リビングデッド・ラヴァーズ①

「起立! 礼!」


 俺の号令に従って、皆がさよならの挨拶をする。

 皆と言っても、教室には俺を含めて五人だけ。俺と、担任の先生と、下級生が三人。だから、六年生の俺が毎日日直だ。

 学校自体は大きいのだけれど、殆どの教室は使われていない。昔は校舎いっぱいに生徒が居たらしいけれど、市町村合併とかで都市部に生徒が流出してしまって、山間のこの学校は、来年で廃校になる。

 下級生達は都市部の小学校に転校。俺は、少し遠くの寮付きの中学校に入学する予定だ。

 古びた校舎内は風通しが良く、七月四日の最高気温は二十八度と朝のニュースで言っていたけれど、それよりずっと涼しく感じられた。


 ただ、それは校舎の中だけの話であって、一度校舎を出ると、直射日光も相俟って夏を否応に実感させられる。

 傾き始めた陽射しを浴びながら、蝉の五月蠅い校庭脇を抜ける。駐輪場に停めた自転車に跨り白いヘルメットを被ると、校門を飛び出す。


 夏休みが目前に迫る夏の日を、いつもの様に走り抜ける。


 生徒の中で山を越えるのは俺だけだ。毎日往復六キロの道を、自転車で駆ける。高低差の激しい道程は決して楽ではないけれど、それもいつかの糧になると思えば、十分に楽しいと思えた。

 陽射しが木々の隙間から漏れて、コンクリートを斑にする。一台の車とも擦れ違わない事が珍しくない癖に、舗装だけはちゃんとされているのは不思議だったが、ほぼ毎日利用する俺からしたら有難かった。

 幾度の上り下りを経て、最後の一番長い下り坂でペダルを漕ぐのを止める。後は、只管滑り降りていくだけだ。

 登校の時に心臓破りの上り坂となるこの場所は、下校時には最高にスリリングな場所に変わる。母さんには、ブレーキを握りながらと言われているけれど、守った事は一度もなかった。

 回転する車輪の音が喧しくなって、風切音と混ざる。坂の中間地点に差し掛かると、空気の質量を感じ始める。この季節、俺がぶち破って行く空気は少し温い。

 そうして、並ぶ事のない爽快感の中坂を下り終えると、視界が開ける。緑の木々の向こうに、更に緑が広がる。山と山の間に在る俺の住む村が見える。段々畑の合間に、農作業に励むお年寄りの姿が見える。そこから下ったところに、数十軒の家が並ぶ。


 この山間の小さな村、声合村が、俺の世界の殆どだ。


 坂を下った場所に駐車場があり、村で使う車の全てがそこに並んでいる。こんな場所に住んでいれば、それらがなければ生活が成り立たない。駐車場の傍に建つ蔵の中には、備蓄された燃料がある。

 コンクリートの道から畦道に入ると、徐々に速度が減衰していく。乾いた土に車輪の後を付けながら進んで、村の入り口代わりである地蔵が立つ場所で自転車を降りる。電柱の脇に立つそれがなにを祀ったものなのか俺は知らないけれど、いつも像の前には野菜やらが備えられていた。

 村に入って最初の家は、俺が小学校に上がったくらいに無人になった。暫く人の立ち入っていない家は、陽が昇っている間も少しだけ不気味だった。

 その隣、木造の平屋が俺の家だ。隣の家と別段仕切られている訳ではないから、家の前の庭は広々としている。そこに自転車を停めて、玄関を開ける。


「ただいま!」


 それだけ言うと、玄関口に置きっ放しにしてある金属バットを持って、代わりにランドセルを放った。


「あ、深! ランドセル投げない!」


「行って来まーす!」


 奥から母さんの怒る声がしたけれど、お構いなしに戸を閉めて、また自転車に乗った。

 来た道とは逆。村の奥まで進んで行く。村の外れを過ぎてその先、山に入る直前で、適当に自転車を停める。目の前には、只管に山を昇る荒れた道。

 虫の声が五月蠅い森の隙間を抜ける。人が通るのに適しているとはとても言えないけれど、獣道よりは大分ましだし、俺が行き来しているから、草葉も人一人分の空間を作ってくれている。

