火曜日~fly~

 目が覚め、下着のベタつきに顔を歪める。そぉっと下着をつまみ、中を覗いてため息をついた。自分で言うのもなんだけど、僕は淡泊な方で、オヒトリサマとかムセーとかほとんどない。その低確率な事がなにもお客さんがいる今、起こらなくたっていいじゃないか。

 僕は恐る恐る後ろを確認したけど、そこにいると思っていた先生はいなかった。僕はホッと胸を撫で下ろしベッドから降りると、下着の入っているタンスの引き出しに手をかける。




 ※※※ ※※※




 階段を降りて居間に行くと、先生が笑いながら僕に挨拶をしてきた。

「勇気くん、おはよう」

「おはようございます」

 目を伏せながら挨拶をして、台所に一人分だけ残されている皿がのったお盆を手に取り居間へと戻る。

 先生を極力意識しないで済む席────すなわち先生から一番遠い対面の席で、真正面に先生を見ない少し横にずれた位置に座った。だって、真正面から先生のきれいな顔を見たら、たぶん食事が喉を通らない気がする。

 ラップをはがし、大きめに握られたおにぎりを頬張った。父親は漁に出ているし、母親は漁協で働いている。二人とも午前中は忙しいから、いつも簡単に食事を済ませられるようにと、おにぎりがうちの定番だった。一人頭二個のおにぎりの具材は梅と昆布の佃煮。これも定番。それぞれが大きく握られ、ぐるんと海苔で巻かれている。ソフトボール大のそれは、かなりの重量だ。

「勇気くん。昨日酔っ払って君のベッドで寝てしまっていたみたいなんだ。ごめんね? 狭かったろう?」

 その言葉にドキッと心臓が跳ねた。ドキドキする心臓を必死で抑えて、抑揚のない声で答える。

「気がつきませんでした」

「そう? ならよかった」

 そう言って満面の笑みを僕に向ける。花がぶわっと咲いたような、鮮やかな笑顔。途端に僕の心臓が痛くなった。

「今日はどうするんですか?」

「最終日を除いてあと5日間。島を5等分して、調べていきたいと思っているんだ」

 そう言ってさっきまで見ていた紙を僕の前に出す。それは島の地図で、地形に合わせて線が引かれていた。

「でね、勇気くん。お願いがあるんだけど────」

 指で唇をトントンしながら言うから、思わず唇を見てしまった。夕べの柔らかい感触が思い出されて、思わず赤面してしまう。

「なんですか?」

「この季節は結構早くから蝉が活動しているから、もう少し早い時間から行動を開始したいんだ」

 そうだった。この人は遊びにきたわけじゃない。

「すみませんでした。こんな時間まで寝てしまっていて……」

 僕は意気消沈してうなだれる。

「あっ。そうじゃない。明日から、ね。今日は僕もお酒が残っていて早く起きれなかったから。明日からよろしくね」

 そう言って笑った。




 ※※※ ※※※




 おにぎりを食べ終え、山を歩く服に着替える。夏だけど長袖だ。それは先生も心得ていて、長袖長ズボンという山歩きスタイルに着替えている。

「じゃあ、案内よろしくお願いします」

 先生がぺこりと頭を下げた。こんな子供に頭をさげるなんて。偉い学者先生って聞いてものすごく横柄な人物を想像していたけど、申し訳ないぐらい違った。


 山に入り、先生が歩きやすいように足元の草をなぎ倒す。うしろからついてくる先生はパラボラアンテナみたいな機械を手に持ち、きょろきょろと上を見ながら歩くから危なっかしくって。足を取られて転倒することのないように下草を踏み、道を作りながら進んだ。

 それが指向性の集音マイクだと聞いたのは、休憩で水分を摂った時のことだった。

「聴いてみる?」

 先生が悪戯っぽく笑って僕にヘッドフォンを渡した。僕は受け取り耳に当てる。するとその片方を手に取り、先生が耳に当てた。

 ────近い。でもどうすることもできずに僕はそのまま固まっている。

「小さな音でね」

 そう言ってヘッドフォンが繋がっている四角い箱のスイッチを入れる。赤いランプが光り、ヘッドフォンからすごい数の蝉の鳴き声が聞こえてきた。

「すご……」

 音の洪水だ。

 今でも周りには蝉だらけで、それこそうるさいぐらいに鳴いているのに、ヘッドフォンからはそれよりも遥かに多い蝉の声だった。蝉の鳴き声が重なり合って、ひとつのうねりのように聞こえる。

