イエスタディ フロム トゥディ

 ところで古今「私は未来から来た」などと世間に向かって時間旅行者アピールをおこなった者が本物であった試しというのはあるのだろうか。テレビに映っているときに限って透視がができなくなる自称超能力者たちと同じく、自称時間旅行者たちが世間の見ているところで時空を超えて見せた例は今のところ、ただの一度も無い。結果その自称時間旅行者たちはウソつき呼ばわりされ、時間旅行者という単語そのものに(笑)がもれなくついてくる。

 ロクに証明できないなら何故世間にアピールするのか、激しく謎である。よしんば万が一本物がいて、時間旅行を証明できたとしても、それはそれで面倒くさい事態になるもまた、目に見えているだろうに。能ある鷹は爪を隠す。本物がいるとしたら、そいつはいつだって世間に紛れていて馬鹿みたいに自慢したり見せびらかしたりはしないのだ。

 例えば駅から徒歩五分の分譲マンションの三階、303号室に住む宇佐美巴は時間旅行者だ。嘘ではない。本当に明日や昨日に行けてしまうのだから仕方ない。巴は、自分が望めば明日や昨日にJRの電車で行くことができる。何故かは巴自身にもわからないし、既に考えても仕方ないという結論に達していた。大事なのはそれが可能である、という事実だ。

 しかし運命の神様の授け損というべきか、巴自身はこの能力をそれほど大切には思っていなかった。だって面倒くさいのである。いちいち電車に乗らなくてはいけないし、明日か昨日にしか行くことができない。一度恐竜を見てみたくて、ひたすら過去へさかのぼろうとしたことがある。一日づつ遡るという気が遠くなるほど面倒くさい時間旅行の最中に、そもそも恐竜のいた時代にJRが存在しないことに気がつき脱力しながら「今日」に帰ってきたのは、巴の人生においてもっとも疲れた出来事として堂々の殿堂入りを果たしていた。

 べつに「今日」に帰ってこなくても「昨日」でも「一昨日」でも、あるいは「一ヶ月前」でもよかったのではないか。その日からまた普通に暮らせばいいのではないかと思うかもしれないが、それは巴のポリシーに反する。先がわかっているのはつまらない、ワクワクしないのだ。一度だけ明日を覗いてみて激しく後悔してからは、巴は未来に行くという選択肢を自分のなかで封印している。もったいないといえばもったいない。その性格とこの能力の組み合わせは、運命の神様の人選ミスというほかなかった。

 しかし神様の溜息など巴にとって知ったことではない。そんなことよりこの日差しはどうにかならないだろうかと思う。季節は夏で、まだ朝と呼んで差し支えない時間であるにも関わらず、外を歩けば数分と経たず身体中に汗が滲む。

 夏は好きなんだけどなぁ、と心の中で断りを入れつつ、

「暑い」

 の一言が口をついてでる。そりゃそうである。夏という季節が好きかどうかなんてこの際関係ない。不快指数、などというくらいだ。日本の夏特有の、温度と湿度の二重攻撃は誰だって苦手だろう。

 別に今日でなくたって構わなかったし、今の時間でなくても問題なかったのだが、思い立ったが吉日とばかりに巴はコンビニに向かっていた。アルバイトのための履歴書を買おうと思っていたのだ。なにしろ夏休みである。少し出遅れてしまったが、なにかしらやろうという漠然とした計画性の無い想いが巴のなかに渦巻いていた。

 大学生ほどではないが、高校の二年生というのもそれはそれで自由な立場だ。一年生よりは何でも慣れて余裕が出てくるし、かといって受験やなにやらでヒーコラ言ってる三年生ほど切羽詰っているわけでもない。巴の所属する美術部も夏休みに毎日部員を呼びつけて活動するほど積極的な部ではなかったし、ようするに一言でいえば巴の夏休みは自由であった。

 緩い上り坂を歩く。暑いのは困るが歩くのは好きだ。道路沿いに定期的に植えられた街路樹からは、スピーカーのようにセミの鳴き声が響いている。巴はこの雰囲気が好きだった。夏! ッて感じだ。