 時折顔に蜘蛛の巣がかかってしまうので、持って来た金属バットを前に振りかざしながら進む。 

 虫の声に、上がった俺の呼吸音が混ざる。滴る汗に誘われた蚊を叩きながら、進む。


 太腿に熱が籠るのを感じ始めた頃、道が平坦になった、すぐに森が開ける。山の中腹、小さな空間。


 そこには、古ぼけた神社がある。


 村で誰かが管理している訳じゃないから、所々腐敗して朽ちた社、その前に形式的に立って、形式的に手を合わせて、祈る。


 百日詣。 


 吉村の爺さんが教えてくれた。百日をかけて捧げた祈りは、叶うと。

 だから、俺は此処に通っている。毎日、祈りに来ている。今日で、七十七回目。


 あの日から、二カ月が過ぎていた。


 目を閉じて、心の中で只管に祈る。土の匂いが混じる夏を感じながら、蝉の声に耳を傾ける。額に滲む汗が滴る気配を感じて、目を開ける。木々の隙間から差す自然光が照らす社は、退廃的であるにも関わらずどこか神秘的。そういう雰囲気が、余計に俺をこの場所に運ぶ。


 恒例の儀式を終え、俺は持って来た金属バットを握る。無心でスイングする。

 漠然とした夢だけれど、野球選手になれたらいいなあ、と思ってる。昔は、それをこの場所で祈っていたけれど、今は二つも願うのは贅沢だと思って止めた。

 代わりに、バットを振る様にした。練習は嘘を吐かないと、好きな選手がインタビューで言っていた。

 開けた森の中、劈く蝉の音を裂く風切音。汗を飛び散らしながら、バットを振る。

 嫌な思いを吹き飛ばす様に、只管に振る。

 そうやって時間が過ぎる。さんざめく森の音が少しだけ不気味になっていって、緑の空間に橙が差し込み始める頃だった。


「朝霧深」


 名前を呼ばれて、腕を止める。そこでやっと、掌に出来た肉刺がぴりぴりする事に気付く。掌をシャツで拭いながら、声に振り返った。


「なんだよ涼」


 視線の先には、セーラー服姿の鮎炭涼が居た。俺と同じくらいの短髪だから、その性格も相俟って非常に男っぽい。


「もう日が暮れるから、迎えに来た」


 凉は俺の五つ上だから、世話を焼いている風になるのは仕方がないけれど、俺は夕暮れに迎えを出される程子供じゃない。

 迎えは、俺が子供だとか、そういう事が理由じゃない。


「分かってるよ」


 俺は少し煩わしそうに答えて、凉の横を抜けて山を下り始めた。


「道気を付けてね」


「大丈夫だよ、慣れてる」


 凉の気遣いを邪険にしながらも、足元に気を張る。こんなところで転ぶ無様な姿は見せられない。

 行き慣れた道を下り切ると、俺の自転車の隣にいつも停めてある筈の凉の原付がなかった。


「原付は?」


「駐車場、村の中の道がたがただから」


「まあな」


 そう言って自転車に跨ると、凉はクロスバイクの後輪付近を通るフレームと、後輪を止めているナットに足をかけた。


「だから、フレーム曲がるから乗るなって」


「えー、じゃあ荷台付けてよ。私乗れないじゃん」


「荷台なんてだせえだろ」


 文句を言いながらも、ペダルを漕ぎ出す。


「行け行けー!」


 俺の両肩に手をかけた凉が叫ぶ。


「うるさ」 


 山間に沈んで行く太陽が強烈なオレンジで照らす。村が燃える様に染まっている。

 夜が、来る。

 来た道を途中で曲がって凉の家へ。荷物を降ろすと、凉の母さんからタッパーに入った煮物を貰った。お礼を言って、自宅へ。


「ただいま」


「おかえりー!」


