リビングデッド・ラヴァーズ⑬
「桜!」
駆け寄る足が、疲れを忘れて軽快なのは開放感から。頼りない、なんて形容するのは現状では憚れるけれど、桜はか弱い少女だ。同い年の女の子だ。
けれど、一片は桜を呼んでくれと言った。だから、俺は今此処に居て、桜に駆け寄った。
その顔をみて、どっと疲れが増し、吐き気に襲われた。
「うえ……げほっ」
「え、わ、私!? 私の所為!?」
「ちが……はあはあ……違うって……走りっ放しだったから……」
最悪なタイミングで嘔吐いたものだ。気持ちを落ち着かせようと、深呼吸をするけれど、今は吸い込む空気すら気持ち悪い。
「落ちついて深くん、どうしたの?」
「はあ、はあ……一片……一片が、動けなくて、助けてやってくれ……桜を呼んで来てって言われて……」
それだけで十分だったのか、普段はどこか抜けた風な桜であるけれど、表情が明確に引き締まるのが分かった。丸く大きな瞳が、入れ替わったかの様に。
「何処!? 一片お兄ちゃんは何処に居るの!?」
「このまま山を登って、裏側を降りて。途中に横穴があって、洞窟になってるから」
「目印は?」
「特には……ただ、俺が往来したのと、恐らくベルデマットが通ったから、多少道が開けてる筈」
「分かった」
たったそれだけで、状況を理解したのか。はたまた、理解する必要もなく動かざるを得なかったのか、桜はそこまで話を聞くと、俺を本堂に押し込めた。
「深くんは絶対此処から動かないで。絶対に」
そう言いながら押されて、尻もちをつく。本堂の襖が閉じられて、真っ暗になる。
未だに鼓動が早い。軋む床に寝転んで、呼吸が落ち付くのを待つ。余りにも想定外で、奇想天外。突然に押し込まれた空想の様な世界で、俺は初めて平静を与えられた。
ここまでの出来事を回想してみるけれど、どれもこれもが眉唾となってしまいそうだ。目の前は暗闇で、先程までは夢。今もまだ、夢の中なんじゃないのか。
恐る恐る立ち上がって、襖に手をかける。少しずつ開く隙間から明かりが差し込む。覗き込む夜の山は、相変わらず明るい。時折風で揺れる木々の音がするだけで、相変わらず虫の音が聞こえないのが不思議だった。身を乗り出すと、温い夜の風が頬を掠める。此処までの全力疾走で気付かなかったけれど、蒸した空気が嫌な不快感を与えて来る。
月明かりが、夜風が、蒸した空気が、木々の音が、口内に充満する喉奥からの鉄の味が、これが夢でない事を証明している。
落ち着き始めた血流が、一つの答えを出して、また急流となる。
冷えた頭で、気付いた。夢でないのなら、そうだ、そうだった。
俺の願いは、叶ったんだ。
一片が言っていた事が正しいのなら、俺にはそういう力がある。
まるで漫画の主人公みたいな逆転劇、芽生えた能力は俺が望んだ力で、それは願いを叶えるのに必要不可欠だ。
それなら、こんなところで疲労に縋られている場合じゃあない。
桜に言われた事が袖を引くけれど、それよりも、だ。
本堂から駆け出す。地面を蹴る足は相変わらず重いけれど、今は気にならない。
往来に慣れた斜面を降ろうというところで、思い出す。手ぶらでこの先を行くのは、危ない。万が一、それは焼石に水であるかもしれないけれど、無武装であるよりはましだ。
俺は本堂の縁側に立てかけた金属バットを取りに戻り、それを持って斜面を降った。
先程までの山道とは違い、こちらは進み易い。へとへとの足でも、簡単に降って行ける。そうして山を抜け、村へと入る。
夜は静かだ、不思議な程静かだ。
虫の声が包む筈の空間は、月光だけがの主張が激しくて不気味。駆ける畦道ですれ違う人は居ない。この村では、夜の出歩きは禁じられている。
声合に伝わる、鬼憑きの伝説。夜は鬼の時間だ、鬼が出る。家の戸を閉め布団の中へ。
絵空事かに思われた災厄は実在し、俺の両親を襲った。けれど、それも今日まで。悪夢も今夜限り。
たった一人の食卓を囲うのは、もうお仕舞だ。
夜が来れば、両親は叫び、のた打ち回る。
しかし、今夜は不思議と反響しない。村中にこだまする筈の絶叫が、聞えない。
それは、静かな夜だった。
足り抜けた畦道の先、家への角を曲がる。灯りの付いた自宅を背にした人影が二つ、視界に飛び込んだ。
