双鍵の紋章(その二)




「ははは、いや、先程はまったくもって驚きましたよ。しかし、布を扱う職人だけあって、布製品へのこだわりはさすがですな」


 メルたちの向かいのソファに腰掛けて、耳に心地いい低い声で鷹揚に笑うのは中年のグレーの髪をきれいになでつけた偉丈夫。

 ……このお人こそ、シグルド・ブレイア・マギシェン。つまり、他ならぬマギシェン侯爵その人である。

「そうですね……でもやっぱり驚きましたよ」

 にこにこと、純朴な笑みを浮かべているのは茶髪を清潔に短く整えた中肉中背の青年。さきほど紹介されたところによると、この青年はマギシェン侯爵の甥にあたり、今ではこの家の養子に入って後継者教育を施されているらしかった。名前はテオドル・スピエ・マギシェンと言う。

「それではシグルド父上、そろそろ」

「あぁ、わかっている。茉莉花堂の店主殿と助手殿、妻のところへ案内いたしますよ。そこにお茶の準備もさせてあります」

 

 


 ずいぶんとお邸のなかを歩かされて、ようやく侯爵とテオドルはとある部屋の扉で立ち止まった。


 そのままドアを開けるのかと思いきや、二人は振り返って、妙に真剣な面持ちでメルとシャイトをじっと見つめ、そして――

「一つか二つほど、守って欲しいことがあります。よろしいか」

 その、まるで承諾を返さなければ容赦はしないとでも言いたげな鋭い目に、思わずメルは二回頷いてしまう。……シャイトのほうは、面倒くさそうにゆっくり一度頷いていた。シャイトはこういうとき、妙に肝が座っているのだ。


「一つは、妻は病なのだということをご理解頂きたい。……といっても、妻の病は他人からの理解がなかなか得られないことを、私たちはよく知りすぎています。なのでせめて、妻のことを嫌がったりするようなそぶりなどは見せないで頂きたい。二つ目はとてもシンプルです、このことについて妙な、それこそ尾ひれ背びれ胸ひれををつけたような噂は流さないことです」


 それらを言い終わると、マギシェン侯爵はメルたちの返事も反応も待つこと無く、その部屋のいかにも重たげな扉を開けた。




 部屋の中は、まるで子ども部屋のようだった。それも、特に幼い女の子が好みそうな内装や調度品、それにさまざまの小物類。

 だが、部屋の主である人物は、どうみても三十歳を超え、四十歳も近い女性。

 少年の衣装を着たかなり大きなドールを膝にのせ、大きな揺り椅子にすわってぼんやりと窓の外を眺めているこの白髪の女性こそ、アリア・シルート・マギシェン侯爵夫人に他ならないだろう。

 そんな侯爵夫人に寄り添っている人物が二人。

 一人はこの邸のメイドたちと色違いのメイド服を着た、侯爵夫人の侍女であろう、色白ですんなりと背が高く緑色の瞳が印象的な女性。

 一人はばっさりとやや乱暴に切られた短い髪をした、やや窮屈そうではあるが仕立てのいい少年服を着た、侯爵家ゆかりの子供なのだろう華奢な人物だ。


「あ……ウル」

 どうやらその子の名前かあるいは愛称はウルというらしい。テオドルが小さくその名前を口にした。

「ウル、今日はこの部屋には」

 テオドルに呼ばれて、ウルがこちらを見る。その姿は、ちゃんと髪を整えれば侯爵夫人の膝にのっているドールにとても良く似ていた。そう、まるで……生き写しのように。

 ……と、メルが思ったときだった。とても低くてゆっくりとした、確かな怒りを込めた声が部屋に響いたのだ。


「お前……この部屋で何をしている。今日は、この部屋には、近づくなと、伝えたはずだったが?」


「……父上、ボクは……」

「部屋から、出ていきなさい。……これ以上恥をさらすでないわ!!」

「……っ……は、はい……」


 ウル、という名前らしい子は、今にも泣き出しそうな様子で、部屋から走り去っていく。その背に、使用人たちが不安げな小さな声で「ウルリッヒ様」と声をかけるが、決して立ち止まろうとはしなかった。


 やがて、その足音が完全に消え、それからしばらく沈黙が流れ、ようやくマギシェン侯爵が重い口を開いた。

「……みっともないものをお見せした……」

「侯爵様、あの方は……」

 聞いてはいけないことなのだろうと思いつつも、あまりの侯爵の態度にメルは聞かずにいられなかった。たとえ隣のシャイトが、また面倒くさそうなことに首を突っ込む気なのか、という目で見ていてもだ。

 侯爵は質問にしばらく口を閉ざしていたが、やがて観念したように、ため息をつきながら答えてくれた。

「あれは……私の、子供ですよ……実の子です。アリアが腹をいためて産んでくれた私の子なのです……。今妻のアリアの膝に座っているドールが居るでしょう、そのモデルになった亡くなった我が子ヴィクトールとは双子なのです」


 メルはその言葉の衝撃と、そして意味のわからなさで呆然としてしまった。子供が居るのに、後継者として養子をわざわざとり、それだけではなく実の子にあのようなひどい態度を……?

 これにはシャイトですら、隠しもせずに怪訝な顔をしているぐらいだ。


「あれのことはもう気にしないでください。それよりお茶にしましょう。……レリーチェ、アリアをこちらのテーブルに連れてきなさい……。大陸東方から直接手に入れた極上のグレーイス紅茶があるのですよ……これはなかなかめったにない逸品だ。」


 ほとんど独り言に近い言葉をつぶやいているうちに、だんだん侯爵本人は気がおちついてきたようで、見事なお菓子がすでに用意されている大きなテーブルにメルたちを案内しようとする。

 メルとシャイトも、侯爵がこの様子ではこれ以上話してくれることもないだろう、この場は一度引き下がってお茶会の招待を受けたほうが良いだろうと視線で確認しあってから、テーブルの傍に歩み寄る。


 マギシェン侯爵とアリアにテオドル、それにシャイトとメルがそれぞれ席についたとき、この別荘の執事らしい初老の男が小走りで部屋にやってきて、侯爵に小声で何かを報告しはじめた。

「……橋がすこしばかり…………近くの村で…………最近は冒険者たちがとても多うございます………というわけでして……これは…………マギシェン家が…………ということでございましたが、いかが致しましょう」

「あぁ、わかっているわかっている。今はせっかくの茶の時間だ。そのような話は後にいたせ後にいたせ」

「シグルド父上、ぼくがあたりましょうか?」

「不要だ。お前も茶会に参加せよ。……では茉莉花堂のお二方、東方渡りのグレーイス紅茶と当家自慢の菓子をどうぞ、召し上がってください」


 確かに、テーブルには色とりどりの華やかな果物をつかったタルトやら、ふわふわのスポンジに生クリームがたっぷりのベリーのケーキ、いかにもチョコレートが濃厚そうなくるみたっぷりのブラウニーなどが並んでいる。だが、メルはちっとも食欲が湧いてこなかった。


 ……せめて、ここが侯爵家の豪華な別荘などではなく、収集家小路にある小さなお店ドールブティック茉莉花堂だったら、と思わずにはいられなかった。





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