 と、コンビニを目前とした歩道で冴えない表情をした若い男性とすれ違う。人とすれ違うくらい何も気にするようなことではないのだが、なにか様子が変だった。男がすれ違う直前、巴と偶然目が合った瞬間にひどく驚いたように見えたのだ。見覚えは無い。自分の顔に何かついているのかもと確認したがそれも違うようだし、見ず知らずの男に驚愕されるような何かがあっただろうかと巴は首をかしげる。

 しかしそれも束の間、すぐにコンビニに辿り着く。巴は今の一件を忘れることにして店のドアをくぐった。熱気と冷気の境界線。心地いい冷房が上気した全身を優しく撫でる。入ってすぐ隣のアイスが詰められたボックスが視界に入り、買って帰ってもいいな、という思考が浮かぶ。

 とりあえずはと履歴書を探し、ここかなと思ったところで新たな入店客。普段ならそんなもの、一瞬の視線こそ誘えどそれで終わりである。しかし巴の一瞬の視線は無意識に訝しげな目線に変わる。

 ――さっきすれ違った男だ。

 おかしい。すれ違ったということは、あのとき男はコンビニから遠ざかっていたということなのだ。なのに今このコンビニに入ってきたということは、引き返してきたということである。

 普通であれば「買い忘れかなにかだろう」で済みそうなものなのだが、さっきのすれ違い際の違和感とあいまって、巴は否がおうにも男に注目してしまう。身長は170センチくらい、体格はちょっと細め、黒い半袖Tシャツにジーンズ、顔が冴えない。……ちょっと言葉足らずであった。訂正すると、顔の造形というより表情が冴えない。気のせいか目が泳いでいる。有り体に言って挙動不審。

 冗談半分で、なんとなく男を容疑者っぽく自分の脳内レポートに記す。特に意味はない。……はずなのだが、どうも男がチラチラとこちらを伺っているような気がする。ちょっと怖い。

 気にしないように履歴書を手にし、売り場を移動しながら脇目で男に視線をやる。男は漫画雑誌をとっては戻し、パラパラとめくってはまたすぐ戻し、その度に周囲を見渡している。

 怪しさ全開だった。

 巴はアイスを買うのも忘れてレジに履歴書だけを持っていく。なんだかわからないけど、あんまり同じ空間にいないほうがいい気がした。そういえばこの前も近所で変質者が出たと母親が話していた気がする。まだ午前中とはいえ、気をつけるにこしたことはない。

 巴は会計を済ませると早足でコンビニを後にする。べつにあの男が何をしたというわけでもないし、何をすると決まったわけでもない。しかし自分のなかで膨らんでしまった妄想を押さえつけるのは難しい。あの男が紳士である可能性はもちろん否定できないが、逆に変態である可能性だって否定できはしないのだ。もしかしたら変態紳士かもしれないし。

 否な予感は的中するために存在する。巴が店を出て程なく、また誰かが出た音と気配。振り返らないほうが絶対いいと感じつつ、足元を確認するフリをして背後をチラ見すると、案の定というべきか、あの男だった。

 夏の日差しも気温も、今はもはや問題ではない。澄み渡る青空よりも気になるのは背後だ。

 早足をゆるめないまま、もう一度後方を確認した。ついてきてる。だがよく見ると、獲物を狙う狩人、という様子はまるでないような気もした。とにかく表情に自信が無い。まるでこちらの様子を伺っているみたいに。ただ、挙動不審なことに変わりは無い。ああいう優柔不断な雰囲気のストーカーだっているだろうし。

 ストーカー。今はじめて巴のなかにその言葉が浮かぶ。ストーカー? わたしに? まさかね、と思う反面、自己評価って難しいしなぁ、という呑気な考えが浮かぶ。

 しかし誰であれ、ストーカーのような好かれかたをされたってちっとも嬉しくない。巴は人見知りしないことと人当たりの良さにはそこそこ自信があった。知らない男の人でも普通に接してくればこっちも笑顔でもって普通に返すのに。さすがにストーカーに対して笑顔でもって受け入れるのは巴といえど無理がある。

 気がつけば汗が額から鼻筋を流れて唇に触れる。しょっぱい。この汗は暑さのせいか、それとも冷や汗に近いものなのか、巴自身にも判断がつかなかった。

 こうしていても埒があかない。相手がなんであれ、一言ハッキリと言っておく必要があるようにも思う。自分の勘違いならそれでよし。そうでないなら、なんのつもりかくらいは聞いておいたほうがいいような……でも逆効果だったらどうしよう。こっちからアクションを起こしたばっかりに、より面倒なことになりはしないか。

 そうこう考えているうちに、背後の自信のなさそうな足音との距離はもはや三メートルもないような気がする。ここに至っては、走るか振り返るかの二択しかないのではないだろうか。ど、どうする?

