第3話 純粋な魔王と平凡な勇者の衝突

 その日の授業は、いつもにも増して長く退屈に感じられた。

 優等生でいるつもりはないが、別段サボるつもりもない。気持ちを押し殺して淡々と授業を受けるのが常だから、それはもう慣れている。

 ただ、先程転校生と視線を交わした時の感覚が、余りにも斬新で鮮烈過ぎた。

 黒板に書かれた数式を板書しつつ、ついその時のことを思い出す。

 一瞬ではあったが、今までに受けたことのないあの感覚――それに比べれば授業で受ける刺激など、まるで取るに足りはしない。

 つい気になって例の転校生を横目で見れば、真面目な表情で真摯に授業を受けているのがよく分かる。時折うんうんと熱心に頷いては、教師の言葉をノートへ書き留めていた。余程律義で従順な性格をしているのだろう。

 これ以上彼女から得られる情報などはない。勇士は転校生から目線を外し、自分もいつも通りに授業を受けることにした。


「あー、この問題を……衛守君」


 初老の数学教師から不意に名を呼ばれて黒板へ目をやると、答えのない数式が書かれている。つい転校生に気を取られていたせいで、教師の説明は聞いていなかった。しかし黒板の問題を解いてみろ、とそういうことだろう。


「そして次の問題を……うん、愛染君。やってみなさい」


 面白い偶然があるものだな、と勇士は思った。

 平和で平凡で何ら興味を惹かれることのない日々の中、唯一不思議な感情が湧いた出来事があった日に、多少なりとも意識した人物と同じ教壇に立つことになるとは。

 ともあれ、今は提示された問題を解くことが先決だ。

 転校生は生真面目な顔でふむふむと頷きながら、宙で指をくるくると動かしている。おそらく数式を空に書いて解いているのだろう。

 すぐさま解き終わったようで、そう間を置かずに席を立って黒板へ向かう。何気なくそれを見届けた勇士も、遅れぬよう席を立ち後へ続いた。

 出題された問題はそう難しくはない。いつものように淡々と解き、黒板へ回答を書き出すだけだ。

 勇士の右隣に立った転校生も同様で、黒板へ書き出すカツカツという音が留まることなく響く。転校生にとってもこの問題は、どうということはないようだ。

 その時――ふいに隣で「パキリ」と何かが折れた音がした。

 転校生が「あっ」と小さな声を上げる。それは彼女が使っていたチョークが折れた音だ、と勇士はすぐに気が付いた。音の方へ振り向けば、折れたチョークの先が彼女の手元から離れ、回転しながらゆっくりと宙を舞うのがはっきりと見えた。

 この程度のものならば動体視力の突出して良い勇士には、まるでハイビジョンのスローモーション映像でも見ているかのように、鮮明に捉えることができる。

 勇士は卓越した反射神経で事も無げに腕を伸ばすと、床へと落ちる前にキャッチした。それは教室中の誰の目にも止まらぬ程の、凄まじいスピードであっただろう。


 ただ一人、隣に居た転校生を除いては。


 なんと、愛染真央も同様に驚くべき反射神経で折れたチョークをキャッチしたのだ。

 ふたり同時に反応し、ふたり同時に折れたチョークを掴む。結果、誰にも目の届かぬ教卓の影で、それは起こった。

 衛守勇士と愛染真央は、互いに右手と左手を繋ぐ形となったのだ。


「なんだ……これは?」


 その瞬間、転校生と視線を交錯させた時と同様の、火花を散らすような感覚がチリチリと脳の奥に広がった。その原因を探ろうと、意識を脳の奥底へと集中させると、火花が無数の光に姿を変えて、頭の中で走りだした。

 やがてそれらは一か所に収束すると、爆発を起こすように一斉にスパークした。途端、勇士の身体は足元を失ったかの様に、重力のない空間へと投げ出されていた。

 これは現実なのか非現実なのか――黄昏時の波打ち際へ立ったかのようだ。

 スパークした光の粒は凄まじい勢いで勇士の身体をすり抜けるように流れ去ってゆく。それらはひとつひとつが風景の光であり、森であり、海であり、連なる山脈のようだ。

 やがて流れる光の数々は、奔流となり、渦となり、周囲には様々な光景が浮かび上がっては、ピント外れのレンズの様にボンヤリと歪み始めた。


「これは走馬灯か……もしくは前世の記憶でも眺めているようだ」


 そう感じた直後、光に包まれた勇士は、襲い掛かる凄まじい量の情報の海に溺れるように、前後不覚へと陥りかけた。そう、その時だった。


「きゃあああっ!!」


 瞬間、聴覚に鋭く響いた「声」は、勇士の五感を一瞬にして貫いて覚醒させると、現実世界へと連れ戻した。思わぬ形で救われた、と勇士は思った。

 勇士を救ったその悲鳴の主は、隣にいた転校生――愛染真央の、絹を引き裂くような声であった。突然鳴り響いた悲鳴に、教室内は一瞬にして凍りつく。

 凍りついたクラスメイトらへ一瞥もくれることなく悲鳴の主へと目をやれば、教壇から転げ落ちて教室のタイルの上に尻餅を突いてへたり込んでいた。美しく整った柳眉を歪め、額には幾つもの玉のように光る汗が浮かんでいる。

