Folder02. 手に入れた力

File009. 品浮《レビテート》


 崖の上で木々の間を渡る涼しいそよ風。

 いつもより少し眩しく見える太陽が地平線に浮かんでいる。

 明るいオレンジ色に照らされたカイ・リューベンスフィアの屋敷は静かで、部屋の照明はすべて消されていた。


 十畳くらいの広さがある寝室には大きなベッドがあり、ヘッドボードの上にある宮棚には十冊以上のノートと時を刻むカイリの腕時計が置かれていた。

 腕時計は午前五時を示していて、カイリにとっては早朝である。

 部屋の中を淡い光で満たしているのは、ガラス窓に設置されたウッドブラインドの隙間から漏れる外光だ。


 ブラインドを構成する木目模様のスラットとスラットの間からガラス越しに部屋の中を覗く小さな影があった。

 ベッドで眠る黒髪の青年を確認して、その口元に笑みが浮かぶ。

 汚かったカイリの髪は綺麗に洗われてサラサラになっており、無精ひげも消えていた。

 服装もラフな部屋着を勝手に使っているようだ。

 寝室の窓から離れた彼女は青みがかった透明な翅を広げ、濃紺のロングスカートをひらめかせて屋敷の裏へ飛んだ。


 屋敷の裏には勝手口のポーチがあり、そこに大きなバスケットが置かれていた。

 白い布が掛けられていて中身は見えない。

 布の上で大きなアーチを描く取っ手に触れたのは、七部袖の白シャツから伸びる色白の小さな手だ。

 魔法の呪文が流暢りゅうちょうな日本語の発音でささやかれた。


 ――高目移行放棄ランクアップキャンセル汎数レベル

 ――通模インプット要俳キーワード

 ――けいけいけいを保ち、けいけいとしけいすることをけい

 ――転配コンパイル

 ――役名コマンド……


「〈品浮レビテート〉」


 例えば「ランクアップキャンセル」は完全にカタカナの発音だった。

 決してネイティブな英語の発音ではない。

 カイリがマティの呪文を聞き取れたのは、〈翻逸トランスレート〉の魔法によるものではなく完璧な日本語だったからだ。


 「〈品浮レビテート〉」の言葉と同時にポーチの床に光の輪と無数の光点が広がり、白くまばゆい光がバスケットを包んだ。

 すぐに光が消えると、バスケットと白い布が半透明になっていた。


 バスケットと白い布はその表面の薄皮一枚だけを残して中身が消えたかのようだった。

 薄いフィルムで作られた模型か、立体映像であるかのように向こう側の景色が透けて見えるのだ。


 小さな手につかまれた“バスケットだったもの”と、それを持つ小さな妖精の身体が同時に浮き上がった。

 そのまま手を触れずに勝手口のドアをそっと開け、まるで風船を引くように軽々と“バスケットだったもの”を運んでいく。

 周囲に人の気配がないことを確認すると、大きな冷蔵庫の前に着地した。


 取っ手から手が離れると、“バスケットだったもの”が白い光に包まれて元のバスケットに戻った。


 白い布が取り去られ、パンや加工肉、卵、生野菜、ミルクといった食料品が姿を見せる。

 それらをせっせと冷蔵庫の中に移し始めるフェアリ族の女性。


「唯一解けなかった謎の正体は、マティだったんだな」


 突然背後からかけられた声にびくりと頭を上げるマティ。

 この屋敷に居るのは彼女の他には一人だけだ。


 ばつが悪そうな様子でマティがゆっくりと振り向くと、キッチン入口の柱に寄りかかるように立っている黒髪の青年と目が合った。


 マティが目を見開き、息をのんだ。

 それほどカイリの目に生気がなかったからだ。

 寝起きで機嫌が悪いというレベルではない。

 まるで不死の病を宣告された直後のような絶望に沈んだ顔に見える。


「お、おはようございます、マスター」

「おはよう、マティ」


 マティはどうしていいのかわからず、ただカイリを見つめていた。

 彼は無言のまま冷蔵庫に近づき、入れられたばかりのパンを取り出すと指でちぎって口に放り込んだ。

 もしゃもしゃと咀嚼そしゃくし、ミルクが入ったガラス瓶に口をつける。


「このパンは冷蔵庫に入れないともちしないのかな」

「そ、そうですね。風味は落ちますがレンジで暖めるとおいしく食べられます」


 冷蔵庫の前で中身をあさるように食べるカイリをじっと見つめるマティ。

 会話は普通だ。

 自分の変化に気づいていないのだろうかと想像するが、彼の身に何が起こったのかわからない。

 ベッドで寝ている姿に異常はなかったはずだ。


 調理をしなくても食べられるものばかりだが、行儀がいいとは言えない朝食を終えたカイリが再び口を開いた。


「三日ぶりだね」

「はい」


 カイリがいう三日とは、カイリの腕時計が刻んだ日数である。

 太陽が沈まない世界の住人であるにもかかわらず、マティは日数の感覚を持っている。

 そしてマティの三日はカイリの三日と同じであることをカイリはほぼ確信していた。


 マティが森で言った「マスターを見つけるのに三日もかかってしまった」という言葉。

 それはカイリが森に転移してから三日目のことだった。

 そして「百年ごとの同じ日にあの樹海にマスターが召喚されることを知っている」とも言った。

 だからマティがカイリを探し始めたのが出会う三日前であったことは偶然ではない。