 先に動いたのは向こうだった。

「あ、あの、」

 話しかけられた。先を越された。精一杯搾り出したというような、緊張した声が背中に当たる。よせばいいのに身体が勝手に反応して、振り返りつつこう返す。

「はい?」と。ただし相当不審そうな顔と口調ではあった。

 もうこうなれば開き直るしかない。女は度胸。巴は覚悟を決めた。

「誰ですか?」

「え、いや、ええと、」

「さっきからわたしのあと、つけてましたよね。もしかして、ストーカーとか――」

「いや、違うし!」

 思っていた以上に強い口調で否定される。今のはかなり素っぽいな、と巴は思う。もしかしたら、なにか緊張するような、挙動不審にならざるをえないような理由があったのかもしれない。男が続ける。

「いや、だから、その、俺のこと、覚えてない? 梶山、梶山久司」

「知らない、ですけど」

 即答気味に答えてしまったが、もしかしたら忘れているだけかも。その可能性もあるのでもう一度はっきりと考えてみるが、やはり名前にも顔にも覚えがなかった。

「えっと、じゃあ、えーと、どうしたらいいんだ……?」

 いや、それはこっちが聞きたい。

「そう! 耳掻きを届けてもらおうと思って」

「は?」

 完全に理解不能だった。巴は思う。突然女の子に話しかけておいて、耳掻きを届けてくれとはどういうことなのか。なにかの暗語なのか。いやらしい隠語なのか。なんか耳掻きってエロスな感じするし。あるいは、本当にただ頭がおかしいのか。

 そういえば最近暑いしね、と思う。

 電波かもしれない。そしてもしかしたらナンパかもしれない。それも、ものすごく高度な。ごめんなさい高度すぎてついていけない。電波だったらなおさらだ。

「多分、人違いじゃないかと……」

 巴は考えうる限りもっとも無難な言葉を口にした。電波とかナンパとか決めつけるよりはだいぶ平和的なはずだ。梶山と名乗った男はいまだどう話すべきか思案している様子で、必死に言葉を探しているように見える。熱さのせいだけとは思えないほど汗をかいていた。大丈夫かなこの人。

「、じゃあ、変なこと、きくけど、」

 その「変なこと」とはどういう意味なのか。電波かもしれないし変態かもしれない梶山の言葉に、巴の妄想力が刺激される。変なことならどうか聞かないでほしい。

 日差しが高くなりはじめている。セミの声がすぐ耳元で鳴っているような錯覚に襲われる。

 梶山の口が言葉を紡ぐ。

 恐る恐る、こんなこと口にするのは本意じゃないんだと、身体全体で主張しながら、

「きみ、時間旅行者だったりする、よな?」






            ★  ★  ★






 その言葉を受けて、巴は一瞬だけ目が泳ぎ、

「や、違います、よ。てか、なんですかそれ」

 うまく誤魔化せたとは、あまり思えない。

「ほらその、や、っていう言い方! 絶対そうだし」

 や、そんなところに食いつかれても。

「できるんだよな? 時間移動、電車で」

 なんで、

 誰にも言ったことのない、だけど自分にとっては結構どうでもいい、自分の秘密。

「なん、で?」

「いや、混乱してるかもしれないけど、俺もしてるから、」

 してるからなんだ、と巴は思う。たとえ世界中の全員が混乱中だろうと、自分が混乱しているということとは関係ない。この梶山という、ストーカーもとい電波もといナンパもとい変態は、思った以上の爆弾を運んできているようだった。