「父さん! 母さん!」
逆光で陰るそれに目を凝らす。第一声があれば、心を撫で下ろすけれど、期待はしていない。
俺の声に反応して俺に向く。それは間違いなく外殻こそ父さんと母さんであるけれど、意識はどこか、夜の産物。
「あ……あ……」
虚ろな目で、声にならないうめき声を漏らす二人。それは今までの鬼憑きの状態からすれば大人しく、御し易いよう見えた。
だから、今しかない、と。
俺はそのまま駆ける。願いに手がかかる。一片は言った、心の底から、気合だと。
それなら、願う事は一つ。心の中は決まっている。
鬼憑きを解いてくれ、と。元に戻して、と。
それを強く願って、手に持った金属バットを放って、父さんに飛び込む。
地面に二人して叩き付けられるけれど、父さんが下敷きになっているから直ぐに立ち上がれた。覗き込んだ父さんは、目を瞑っていて、表情は穏やかに見えた。
「あ……」
月光が陰って、振り向く。背後には、虚ろな目をした母さんが居て、俺に手を伸ばしていた。
「母さん!」
その手を掻い潜って、母さんを抱き締める。願いは同じ、一つもぶれない。
壊れてしまいそうな程強く強く抱き締めて、気持ちを込めた。当たり前の光景を取り戻す為に、もう一度、父さんと母さんと、笑い合う為に。
抱き締めた身体が重くなる。体重を支える力が消えてか、俺に全てがのしかかる。
「おわっと……」
抱き締めた母さんは、力を失って倒れ込む。俺は離さないよう少しずつ腰を下ろして、母さんを地面に寝かせた。
虚ろな瞳は瞼に隠れて、表情は父さんと同様にやはり穏やかに見えた。
それはまるで——
「なんと! これはどういう事ですか!?」
劈く不愉快な声に振り返る。光照らす夜空の下に、男は居た。
夜と同じ色のスーツに身を包んだベルデマットが、俺を見て驚いている。
「朝霧深、あなた、どうして此処に居るんですか?」
昨日は名前すら明かし合わなかった。今日の再会を経て、初めて名前を告げた、告げられたの関係であるだけの男と、今は歪な境界線上でせめぎ合っている。
「いえ、質問を変えましょう。どうやってあの場所から抜け出したのですか? 出入り口には扉があった筈。十一片が解放されたのならまだしも、朝霧深だけでは……いや、確か貴方は、願いをかけたいと、ご神体の元へと行きましたね? 残念ながら私とは相性が合いませんでしたが、もしやそれがなにかを顕現させたか?」
一片が一人で考え込む時と似ていた。この世界の人は皆こうなのだろうか。思考が口に出てしまうタイプ。
「だとすれば、現状から鑑みるに、能力の無効化、状態回帰、といったところでしょうか。状態回帰であれば、時間軸への作用が見られる筈ですが、肉体に対する変化はないところをみると……無効化。成程、無効化、無力化、それなら納得がいく。しかし、十一片が居ないという事は、彼を解放するには至らなかったのですね」
「なにをごちゃごちゃ言ってるんだよ! お前なんなんだよ! 何者なんだ! 俺達は関係ないだろ、早く此処から出て行けよ!」
「関係ない、ああ、確かに関係がないでしょうね。しかし、もう関係しています。あの場所から此処まで駆けて来たのでしょう? 夜の山を、灯りもなしで。まさか月光を頼りに、なんて言うのではないのでしょうね? まさか全速力で、なんて言うのではないでしょうね? 道が見えたのは貴方が願ったから。早く走れたのは貴方が願ったから。その能力をトリガーに、貴方はもう立派にこちら側だ。関係ない訳がないのです」
「それでも、この村は関係ないだろ! 父さんと母さんは関係がないだろ! もう出て行けよ!」
叫びながら、足元に転がる金属バットを手に取り、ベルデマットに向けた。
「いやいやいや、大いに関係があります。その後に横たわる貴方のご両親も、この村も、関係あります。だってそうでしょう。所有物に関係のない所有者など、居ないのですから」
「なに訳の分からない事を——」
「後ろの二人、どうしたのですか?」
厭らしい笑い方に見えた。釣り上げた口角が視覚的に不快だったし、笑いの混じる声も不快だった。
「どうしたって……鬼憑きを治したんだよ。俺の願いは叶ったんだ! 百日詣……毎日毎日願って、叶ったんだ! 父さんと母さんが治りますようにって。だから——」
