくれた。
今まで機械に頼っていた彼らが自給自足の生活に耐えられるわけもなく、苦労の連続だた。けれども、森守一族のおかげでここまで来たこと。近くに川が流れ、そして恵みをもたらす森のおかげでここまでやってこれたことなどを、少年はぼんやりと聞いていた。
この村にある川は、そこに壁があるのにも変わらず流れ、一種奇妙な光景が続いている。
そして最後に老人はこう言った。
「我々がこうして生きているのは我ら一族のおかげであり、森の恵みがあってこそだ。そして、神は存在する。あの塔にお住まいだ」
老人は後ろを振り返り、大木に手を添えて目を閉じた。
少年は巨木の枝葉の間から薄らと見える塔を、眺めながら、ここにいない神のことを思った。
*
老人の言葉に間違いはない。少年はかつてここが、日本と呼ばれていいただろうその場所に立っている。
そしてあの白いコンクリートの一片が高速道路の名残で、あの車が走っていたなんて、夢物語のようだった。
ここからでも神のいる塔が見える。あそこは一体どんな所なのだろうか。神は一体どんな人だろうか。
そうは思ってはいても、みどりの壁がある限り、少年が行くことはできない。
「コーマ!」
光磨と呼ばれた少年が顔をそちらへ向けると、茶色の髪に三白眼の瞳の小柄な少年がこちらへ向かって、手を振っていた。
「鼓動(りずむ)、何やってたんだ、遅かったなぁ」
「家の手伝い。終わらせてから行けって言われて………困るよ」
光磨の隣に立つと、鼓動は膝に手を置いて汗だくになりながら力なく言い放った。
途端に鼓動から洗剤の香りがして、光磨は笑いながら頷く。
光磨は、鼓動とこれからお祭りで使う石榴を取りに行こうとしていた。老人の言葉にあった『みどりの日』のお祭りで、石榴は神への贈り物として使われる。
村の持ち回りで今回は、光磨と鼓動、そしてもう一人いる友達がこの森の案内役として付きそうことになっていた。
光磨たちが自由に行き来する森は東側で、石榴の実がなる森は西側だ。
そこは関係紗以外立ち入り禁止になっており、案内役なしに入ることはできない。それは、過去にここで事故があったからだと光磨は聞いているが、詳しくは知らない。
その案内役は、この森に住み、村長以上の決定権を持つ森守一族だけ。後から来るその友人は、その一族の息子だった。
「でも、ボクたちだけで勝手に来てよかったのかな。やっぱり、森の入り口で音喜(おき)くんを待ってた方がよくなかった?」
「なに言ってんだよ、せっかく西の森に来てんだからちょっとぐらい探検したって罰はあたらねぇだろう」
「まぁ、それは分かる」
西の森は、東の森と大して変わらない。ただ、建物の瓦礫や車の木のような存在が、東よりも多いだけだ。
地面へと目を向ければ、緑色の苔に覆われ、どことなく湿っているのは、数日前に雨が降った影響だろう。
村のすぐ脇を流れる川は、西にずっと続いており、こうして立っているだけでも水音が聞こえてくる。
「なぁ、石榴ってどこにあるんだっけ?」
「ボクは知らないけど………コーマが知ってるんじゃないの!」
光磨はいいやと、首を振る。その姿に鼓動はやれやれと大げさに肩を落とした。
「石榴って秋に実る果物だから、見つけるのは難しいって音喜くん、言ってたよ」
「あー、何とかなるかと思ったんだよ」
光磨は丸くて、先が唇を窄ましたようになっている赤い石榴を思い出し、苦虫をつぶしたような顔をする。
祭りの日、石榴とお米と水が神の供物として、巨木に添えられ、祝詞を聞く。そ村に住む少女が花の冠を付けて舞を踊る。
その時、好いた者がいる少女に告白をし、了承が得られるとその冠が自分の頭へと掲げられる。それは年頃になった者であれば、誰もが経験するイベントの一つだった。
しかしそれも最近では、生まれる時からすでに決まっている相手がいるため、ここで行われる行為もすでに結果が見えていた。