 勇士はすぐさま真央の様子を窺ったが、大きな悲鳴の割に恐怖の色を窺い知ることはできない。ただ印象的な彼女の黒い瞳が、ひたすらにこちらをじっと見つめていた。

 恐怖でも激情でも驚嘆でもないこの瞳――これをなんと呼べばよいか。

 怯えの色を帯びた非難の眼差しか。それとも生命の光を帯びた情熱の眼差しか。勇士には上手く例える言葉がない。ただ、彼女の大きくて黒く澄んだ瞳の中に、様々な感情が入り乱れているように感じられた。


「うっ……」


 勇士が身体を動かした瞬間、ズキンと頭の奥が痛む。まるで真夏の太陽に長時間晒された時のような、焦げ付いたように焼ける頭痛と微かな眩暈。

 だがへたり込んでいる真央をそのままにしては置けまい。自らを奮い立たせると、転校生に声を掛けながら手を差し伸べた。


「おい、大丈夫か……?」

「だっ、ダメですっ!!」


 バシッ!


 教室中に大きな音が響いた。差し伸べた勇士の手を、音を立てて真央が払いのけたのだ。

 いったいふたりの身に何が起こっていたのか。勇士と真央以外に知る者はいない。

 しかし真央の行動から推測されるは、激しい拒絶の意志。教室の皆にはそう映ったことであろう。

 大人しそうな少女が見せたこの行為に、クラスメイトらはようやく驚きの声を上げた。


「ご、ごめんなさい……」


 震える声で勇士に謝罪する真央は、怯えている……? いや、違う。彼女の表情、声、仕草――それらから窺い知るに、彼女はとても動揺している。誰よりも彼女自身が、自分のとった行動に驚いているようだ。


「愛染さん、大丈夫?」


 クラスが緊迫した空気の中、物怖じせずにすぐ駆け寄った者がいた。

 あの大胆不敵、厚顔不遜な態度の女――『葉月』だった。


「私、保健委員だからさ。立てる?」


 真央の腕を支えるように取って、ゆっくりと立たせてやる。こくりと頷いた彼女の表情は、長い黒髪に阻まれて窺い知ることがもはやできない。


「先生、愛染さんを保健室へ連れてっていいですよね?」

「あ、ああ……」


 あっけにとられていた数学の老教師は、やっとのことで声を絞り出す。

 葉月は、勇士をジト目で睨みつけると、転校生を連れて廊下へと出て行った。教室をふらふらと力なく出てゆく真央の後姿を、クラスの皆はじっとみつめる他にない。

 だからこそクラス中の衆目は、残された勇士に集まった。だが勇士は一言も発することはなく、無表情に首をコキリとひとつ鳴らすと自分の席へと戻ってしまった。クラスメイトらには、さぞかしこの態度がふてぶてしく映ったことであろう。

 勇士が何も言わぬのは、自分でも理解が得られていなかった為である。

 この場で説明するに値する論拠が得られねば、言い訳がましいことは一切口にはしない。常に冷静沈着、物事の本質を慎重に見極めて行動する。これが彼にとって普段通りの行動であるからだ。

 だが団体行動と協調性を必要とする現代社会では、謝罪どころか弁解ひとつしないこういった態度が、周囲の不審を増大させ、誤解がより深まってしまう。

 おかげでこの後、クラスメイトらの陰口が増々募る結果となるのである。



 昼過ぎに戻った真央は、午後からの授業を何事もなかったように出席した。

 教室の一番後ろであった真央の席は、彼女曰く「勉強に集中したいので」との理由で、一番前への移動となった。心配する周囲を余所に「もう大丈夫ですから」と笑顔で対応しているが、勇士の目には気丈に振る舞っているだけに見えるのは、気のせいだろうか。

 放課後にはそそくさと現れた先生方に呼ばれて、職員室へと出向いてゆく姿があった。


 一番後ろの席からそれらを全て見守った勇士は、珍しく深い溜息をつく。

 だがそれは、決して自らの状況を気に病んでついた溜息ではない。


 何も語らぬ彼女の身に何が起こったのか。真実を知る由もない。そして勇士は説明できぬことをいちいち口にする性格ではない。

 むしろ方便の下手な分だけ、弁明する方がむしろ逆効果になるだろう。そうして負のスパイラルへと陥るのだ。分かっているからこそ、勇士は敢て何もせずに見守っていた。

 勇士の深い溜息の理由は、全く別のところにある。真実がようとして知れないこと。それが胸の内で引っ掛っているのだ。

 勇士は物心ついた頃から類稀なる身体能力を駆使して、幾度となく難解な状況を打破してきた男である。幼い頃より何故か身についていた、如何なる謎をも究明して真実を解明せんとする気持ち。これは誰よりも人一倍強かった。その気持ちがつい、溜息として溢れたのだ。

 ただこの時、教室内に溢れる溜息は、勇士だけのものではない。誰もが釈然としない嫌な空気が、未だに教室内に燻って漂い続けていた。

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