デイ アフター イエスタディ

タロ犬

デイ アフター イエスタディ

 ただでさえヒマな大学生に夏休みなど与えればどうなるか想像くらいつきそうなものなのに、よりにもよって大学の夏休みというのは小学校よりも中学校よりも高校よりも長い。予定のあるやつはおおいに遊び学び働けばいいのだが、予定のないやつは何をしているのか。遊ぶ金もなく学ぶ気力もなく働く意欲もないダメ大学生の夏休みなど想像するまでもない。陽が高くなるまで夢の中、腹が減ったらインスタントな飯に頼り、興味のないテレビとやる気のないゲームと何度も読み返した漫画をヘヴィーローテーションして、眠くなったら眠る。――羨ましいような気もするが、これほど無為な日々もないだろう。養豚場の豚だってもう少し充実した毎日を送っているのではないかと思う。

 笹塚大学人間科学部二年梶山久司もまた典型的なダメ大学生で、今日も今日とて昼間っから六畳一間のボロアパートで意味もなく寝っ転がっている。当然のようになんの予定もなく、一日のスケジュールは白紙で、急にデートの約束が入ったってまったく問題ない。もちろんそんなサマージャンボで三億円当たるより低い可能性のためにスケジュールを空けているわけはなく、ただ空いているだけだった。

 セミの声が聞こえる。

 梶山はおもむろに立ち上がる。額にじんわりとした汗が滲んでいる。畳が暑い。扇風機は役に立たない。しかも梶山の部屋はただでさえ二階である。

 エアコンもない。外に出たって暑いことはかわらない。なにも夏を食い止める術がない。目に見えるような不快指数がじっとりと纏わりついて離れない。Tシャツが汗で肌に張りつく感触。むせかえるような重くて暑い空気。忌々しいぐらいに眩しい太陽。耳障りなセミの鳴き声。

 限界だった。

 軽い立ちくらみをおぼえながらよろよろと冷蔵庫にむかうと、冷凍室を開け放ち、おもむろに自らの頭を突っ込んだ。心地よい冷気が頭皮を包みこむ。その快感に梶山は南極に想いを馳せ、弛緩しきった顔をカラッポの冷凍室内に晒す。はたから見れば珍妙極まりない光景に違いない。

 たっぷり三十秒はそうしていたかと思うと、若干なりとも回復した梶山は名残惜しそうに冷凍室から頭を引き抜く。電気代だってタダではないし、なにより冷凍室は頭を冷やすためにあるのではない。そのことを主張せんとばかりに冷蔵庫は不本意そうな異音を発しはじめ、梶山はやはりまだ未練たっぷりな目でその扉を閉めた。

 無造作に物が置かれたやや小さめのテーブルの上から耳掻きをさがす。冷凍庫から顔を出したときに、耳がムズムズするのを感じたのだ。どうせやることもないのだし耳掃除でも、ということである。ヒマな人間の行動は脈略がない。

 無造作極まりなく物が散乱した黒いテーブル。煙草、携帯、カギに漫画にポケットティッシュ。しかし耳掻きが見つからない。乱雑に見えて持ち主にだけわかるルールで整理されている、ということが梶山に限ってあるはずもなく、ただ本当に乱雑に物が置かれているだけだった。

 梶山の愛用の耳掻きは、中学のとき修学旅行でお土産として買ったものだ。別段特にこだわりがあったわけではない。先っぽにキャラクターのマスコットがついている以外は何の変哲もない耳掻きだ。しかし、長年使ってきて今ではそれなり愛着があった。どこいった、ちょっと塗装の剥がれた、サメの、

 ガシャン、という音で梶山は動きを止めた。

 自転車を止める音だ。しかも、このアパートの駐輪場。

 カンカンカンと、所々錆びて赤茶けた外付け階段を登ってくる音。二階に用があるらしい。その音は軽快で、まるでリズムをとってステップを踏んでいるようだ。聞き慣れない。つまりはおそらく、住人ではないし、自分への来客でもない。そう梶山は判断して、再び耳掻きの捜索作業に戻る。隣の劣化エグザイルみたいな住人のところだろうか、そういえば昨日かっぱ寿司で見、


