第2話見えない友だち
それから一ヶ月。
麻衣子は娘の部屋にした臭いについてすっかり忘れ、思い出す事もなく日々の生活を送っていた。
由貴もその後臭いの話しはしない。
ただ夜は寝室で麻衣子と一緒に眠っていた。新しい家と初めての自分の部屋に、まだ幼い彼女は慣れないのだろうと考えた。麻衣子にしてもダブルベットに独りで眠るのは少々心細い。だから傍らに娘の温もりを感じて眠るのはとても心地良かった。
それでも由貴は幼稚園から帰宅するとよく部屋で遊んだ。夫が単身赴任のお詫びにと幾つかの新しい玩具を買い与えたのが良かったのかもしれない。
「由貴ちゃん、おやつ持って来たけど入っても良い?」
ドアを軽くノックして言うとドアが開いて、由貴が笑顔で顔を出した。
「おやつなぁに?」
「駅前のお店で買って来たドーナッツ」
そういうと由貴は目一杯背伸びして、麻衣子が手にしているトレイを覗き込んでこう言った。
「カナエちゃんの分は?」
「カナエちゃん?」
自分が知らないうちに誰か遊びに来たのだろうか?だが由貴の通っている幼稚園の年長組には、カナエという名の園児はいなかったように思う。
人口がさほど多くない近隣では人が多い都会と違って、私立の幼稚園でも少子化が進んでいる。年長組は現在三十名ほどで年少組からずっと一緒の顔が揃っている。保護者の交流にも力を入れている為、親はクラスの園児のフルネームと顔を記憶しているのだ。
「由貴、カナエちゃんてどこのカナエちゃん?」
「あのね、カナエちゃんはお家にいるカナエちゃんだよ?」
「え?」
家にいる?
麻衣子は娘の言葉を聞いた途端、何だか背筋がゾクッとした。
「カナエちゃんは今、お部屋にいるの?」
「うん、いるよ」
「そう。だったらカナエちゃんの分もおやつを持ってくるからね」
「うん」
嬉しそうに由貴は背後を振り返ってこう言った。
「ママがおやつくれるって」
麻衣子は娘の背後からそっと中を覗いたが、部屋には誰の姿もなかった。
幼い子供は時々、自分だけの幻の友だちを創ると何かの本に書いてあったのをを思い出した。由貴の言う『カナエちゃん』もその類いなのかもしれない。引っ越して来て幼稚園の友だちとも離れてしまった。当然ながらご近所の子供たちとは接触する機会が少ない為、どうしても家での一人遊びになってしまう。だから自分だけに見える友だちは、今の彼女には必要なのだろうと考える事にした。
「はい、お待ちどうさま」
トレイに二人分のドーナッツとジュースを乗せて、もう一度二階の子供部屋に入っると由貴が膨っ面で待っていた。
「ママ、遅い。カナエちゃん怒って帰っちゃったじゃない」
「え?あら、帰っちゃたの?おやつ持って来たのに?」
子供の遊びと言うのは今一つ理解出来ない時がある。カナエという見えない友だちがそのままいる事にすれば、二人分のおやつが食べられると言うのにここで怒って帰ったとは。第一、キッチンとここを往復しただけなのに遅いなんてどこからでてくるのだろう。
「もうイイ…私も下でママと食べる」
「そう?じゃあ、下に行きましょ。カナエちゃんはまた後で来てくれるわよ」
子供の心の中ではそういう事になっているならば、同じようにまた戻って来る事になると麻衣子は考えた。
それにしても…今日はまた、例の消毒薬の臭いがする。しかも以前嗅いだよりも強いように感じる。木の匂いは次第に薄れていくものなのに、これはどういう事なのだろうか。
「ママ?」
「あ、ごめんね。下に行こうっか」
「うん」
この日はリビングでTVを観ながらおやつを食べて午後を過ごした。
その数日後、由貴を幼稚園に送って帰って来ると、麻衣子は掃除を始めた。
まず二階の寝室から始めて、夫の書斎で本にどうしても積もる埃を掃除機で吸い込み終わってホッと一息吐いた時だった。すぐ近くでドアの開閉音がした。
家の中にいるの麻衣子一人。あり得ない事だった。
いや、待てよ…と思う。寝室を掃除した時にベランダ側の窓を閉め忘れたのかもしれない。そう思い直して寝室に行くと、窓はしっかりと施錠までしていた。
ではさっきのは何だ?
