七個ないのが七不思議⑦

「それじゃあ、行って来る」


「はーい。今日は早く帰って来てね」


 六月十日午前零時。昨夜と同じ様に、私と緋鎖乃は、桜を残して部屋を出た。

 相変わらず慣れない光景。学園敷地内に建ち並ぶアパートを飛び出すと、目の前には学び舎。この異質な風景に慣れるのはいつになるのだろう。ただ、見慣れる程此処に居る気もないけれど。


 昼間の喧騒は幕間であって、私達にとっての本番はこの静寂だ。月明かりの音だけが占める宵闇を、緋鎖乃と共に歩く。


「ねえ鎖子。もしかして、今日もまた少し見て終わりだなんて言うんじゃないでしょうね?」


 帰宅してからずっと懐疑的に私の事を見ていた緋鎖乃だったけれど、ここまで口にしなかった言葉をついに吐き出した。


 現状を飲み込めていない私が無法に揺らいでいる姿は、真意を知らない緋鎖乃にとっては不気味以外のなにものでもない。それでも、緋奈巳さんが私を此処に呼び寄せた事から漠然と信頼するしかない。緋鎖乃にとってはストレスかもしれないが、致し方がない。


 だって、緋鎖乃‎本人が、私達が辿り着かねばならないあの夜の中心かもしれないのだから。


「いや、今日は予定があるよ。良い話を聞いたんだ。緋鎖乃、古野野江学園の七不思議知ってる?」


 それは問いかけと言うには直接的。されど、尋問と言うににはあまりに自然だった。


「……」


 緋鎖乃は、口を真一文字に結ぶ。私がこの学園に来て、深淵に沈む夜の事を尋ねた時の様に——


 口を、結んだ。


「そりゃ答えられないよね。ここで答えられるのなら、私達が来た時に七不思議の事を話している筈だもんな」


 桜の読み通りだ。

 緋鎖乃は七不思議について、話す事が出来ない。それは仮説に通すのならば、口封じの領域に入っているという事。


 つまりは、あの夜に繋がる。


「七不思議らしく六つしかないけれど、これを虱潰しに見て周るのがいいだろうなあ。さあて、何処から行こうか。ここ一週間で急速に広まり始めた七不思議。事件に関係ない訳がないもんなあ」


 私が大袈裟な言い回しをしてみても、緋鎖乃の口は開かない。いや、開けない。

 無言の肯定。口封じされているという事が、なにより今は好転する。


「これも答えられない。まあ、必要ないけれど。それじゃあ、行こうか。適当に、一番上から潰していけばいずれ終わる」


 私は、スマートフォンにメモを取った七不思議、その一つ目『中等学校男子部校舎四階音楽室の止まないピアノ』を示して、中等学校男子部校舎へと歩き出した。その後を、緋鎖乃が付いて来る。 


 深夜の二人旅。コンクリートの校舎横を抜け、赤いレンガで組み敷かれた通路を歩く。

 恐ろしい程に人気がない。そう感じるのは、昼の騒々しさ故の相対的な感覚だろうか。


「なあ、緋鎖乃、深夜って別に外出が禁止されている訳じゃないのか?」


 深夜の無言は退屈なものなので、適当に口を回させる。


「ええ、基本的には自由よ。ただ、好ましくないとはされているから、深夜に外へ出ても、精々寮生の友人の部屋ね。あ、勿論、学園外へは、特別な用事でもない限り、外出は認められていないわ」


