File010. 約束



「俺には読めるんだ。この予言書に使われている言語は、俺の母国語なんだよ」

「……どういうことでしょうか?」


 わけがわからないという顔のマティ。

 少しの間をおいてカイリがゆっくりと説明した。


「カイ・リューベンスフィアたちは予言書が書かれた過去――いにしえの時代から今の時代に召喚されている。俺もその一人だ。ただ古の時代にはたくさんの言語があって、今までに召喚されたカイ・リューベンスフィアたちは予言書とは違う言語を使う人たちだったんだと思う。初代カイ・リューベンスフィアはおそらく予言書の言語を少し知っていた。そして俺は予言書の言語――日本語を、幼い頃から使っている。日本語が共通語の民族なんだよ、俺は」


 カイリの言葉のひとつひとつを理解していくマティ。

 彼女が顔を上げるのと同時にカイリが話を続けた。


「予言書は全部読んだ。魔法のことも……この世界の秘密、この世界を救う方法……召喚についても、全部わかったよ」

「う、嘘です!」


 ほとんど反射的なマティの否定だった。

 その全身はガクガクと震え、顔は真っ青である。

 喜ばれるとばかり思っていたカイリは、彼女の狼狽ろうばいぶりに驚いた。


「だって……本当に文字が読めたとしても……たった三日で二十六冊の予言書を全部読むなんて、時間的に無理じゃないですか。私、見ていましたから……マスターがただゆっくりとページをめくっていただけだったのを」


 マティの呼吸が荒い。

 急に自分の周囲から酸素がなくなってしまったかのような息苦しさを彼女は感じていた。

 そうさせているのは、彼女の心の中の葛藤である。


 カイリが予言書をすべて読破したことなどありえないと理性では思っている。

 だが、カイリの言葉を信じたいという強い欲求を止められない。


(もしマスターの言葉が本当なら、私の……二千年の夢が……。でも、ありえない。ありえない……。でももし、本当なら……)


 同じ思考がぐるぐると回り続けている。

 止まらない身体の震え。


「……どうか……お願いです、マスター。予言書のことで、私をだますことだけはしないと誓ってください。私にとって、それは……」

「嘘じゃない」


 きっぱりとそう言うと、カイリはマティの黒い瞳を見つめた。

 目をそらさないように意識して、自分の特別な能力について説明する。


「俺には生まれつきの才能があるんだ。文字列限定だけど……見ただけで一字一句、何千ページでも何万ページでも、完全に記憶できる。内容を理解する前にまず記憶するから速読も可能。この能力を自分では“瞬間記憶”と呼んでる」


 カイリの話を聞きながら小さな両こぶしを握りしめるマティ。

 彼女もまたカイリの黒い双眸から目を離そうとしなかった。


「…………」


 しばらくの沈黙の後、先に口を開いたのはマティだった。


「あの……〈離位置テレポート〉の要俳キーワードを発声していただいてもよろしいでしょうか?」

「ああ」


 すぐに〈離位置テレポート〉の呪文の一部を口にするカイリ。

 要俳キーワードと呼ばれる部分である。


 ――かいにてじんに帰し、れつをもってさいなるぜんと成す


「……これでいいかな?」


 まるで誰でも知っている童謡の歌詞であるかのように、汎数レベル1の魔法〈離位置テレポート〉の要俳キーワードを口にするカイリ。


 マティの白い頬に涙がつたっていた。


「マスター……」


 マティが見ているのはカイリではなく、どこか遠くにいる誰かのようだった。


「私の……私たちの夢が……かなうかもしれません……」


 無意識に発した言葉のようだった。




 マティが口にした「マスター」はおそらく自分のことではなく、初代カイ・リューベンスフィアのことだろうとカイリは思った。

 彼の日記は見当たらなかったが、過去のカイ・リューベンスフィアたちの日記からマティが初代に特別な想いを抱いていることが想像できたからだ。

 そして初代とマティの夢は、この世界をその終わりから救うことだった。


(そう……この三日ですべてを知ってしまったんだ、俺は……)


