誰かがいる

葛城 翡翠

第1話 新居

 新築の家はやはり気持ちが良いと麻衣子まいこは思った。どの部屋からも木の香りがして、まるで森林の中にいるみたいだと感じていた。

 新居は二階建てで4LDK。一階部分にはリビングダイニングとバスルームなどと和室がリビングの続き間である。

 玄関を開けてバリアフリーの上がり口すぐに階段がある。その階段を昇ってすぐに娘 由貴ゆきの部屋にした四畳ほどの部屋がある。窓の位置が高めにある為に少々暗い嫌いがあるが、幼稚園の年長組みの彼女が届かない位置にあるのが、麻衣子と夫がここを子供部屋に決めた一番の理由だった。

 このドアの少し奥側に右に折れて廊下が伸びている。突き当たりはまたドアで、ベランダに面した広めの部屋は麻衣子たち夫婦の寝室になっている。

 また廊下の真ん中にもう一つドアがあり、ここは単身赴任に行ってしまった夫の書斎。中には机と本棚に並んだ書籍が主の帰りを待っていた。

 敷き延べ分譲の奥まった一画に少々日当たりが悪いという理由で売れ残っていた。

 公道から真っ直ぐ伸びた私道の突き当たりがこの家の駐車場で、車の出し入れにも便利だと夫と話したのを記憶している。玄関口には小さいながらも門があり、裏側には狭いながらも庭がある。売れ残りという事で値段交渉をした結果、他の分譲よりも幾分安い価格で購入する事が出来たのは幸運だと思っている。

 唯一の不運は夫に急な海外赴任の辞令が出て、引越し後は二人の暮らしになってしまった事と由貴が通う私立幼稚園が結構遠くになってしまった事だ。

 それでもマイホームは夫婦の夢だった。

 だから麻衣子は僅かな寂しさを心の奥に押し込めて、自分の城となったキッチンの棚に箱の中身を次々と並べていくのを楽しんでいた。

「ママ…」

 不意に後ろで声がして麻衣子は飛び上がった。

「え…やだ、由貴ちゃん、驚かさないでよ」

 あれこれ考えながら作業をしていたせいで、娘が二階から降りて来たのに気付かなかったのだ。

「あのね…あのね、ママ。私のお部屋、病院みたいな臭いがするの」

「え?病院みたいな臭い?」

 子供の嗅覚は未発達で、未知の香りを『臭い』とよく言う。だが由貴は明確に『病院の臭い』と表現した。

 病院でする臭いと言われると思い出すのは消毒液のものだ。こんな新築の家でする臭いではない。

「ちょっと確かめに行こうか」

「うん」

 手を繋いで二人で階段を昇り、彼女の部屋のドアを開けた。

 明り取りの窓の前に子供用のベット。玩具や絵本を収納できる棚。子供服の詰まったクローゼット。お絵かきなどをする為の小さな机。部屋の中は引越しの作業員が麻衣子の指示に従って並べた通りに配置されている。

 机の上に絵本が開いたままになっているのは、由貴が見ていたのだろう。

 麻衣子は部屋に入ってクンクンと臭いを嗅いだ。

 確かに消毒液のような臭いがする。だが同時に階下でしていたような、新築独特の木の匂いもする。

「う~ん、確かにするよねぇ。でもこれ、新しいお家の匂いだと思うから大丈夫よ?」

「新しいお家の匂い?」

「そう、木の匂いね。いろんな木が使われているからきっと、その中に病院の臭いみたいなのがあるんじゃないかな」

「木の匂いなの?」

「そうよ」

 本当にそうなのかと突き詰められれば、麻衣子にも木の匂いなのかはわからない。だが他に考えようがないのだから、これで良いのではないかと娘にも自分自身にも言い聞かせた。

「それとね、由貴ちゃん。お部屋にいる時は電気を点けようね」

 そう言ってLED電灯をリモコンで操作した。

「はあい」

「もう少ししたら買い物に行こうね。今日は何を食べようか」

「んとね…んとね…」

 由貴の興味が買い物へ切り替わったので、麻衣子はこの事をすっかりと心の中から消えさせてしまった。

 この時にもっとちゃんと考えていれば…もっと何かの対応ができていたかもしれない。

 けれどもこの時ははまだ引っ越しの荷物が片付いたばかりで、心のどこにもこの新居が恐怖の場所になるとは思ってはいなかった。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る