「やっぱ物騒だよなあ。大学とかも寮はあるんだろ?」


「ええ、勿論」


「その頃なんて遊びたい盛りだろうに」


「でも、今この静寂がなによりの証明じゃないかしら?」


 足を止めた緋鎖乃に倣って、立ち止まり周囲を見渡す。

 確かに、そうだ。昨夜から、私はこの夜の学園で、緋鎖乃以外の人間と出会っていない。


「警備員とかの見回りもないんだな」


「校門には常駐の方がいらっしゃるけれど。敷地内では特別そういうのはないわ。校舎自体も、一階と二階に防犯センサーを取り付けているくらいで、基本的には無人よ」


「へえ、序でに学園の防犯事情教えてくれてありがとう。って事は……」


 中等学校女子部校舎の横を抜けて数分、歩いた先に現れたほぼ同じ形の四階建て校舎。

 本日の目的地、古野野江学園中等学校男子部校舎。


「男子部の寮は?」


「確か校舎の裏側。私達の寮からは完全に見えない位置ね」


「多少の気遣いはあるんだね。さて、さっき聞いた通り、校舎では防犯センサーが稼働中な訳だから、侵入するとなると——」


 私が校舎を見上げながら口にした言葉を最後まで待たずに、緋鎖乃は跳んだ。

 昨夜と同じ様に、ものの三歩で校舎屋上へと消えた。


「化け物かよ……」


 呟きながら、私も先やと同じ様、クライミングの要領で校舎の壁をよじ登って行く。緋鎖乃に遅れる事数秒、辿り着いた屋上は女子部の校舎と同じ様な造りだった。


「東雲って、身体操作や身体強化の家系と叔父様から聞いていたのだけれど、鎖子はあまりそちらに明るくないのかしら?」


 昨日今日の私の身体強化の程度を見て、緋鎖乃としてはとてもそれに特化した家系には見えなかったのだろう。


「手前味噌な話になるけど、ガチンコなら私は滅多に負けやしないよ。どちらかと言えば、あんたがイカれてんだ。冷然院は、身体強化一つ取ってみたって天才だ。あんたがそうである様にね」


 身体強化。願いの顕現の中で、最も簡易なものだ。


 例えば、私の二人目ドッペルゲンガーの能力、自分の分身を作り出すであったり、真凛の肉体逆行の能力なんかは、願いの力だけでなく、その血が必要不可欠だ。

 常軌を逸した願いは、それだけでは叶わない。常軌を逸した願いと共に、常軌を逸した血が必要になる。


 私達の様に、人の道を外れた領域に流れる、血脈。


 ならばどうだろう。常軌に沿った願いは、どう叶うのだろうか。

 この世の全ては、人の願い。願う事によって、事象は輪転する。息を吸い込む事さえ、声を発する事さえ、全ては願いの顕現。私達とシステムを同じくする。


 だから、そうだ。速く走りたい、高く跳びたい、強く叩きたい。だから、脚を、腕を鍛える。そうして得た身体能力というのは、科学的に分析すれば筋線維の断裂と回復を繰り返した結果の強化だけれど、私達からすればそれは後付けだ。


 そう願い、そう在ろうとしたから、そう成った。


 進化論なんてのは、私達からすれば笑い話であって、だけの話しだ。


 樹木を模す蛾は、進化したのではなく、願った。幾重かの行程を超えての変態など、人間が想像した後付けでしかない。


 だから、それに慣れている私達は、人より少し速い、高い、強い。

 才能や血によって多少はあるけれど、私達はそれを得意としている。

 願い、そう在ろうとして、そう成る事を、得意としている。

 その中で、私はそういう血を引いているから、強い方であると自負している。よーいどんで殴り合いをして、負けを覚悟した事は、人生で片手で数えられる程度。


 そんな私を、余裕を持って越えて行く。

 まだ実戦に出ていない、十四の女の子。

 この国の最高峰、冷然院の血を引く緋鎖乃は、そんな私の片手に数えられてしまう。

 夜風に赤い髪の毛を靡かせる少女は、実戦を控えさせる必要がないと言い切れる。少なくとも、私の見積もりでは。


「そうなのかしら? 私は、姉様や兄様、叔父様に、緋火瑠ひかる緋火璃ひかりとしかまともに組手をしないから……自分の技量を半人前としか思えなかったわ」


「なんだそれ、私への皮肉か?」


「いえ、鎖子の事を馬鹿にするつもりはなかったの。そうなの、私、中々強いのね」


「そうだなあ。例えば、私とあんたが今から殺し合いを十回したら、私は十回それで殺されるだろうね」


 私は、緋鎖乃の持つ竹刀袋を指差して言った。緋奈巳さんと同じものと思われる黒いそれの中には、きっと、緋奈巳さんと同じ様に、真剣が潜んでいる筈だ。


 冷然院の抜刀は発火を伴う。それはきっと緋鎖乃も同じで、そういう逸話が先行か後発かに限らず、冷然院程血を重ねた家ならば、その言葉ですら力を持つ。

 いつしか抜刀が力を持ち、そして遂には刀が力を持つ。冷然院が振り翳す刀もまた、最強になる。連綿と繰り返した最強の系譜は、否応に周囲を巻き添えにしてこの国の中心に在る。