 オンボロアパートの六畳一間に、不似合いなインターホンの呼び出し音が響き渡る。






            ★  ★  ★






 自分への来客ではないと勝手に判断していた梶山の反応は、遅れに遅れた。

 インターホンが鳴らされ、ノックが二回、そして鍵の開いていたドアが開かれる。

 この間五秒。そしてその五秒目でようやく、

「はい?」

 間抜けな声が喉からもれる。

「えと、こんにちは」

 玄関にはコンビニ袋をぶらさげた、見知らぬ小柄な女の子が立っている。

「あの、どちらさま、で」

 当然と言えば当然な疑問が、梶山の口をついてでる。目が泳いでしまう。女の子の立つ玄関ばかりが目に入る。汚く脱ぎ散らかされた自分の靴。

 友達ではない。当然、家族親戚の類でもない。ゼミで一緒だった子かもと思ったが、それもやはり違う。うちのゼミにこんな可愛い子はいなかったはずだ。いたら覚えている。

 と、なると、

「人違いじゃないですか?」

 そうに決まっていた。だって接点がない。日がな部屋でゴロゴロしてるだけのダメ大学生の部屋に、見知らぬ女の子がやってくる理由がわからない。悲しいがきっと隣のエグザイルに用があるのだろう。

「や、人違いじゃなくて。ここで、あってるよ?」

 そう言うと女の子は少しだけ不安そうな顔で梶山を見つめる。誘惑してるんじゃないかと思うくらいに表情のつくりかたが可愛い。舌足らずなのか癖なのか「いや」と言っているつもりなのだろうが「や」になってしまっているところも梶山としてはポイントが高かった。

「え、じゃあ、俺に用……ですか」

「うん」

 マジでか。

 梶山は考える。見ず知らずの美少女が自分に何の用が、

「あ」

 もしかして、

「勧誘、ですか?」

 考えてみればそうである。というか、なぜもっと一番はじめに思いつかなかったのか。なにかの、保険にしては格好がラフすぎるし、でも宗教とかそっち方面ならありえるかもしれない。ベタな考えだが壺とか買わされるかもしれない。そうだそうに決まっている。可愛い女の子で安心させ誘惑して、という作戦に違いないのだ。

「壺なら要りません」

「へ、ツボ?」

「宗教もちょっと興味ないんで」

「わたしもあんまりないかなぁ」

「保険とか新聞も一切――」

「なにと勘違いしてるの」

「え?」

「とりあえず、おじゃましまーす」

 言うがはやいか女の子は確認もとらずに靴を脱ぐと、つかつかと部屋に足を踏み入れる。梶山は呆気にとられて「ちょっと、」とどこか調子の抜けた声をかけるのが精一杯だった。突然降りかかった、想定外の事態についていけない。

「ホントに汚いねー。男の子の部屋っていうより、男の部屋って感じ」

 その的確な言葉どおり、いろんな意味で汚い梶山の部屋が見知らぬ女の子にあられもなく視姦されていく。一人暮らしの男の臭いが、そこかしこにこびりついている。中身の少し残ったまま何ヶ月放置されているのかもわからない紙パックのコーヒーやコーラ缶。ぎゅうぎゅうに詰めてなお溢れかえる、到底文章で表現しきれないようなゴミ箱の内容物。ろくにたたまれておらず、洗濯前と後の区別がまるでつかない衣服類。小さな灰皿にエベレストのごとく聳え立つ吸殻の山。

 女子中学生なら三秒で妊娠してしまいそうな部屋だった。

 梶山は言葉も無い。こんなことなら掃除しておけば良かった、あんまりと言えばあんまりな仕打ちに見当違いの思考が浮かぶ。暑さがぶり返してくる。

 確かに鍵は開いていた。が、それは梶山のような人間の部屋にあっては珍しくもないことで、彼の部屋を訪れる誰もがそれを承知でノックも無く入ってくる。ましてインターホンなんて! 梶山がこの部屋に住んで一年と半分、今までインターホンを鳴らした来客なんて去年様子見に来た母親ぐらいのものだった。

 そして二人目。見知らぬ女の子。ノックも無く入ってくることが許されるのは、当然それが梶山の知り合いで同類で、つまりはそいつらが可愛い女の子とかでは全くないからだ。可愛い女の子はノックをするべきだし、返事があるまでドアを開けてはいけないし、できれば前日あたりに来訪の旨を伝えておかなければならない。そうでなければ困るのだ。これでも学校ではもう少しだけ自分を取り繕っている梶山の私生活は、女の子に見せるようにはできていなかった。

