第3話更なる異変

 その日から麻衣子は一人で家にいるのが怖くなった。あれから取り立てて何かがあったわけではない。由貴もカナエの話をしなくなった。

 あれは何かの勘違いだったのだ。麻衣子はそう思おうとした。

 だがあの家に一人でいたくないという気持ちがどうしても消えない。スリッパの事が頭からどうしても消えないからだ。

 由貴を幼稚園へ送って行ってから、出来るだけ買い物などの用を作って、家に帰らないように…もしくは一人でいる時間を短くする努力をした。

 しかしどうしても家にいなければならない事態になった。

 夫の母親、つまりしゅうとめからの荷物が今日、由貴が幼稚園に行っている時間帯に届くと言うのだ。

「新居祝いね。麻衣子さん、その時間なら家にいるでしょ?」

 主婦で母親であるならばその時間は、家事の時間であるから家にいて当然だと彼女は思っている。

 麻衣子は確かに会社勤めもパートにも言ってはいない。だが無職と言うわけでもない。半貴石やビーズなどを使ってアクセサリーをつくるのを生業としている。友人が店を持っていて、そこへ出来上がった作品を納めさせてもらっている。

 しかし姑は彼女の仕事を仕事だと認識してはいない。単なる趣味であると思っているのだ。だからきちんと荷物を受け取ってすぐに連絡をしないと、海外赴任している夫に、現地時間が汝であろうと、自分の息子がどこにいようとも連絡をして、グチグチと長時間に亘って文句を並べるのだ。当の夫も母親のこの癖が大嫌いで、絶対に同居はしないとこの家を購入した経緯があった。

 イヤだな…と思いながら、洗濯機を動かしてリビングの片隅に設えた作業机に向かう。デザインを描いたスケッチブックを広げて、繋ぐ順番に石やビーズを並べていく。ビーズは大きさや素材によって、うっかり息を吐きかけて転がってしまうものもある。小さな石はピンセットで抓むと弾いてしまう。

 細かい作業は集中力がいる。

 由貴は物心ついた頃より母親の作業する背中をみているので、集中を邪魔することはしない。子供ながらに麻衣子が母親の時間であるか、仕事の時間であるかを見極めているように思えた。

 一段落してホッと息を吐いた途端、見計らったように呼び鈴がなった。立ち上がって門に設置された防犯カメラの映像をみると、お馴染みの宅配業者のユニホームが見えた。

「はい」

〔お荷物をお届けにまいりました〕

「すぐに行きます」

 受話器を置いて判を手に玄関のドアを開けると、ダンボールを抱えた青年が頭を下げて門を通って来た。

「こちらに受け取り印をお願いします」

「ありがとう」

 普通のやり取りをして荷物を受け取った。軽い荷物だった。

 配達の青年を見送って家に入ろうとドアを少し開いた時だった。

 グイッと誰かがドアを押し開いた。次いで消毒薬の臭いが麻衣子を突き抜けるようにして、中へ入って行ったのを感じたのだ。もちろん姿は見えない。あるのは臭いと感覚だけ。

 麻衣子は片手にドアノブを掴み、もう片方で荷物が入ったダンボールを抱き締めたまま、恐怖に立ち竦んで震えた。

 自分の家なのに、怖くて入れない。しかも突き抜けて行った何物かの残した、消毒薬の臭いが自分にまとわりついているようだった。

(どうしよう…どうしよう、どうしよう、どうしようどうしよう…)

 身体は動かないのに頭の中は恐怖ゆえにパニック状態だった。

「それでねぇ、奥さん…」

 背後からここの住人らしい女性たちの声が聞こえ、麻衣子はようやく恐怖の呪縛から解放された。

 彼女たちに心の中で感謝しながら、振り向いて軽く頭を下げた。向こうも同じように会釈を返してくれる。

 麻衣子は何もなかった風を装って家に入ってドアを閉めた。心臓の動きが肌を通して見えるのではないかと思うほど、激しく速くなっていて眩暈がしそうだ。

「落ち着け、麻衣子。落ち着け、麻衣子」

 魔法の呪文でも唱えるかのように同じ言葉を繰り返し、懸命に繰り返し繰り返し深呼吸をすると、少しだが気持ちが落ち着いた。

「あ、電話しなきゃ」

 リビングに駆け戻って急いで箱を開けると、綺麗な日本人形がガラスケースのなかで微笑んでいた。そっと箱から取り出すと電話台の花瓶を動かしてそこに飾ってみた。

「一応はここでいいわよね?」

 最終的にどこへ置くのかは後で考えようと思い、固定電話の受話器を手にした。記憶させてある夫の実家に掛けると、姑がすぐに出た。人形の礼を言うと一目惚れで、この家にはこれしかないと思ったと言うのだ。

 正直に言うと『そんなわけあるかいっ!』だが、わざわざ事を荒立てる必要もないので話を合わせておく。すると彼女はこんな事を言って電話を切った。

「電話、後でも良かったのに。お客さんなんでしょう?ありがとうね」

 と…麻衣子は一人で家にいるというのに。姑は何故、麻衣子以外にこの家に誰かがいると思ったのだろう。

 再び押し寄せて来る恐怖を首を振って払い、麻衣子は再び作業机に戻った。

「え?」

 宅配の配達が来る少し前に並べ終えた石とビーズの順番が変わっている。いや、それだけではない。石が一つ、別の物と入れ替わっている。これは気のせいでも記憶違いでもない。自分はこんな間違いはしない。使用するパーツを並べる作業は、制作をやりやすくするだけではなく、デザイン画で決めた配色が自分の望む色合の効果になっているか、それを確認する為でもある。だから間違って並べる事はあり得ないのだ。

 自分ではない誰かがこの家にはいて、これを動かしたのだとしか考えられない。そう考えると家の中のものに時折、微妙に配置が変わっているものがあるような気がする。という事実を、今の感覚がやっと認めた。

 この家はおかしい。

 だが今の状態を夫や自分の両親に話しても、到底、理解してもらえるとは思わない。夫の両親は更に信じないだろう。

 今のところは薄気味悪いだけ。由貴が言う『カナエ』とこの怪異が、同じであるという感覚は存在するが、その証明はどこにもない。

 怖くて仕方がないが、もう少しだけ様子を見てみよう。

 引っ越して来て一ヶ月はなにもなく過ごせたのだから、これはきっとすぐに起こらなくなる。

 麻衣子は必死にそう思い込もうとした。

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