「いや、俺さ、きみと会ってるんだよ」

「……いつ?」

 半信半疑ながら問わずにはいられない。

「昨日」

「え、いや、会ってない、よ?」

 梶山の言葉の意味を、本当は理解しているのに、思わずそう返してしまう。

「だから、今日から時間移動して、」

「わたしが、なんで?」

 それが巴には一番の疑問だった。なぜ自分が、わざわざ昨日へ飛んで見ず知らずの男性に会いに行くのか。その理由が皆目見当つかない。

「それは俺もききたい」

 がくっときた。なんだそりゃ。

「どういうことか、わかんないんだけど……」

「うん俺もわかんない。……ああ、でも、そうか、そうなのか。そりゃそうだ……」

 梶山は要領を得ない、というか謎が謎を呼ぶ答えを残して、一人でブツブツとなにやら呟いている。どうやら相当混乱しているというのは本当のようだ。

結局なにが起こっているのはまったくわからないが、どうも自分が関係あるということと、この梶山という男をそんなに警戒する必要は無いということは確からしい。むしろなんだか可哀想ですらある。

 二人の横を排気音を立てて自動車が横切り、温まりきった排気ガスが不快な熱気を運ぶ。

「……暑い」

 気が抜けたように巴が思わず呟くと、

「そ、そうだな、こんなとこでずっと話してても仕方ない。駅前の喫茶店行こう、そこで話そう」

「や、突然すぎるし」

 やはりナンパなのだろうか。こちらの秘密まで暴いたうえでの、リサーチの完璧な。

 ただ結局、双方よくわからないという、非常に困った状況であるらしいことは確かなので、話を聞く必要はあるのかもしれない。梶山というこの男性、に他意があるのかどうかはわからない。そもそもなんでいきなり駅前の喫茶店にこだわるのかもわからない。わざわざ駅前まで行かなくても他に色々あるのに。すぐそこのモスとかモスとかモスとか。そう思ったら、よく冷えたモスシェイクのコーヒーが無性に飲みたくなってきた。

 しかし梶山と名乗った男性はそんな巴の思いに気づく様子もなく、足早に駅方面に向かって歩きはじめている。なんという強引さかと思うが、どうも気を回す余裕が無いだけという気もする。その背中に、なんの義理もないはずの巴は哀れを感じてため息をついた。仕方ない。とりあえずはついていくしかないようだった。






            ★  ★  ★






 喫茶フェリーチェ。知らない店だ。

 駅前は結構自分の庭だと思っていたけれど、一本筋を外れれば意外と知らないものだと改めて思わされる。この洒落た店構えの、いかにも小粋な喫茶店もまさしくそうだ。

 店に入る前、すぐ近くの駐輪場に見覚えのある黄色い自転車が停めてあるのが目に入る。間違えようと思ってもなかなか間違えられない目立つ色、十中八九、巴の自転車だ。そういえば昨日の夕方から行方不明だったのだが、まさかあんなところに停めてあったとは。なんであんなところにあるのかは激しく謎だが、とりあえず後で回収しておこうと思いながら梶山の跡に続いて店に入る。

 店内は冷房も効きすぎず、音楽もうるさすぎず、落ち着いた雰囲気だった。悪くない。

 席に案内され、梶山がメニューを凝視する。巴はとりあえずの疑問を梶山にぶつける。

「そいや、なんでこのお店だったの? べつに、他にもいっぱいあったのに」

 それを聞いて梶山は急に自身ありげな表情をつくる。なんだか芝居くさい。さっきまで自分がどれだけ自信のない表情をしていたのか、気づいていないらしい。

「ここのケーキセットが超うまいんだよ」

 巴は、へえ、意外にそういうのも詳しいんだ、となんだか感心してしまった。ぜったいケーキの味の違いなんかわからなそうに思えたのに。

「ケーキセットっていっても、いろいろあるよね。どれがおいしいの?」

「全部」

 アバウト! さっきは意外に繊細かもと思わせたが、今度は大雑把なところを見せてきて、いまいちキャラが掴めない、と巴は思う。

 注文をとりにきたウェイトレスに、巴はシフォンケーキとアイスミルクティーのセットを、梶山はチーズケーキにアイスコーヒーのセットを注文する。どちらもいわゆる、ケーキセットだ。ウェイトレスがやや早口で注文を復唱して、厨房へ引き上げていく。