「お二人共、動きませんね」
ベルデマットに言われて、背後に倒れる二人に視線を向ける。先程から微動だにしないけれど、これはきっとそうだ。よくあるじゃあないか。呪いが解けても、直ぐに目を醒まさないやつ。よく聞く話だ。今はただ、眠っているだけ。
「……目が覚めれば、また元通りに——」
「目覚めませんよ」
再度ベルデマットに向いて言う俺の言葉を遮って、口にする。
「お二人は目覚めませんよ。ええ、恐らくそうなのでしょう。貴方の願いは叶ったのでしょう。鬼憑き、でしたか? 声合に伝わる怪奇に襲われたご両親を救おうと願い、力が顕現したのでしょう。そして見事、ご両親にかけられた呪いは解かれた。貴方の力で、貴方の功績です! 貴方が、貴方が二人を解放したのです!」
「なにを……」
不快だ、不快だ、不快だ。
目の前の男が張り上げる声が鬱陶しい。黙れ、黙れ、黙ってくれ。
口を、開くな。
「私はネクロマンサー。死霊魔術師です。主な力は、死体を操る。私が得手とするのは、それ。ネクロマンシーの王道中の王道。そうして私がかけた呪いは、死体の自律行動。夜を徘徊する能無しの人形。
ベルデマットが言って、直ぐに二人に駆け寄った。
「父さん! 母さん!」
横たわる二人を揺さぶる。力の限り揺さぶる。
「もう治ったんだよ! 俺が治したんだ! 信じられないかもしれないけど、俺にそういう力が生まれて……だから、もう大丈夫なんだ! また三人でご飯を食べようよ! ねえ!」
幾ら揺さぶっても、二人は、動かない。
穏やかに見えた表情は、確かにそれを予感したけれど。それはまるでまるで、死んでいるかの様だったけれど。
でも、治した筈なんだ。
「あはははは、確かにそうだ。治せましたよ。貴方はご両親にかけられた呪いを解いた、願いが叶ったじゃあないですか! 素晴らしい、これ程のハッピーエンドはありません。さあ、それでどうするのです? その死体に戻ったご両親を、どうするのです? 懇願すれば、またもう一度動かしてあげてもいいですよ?」
ベルデマットが笑う。不思議と、涙が出てこない。
動かない二人を見て、ベルデマットの話を聞いて、分かった。今俺にある感情は、悲しみが弱い。
別の感情が激流となって渦巻くから、薄まってしまっている。ああ、そうだ。俺は、今怒っている。
俺は、再度金属バットを握って立ち上がった。不快に笑い声を上げるベルデマットを睨む。
「父さんと母さんを、返せ」
「返せって、それはもう私の物だ」
「物じゃない!!!」
「物だ。言ったでしょう? この村は、私の所有物だ」
月光の下、蠢く。ベルデマットの言葉を皮切りに、足音が動き出した。重なるその音は、地鳴りにも似て低く響く。家の脇から、畦道から、歩行して現れたのは、見慣れた村人達。今朝まで、当たり前のように挨拶を交わし、そして明日もまたそうする筈だった人達。
その誰もが、虚ろな目の焦点を何処かに飛ばして、歩いている。
「なんだよ……なんなんだよ! お前、皆になにをしたんだよ!?」
「なにって一つでしょう。私は死体を操るのですから、当然でしょう。生きていては、困るのですよ」
数がどうこうとかではない。ただ、純粋な怒りが俺を弾いた。
地面を蹴って走る。金属バットを振り上げ、ベルデマットに直進する。怒りのみ、邪念のない心で、力の限りそれを振り下ろしたところで、視界が切り替わった。
「え?」
家の前の庭、真ん中辺りから走り出してベルデマットに向かった俺は、家の目の前に居た。
ベルデマットとは距離が随分離れ、間には両親が横たわっている。
「なん……あっ」
遅れて、自分が地面に立っていない事に気付く。宙に浮いた自分は、抱き抱えられている。
東雲桜の脇に、抱えられていた。
「桜!」
「深くん、あそこから動かないでって、私言った」
俺を抱え、ベルデマットを睨んだまま桜は言った。
その表情は、俺の知っている桜とは、少し違って。
「ご、ごめん……あ、一片は!?」
「知らない。途中で嫌な予感がして引き返したの。そしたら深くんが居なくなってた。私は、村で嫌な雰囲気がしたからあそこに移動したの。だから、深くんが村に行ったんじゃないかと思って、心配した」