 だから、冷然院と刀は最早同義で、それを携える緋鎖乃もまた、最強である筈だ。


 緋鎖乃も強ければ、刀も強い。


 指差した刀、基竹刀袋を緋鎖乃は一度見てから、目線を私へずらして問う。


「それは、貴方の二人目ドッペルゲンガーの能力を使ったとしても?」


「それ込みでね。多分、到底敵わないと思う。癪な話だけどね」


「そうかしら。私の能力、姉様から聞いているでしょう? とても戦闘に使えるものではないわ。それに比べたら、鎖子の汎用性と言ったら……半人前の私ですら分かる。貴方の能力が、戦闘に於いても非常に強力な事が」


「買い被りだよ。まあ、あんたの能力が戦闘向きじゃないってのは同意だけど。焼却ぼうきゃく……だっけ? 記憶を燃やすんだろ?」


 今回の事件のネック。緋鎖乃が容疑者である可能性は、緋鎖乃が白裏の殺害現場に居た事、それを自白している事以上にそれに起因している。


 記憶を、燃やす。


 例えば緋鎖乃がその能力を白裏に使っているのなら、道理だけは通ってしまうから。

 もっとも、それは道理が通るだけであって、理由がない。緋鎖乃が、そんな事をする必要はない筈だ。本来ならば。

 もしかしたら、その理由があるかもしれない、という悪魔の証明が、今回の事件を複雑にしている。


「ええ、記憶の多少と、今昔の差で労力は変わるけれど、私の炎は、記憶を焼却する。なかった事に出来る。私の抜刀はそういう抜刀」


 能力の由来は分からないし聞くつもりもない。ただ、緋鎖乃はそういう能力だ、というだけで十分だ。


 しかし、普通だ。日常だ。当然だ。


 私が緋奈巳さんから能力を聞いている。それを前提としていても、緋鎖乃がその能力を行使して白裏の記憶を燃やしているのなら、少しはこの話題の時に動揺しそうなものだ。しかし、緋鎖乃は自ら能力の話を話題に出した。


 それはどうして?


 攪乱? 自白? それとも、なにかの手がかり?


 自ら能力の話をする。自分に後ろめたい事はないという、私達へのメッセージ?


 緋鎖乃が言動を縛られている可能性があるというのは、逆に言えば全ての言動がなにかの手がかりだ。なんでもない日常の所作一つでも、裏側を見ようとしてしまう。


「私がその能力あったら、兄貴に使う。どうしても消したい記憶がある」


「あら、兄弟なのにどうして?」


「家族に対してってのは、どうしても黒歴史を抱えがちだろ? 緋鎖乃は違うのか?」


 私が冗談交じりに言う。


「あるにはあるけれど……残念、使えないのよ。


 そんな私に、緋鎖乃は真面目な顔をして返答する。


「ん? どういう事?」


「どういうもなにも、そのままよ。冷然院の炎は、冷然院に通用しないのよ。だから、私は冷然院の記憶を燃やせない」


「へえ、じゃあ兄弟喧嘩で家が灰になるなんて事はない訳だ」


「そうね、在り得ないわ。もっとも、そんな子供染みた喧嘩しないけれど。そんな事より、行かなくていいの?」


 言って、緋鎖乃は屋上にある扉を指差す。男子部校舎内部への入り口。

 屋上の扉は、女子部校舎と同様に、建物の内側から施錠するタイプのもので、事故防止の為か、外側からは施錠出来ない様になっている。つまり、開錠も出来ない。


「行きたいのは山々だけど、扉が開けられないからなあ」


「あら、蹴り飛ばせばいいじゃない」


「なんだよそのマリーアントワネットも真っ青の理論は」


「鎖子ならそういう事言うかと思ったのだけれど」


「私は別に粗暴な訳じゃない。勘違いしないで」


「それはごめんなさい。なら、貴方の二人目ドッペルゲンガーを使うのはどうかしら? 扉の向こう側に発生させて、職員室に行って屋上の鍵を取って来るの。教室の扉は、レールから外せば鍵は意味ないから」


「職員室って何階?」


「恐らく二階ね」


「じゃあ防犯センサー付いている可能性があるからだめだ。夜は自由に動きたいから、なるべく騒ぎを起こすのはなしだ。それに、私の二人目は、私の体から分身を発生させる。空間を越えて二人目ドッペルゲンガーを発生させる事は出来ないよ」