「不法侵入です、よ?」

 女の子のあまりに自然で馴染んだ警戒のない態度を前にして、なぜかこの期に及んでまだ敬語で、しかも消え入るような声で精一杯の反抗を試みる。不法侵入は間違いないし、立場としてはどう考えても梶山のほうが優位なはずなのに、完全に気後れしているその口調はまるでお伺いをたてるかのようだ。

「はいこれ、お土産。冷凍庫空いてる?」

 女の子は向日葵の様ににかっと笑顔をつくると、梶山の搾りだした言葉を軽やかにスルーしてコンビニの袋を差し出す。そんな義理はないのに条件反射でそれを受け取ろうとする。が、気が変わったのか少女はさっと手を引いて自分で冷蔵庫に向かう。なんの躊躇もなく冷凍室の扉が開かれる。

「あの……、」

「あー、冷たぁ」

 解き放たれた冷気が夏の熱気に上気していた女の子の顔を撫でる。「つめたぁ」が「ちめたぁ」に聞こえる。もう癖とか舌足らずとか考えないことにする。狙っているとしか思えない。こんな可愛いやつがいるわけない。梶山はそう思うことにした。相手がなまじ可愛い女の子だと思うからやりにくいのだ。ここは毅然とした対応を、

「あ、これすごく気持ちいいー!」

 どきっ、とした。

 からっぽの冷凍室に女の子が頭を入れている。ウェーブがかった短めの綺麗な髪まで全部。すっぽり。やべぇ可愛い。

 数分前、梶山がやったこととまったく同じことを女の子がしている。その事実に、梶山のなかで正体不明の罪悪感がむくむくと膨らんでいく。強い態度であたろうと思っていた決意はあまりにもあっけなく崩壊して、またどう対処していいのかわからなくなる。そもそも本当に誰なのか。

 女の子はちょっと乱暴にコンビニの袋ごと冷凍室に押し込んで、梶山のほうに向き直る。

「アフォガードはわたしのだから。あ、ビターキャラメルとメープルクッキーどっちが好き?」

「え、いや、だから、」

 内心かなり通なチョイスだなと思いつつ、馬鹿みたいにその言葉に正直に反応するのも癪で、結果としてなにも意味を成す言葉を紡げない。背筋を一筋の汗が流れるのを感じる。決して暑さのせいだけではない。どこかで調子の外れたセミが鳴き、表の道を自動車が通り過ぎ、扇風機は今もまわり続けている。

「なんなんですか、」

「ん?」

「何の用なんですか。帰ってくれないと――」

「遊びに来たよ」

「は?」

 思わず馬鹿にしたような声。理解ができない。見ず知らずの女の子が遊びに来ることなどあるものか。騙されてはいけない。ペースを向こうに握られるわけにはいかない。梶山は意識して腹に力を込め、次の言葉をひねり出す。

「てゆうか、なんなんですかあなたは」

「知りたい?」

 黙って頷く。女の子の整った顔は、いたずらっぽいというというのがぴったりな表情を浮かべている。こちらは真剣なのだ。なのに真面目に答える気がないのかと思う。

「じつはね、」

 真面目な答えなどハナから期待できない。それでも梶山は何が来るかと身構える。


「わたし、未来から来たんだよ」


 全身の力が一気に抜ける。倒れるかもとすら思う。

 そのとき、調子の外れた合唱を繰り返していたセミの声は止み、酷使され続けていた扇風機はついに臨終のときを迎え永遠に動きを止めた。


 窓の外には、清々しいほどの夏空が広がっている。






            ★  ★  ★






 未来から遊びに来た、のだそうだ。

 タイムマシンに乗ってもいなければ、ひみつ道具も持ってない。どこからどう見ても現代人の女の子が、電波なことを話している。

 そういえば最近暑いしね、と梶山は思う。

 どこからの回し者かと思えば、そんな話の通じる相手ではなかった。強いて言えば夏の暑さの回し者か。

「ヒマしてると思ったから遊びに来てあげたよ」

 そりゃどうも。

「信じてないでしょ?」

 異常に暑い。やってられない。なぜ今のタイミングで死んだ、扇風機。

 お引取り願おう、と思う。ウチは保険も宗教も新聞も壺もサイコさんも、全部お断りなのだ。なんなら未来人を加えてもいい。

「帰ってくれ」

 だらけた、気の抜けたような声で梶山は言う。緊張が一瞬にして解けた反動と、電波相手に気を張っても仕方ないというふたつの要素が、梶山を途端に不遜な態度へと変貌させていた。

