File007. 翻逸《トランスレート》


 宙に浮いて移動するマティが屋敷の前まで来ると、玄関の扉が自動的に開いて二人を招き入れた。


(自動ドアまであるのか……宙に浮いているんだから、体重感知式じゃないとして……赤外線? いや、魔法のドアとか? でも確かに電気って言ったよな、さっき……)


 森の中でいつの間にか言葉が通じるようになっていたのを思い出すカイリ。

 彼女の発する言葉を“電気”と自分の頭が理解したのだが、その翻訳はどうなされているのだろうか。


 彼女は日本語を話しているわけではない。

 明らかに元の世界ではカイリが耳にしたことがない言語である。

 だが彼女が発した言葉の意味は瞬時に理解できるし、なぜかカイリの口からはすらすらと異世界の言葉が出てくる。

 まるで忘れていた言葉を思い出したかのように自然に、簡単に。

 文法も知らずに話せるというのは、どういう原理なのだろうか?


 マティが登場してから、いろいろと心に引っかかることが立て続けに起きているなとカイリは思った。

 それがあまりに多すぎていちいち尋ねてはいられなかったが、やはり気になる。

 電気や水道という単語が出てきたのだから、すべてを“魔法”で片付けられることはない気がするし、この世界のことを理解することは生きていく上で重要であるはずだ。


「こちらの部屋でお待ちください」


 マティに案内された屋敷の中はカイリが考える中世と現代を合わせたような雰囲気で、違和感はほとんどなかった。

 海外旅行経験がないカイリだが、現代でもヨーロッパに行けばこんな感じではないだろうかと想像する。

 窓からはまばらに生えた木々と右側がオレンジ色に染まった空が見えるが、部屋の中は少し暗く感じた。

 そしてドアの横には四角いスイッチがあり、それに手をかざしただけで天井全体が光って部屋を明るく照らした。


「…………」


 蛍光灯でもLEDでもない。

 天井そのものが均質に光を発していて、むしろ魔法だと説明されたほうが納得できそうな照明である。


(有機EL照明ってやつかな? それとも照明は魔法なんだろうか……)


 そんな疑問を抱いていると、マティが声をかけてきた。


「私はお風呂の準備に向かいますので、何かご要望があれば今お伺いいたします」


 カイリが慌てて反応した。


「その……先に簡単な質問を二つだけしていいかな?」

「はい。どうぞ、お掛けになってください」


 勧められるままソファに座るカイリ。

 その座り心地の良さに驚きつつ、一つ目の質問を口にする。


「さっき、マティのことをさん付けで呼ぶのを嫌がったのはどうしてなんだ? 俺のことを“マスター”って呼ぶことと関係がありそうだけど」


 聞きたいことは山ほどあったが、技術的なことや現象的なことは後回しにした。

 その前にマティとの付き合いにかかわることを優先したほうがいいと思ったのだ。


 ローテーブルを挟んでカイリの正面に回ったマティが、クッションが載ったソファの上で宙に浮いたまま真面目な顔で答えた。


「今から二千年前に、私が初めてお会いしたマスターの名をカイ・リューベンスフィアと言います。カイは予言書の一部を読み解き、そこに“世界の滅び”と“世界を救う方法“、そして“魔法”が書かれていると言いました。私にとって、カイは魔法の師匠マスターなんです。カイが私に魔法を伝え、彼の死後に私が世界に魔法を伝えました」

「魔法……さっき森からこの崖の上まで急に移動できたのも、その魔法なのか?」


 マティがこくりと頷いた。

 やはりこの世界には魔法が存在するらしい。

 しかもその魔法を伝えたのは、フェアリ族の予言書を読み解いた異世界人だったという。

 さらにその魔法を世界に伝えたのが、目の前にいるマティ。

 彼女がこの世界でどういう立場にあるのか気になったが、今は置いておくことにする。


「史上初の魔法を披露したカイの名は世に知れ渡り、後世においても異世界から召喚されたマスターたちが高い汎数レベルの魔法を使ったことから、カイ・リューベンスフィアの名は“異世界から召喚され魔法を使いこなす者”という意味で使われるようになりました。あなたは二十一代目のカイ・リューベンスフィアということになります」


 異世界から召喚された者は予言書を解読していただけだと思っていたカイリは、その存在がかなり有名であることに驚いた。


(魔法の始祖の系譜ってことか。そりゃ、力のある人材を求める勢力に狙われるよな)


 予言書に関する噂だけで種族全体が自分を狙うというのは、大げさな話だと思っていたカイリ。

 しかし狙いがカイ・リューベンスフィアの持つ魔法の力で、噂の方はあわよくばくらいに考えているとすれば納得しやすい。


(それにしても、魔法……か)