 つまりマティの三日とカイリの三日はおおよそ一致しているのだ。


 さらに、ここは未来の地球であるらしい。

 五千万年前には確かに二十四時間という一日があったのだから、人類の文化が継続しているのであれば時間の単位が同じであることは自然だと思える。

 むしろこの屋敷の中で“時計”が見つからないことのほうが不思議だった。

 太陽が沈まない世界で、マティが日数の経過をどのように知っているのかは本人に聞いたほうが早いだろう。


 ともかく「三日ぶりだね」というカイリの言葉にマティが「はい」と答えたことで、少なくとも一日の時間が同じであることが確定したのだった。

 そうであるならおそらく一年も同じで、百年に一度召喚されるカイ・リューベンスフィア二十人の最後を看取ってきたというマティの年齢は、やはり二千年を超えるのだろう。


「あの……」


 遠慮がちに声をかけるマティ。

 なに? と返事をするカイリに、ゆっくりと質問する。


「“唯一解けなかった謎”とは、どういうことでしょうか?」


 暗い表情のままカイリが答えた。


「ああ……この三日間、朝に冷蔵庫を開けると食料が満たされていたことだよ。最初は魔法の冷蔵庫なのかと思ったんだけど、そういう魔法道具のたぐいはこの世界に存在しないってわかったからね。俺にとって、この世界で最後に残されたミステリーだったんだ」


 カイリの言葉遣いが以前よりも優しくなったようにマティは感じていた。

 丁寧語や少し乱暴なタメ口のいずれでもない、自然体の言葉に聞こえる。

 だがそうなった理由がわからない。

 カイリの表情は暗いままだ。

 そしてカイリの口ぶりは、まるでこの世界のすべてを知っているかのように聞こえた。


 たしかに見知らぬ世界に召喚されて何週間も落ち込んだり、言動が荒れたりするマスターは過去にもいた。

 そのたびにマティが心のケアにつとめてきた。

 しかしカイリはその誰とも違う。

 元気がないのは同じだが、悲しみをあらわにしているわけでも心ここにあらずという感じでもない。

 まるで達観した老人のように感情の起伏が小さく、何でも知っているかのような話し方をする。


「すみません。マスターと顔を合わせづらかったんです」

「いいんだ。俺の方こそ、デリカシーのない言い方をして悪かった。ごめん」


 森の中でエルフ族の矢におびえていたマスター。

 地平線に浮かぶ夕日に目を奪われていたマスター。

 部屋の照明が点灯して驚いていたマスター。

 そんな感情豊かな青年だったはずのマスターに何があったのか。

 三日前に飛び出してからようやく和解したものの、元気のないカイリを見るマティの心は晴れない。


「時々様子を見に来ていました。この三日間、マスターがずっと予言書や過去のマスターたちの日記を眺めていたことは知っています。翻訳されたメモの通りに呪文を唱えても魔法が使えなくて、がっかりされたのではありませんか?」

「あ、いや……」


 カイリの生気が感じられない理由は、魔法を上手く使えなくて落ち込んでいるからだろうか?


「翻訳されたメモを読むだけでは、魔法は発動しません。古代言語を正確に発音しないといけませんから。過去のマスターたちもかなり苦労されましたが、ほとんどのマスターが最終的には汎数レベル6の高位魔法まで使いこなされるようになったので、マスターもきっと大丈夫ですよ」

「6まで……か」


 カイリの表情が動いた。


「はい。この世界で魔術師と呼ばれる者でもたいていは私と同じで、汎数レベル1の魔法といくつかの汎数レベル2の魔法を扱える程度です。でも予言書を翻訳したノートには発音の注意点も細かくしるされていますよね。私には読めない異世界の文字で書かれていますが、同じ世界から召喚されたマスターなら練習を重ねることで――」

「……そんなに低いのか」

「え?」


 カイリの言葉の意味を理解しかねて、マティが黙った。

 それに気づいて謝るカイリ。


「ああ、ごめん。まだ試してないんだけど、最高位の汎数レベル13までの魔法を問題なく使えると思う。要俳キーワードは全部覚えたしね」

「…………は?」


 二人の間に漂う沈黙。


「え、あれ? 俺が予言書を読んでいたのは知ってるって言ったよね?」

「え、ええ」


 ぎこちなく答えるマティに、言葉を続けるカイリ。


「この三日で予言書を全部読み終わって、次にカイ・リューベンスフィアたちの翻訳や日記が書かれたノートも読んだんだけど、英語はともかくロシア語やら中国語やらアラビア語やら、こっちのほうが解読するのが大変で……」

「予言書を……読み終わって……?」


 カイリはマティが完全に固まっていることに気づいた。

 よく見ると小さな唇が震えている。


「その……眺めていただけですよね? だって、ぺらぺらとページをめくっていただけでしたし、そもそも大部分の未解読の本は読めないはずで……」


 そこまで聞いて、カイリはようやく自分が説明不足であることに気づいた。

 予言書がカイリの母国語で書かれていることと、自分の瞬間記憶能力についてである。



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