「まだわたし来たばっかだし。あー、にしても暑いね。アイス食べよ?」

 言うが早いか女の子は立ち上がり、誰の確認をとるでもなく冷凍室からさっき押し込んだばかりのコンビニの袋を取り出す。梶山は注意すらしない。好きにしてくれとさえ思う。ビターキャラメルとメープルクッキーのどちらがいいかをしつこく訊かれるので、適当に「ビターキャラメル」と答えた。

 ビターキャラメル味のアイスが、力無く座ったままの梶山の目の前に置かれる。そして足の踏み場もないような畳の上を掻き分け、女の子も目の前にちょこんと座る。女の子座りが妙に可愛い。アフォガードフレーバーのアイスを口に運び、実に幸せそうな顔をしたあと、こちらを見てにこっと微笑む。

「帰ってくれ」

 今度はさっきよりも少し強い口調で言う。ビターキャラメルに手をつけもしない。女の子が可愛いことが残念でならない。なにかの勧誘であったほうがよほどマシだったと、梶山は思う。

「そんなに帰ってほしいの?」

「うん」

「なんで」

「なんでって、そっちこそなんでここに居るんだよ。きみ俺となんか関係あるのかよ」

「あるよ」

 こともなげに女の子は言う。梶山は少しだけたじろいだが、電波の言うことなんかいちいち真に受けていてもしょうがない。ハッタリに決まっている。

「じゃあ俺の名前知ってんの?」

「梶山久司」

 即答された。断っておくが、一人暮らしのオンボロ学生アパートに表札なんて出してはいない。つまりどこかで自分のことを知ったのだ。どこで、いつ、なんのために? 梶山は思考を巡らせるが、確たる答えはでてこない。なにしろ女の子に全く見覚えがないのだ。

 可能性があるとすれば、

「もしかして笹大生、とか」

「や、わたしは違うよ。てか、大学生じゃないし」

 違うらしい。いや、サイコさん相手になにを真面目に話を聞いているのか。梶山は自分に言い聞かす。この女の子の言うことを信用してはいけない。この女の子の発するどんな些細な言葉も「未来から来た」のと同じくらい眉に唾をつけて聞かなければならない。目の前にいるのは「頭のおかしい人間」なのだ。そのことを理解しろ。

「とにかく、帰って。帰ってくれないなら警察呼ぶから。もし病院が必要なら、そっちでもいいけど」

 言った。言ってやった。ようやく反撃できたと思う。意地が悪くてキツイ一言だったはずだ。

 しかし、女の子は気にする様子もない。相変わらずアイスを口に運んでは「美味しい」と表情で言い、梶山を見てはニコニコして言う。

「ん、無理ないよね。信じられないもんね。そりゃアタマおかしいって思うよね」

「え、いや、そこまでは、その、」

 畳み掛けられた梶山は思わず否定してしまう。しかし、女の子の言うとおりなのだ。信じられるはずがない、頭がおかしいとしか思わない。

 それとも、

「もしかして、俺をからかってる、とか」

 そういう可能性もある。未来云々以外では女の子の受け答えはいたって正常だと思うし、もしかしたら、突拍子もない嘘で自分をからかっているのかも。そこまで考えて梶山の思考は詰まる。なぜ自分を、見ず知らずの女の子がからかってるのか、そこが説明できない。自分にドッキリなど仕掛けて誰が楽しいというのか、と梶山は思う。

「からかってなんかないよ、嘘もついてない」

「じゃあ本気で未来から来たって?」

「うん。信じられないかもしれないけど」

「何しにさ」

「だから遊びに」

 話にならない。“遊びに来る”という言葉と“未来から”という言葉が結びつかなすぎる。未来ってそんなに近所なのか。

「証拠は。未来から来たっていう、証拠とか」

「証拠ぉ? や、とくにないけど……あ!」

「あるの?」

 この女の子の言うことを信じたわけではない。頭のおかしい人間に変わりはない。しかし、そう自分に言い聞かせつつ、梶山の心はどこかで期待をしている。もし、もし本当に未来から来たと信じられたなら、あるいは――

「これ、渡し忘れるとこだったよ」

 そう言いながら女の子は肩に掛けた小さなポーチから細長い棒をとりだす。梶山はそれに見覚えがある。

 先端に塗装の剥がれたサメのマスコット。


 梶山の、耳掻きだった。


 梶山は言葉もでない。偶然彼女も同じものをもっていたにしては出来過ぎている。

 なにより、女の子の「探してたんだよね、はい」という言葉が決定的だった。

 探していたことを、知っている?