 魔法というものが存在することは身をもって体験済みである。

 原理はさっぱりわからないが、この崖の上まで移動したのはマティの魔法だ。

 予言書を解読したものを読めば、あるいはマティに習えば、自分も魔法を使えるのかもしれない。

 そう考えるカイリではあったが……。


(物理法則が根本的に違うとなると、そのまま受け入れるしかないんだろうけど……どうなんだろうか。大自然が広がる景色や魔法と、電気や水道が共存するこの世界……ものすごく違和感を覚えるんだよなぁ)


 ふと気がつくと、マティが黙ったままカイリを見つめていた。

 そして、質問の答えにまだたどり着いていないことを思い出す。


「ごめん、考えごとをしてた」

「いえ、私が一度にたくさん話してしまったのですから当然のことです。初代カイ・リューベンスフィアは偉大で懐が深く、私にとって敬愛すべき人物でした。そしてその名を継いだマスターたちのことも私は尊敬しています。今目の前にいる新しいマスター……あなたとはお会いしたばかりですが、カイ・リューベンスフィアの名を継ぐ者はカイ・リューベンスフィアの生まれ変わりも同然だと感じています。ですからマスターのことはマスターとお呼びしますし、どうか私のことはマティと呼び捨てにしてください」


 そこまで聞いて、カイリはわかった気がした。


「つまり、君に尊敬される人物でいてくれという意味もあるわけだ」

「はい」


 カイリとしては少々答えにくい言い方をしたつもりだったが、マティの返事に躊躇ちゅうちょはなかった。

 いろいろと世話を焼いてくれるからといって、甘えてばかりいていいわけではないらしい。


(マティは、多くのマスターたちが願いを聞き入れて予言書の解読に取り組んでくれたって言っていたけど……結構したたかな性格なのかな、この人)


 マティの顔はいたって真面目で、悪意も後ろめたさも感じられない。


「二つ目の質問をお伺いしてもよろしいでしょうか?」


 促されて、頭を切り替えることにするカイリ。

 二つ目の質問は、マティにも答えられるかどうかわからないと思っていた。


「うん、森の中で最初はマティの言葉がわからなかった。でもいつの間にか話せるようになっていたのはどうしてだろう?」


 真面目だったマティの顔が、なぜか急に朱に染まった。


「そ、それは……この世界の言葉を話せるように……私がマスターに魔法をかけたから……です」

「魔法だったのか。……って、いつの間に? 場所を移動するときは呪文のようなものを聞いたけど、それ以外でそんな時間はなかった気がするんだが……」


 異世界の言葉を話せるようになる魔法。

 そんな便利な魔法まであるのかと驚いたものの、そんな魔法をかけられた覚えがない。

 カイリの質問に深い意味はなく、単純に疑問に思ったことを口にしただけだった。

 だがマティの顔はますます赤くなり、濃紺のスカートをつかむ細い指がせわしなく動いている。


「魔法は……呪文の詠唱中に“発動条件”を強く念じることで、あらかじめ唱えておくことができるんです。それを“事前詠唱”と言います。言語を自動翻訳する〈翻逸トランスレート〉の魔法は汎数レベル3の高等魔法で……本来は私には使えません。ですが先代のマスターが事前詠唱をし、その発動条件として私の行動を指定することによって、私が発動させることができたんです」

「そうか、それで呪文を唱える必要がなかったのか。えーと……じゃあ、“発動条件”は何だったんだ?」


 マティの目が踊っている。


「……キ……です」

「木? 木をどうするんだ?」


 森には木がたくさんあった。

 召喚される場所が決まっているなら、木を発動条件に選ぶのもありか……とカイリが納得しかけたときだった。


「ち、違います。キ……ス、です……」


 消え入りそうな声でその言葉を口にしたマティ。

 そしてカイリには、ひとつだけ心あたりがあった。


 森の中で何かが顔に貼りついたと思ったら、それがマティだった。

 彼女が離れる直前に感じた、額のヒヤリとした冷たい感触。


「そうか……あれは、マティの舌先だっ……」


 ばふっと音を立てたのは、カイリの顔に当たったクッションだった。

 それがずり落ちると、全身をプルプルと震わせているマティが見えた。


「なんですか! そういう発動条件にさせてくれって、死ぬ間際に頼んだのはマスターでしょう! 二度とごめんですから!」


 真っ赤な顔で叫んだマティは、そのまま窓を開けて外へ飛び出していってしまった。


「ちょ……それは俺じゃなくて、先代……」


 すでにマティの姿が見えないことに気づいたカイリは、ソファに身体を沈めることしかできなかった。



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