するとその疑問に応えるようにもう一度、どこかのドアが開いて閉じる音がした。今度のは二つの音の間にまるで、誰かが出入りしたかのように間があった。
言い知れぬ恐怖が胸を押し潰しそうになった。鼓動が早鐘のように打ち、胸元で握り締めた手は微かに震えている。
きっと玄関の鍵を閉め忘れたのだ。単身赴任世帯で、昼間は麻衣子一人だとこの敷き延べ分譲地の人間ならば知ってる事だ。いや、その周囲にある家々の住民だって、どこかの噂で知っているだろう。住人があまり多くない地域などそんなものだ。
一度広まれば結構広範囲に広がる。その中に心得の良くない人が混じっていたとしても、少しも不思議ではないだろう。
だから麻衣子は泥棒か何か良くない事を企む人が、この家に入って来てあちこちを出入りしているのだと考えた。
警察に通報するべきだろうか…だが、勘違いだったらそれはそれで困ってしまう。
そっと寝室のドアを開けて廊下を窺ったが、家の中は静まり返っている。
麻衣子は息をひそめて廊下に踏み出した。それまで履いていたスリッパは脱いで手に持つ。相手が刃物を持っていたならば、こんな物で身を守れないのは心のどこかでわかっていた。
耳をすませながら廊下を進む。多分、ドアの音は子供部屋だ。歩み寄ってドアノブを掴んで思わず声を漏らしそうになった。
凍り付くような冷たさだった。
今は10月の始め。確かにここ二三日はかなり気温が低い傾向にはある。だがこの家は徹底的に断熱を施してあるのが売りの物件だ。実際に引っ越して来た時は未だ残暑が厳しかったが、家の中はひんやりとして心地好かったのを覚えている。ここのところの急な冷えもこの家にはほとんど響かなかった。むしろ外に出て気温の低さに驚いた程だ。
だからこの冷たさはあり得ない。
麻衣子はしばらく迷った末に意を決してドアノブを握って、恐る恐る子供部屋のドアを開けた。
室内には誰もいない。今朝、由貴が登園するのに出た時と同じに見えた。それでも薄暗い室内をちゃんと見ようと、ドアの横にあるスイッチを押した。
パッと明るくなった部屋はやはり何かが動いたりなくなったりはしてはいない。
ただ…またあの臭いがする。引っ越して来た時よりも強く濃くなっている気がした。
気味が悪い。
麻衣子は慌てて窓を開け、ドアも開け放った。室内にはっきりと空気の流れが出来たのを体感する。現在の家は密閉と換気の双方を気遣ってある。それでも普段は空気の流れを感じる事はあまりない。こうしてドアと窓を開ければ肌感覚でわかる。
その空気の流れにホッとしたのも束の間だった。
開け放したドアに背を向けた瞬間、辺りを揺るがすような音を立ててドアが閉まった。
小さな悲鳴を上げて振り返る。
ドアは風で動かないように先程手にしていたスリッパを挟み込んだ筈。完全に固定は出来はしないが、ブレーキが掛かったようになってゆっくりと閉まる筈だ。
スリッパは外だろうか。恐怖を飲み込んでドアを開いて外を見た。
だがスリッパはどこにもない。廊下にも部屋から見える階段の中ほどまでの範囲にもない。もっと下に落ちたのだろうか。部屋を出て階段をゆっくり下って行くが、意向にスリッパは見あたらない。とうとう玄関まで来たが、そこにあるのは由貴を幼稚園に送って行った時に履いていた、麻衣子のパンプスが脱いだ時のままにあるだけだった。
一気に掃除をする気力を失ってしまって、掃除機を夫の書斎に置いたままではあったが、リビングでお茶でも飲んで気分を変えようと思って踵を返して、そこにある物を見て絶句した。
玄関脇、リビングへ続く廊下側に置いているスリッパホルダーに、麻衣子が先程ドアストッパーの代わりにしたスリッパが、誰かが片付けたように置かれていた。
震える指先で触れるとそれは、ひんやりと冷たかった。
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