「どうして、」

 言葉の続きが声にならない。梶山の思考がエクスクラメーションマークで埋め尽くされる。どうしてこれを持っている? どうして探してたことを知っている?

 どうして?

「なんでわたしが持ってるのかってこと? 梶山くんが渡したんだよ、わたしに」

「そんなこと、全然」

 全然記憶にない。自分が渡した? いつ、どこで? そもそも梶山にはこの女の子と今の今まで会った記憶などないのだ。

「おぼえてない? そりゃそうだよね、だって、」

「待って。思い出すから」

 梶山は思わず彼女の言葉を遮り、存在しない記憶を思い出そうと躍起になる。未来がどうこうというのは置いておいて、この耳掻きが自分のものである可能性は高い。サメの塗装の剥がれ具合に猛烈な見覚えがある。すると、やはりこの女の子と自分には接点があるはずだ。なにか、

 暑い。

 元気すぎる日差しはますます調子づいて、いよいよ部屋を蒸し焼きにしようと襲い掛かる。再び鳴きはじめたセミの大合唱は不快なノイズにしか聞えない。まるでサウナのような熱を持った重たい空気が、梶山の思考能力を根こそぎ奪っていく。

 梶山は忍耐力のなさをいかんなく発揮して、自分で考えるのをあっさりと諦めた。

「俺、それ、いつ渡したっけ」

「明日」

「あし、」

 すごいSF会話だった。明日を過去形で語るなんて現代人にはちょっと無理だと、梶山は思う。

「……それで?」

「耳掻きがなくなって困ってるから、届けてくれって。駅の近くの喫茶店で。フェリーチェってとこ」

 喫茶店フェリーチェ? 行ったことないぞ、そんな店。内心そんなことを思う梶山だが、彼女が話しているのは明日の話なのだから、今の梶山が行ったことがなくても不思議ではない。もちろん「女の子の話していることが本当だったとしたら」という、どう考えてもありえない可能性のうえでの話ではある。

「あの、一応聞くけど、明日、俺ときみのあいだに何があるの?」

 それを聞いて女の子は座ったまま、ずいっと一歩分ほど梶山に近寄る。距離が近い。暑さでほんのりと顔が上気している。無表情なままじっと梶山の顔を見つめる。耐え切れず梶山が視線を逸らすが、女の子は梶山を見つめ続ける。足元に置かれたビターキャラメル味のアイスを見つける。中身なんかもうとっくに液体だろう。梶山は脇に、膝の裏に、首の筋に、身体中に汗が滲むのをはっきりと感じた。表の通りを自動車の排気音が通り過ぎてゆく。多分、今、顔が赤いのは暑さのせいだけではない。

 たっぷり十秒間は沈黙が続く。

 そこでようやく女の子がこれ以上ないというほど楽しそうな笑顔を浮かべ、囁くようにたった三文字、

「ひみつ」






            ★  ★  ★






 女の子が出かけようと言い出した。

 梶山はひとりで帰ってくれと思ったし実際にそう言ったが、女の子は二人でと言って譲らない。

 しまいには、一緒に駅まで来てくれたらそのまま帰ると言い出したので、仕方なく梶山も重たい腰をあげた。正体不明の女の子をいつまでもこの部屋に置いておく訳にはいかないのだ。このクソ暑い炎天下のなかで外出など狂気の沙汰としか思えなかったが、状況を打破するためならばプチ引き篭もりの梶山だって外出くらいはする。

 女の子はやはり自転車で来ていたので梶山も自転車をだそうとしたが、彼女は歩こうと言う。

 結果的には彼女のチャリを梶山が押し、並んで歩く羽目になった。こんな状況だというのに訳のわからない自尊心でチャリ持ちを買って出てしまうのは、男の性というヤツなのだろう。女っていうのは虫一匹殺せない可愛らしい瞳で、もの言わず男に命令しているんだよなぁ、と、しみじみ思う梶山である。

「で、どこ行くの」

「どうしよう。梶山くんはどっか行きたいとこないの?」

 ねぇよ。あったらこんなに渋らねぇよ、と心の中で毒づきながら、ド派手な黄色いチャリを押して歩く。

 もはやここまで来ると、梶山には女の子のアタマが本当におかしいのかどうかというのはどうでもいいことのように思えてきた。どうせこの女の子を送りとどけたら、それで全部終了だ。問題なし。未来から来たというのはさすがに無理があるが、耳掻きの件といい、何かしら自分と関係があるのは間違いなさそうだし、適当に話を合わせて色々聞いてみるのも面白いのではないか、そんなことを思う。