 カイリが自覚しないまま朝から落ち込んでいる理由は、世界とも魔法とも違うところにあった。

 過去からの“召喚”――。

 予言書を読むことで、カイリはその秘密を知った。

 その仕組みがタイムパラドックスなど生じるはずがない画期的な方法であることを。

 そしてカイリが心を整理できないでいる理由もそこにあった。


「その……マスター…………」


 不自然なほど遠慮がちに声をかけるマティ。

 その言葉を口にすることに一体どれほどの勇気を必要としているのか、他人が理解するのは難しいかもしれない。


「…………世界を……救えるのでしょうか?」


 顔を上げたカイリが再びマティと目を合わせる。

 小さな妖精の様子は、まるで自分を殺そうとしている相手に対し、自分の心臓を手にのせて差し出しているかのように無防備で弱々しかった。

 ここで無神経な言葉を口にすれば、簡単に彼女の心をズタズタに傷つけられるだろう。

 マティの言葉の重みを理解したカイリは、それに対する答えの責任を感じずにはいられなかった。


「滅びの理由も、救う方法も、理解したつもりだ。確かめなければいけないことがいくつかあるけど……たぶん救える」


 カイリの言葉を聞いたマティの顔がぱぁっと明るく輝く。

 無垢な幼女であるかのような喜びの笑顔にドキリとするカイリ。


「では――」

「引き受けるよ。他にすることもないし、マティの世話になるお返しはそれが一番だと思うし、それに……」


(――過去に帰る手段がないことが確定したしね)


 その言葉を飲み込むカイリ。

 予言書を読んだカイリは知った。

 “召喚”の秘密を。

 過去に帰れるはずなどないということを。

 そして、召喚された者の“生命いのちの軽さ”を――。




 カイリの胸にマティが飛び込んできた。

 小さな身体の体温が伝わってくる。


「マスター、この世界を救ってください。私たちが生きるかけがえのないこの世界を。お願いします……そのためなら私、どんなことでもしますから。私の夢を……かなえて……くら……しぁ……ひ」


 最後は言葉になっていなかった。

 カイリの胸の中で涙をボロボロとこぼし、整っているはずの顔をクシャクシャにしてしゃくりあげている。


 二千年間ただそれだけを願ってきたにもかかわらず、諦めようとしていた夢――心からの願い。

 そのとうとさをカイリは感じていた。


 それを受け止めたうえでその言葉を口にすることができたのは、カイリがすでに世界最高レベルの魔術師になっているという自信だけではない。


「マティの夢は俺が引き受ける。思い通りにいかないこともあるだろうけど、一緒に乗り越えてほしい」


 マティの思いを伝える涙が、彼の沈んでいた心の中の何かを奮い立たせていた。

 それは男なら誰でも持っているような幼稚なヒロイズムかもしれないし、逆に少年を大人の男にする人生の決意だったのかもしれない。

 いずれにしてもカイリにとってそれは、暗闇から自分を拾い上げてくれる一筋の光であった。

 この時のカイリは自分が生きる意味を欲していたのだ。

 彼もまた、自分の心臓を手にのせて差し出しているのだった。


 そして小さな妖精は、その決意に応えた。


「……はい」


 泣き声に混ざってはいたが、はっきりと聞こえる返事だった。


 契約書はない。

 立会人もいない。

 それでも互いに心臓を差し出すほどの思いを込めて交わした。

 ――二人だけの“約束”であった。



  ***



 マティが落ち着きを取り戻す頃、カイリの背後――キッチンの隅でうごめくものがあった。

 床板の隙間から侵入してきたそれは木の根のように見える。

 その表面を覆う白い毛根は、三日前に脱衣所の床下に消えた白い毛虫状のものに似ていた。



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