光磨としては、結果が見えているこのイベントに身を入れることができないでいた。あと一、二年すればその相手に告白をしなければならない。だとしたら、この行為は光磨にとって面倒で仕方のないものだった。
「第一、森守一族しか西の森に入っちゃいけないっていうのがおかしいんだよ。俺らだって自由に森へ入る権利ぐらいはある」
「確かにそれはそうかもしれないけど、音喜くんたちの家族のおかげっていうのもあるから、自由に………とはいかないよ」
「まぁ………なぁ」
老人の言葉を思い出しながら、光磨はふて腐れたようにそう言う。
森守一族。緑色の瞳を持った森に愛された者たち。
そう呼ばれる彼らは、東の森に居を構え、暮らしている。
身体的特徴は瞳の色以外、光磨たちと何ら変わったところはない。
けれども、彼らは卓越した創造力と技術力で、この村を生活出来る水準まで引き上げた。
同時に村としての決まりを定め、自分たちが率先して率いるのではなく、あくまでも補佐として森に住み、何かあれば手を貸すという献身的な態度を見せた。だからこの村に彼ら以外の長である村長が存在したが、お飾りでしかない。
森守一族あっての村であり、彼らなくしては生きてはいけない。それがこの村の決まりだった。
だからなのか、その一人息子である音喜に対するものは、どこか一歩引いた存在として扱われる。
確かに見た目は冷たそうに感じる音喜だが、話してみると優しく、たまに暴走して熱くなるという外見詐欺みたいなとこがあった。それを知っているのは彼の一族以外に、自分と鼓動だけだろう。
「あっ………」
鼓動が何かを見つけたらしく声を上げる。そちらの方へ顔を向けると、一匹のうさぎが興味深そうに光磨たちを見ている光景だった。
あまりにも無防備な姿に、捕まえられるかもと光磨は内心思う。
しかし、祭りが始まるこの一月の間は何があっても、狩りを行ってはいけないことになっている。
だからうさぎがいたとしても、光磨たちには捕まえることは出来ない。
自分たちは壁の外へ行くことはできないのに、彼らは向こう側へ自由に行き来することができる。しかも、この村に動物が来ることは滅多になく、奇跡的にやってきた牛を育てて、増えてきたというのはここ数年の出来事だった。
滅多に会うことのできない存在に、光磨は恨めしそうにうさぎを見つめる。
「もったいねぇなぁ………」
ぽつりと呟くと、鼓動はそうだねと、苦笑した。
祭りの月以外にも、動物を追い狩るには森守一族の許しがいる。だから余計に、今自分が言った言葉が身に染みた。
壁が出来て以来、誰も行ったことはない壁の向こう側は、一体どうなっているのだろう。行くことが出来るのなら、行ってみたい。
それは光磨が小さい頃から抱いた夢だった。永遠に叶うことのない夢。
「おいっ………」
突然聞こえてきた見知った声に、光磨の腕に鳥肌が立つ感触がした。
ぎこちなく聞こえた方へ体を動かせば、そこに立っていたのは茶色の髪を一つ結びにした和装の少年だった。切れ長の瞳から除く緑は、常磐色をしており杉の葉のようだと思う。
少年は無言で光磨たちに近づいてくるその姿は、怒っているようにも見える。
「どうしよっか………」
「どうするって、そりゃ……謝るしかないだろう」
すぐそばまでやってきた少年は両手を組むと、光磨たちを睨み付けてきた。身長は光磨よりやや高いといったところだろうか。
「一緒に行くはずだったよなぁ……なんで、置いてったんだよ!」
「悪かったよ、音喜」
「悪かったって思ってないだろう、光磨。ったく………」
音喜と呼ばれた少年は、盛大なため息をついて二人を見やった。一括りにした髪が、風に弄ばれて揺れるのを光磨はどうしていいか分からず眺めていた。
「ほら、石榴を捜しに行くぞ。早くしないと日が暮れる」
脱力したよう音喜は言うと、光磨たちに踵を返すと歩き出す。
その後ろ姿を見ながら、後でもう一度謝ろうと光磨は思い直し、音喜の後を追った。
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