「その、未来から来たっていうのはさ」

「うん?」

「どれくらいの未来なのかなー、って思ってさ」

「え、さっき言わなかったっけ」

「言ったっけ?」

「まあいいや。わたしが来たのは、今日でいうところの、明日からだよ」

 南の方角に、白と青のコントラストをくっきりと、でかい綿菓子のような入道雲が見える。そういや、ここ数年は夏祭りとか行ってねえなぁ。

「明日なんだ。じゃあ、今日のきみも――あ、」

 言いかけて梶山は気がつく。女の子の名前を知らない。もはや知る必要はないのかもしれないが、女の子をきみ呼ばわりし続けるのもなんとなく気が引けた。

「そういや、名前」

「ひみつ」

 梶山ははじめ彼女が「ヒミツ」という名前なのかなんて思ったが、すぐに気がつく。なんで隠す必要があるんだろう、この期に及んで。こっちの名前は知ってるくせに。

「なんで。未来的なルールかなんか?」

「や、そういうわけじゃないんだけど……」

 相変わらず「や」の言い方が可愛い。さっきから何気なくでているあたり、意識してやっているわけではないようだった。やはり言ってることは変だがすごく可愛い女の子には違いないと梶山は思う。しかし変じゃなかったらそもそも出会ってなかっただろうな、とも思う。

「なんてゆうか、その、もう自己紹介は済ませたんだよねー」

「明日に?」

「そ、明日に」

 女の子はわかってきたじゃんとでも言いたげに笑顔をつくると、なにげなく空を見上げ、そこで何かを見つけたらしく指を指す。梶山も指のしめす先に視線をやる。

 入道雲とは反対の方向、澄み渡る青空に一本の白い線が走っていた。

「飛行機雲なんか珍しいか?」

「珍しくはないけど、夏! ってかんじ」

「夏は暑いから嫌いだ」

「でも、雰囲気があるじゃん。わくわくするっていうか、いろんなことが起こりそうな」

「自称未来人が俺の部屋に来たり?」

「そうそう。わたし、時をかける少女」

「言ってろ」

 微かに笑いながらそう返したところで、梶山は自分が意外と馴染んで女の子と会話していることに気がつく。それはもちろん女の子が親しげに話しかけてくるからこそなのは理解しているが、それにしたって実は気が合うのかもしれない。しかも外見は折り紙つきの美少女だ。これで「未来から来た」でなければ物凄い人生の転機を勝手に感じるところだろうが、いかんせんサイコさんってのはハードルが高いよなぁ、という気持ちはやはりある。

「あ、ねえ。もし行きたいとこないんだったらさ」

「うん」

「海岸通りとおって行かない? どうせ駅には着くし」

 面倒くさいと思うか役得と思うかはつまり、気の持ちようなのだろうということに梶山は気がつきはじめる。一時間前だったら9対1で面倒くさいと思っていただろうが、今は6対4くらいで役得と思うことにした。例え電波だろうがサイコだろうが、可愛い女の子とデートできれば誰だって嬉しい。それはダメ大学生を地で行く梶山にだって言えたことだ。


 髪がボサボサになりそうな潮風と、ノスタルジーを喚起せざるをえない波の音。

 それはどこからどう見ても海で、しかも夏の海だった。

 さすがは海岸通り、夏休みファミリー感たっぷりの自動車と何台もすれ違う。左手には、遊泳禁止だがたしかに海。水平線の彼方まで見渡せそうな澄んだ空。海沿いの歩道を並んで歩く。

「いいなー。やっぱ夏といえば海だよねえ」

「俺は山派かな」

「梶山くんは部屋派でしょー」

「俺だって、好きであんな部屋にゴロゴロしてるわけじゃないよ」

「じゃあさ、なんでゴロゴロしてるの? なんでずっとヒマな毎日送ってるの?」

「それは、だって、」

 ヒマだから、というトートロジー的な言葉はついに声にならない。女の子の視線と口調が思った以上に真剣であることに気がついたからだ。怒っているのだろうか。梶山はこれまでの流れのなかで自分に何か落ち度がなかったか思い返してみるが、これといって思い当たるふしはなかった。もっとも、自分程度の経験値では女の子が何に喜び、何に怒るかなどわかるはずもないとも思ってはいる。