 梶山は残されたメニュー表を食い入るように見ている。その様子を巴もしばらく見つめていたが、考えてみれば、もう見慣れてるんじゃないの? という疑問が浮かんだ。推すからには行きつけなんだろうし。そしてそれよりも、もっと重要な疑問がある。

「で、結局、なにがどうなってるの?」

「俺もさっぱり」

 言いながら梶山はメニューを閉じ、巴のほうに向き直る。

「や、おかしいでしょー」

「だって俺も今日なにがあるかは、きいてないから」

「誰から?」

「きみから」

 梶山は、なんとなく責めるようなジト目を巴に向ける。そんな目を向けられても正直困る。

「もう一度聞くけどさ、」

「うん」

「時間旅行者なんだよね?」

 そう言って梶山が巴を指差したのと、ウェイトレスがケーキセットを席に運んできたのは、ほぼ同時だった。ウェイトレスが訝しげな表情で梶山を見つめながら、ケーキセットを机に置いて去ってゆく。

「……」

「……うん。一応、そうかな」

「え?」

「だから、わたしが、時間旅行者だっていうのが」

 巴はちょっとだけ時間旅行者、の部分の声量を落とす。

「で、今日から昨日に飛んで、俺に会うわけか」

「や、それは知らないけど」

「そうか」

 梶山は溜息混じりにチーズケーキを口に運び、

「美味いなこれ!」

 自分で勧めておいて、なぜそこまでオーバーに驚くのだろうかと巴は思ったが、とりあえずそんなにおいしいのなら自分も、とシフォンケーキに手を伸ばす。

「……ほんとにおいしい」

「だろ?」

 と、またまた自慢げに梶山が返す。そして、ふと思い立ったようなさりげない様子で、だいぶ妙なことを聞いてきた。

「あの、そういえばさ、名前、なんていうの?」

 思わずフォークを落としかける。なんだそれ。ここまでつき合わせといて名前知らないってことだろうか。そういや一度も名前でも苗字でも呼ばれないと思ったら。

「わたし、名前も教えなかったの?」

「うん」

「教えてほしい?」

「そりゃあ、な」

 巴はここぞとばかりに梶山の目を見つめる。梶山が訝しげな表情をつくるが気にしない。そのままずいっとテーブル越しに距離をつめ、見つめ続ける。梶山の表情は変わらない。やがて、

「ひみつ、って言うんだろ。昨日やられた」

「なんだ、おもしろくないなー」

「で、教える気はあるのかよ?」

「宇佐美、宇佐美巴」

 ようやく聞いたであろう巴の名前を、梶山は噛みしめるように復唱する。

「うさみ……ともえ」

「あのさ、逆にきいていいかな」

「なに?」

「昨日、わたしと梶山くんって、なにしてたの」

 梶山はここぞとばかりにニヤリとして、意地悪な例の台詞を吐く。

「ひみつ」

「もう!」

「宇佐美さんが、俺の部屋に遊びに来て、それを駅まで送った」

「そんだけ?」

「そんだけ」

 なんだそれ。意味がわからない。巴は思う。知らない人間の部屋に、あの能力を使ってまで遊びに行くか、普通。なにをしているんだ私。暑さで頭がおかしくなったのか。

「俺が暇してたか、って言ってた気がする」

「なにそれ、わたし、超いい人みたい」

「あー、うん、まあ、そうかも。今思えば、」

 思わず真剣な顔をした梶山に、巴はどう反応していいかわからず、ただ次の言葉を待つ。

「俺、一応大学生でさ、今夏休みじゃん? 相当自堕落な生活送ってたんだよね。もう毎日毎日、ヒマだなー、とか言いながら過ごしてた。で、そんなとき、きみが急にやってきて、俺の生活を引っ掻き回した」