「あら、困ったわね。どうしようかしら」


 特に困った様子もなく口にする緋鎖乃を横目に、面倒になった私は屋上の扉を軽く蹴り飛ばした。扉は、簡単に蝶番をひん曲げて外れた。


「……やっぱり粗暴じゃない」


「最終手段だ。さっさと行くぞ。で、音楽室って何階?」


 校舎内に踏み入れた私が振り返りながら尋ねる。


 緋鎖乃は、立ち尽くして私を見ていた。屋上で、月明かりの下、微動だにせず私を見据えていた。


「緋鎖——」


 どうしたの? そう言いかけて、理解した。


 緋鎖乃は、多分其処から進めない。これ以上、歩む事が出来ない。

 私達の推察、白裏の言動を縛る能力。緋鎖乃は、七個ない七不思議を口に出来なかった。だから、きっと七個ない七不思議に踏み入れられない。


 ここからは、私の単独。


「音楽室は、この校舎の四階奥。屋上からの階段を降りたら、真っ直ぐ進んで」


「分かった」


 スマートフォンの時計を見る。零時十三分。


「緋鎖乃、零時半までに私から連絡がなかったら、桜に連絡して」


「分かったわ。気を付けて」


 気を付けて。


 まるでそれは、なにか在るかの様な、物言い。

 私は緋鎖乃に背を向けて、吹き飛んだ扉を避けながら階段を下った。


 無人の校舎は、初めてではない。小六の時に、翌日提出の宿題を忘れて、夜の校舎に行った事がある。宿直の先生に許可を取って入り込んだあの空間は、自分が普段こちらの領域で経験している恐怖とは違ったものがあった覚えがある。


 あの時、兄貴に付いて来て貰ったのは、一生の恥だ。


 階段を下りきる。恐らくずっと伸びているであろう廊下は、その最奥が闇に飲まれて深淵。延々と続いているかの様な錯覚に陥る。

 光る警報器の赤が不気味に闇に浮かんで、暗闇を一層引き立てる。数歩歩いたところで、スニーカーのまま来てしまった事を申し訳なく思ったが、扉を蹴破っている手前、些細な問題だと自己完結した。


 廊下に突き出した教室の名札を見上げる。徐々に黒に慣れた瞳が文字を識別する。一番奥の教室と言われているけれど、初めての場所なので注意深く進んだ。


「あった」


 四階最奥、名札に『音楽室』の文字。

 古野野江学園の、七個ない七不思議の一つ目『中等学校男子部校舎四階音楽室の止まないピアノ』の場所。


 耳を澄ますまでもなく深夜の静寂、その中に、鍵盤を叩く音はない。


 緋鎖乃に言われた様に、教室の引き戸に手をかける。レールに乗った扉を持ち上げて浮かせると、レールからずらして外す。扉は、音もなく外れた。


 廊下に扉を立てかけて中を見渡す。窓から差す月光に照らされた四十畳程の教室は、普通教室と違って絨毯。教室前方黒板の前にはピアノが一台。そこから四十台程。黒板の横には、恐らく準備室に続くと思われる扉。教室の後方には、布をかけられたいくつかの楽器が見える。


 予感、よりは確信に近い。


 幾度となく越えた日常との分水嶺。元より、私はこちら側で生まれた。普通とは違う場所で生まれたから、こちら側でしか生きる事が出来なかった。


 だから、これは確信だ。


 音楽室に踏み入って、ピアノの傍に寄る。七不思議の主役は、やはり沈黙を続ける。


 ああ、そうだ。これは、そうだ。


 ピアノに手をかけ、もう一度教室を見渡す。


 やはりそうだ。この学園に来た時に感じたものと同じだ。


 事件の匂い、始まりの気配、奇奇怪怪の予兆。そういう一切が、この学園にはない。

 普通だ、普通過ぎる。この学園に来て、日付を跨いで三日。結局一度も感じる事が出来ていない。こちら側の領域の空気。言葉では形容し難い空間の質感。それが、ない。

 まるでこれは、なにもない場所。なんの変哲もない世界の一部。または——


 ポケットからスマートフォンを取り出して時計を見る。午前零時十六分。時間を待つまでもない。ここでなにかを調べる必要もない。

 私はそう確信して、もう一度だけなんの変哲もない、普遍なピアノを凝視する。

 これが、今から一つでも音を立ててくれたらと思う。少なくとも、ここは外れ、此処にはなにもない。


 いや、もっともっと強く思う。この学園には、なにもない。


 そう胸懐を一致させたところで、気配がした。


 ほんの一瞬だけ、刹那のそれは、気配というには小さかった。矮小な違和。それを覚えて顔を上げた時には、私は意識を失っていた。

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