「楽しいことも面白いことも、さがせばいっぱいあると思うよ」

 女の子は続ける。もう梶山のほうを見てはいない。ただ前を向いて話し続ける。

「無為な時間もちょっとは必要だけど、多すぎたら毒でしかない。時間を無駄に過ごしたって、後悔しか残んないもん」

 そこまで言うと我にかえったように梶山のほうを向き、右手で髪の毛をいじりながら、

「ゴメン。ちょっとお説教くさかったね」

 やや伏目がちの、少ししょげたような言い方だった。やべぇ可愛い。

「いや、なんていうか、そのとおりだし。謝らなくていいんじゃない?」

「……ん。時間旅行者としては、そういうの、色々思うところあってさ」

「時間を無駄に過ごすことに?」

「や、まあ、いろいろと、ね」

 そう言って話を濁したきり、女の子は黙ってしまう。だが怒っているわけではないようだと、ちょっと安心する。

 しかし時間旅行者として思うところがある、とは随分こだわった設定だなと梶山は思う。もしかしたら本当に明日から来たのかもな、なんてことを考えながら波打ち際を見つめる。白い波が、生き物のように打ち寄せては消え、浜辺には夏の欠片が散らばってゆく。

 あらためて考える。この女の子はいったい何者なのだろう。自分とどういう関係があるのだろう。本当に未来から来たとしたらもう何も言うまいが、まさかそんなことはあるまい。ではそうでないとしたら、耳掻きをどこで手に入れた? そしてなぜ自分の名前を知っている? 疑問はあるが答えは出ない。梶山は考える。例えば、例えばもし彼女が自分のストーカーで、自分の知らないうちに耳掻きを盗み出し電波を装ってアプローチしてきているのだとしたら。不可能な話ではない。あの部屋はいつでも当たり前のように鍵が開いているし、四六時中耳掻きを肌身離さず持っているわけではない。だがしかし彼女のような可愛い女性が自分のストーカーなどするとは到底考えられないし、そもそもやり方がまわりくどすぎる。やはり、ありえない話だと梶山は結論づけた。

 しかし、では今の話と、未来から来たという話、どちらがありえないかといえば判断に困る梶山である。

「あ」

 突然女の子が声をあげる。あいかわらずの入道雲を眺めながら、

「ここでちょっと未来を予言」

 はあ。

「ゲリラ豪雨にご用心、って感じ」

「降るってこと?」

「や、たぶん、だけど」

 しかしそれ予言というか天気予報だよな、とは梶山はついに言わなかった。言っているそばから、ぽつりぽつりと地面に黒い染みができはじめたからだ。これだけ直近の未来を言い当てられても未来人的な凄さは正直あまり感じられない。これなら勘が鋭いやつのほうがまだ凄いと、梶山は思う。

「急ご?」

「わかった。乗って」

 梶山は誰に言われるでもなく自発的に自転車にまたがって二人乗りのスタンバイをし、女の子もまた、なんの疑問も躊躇いもなく自転車の後部に乗っかる。梶山の腰に女の子の腕がまわされる。

 豪雨のなかを若い男女が二人乗りで走り抜けるという、最高に絵になるシチュエーションだった。

 やわらかな感触を背中に感じながら、梶山はペダルを漕ぐ足に力を込める。


 泣き叫ぶような雷鳴と夕立が、すべてをかき消し、洗い流してゆく。

 夏の雨だった。






            ★  ★  ★






 喫茶フェリーチェの前まで辿り着いたときにはすでに、ふたりは風呂桶の水を頭から被ったかのような有様だった。

 お互い服は肌にぺったりと張りつき、女の子の少しふわっとしていたやわらかそうな髪の毛も、随分とワイルドなことになっている。これはこれでアリかもしれない。

 ゲリラ豪雨とはよく言ったもので、すでに空は青く、傘を差している人間など誰一人おらず、ずぶ濡れでふたり突っ立っている姿はもはや滑稽でしかない。空の治安部隊はもう少し早く駆けつけてほしかった、と思うのは梶山の我侭なのだろうか。