 そう言って梶山は笑った。巴はまだその「引っ掻き回した」自分を知らない。だからただ、思うままを言うことにした。

「あはは、そりゃビックリするだろうね」

「ああ、でも、なんか、それでよかったな、って思う。大したことじゃないけど、ちょっとだけ、変われた気がしてさ」

 少し照れながら、しかし満足げな梶山の表情を確認すると、巴は、自分のなかで結論を出した。

 ああ、これから自分は昨日に跳んで、この青年の生活に、ちょっとだけ変化を与えるんだな、と。行ってやらなきゃだな、ということを、理屈ではなく心で感じたような気がする。

 しっかし、初対面の不審な男に対して、いくら暑いからとはいっても一肌脱ぎすぎの感はあろう。なんの義理があるのか。女神かわたしは。

 と、思わなくもないのだが、正直、好奇心が湧いてきたというのもなくはないのだ。なにせこういう出来事は巴としても初めてのことだった。時間跳躍の能力に埃をかぶせてきたせいもあるだろう。思えばぜんぜんその能力ゆえのドラマなど味わっていなかった。お節介な自分がその興味に後押しされたというならば、想像できなくはない。

「うん、わかった。そういうことで、私が梶山くんのところにいくのは、ちょっと納得」

「マジで?」

「うん。それに、結局いま梶山くんがここにいるってことは、わたしが明日にいくってことの証明みたいなものだし」

 梶山ははじめ、よくわからないというような表情をしたが、しばらくすると合点がいったようで、

「そうか……タイムパラドックス」

「梶山くんにとっては、もう起こった過去の出来事でしょ。それはつまり、わたしにとっても確定してる未来だってことだよ。たとえわたしがイヤだと思っても、なんだかんだで梶山くんのとこに行くことになる」

「イヤなの?」

「イヤもなにも、わたし梶山くんのこと全然知らないんだけど」

「あー、まあ、そうだよなあ……」

 梶山はあからさまに困ったような表情で苦笑しつつ「なんか聞きたいことある?」とか言い出した。あーこの人アレだな。仕方ない人だな。巴は内心だけで苦笑する。

「ん、部屋の場所だけ教えてくれたらいいよ」

「えっ……あ、なんか、ごめん」

 だけ、の部分に拒絶を感じたのか、梶山が一気にトーンダウンする。なんか面白い。

「や、部屋の場所はともかく、ほかのことは自分で知りたいじゃん?」

「あー、そういうことか。たしかに、宇佐美さんはそう言うだろうなあ」

「や、その言い方、わたしのことすっごい知ってる人みたいなんだけど」

「いや昨日会ってるし。そういう人だってのはなんとなくわかった」

 なんだろう、向こうはこっちのことを知ってるのに、こっちは向こうのことを知らない。その情報量の点でイニシアチブをとられている感じが、ちょっと納得いかない、と巴は思う。

 むーとした無言の表情から察したのか、梶山が言葉を続ける。

「言っとくけど、昨日の時点ではまったく立場が逆だったから! 俺マジで混乱してたから!」

 そりゃそうだろうなあ。

 面白そうなので、来訪の際には徹底的にその立場を利用して遊ぼうと、巴は心に決める。

「宇佐美さん、絶対意地悪するつもりだろ。ていうか実際された」

「でも、梶山くんがわたしを巻き込んだんだから、ちょっとくらいはいいでしょー」

「いやいや、もともとは宇佐美さんが俺の部屋に来たから――」

「や、梶山くんが今日わたしに声かけたから――」

 お互いそこで言葉が止まり沈黙する。考えてみれば、どっちがきっかけになるんだろう、これ。巴が梶山の部屋を訪れなければ、今日の梶山の行動はなかった。しかし梶山が今日、巴に声をかけなければ、そもそも巴が梶山の部屋に行くこともありえないはずだ。

「……なんか、卵が先か鶏が先か、みたいな話になってきたなぁ」

「あはは、哲学だねえ」

 喫茶フェリーチェの店内で、はじめてふたり分の笑い声。

 なんだかんだで、だいぶ馴染んできた。これなら行けるかな、と巴は手応えを感じる。たとえば迷える自堕落な大学生の生活にドラマを与えるのも、時をかける少女の役目だ。そう考えれば、こういうのも悪くない。これは、自分にとってのちょっとしたドラマでもあるのだ。

