愚かで悲しい決意と知ろうとも




「……すごい」

 食い入るように舞台を見守っていたメルは、劇場内が明るくなったことで劇の前半が終わったことにようやく気がついた。


「あなたのご主人さまはすごいね」

 メルはそう口の中だけで呟いて、ドール・シルフィーニアの頭を優しく撫でる。

 シルフィーニアは……どこか満足げなようにも見えた。



 舞台の前半と後半の間にある、この休憩時間はかなり長く取られている。

 この時間の間に、客たちは小腹を満たしたり、飲み物をとったり、今回の舞劇役者たちの絵や版画などを買い求めたり、あるいは上流階級の者であればちょっとした社交があったりするのだ。


 メルも少しお腹が空いているしずいぶんと興奮して喉も乾いたので、売店で何か軽い食事と飲み物を買おうと席を立つ。






 売店が並んでいる場所は、当然ながら混み合っている。

 メルは一応ジルセウスがいないか、と見てみるが……いない。

 貴族、それも侯爵家ともなれば、席は一般の席ではなく特別席だろうからこのようなところに来る必要はないのだろう。特別席では食事をしたり、ワインを飲んだりしながら観劇できると聞いている。


 ため息をついてから、とりあえず目についた中で一番おいしそうだったベリーを数種類混ぜ合わせたジュースを買うことにする。

 銀色の金属のカップに入ったジュースは赤く輝いていてとても綺麗だ。

 お行儀が悪いと理解しつつも、壁際に立って片手にシルフィーニアを抱いたままでベリーのジュースを飲む。

 体に、甘酸っぱい水分がながれこんで心地いい。

 このジュースのカップは専用の箱に捨てておけば、あとで店側が回収する。


 その専用の箱を探していたとき、メルの視界の端にある意味見慣れた銀色の髪のエアルトが飛び込んできた。

 ……間違いない、舞姫リゼッタの従者ゼローアだ。

 

 彼は――何か思い詰めたような表情で、足早に客席があるのとは逆方向へ向かおうとしていた。


 メルは嫌な予感がした。

 結い上げた髪の、むき出しのうなじが……びりびりとする。


 もうすぐ舞劇の後半も始まるだろうに、ゼローアはどこへ行くのか。

 そう思った瞬間、メルは青いドレスの裾をつまんで走り出していた。




 

 

「あれ……こっちに来たと思ったんだけど……」

 ゼローアの姿を探して走り、さっきの売店前よりは人気の少ない場所に来たが……そこで彼の姿を見失ってしまった。


「お嬢さん、どうしたのかね。お付きの者とでもはぐれたのかい?」

 きょろきょろと心細そうにしていると、老紳士が親切にもそう話しかけてきてくれた。

「あの、従者服をきたエアルトの男の子を見ませんでしたか、銀髪で、年の頃は私と同じぐらいの……!」

「エアルトの男の子か、それならあっちのほうを通って……」

「ありがとうございます!」

 メルは礼もそこそこに、老紳士の示した方向に駆ける。

「あっ、お嬢さん!」










 青いドレスをまとった、見事な金髪の令嬢が走り去った方向を、神の筆を持つ偉大なる画家マナフ・アレンは呆けたように見つめていた。

 夢だろうか、いや、違う。

 確かにあの令嬢のつけていたラベンダー香水の芳香が残っている。


「どうしましたか、大叔父上。こんなところで。もうすぐ後半が始まってしまいますよ」

「ん、あ、あぁ……ジルセウスか。ちょいと外の風神と詩神のレリーフを眺めに行ってたんだが……会っちまったんだよ、乙女に……俺の描いた、夢の、夢の中だけの乙女リンネメルツェにな……」

「は?」


 兄の孫であるジルセウス・リンクス・リヴェルテイアは、目を丸くしていた。

 当たり前だ、こんなことを言い出したらとうとうこのじいさまはボケが来たんだなと思われても仕方がない。

 だが、ジルセウスは真剣な眼差しでこう言った。


「大叔父上……。その乙女は、青とすみれ色のドレスをまとって、金の髪には銀と青い石の髪飾りをしていましたか? そして、大きなドールを抱いていましたか?」








 


 老紳士に教えてもらったとおりの方向に進むと、裏口の近くに来た。

 そこに、たしかにゼローアは居た。

 ……彼は、従者服の上着とシャツを脱ぎ捨てて、上半身は黒の体にぴったりとした袖なしの薄い服だけの姿で、手に長い布を巻き付けているところだった。

「ゼローアさん……!」

「……大きな声を出さないでください。この扉の向こうに“連中の見張り役”が居ますので」


 ゼローアの瞳には、悲壮な決意がこもっていた。

 

「ゼローア、貴方、自分一人で、一人で……例の……“魔薬”の取引を潰すつもりで……?」 

 先程より声はひそめて、ゼローアを問い詰める。

「人数が動けば、表沙汰になる可能性も上がってしまう……これが一番いいのです」

「駄目だよ。ゼローア、それなら……それならいっそのこと、取引を見逃す手だってあるじゃないの」

 


「いや、連中を見逃すことはできません、だって……だって、俺は」



 ゼローアの声は、怒りと悲しみと憎しみの入り混じった、今にも泣きそうな、涙声だった。

 あの日、メルの作ったアップルパイを美味しそうに食べてくれていた少年は、どこに行ってしまったのだろう?


 この、愚かで悲しい決意を固めている男は、誰……?





「俺は、俺は、……“魔薬”を買い集めようとしている“教団”に拾われ育てられた……暗殺者……なんですよ……舞姫の従者ゼローアなんて、最初から居なかったんです」

 






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