 雨は去ったがその濃厚な匂いはまだそこかしこに残っている。女の子はフェリーチェの軒先から滴る雫を見つめ、

「夕立の匂いとか、雷の音とか、……わたしたち、夏を満喫してるね」

「素晴らしく前向きな発言どうも」

「やっぱり、こんなにずぶ濡れじゃお店入れない、かな?」

「そう思うけど」

「ここのケーキセット、美味しかったのになぁ」

「常連なの?」

「や、明日初めて」

「へえ。なんでここに」

「梶山くんが言ったんだよ。ここがいい、ここのケーキセットが超美味い、って」

「俺が?」

「うん」

 そう言って女の子はお決まりの向日葵みたいな笑顔を向ける。濡れていても、可愛いものはかわいい。

「でも俺、ここ行ったことないんだけど」

「そうなの? あ、じゃあ、」

「なに」

「今わたしが、ケーキセットが美味しいって言ったからじゃないかな」

「……つまり俺、きみから聞いたことを、自信満々にきみに教えたってこと?」

「そうだよ、きっと」

 いまだ若干の水滴を滴らせながら、女の子は可笑しそうに、そして楽しそうに笑った。本当によく笑う子だな、と梶山は今更ながらに思う。

「でもやっぱり、明日またわたしに会ったら、ここに連れてきて、ケーキセットが美味しいって自信満々に言うべきだよ、梶山くん」

「なんでさ」

「だってわたし、ほんとに美味しかったから、この人美味しい店知ってるんだなぁ、見る目あるなーって、ちょっと尊敬しちゃったもん」

 喫茶フェリーチェの軒先に、今度はふたり分の笑い声がこだまする。


 ひとしきり笑ったあと、女の子はおもむろに梶山に向き直り、少しだけ神妙な面持ちでその瞳を見る。

「送ってもらってありがと」

「ここまででいいのか?」

「ん。もう駅、すぐそこだから」

「ええと、じゃあ、気ぃつけて」

「付き合わせてゴメンね。わたしのこと、アタマのおかしい女だと思ってるでしょ」

「あー、いや、なんていうか、」

 思わず苦笑する。そういえばそうだった。知らないうちに未来の話を受け入れそうになっていた自分を梶山は発見する。ヤバいヤバい。

「いろいろ訊きたいことあると思うんだけど、明日になればきっと、ぜんぶわかるから」

「……ああ。それじゃ、とりあえず明日を待つことにする」

「ん、じゃあもう時間だし、行くね」

「あ、ひとつだけ訊いていいか?」

「ん?」

「いや、どうやって明日に帰るのかなって、思ってさ。答えられないならいいんだけど」

「いいよ、教えてあげる」

 そう言って女の子は梶山のすぐ傍まで寄ると、とっておきを教えるとでも言わんばかりの得意げな顔で、小さく駅のほうを指差す。

「あれ」

「えと、つまり、電車?」

 マジかよ。

「そう!」

 女の子は力強くそう頷くと、

「明日なんて、電車で一駅のところにあるんだよ」

 と、なんだかうまいこと言ったような言えていないようなことを言う。そしてそのまま、何が嬉しいのか、テンション高く小走りで梶山から離れ、

「じゃ、また明日ね!」

 梶山は一瞬迷う。また明日も会えるのか、本当に?

 しかし本当にせよ嘘にせよ、彼女ともう一度会うのは、すでに望むところだ。

「また明日」

 その返事を聞くと、女の子は最後にいつもの笑顔を見せて、そのまま駅のほうへ走っていく。

 梶山は女の子が見えなくなるまで、その姿をずっと見つめている。


 さて。

 梶山は女の子がここに放置したままの黄色い派手な自転車を、近くの駐輪場まで移動させる。これでいいのかどうかはわからないが、女の子に言わせれば「明日になったらぜんぶわかる」のだろうとも思う。もし、いつまでも放置されているようであれば、青春グラフィティの一環として自分が回収してもいい。なにせ想い出の二人乗りだ。


 明日から来たなんて嘘にきまっている。

 そして、それでも充分元はとれたと素直に思う。少なくとも今日と明日は退屈とは無縁そうだし、楽しいことや面白いことはさがせばいっぱいあると、彼女はたしかにそう言ったのだから。


 そして、

 梶山は思う。

 もし万が一女の子の言っていることが本当で、明日また彼女と出会うのだとしたら。

 この喫茶フェリーチェに行ってみよう。

 ここのケーキセットが超美味い、なんて自信満々に知ったかぶりながら。

 そして目の前のそれに夢中な彼女から、今度こそ名前をきいてやろうと思うのだ。



 夕立の匂いがまだ、そこかしこにたちこめている。いつの間にか、セミたちの合唱がはじまっている。澄み渡った夏空に、飛行機雲が白い線を引いている。


 夏は、しばらく終わりそうにない。




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