「ああそうだ、だから耳掻き」

「え、なに」

 梶山が思い出したようにポケットから耳掻きを取り出す。年季の入ったやつだ。ちょっと塗装の剥がれたサメのマスコットが尖端にくっついている。

「その、俺の部屋に行くなら、耳掻き届けてほしいんだ。多分俺、それが無くて探してるから」

「持ってるじゃん」

「だからこれ、昨日きみが届けてくれたやつ」

「なるほど」

 巴は耳掻きを受け取り、しげしげと見つめる。今更のことながら、渡した本人に届けるというのは、よく考えなくても不思議な状況だなと思う。

 梶山の部屋の場所をきくと、駅からはそれなり離れている位置であるらしい。あまり行ったことのある場所ではないが、曰く相当ボロいアパートなので、近くに行けばすぐわかるそうだ。

 どのみち、辿り着けることはわかっているのだ。心配することはとくにない。

「よしっ」

 思わず声に出しながら、席から立ち上がる。巴のその様子で梶山も察したようで、軽く笑いながら、ため息をついて立ち上がった。伝票を手にとっている。意外とやるな、青年。






            ★  ★  ★






 フェリーチェを後にし、駅まで歩く。気温も日差しも湿度も、さっきと変わってはいない。街路所から漏れる蝉の声も相変わらずだ。

 梶山が向き直り、少し言葉を探してから言う。

「うん、まあ、なんかいまだに飲み込みきれてない感じではあるけど、よろしく」

「あはは、実はわたしも。でも、わかった」

 不思議と、心地良い暑さだった。

「あ、で、結局なんで、俺に今日なにがあるか教えてくれなかったんだろ。全然何もたいしたことなかったのに」

「や、だからじゃないかな。それに、何があるかわからないほうが、ワクワクするじゃん?」

「昨日から思ってたけど、時間旅行者が言う台詞かな、それ」

 しかしその梶山の言葉に、否定の色は感じられない。むしろそのことを楽しんでいる、という気さえした。

「わたしだから言うんだよ。明日のことなんかわからないほうが、ワクワクする。違う?」

「まあ、違わない、かな」

「だから、わたしがこれから昨日、梶山くんと会ってなにがあるかは、これ以上教えてくれなくていいよ」

「俺も教えるつもりないよ。さんざん、ひみつ、ってやられてきたお返しだ」

 そう言って笑う梶山に、巴はにかりと笑い返し、構内に向かって歩き出す。梶山は立ち止まってそれを見送る。なんか妙にいい雰囲気が醸造されている気がする。なんだかんだでノせられやすいなあ自分、という思いもあるが、こんな場合はノらなきゃ損々、というやつだろう。

 少し進んだところで、突然、背後の梶山に振り返る。ちょっと不意打ちしてやろう。

「梶山くん、明日からもワクワクしたい?」

 梶山は少し驚いたような表情の後、おどけた様子で「すでに結構ワクワクしてるよ」と笑って返した。なるほど。巴は笑って、

「昨日の梶山くんの態度次第、かな」

梶山は少し照れたように手を振った。それを見届けると、巴は気分よく駅の人ごみに駆け込んでいく。改札を不思議な定期で抜けて、今日発昨日行きの電車に乗り込む。勢いよく席について、今日のことを思い返す。

 面白いこともあるものだと思う。時間旅行者かどうかなんて関係ない。先のわからないことなんかいくらでもあるし、それだけ楽しいことや面白いこともいっぱいある。それを教えてやろう。

 想像する。いきなり訪ねて行って、梶山はどんな顔をするだろう。間抜けな顔を晒すことは間違いない気がする。ちょっと面白い。でも手加減なんかしてあげない。ストーカーかと不安にさせた仕返しだ。徹頭徹尾自分のペースで遊びにいこう。おみやげのひとつくらい持っていったほうがいいだろうか。昨日もそうとう暑かった。アイスクリームなんかどうだろう。なんなら、奮発してハーゲンダッツなんか買っていってもいい。

 車両は心地よい揺れを巴に伝えながら過去に走る。


 昨日はもう、電車で一駅の、すぐそこにある。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

デイ アフター イエスタディ タロ犬 @tarodogs

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