「この中から目的の蝉を探すんですか?」

 半ば呆れながらそう言うと、"その通り"と言わんばかりに先生が微笑んだ。

「でもね」

 先生は機械についているスイッチをパチンと押す。するとあんなにうるさかった蝉の声がすぅっと小さくなった。僕は驚いて先生の顔を見る。僕のすぐそばで先生が微笑む姿に、また、僕の心臓は大きく跳ねた。

「こうやってね、特定の周波数の音を下げることができるんだ。……あれ?」

 先生が片方だけ耳に当てているヘッドフォンに意識を集中させる。ヘッドフォンからはフツーに蝉の声が聞こえている。

「いた! この鳴き声が調査対象の蝉だよ! こんなに早くみつけられるなんて!」

 先生が興奮した様子で僕を見た。でも僕にはよくわからない。

「この鳴き声、よくききますよ? これが本当に目的の蝉なんですか?」

 疑問を投げると一瞬驚いた顔をしたあと、また笑顔を向けた。

「そう。これが目的の蝉。そうか、勇気くんには馴染みの蝉なのかぁ」

 感慨深げに言うから、なんだか申し訳ない気持ちになってきた。

「この蝉をとったりした?」

 幼い頃の記憶をたどった後、僕は首を横に振る。

「いえ。あまり人気がなかったから見向きもしなかった……です」

 先生が追っている蝉を"人気がない"と言ってしまったことに気がつき気まずい思いで先生の顔を見る。先生は特に気を悪くした様子もなく、話の続きを促した。

「どんな蝉をとってたの?」

「ミンミンゼミとか、ニィニィゼミとか……あ、ツクツクホウシとか」

 思い出しながら話す僕を先生は楽しげに見ていた。そんなに見つめられたら恥ずかしくてまた顔が赤くなってしまう。

「先生はどうして蝉を研究してるんですか?」

 話題を変えたくて、少し身体を離しながら話を振ってみた。

「英語の教科書で〝セミの一生〟って歌を習ってね」

「英語で歌を、ですか?」

「そう。たぶん英語で曜日をなんていうかを覚えさせるためにあった歌だと思うんだけど……」

「どんな曲ですか?」

 先生が「えっ?!」という顔をした。そんなに変なことを訊いてしまったんだろうか?

「いや、僕は音痴だから歌はちょっと…………。月曜日に孵化して、火曜日に空を飛んで、途中端折るけど、日曜日に死んじゃうって、そんな曲。最後はショパンの葬送行進曲っぽい旋律で終わる」

「葬送……そんな曲を英語の授業で習うんですか?」

 僕は驚いて先生を見た。先生も驚いて僕を見ていた。

「今は習わないの?」

 そっちか。僕は苦笑いする。

「僕は習いませんでした。でもそれと研究とどう結びつくんですか?」

「蝉は地中では五~六年過ごすと言われている。それが地上に出て一週間で人生の終わりを迎えるなんて、なんてはかない命なんだって思ってね。あ、蝉だから蝉生? 蝉は力の限り鳴き続けるんだ。僕はここにいる。ここにいるんだよって。狂おしいほどの自己主張。それでがぜん蝉に興味を持った」

「それで蝉に興味を持つのって、なかなかいないのでは?」

「だろうね」

 そう言って先生は笑って話を続けた。

「だから、知りたいと思った。まわりにはなかなか理解してもらえなかったけど、僕は諦めなかった。そうしたら、こうして蝉の研究をさせてもらえるまでにはなった」

 照れながら言う先生に、僕もちょっとだけ笑ってしまった。

「でもね────」

 いきなりまじめな口調になった先生に、僕は何事だろうと身構える。

「蝉って、実はもっと長生きだったんだ」

「……は?」

「一週間でその生涯を終えるっていうのは俗説。実際は地上でも一か月ぐらい活動しているんだよ」

「え?」

 僕の間抜けな顔に、先生がクスクスと笑う。

「何事も、知ろうとしないとわからないことってあるよね」

 話はおしまいという風に、先生が立ち上がった。僕も水筒をリュックにしまい、あわてて立ち上がった。


 知ろうとしないとわからないこと。


 この胸のドキドキも、知ろうとすればわかるんだろうか────。


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