 玄関を開けると、すぐにある居間で父さんと母さんが夕食を食べていた。あの日から、二人とも俺の居ない間に夕食を済ませる様になった。


「父さんおかえり」


「おお、今日も自主練か?」


「そんなとこ、母さん、これ凉の家から」


 座りながら母さんにタッパーを渡す。


「あら、後でお礼を言わなきゃ」


 母さんは自分と父さんの食器を上げながら、タッパーを冷蔵庫に仕舞った。

 父さんも母さんも、夕食を終えていた。


「チンして食べてね」


「うん」


 母さんの言葉に感情なく返事をして、テレビを点ける。もうすぐ、ナイター中継が始まる。

 そんな俺を他所に、二人が準備を進める。俺が夕食に手を付けるのは、それが終わってからだ。


「よし」


 準備を終えた父さんがそう言って、玄関に向かう。母さんもそれに続いて、俺も後を追う。

 外は、もう殆どが夜だった。陽が沈んだ西に未だオレンジが燃える。東側は、既に星空。

 高い高い、空を見上げる。担任の先生が学生時代に東京に居た頃、空が狭くて驚いたと言っていた。俺はこの空しか知らないから、それがどれ程のものかは分からないけれど、興味は尽きない。

 夜空に気を取られる俺と違って、父さんと母さんは一直線に納屋を目指す。その姿に気落ちしながら、二人に続く。


 二人は納屋に入ると、容易してあった麻縄を取り出し、自分達の足を縛り付ける。直接だと肌を擦切る麻縄であるが、間にタオルなどを挟むと外れてしまう場合がある。肌に噛み合う様、しっかりと縛り付ける。

 俺はそれを見送ると、無言で父さんと母さんの手首を麻縄で縛り上げた。こちらも、決して外れない様、肌に噛みつく様、きつく、きつく。

 既に何度目かになるこの作業で、二人の手首には真っ青な痣と消えない擦り傷が痛々しく点在している。


「ごめんな、深」


 父さんが悲しそうな顔で言う。俺は、無言で作業を続ける。

 両手足を縛り終えると、今度は体。納屋の大きな柱に二人の体を括り付ける。柱に背中を付けて体育座りした二人の胸と腹を、何十にも縛り付ける。


「じゃあ、おやすみ」


 日が沈むまでに全てが終わって、俺は納屋を後にした。

 家に戻ると、ナイターが始まっていた。一死二塁、初回から攻撃側の好機。俺はそれを見ながら、お椀に白米をよそって、手を合わせた。


「いただきます」


 また今日も、一人の食事だ。


「深、居るか?」


 俺が冷めたおかずを口に運んだ時だった。吉村の爺さんが、断りもなく玄関の戸を開けた。


「爺さん、チャイム押せって言ってるだろ」


「すまんすまん、譲と綾は?」


 吉村の爺さんによる、夜の確認。毎日の光景、繰り返しの光景。

 俺は無言で納屋を指差すと、吉村の爺さんは首を縦に振って帰っていた。

 吉村の爺さんが確認に来たという事は、夜だ。夜が来た。


 また、夜が来てしまった。


 程なくして、聞こえる。くぐもったそれは、テレビの音を大きくすれば十分に掻き消せるものだけれど、耳を塞いでも、掻き消しても、脳内で反響している様な気がしてしまう。

 テレビの音量を大きくする。センター前ヒットで二塁ランナーが本塁突入をした為、球場の歓声と実況の声が大きくなる。


 その中に、混じる。混じっている。


 父さんと母さんの叫び声が、混じっている。


 毎夜毎夜、鬼の咆哮が響く。


 声合に伝わる、鬼憑きの伝説。


 俺は、聞こえないフリをして、テレビに食いついた。

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