第5話影

 異変は次第に遠慮がなくなっていくように感じられた。

 宅配が来たあの後は、いつの間にかだった。

 しかし1ヶ月近く経過して10月になって、それは明らかな意思を麻衣子に対して示し始めたように感じる。彼女が一人で家にいる時にこそ顕著に、としか表現が出来ないものが起こる様になって来たのだ。

 特に麻衣子が仕事をしているとそれは、背中越しにジッと作業を見ている感覚がある。振り返っても当然ながら誰もいない。

 この日も由貴を送ってから出来た作品を店に渡して、今にも泣き出しそうな空の下を急いで帰って来た。

 玄関を入ってすぐに雨音が地面を叩く音が背後でして、麻衣子は濡れずに済んだ事に胸を撫で下ろした。

「あ、洗濯物!」

 出る前に干していったのを思い出して、上がり口に荷物を投げ出して階段を駆け上がった。異変も恐怖もすっかり忘れて、ベランダの洗濯物を取り込んだ。

「良かった…大丈夫だった」

 そのまま抱えて階下のリビングへと降りた。

 残暑も治まった季節、当然ながら乾いていない。仕方なく乾燥機にと思って一階の廊下を中ほどまで歩いて、麻衣子は思わず息を呑んで立ち止まった。腕の中から生乾きの洗濯物が落ちる。

 それでも麻衣子は震えながらきびすを返して、リビングへと取って返した。

 ソファの上には先程彼女が、玄関に投げ出した荷物が。まるで誰かが此処へ運んだように。

 全身の震えが止まらないまま、ソファの上のバッグに手を伸ばす。開いて確認した中身は、記憶のままであった。もう一つ、チョーカーネックレスを作る為のパーツが入った袋を、一つ一つ確認する。こちらも何もなく無事。

 へなへなとフローリングの床に脱力して座り込んだ時だった。

 今度は何処かで音が鳴り出した。

 聞き覚えのある音だった。乾燥機が動いている音だ。

 麻衣子は言葉にならない叫びを上げて廊下に飛び出した。当然ながら先程、彼女が落とした洗濯物がなくなっている。そのまま洗濯機があるパウダールームへと駆け込むと、洗濯物が乾燥機の中で回っていた。

 家族がやったならばこんな恐怖は感じない。だが、今この家の中にいるのは麻衣子だけなのだ。

 その時だった。洗濯機の前で言葉を失っている麻衣子の耳元に、誰かの溜息が聞こえた。慌てて振り返るが誰もいない。すると今度は嘲笑うような声が。

「誰…誰なの…?」

 姿の見えないものに問い掛けてみる。

 するとまた消毒液の強い臭いが部屋を満たし、背後で開けっ放しのドアが閉められた。慌てて後を追うように廊下に出ると、人影がリビングに入るのを目撃した。

 誰か…いる!

 臭いと音、何かが移動している…という異変が、初めて視覚へと転じた。

 咄嗟に麻衣子は走り出していた。危険であるとか、数々の異変であるとか、とうとう姿を現した影への恐怖などは全て吹き飛んでいた。

 リビングには先程目撃した影はいなかった。だが思わずむせてしまう程の消毒液の臭いに満たされていた。

 そうこれまでは臭いがした、漂っていた程度のものだった。

 慌てて空気を入れ替えようと窓を開ける。

 …と、麻衣子は何かの突き飛ばされフローリングに尻餅をついた。次いで何者かの見えない手によって窓が勢いよく閉められた。

「だ…誰…」

 声を上げはしたが相手の姿は見えない。

 それでも誰かがここにいる気配がするのだ。しかも手を伸ばせばすぐに触れられそうな場所に。

「あなたは誰…?何がしたいの?」

 震える声で告げた途端、その何者かに頬を強く打たれフローリングに倒れ込んだ。衝撃にボウッとなった頭を起こすと、ポタポタと鮮血が床に落ちた。唇が切れたらしい。

(これは…何?)

 自分に何が起こっているのか、麻衣子の理解を超えた突然の出来事に、どう対処をすれば良いのかわからない。

 為す術もなく室内を見回すと、また、黒い影がリビングの中を動いていくのが見えた。置いてある観葉植物の高さと比べると、麻衣子よりは身長が少し低いように見える。となると…影の正体は女だろうか。

 恐怖のピークが超え過ぎて逆に冷静になってしまっていた。

 影は何かを探すようにリビングの中を歩き回るが、目的のものが見付からないのだろうか。苛立っているようにそこにあるものをなぎ倒す。

「やめて…やめてよ…何なのよ、あなた誰?」

 思わず上げた声に反応したのか、影が突然乱暴になった。食器棚が開き中の食器が床にばら撒かれて割れ、テーブルの上のグラスが爆発するように砕ける。ソファが移動し、テーブルが倒された。

「やめなさい!ここは私の家よ!」

 力一杯に叫ぶと麻衣子を突風のようなものが襲い、悲鳴を上げて視線を伏せるといきなり、リビングの中が静まり返った。

 顔を上げて再び見回すともう影はどこにもなく、そこここにいろんなものが撒き散らされた室内の有様だけが、今起きた事が現実であったのを証明していた。

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