抱えていた俺を降ろすと、桜はベルデマットに向かって言う。
「ベルデマット・マクマフォン……一片お兄ちゃんから、貴方を捕まえるように言われています」
「お兄ちゃん……という事は、十一片の妹、なのですね。ふうむ、こちらに情報がなかった。けれど中々どうして良い素体に思えますね。私を捕まえるというのなら、こちらもそれに興じるとしましょう。何事にも前座は必要ですしね」
桜は、一切物怖じする事なくベルデマットを睨みつける。
「深くん、それ貸して」
「え?」
「バット」
言われるままに金属バットを手渡すと、桜はそれを掴む。
「ふむふむ……まずは小手調べというところでしょうか。こんなのはどうでしょう。『動け動け、もう一度。十二時の鐘では解けない魔法、舞い戻り、そして舞い踊れ』」
ベルデマットは、こちらへと歩みを進めながら口にする。それに呼応する様、横たわっていた父さんと母さんの身体が、起き上った。
「父さん! 母さん!」
起き上った二人が、こちらを見る。その瞳は、先程とは違い、鮮明。焦点を俺に合わせ、口を開く。
「深、そろそろナイターの時間じゃないのか?」
「あら、桜ちゃんも居るじゃない。家でご飯食べて行く?」
二人が、ゆっくりとこちらに歩み寄りながら言う。
「深くん、家の中に入ってて」
その間、俺の前にバットを翳して桜が言う。けれど、俺はそれを受け入れられない。
「父さん! 母さん!」
やっぱり、夢だったんだ。そうだ、全部夢だ。悪い夢。在る訳がない話だ。だって、父さんと母さんは生きているじゃあないか。死んでなんかいない。
これはきっと長い夢。第一、鬼憑きなんて眉唾、歪で当然。そんなもの存在する訳がない。なにかの間違いだ。
こちらに向かう二人は笑顔で、それはあの日から変わらない。息子である俺が見紛う筈がない。父さんと母さんで、間違いがない。
俺の願いは、叶った。
瞬間、涙が溢れて、拭っても拭っても止まる事がない。父さんは、俺が泣いているとそれを揶揄うから押し止めたかったけれど、百日分の涙は際限がなかった。
「父さん……母さん……」
滲む二人を見て、飛び込もうとした刹那。滲んだ景色が、真っ赤になった。
顔になにかがかかって、真っ赤になってしまった。
「あ……あれ?」
涙と一緒にそれをシャツで拭う。やたら眩しい月明かりが、黒の混じる真っ赤を照らす。鮮明になった景色の中で二人を捉えると、父さんの頭部がなくなっていた。
頭部を失った父さんの身体は、一歩だけ前に進んだ後、倒れた。そしてまた、先程と同じ様に動かなくなった。
「父さ——」
言い終わる前に、もう一度赤。今度は、母さんの頭部がなくなって、倒れた。
その過程は見えなかったけれど、原因だけは、分かった。
倒れる二人と、俺の間には、桜しか居ない。そして、桜の握る金属バットが、歪に曲がって、真っ赤だった。
「……桜」
回らない思考で桜に声をかける。俺に振り向いた桜は、今にも泣きそうな顔で言った。
「一回だけ、嫌な思いをしてね。その代わり、一回だけにしてあげる。私が、絶対に一回にしてみせる」
「なに……? 桜、どういう事?」
「ネクロマンサーは、こういう人達だから。私は初めて闘うけれど、きっとそういう事。身内が一番辛いんだ。だから、一回だけ……一回だけ、嫌な思いをして。私が全部壊してあげる。深くんが嫌な思いを沢山しないように、全部全部壊してあげる」
そうしてへたれ込む俺の顔を覗き込んで、優しい笑顔になる。
桜の、笑った顔を、初めて見た気がした。
「流石十一片の妹、といったところでしょうか。けれど、けれど、どうでしょう。確かに強い。しかして、経験がないとの事だ。
捲し立てるベルデマットの声なんて聞こえていないみたいに、桜は俺にだけ向いて言う。
「一回だけ、我慢してね」
桜は俺に背を向けて、金属バットを握り直す。そして、異様な雰囲気を纏う村人たちが群れるその中心に向けて、駆け出した。
「さあ、踊りましょう! 夜に沈め、名もなき少女よ!」
それが、ベルデマットの最後の台詞になった。
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