深夜一時の奇奇怪怪③
「ねえ鎖子ちゃん、あの写真って本物かな?」
「……」
放課後。鎖子ちゃんは、窓際の一番後ろである自分の席に座り、私はその前の席を借りている。手を止めて振り向きながら言う私の言葉なんて聞こえていないみたいに、鎖子ちゃんは外を眺めていた。放課後の校庭で練習をする野球部とサッカー部のかけ声が窓越しにも聞こえる。同じクラスで野球部の星野くんが、監督の放った三塁線のライナーに飛びついてグラブに収めたのを見て、鎖子ちゃんは歓声を上げた。
「……ねぇ、鎖子ちゃん聞いてる? 聞いてないでしょ?」
「ふわあ……うん。聞いてない」
鎖子ちゃんは、私の話に欠伸交じりの適当な相槌を打って、ノックの続きを見ている。今度は、監督の放った正面の強い当たりがイレギュラーバウンドして顔面に当たったのにも関わらず、すぐにボールを拾って一塁に送球する星野くんを見て、歓声を上げた。
「鎖子ちゃん……なに見てるの?」
「星野だよ星野。あいつ上手いぞ。肩もいいし。肩力Aだ」
「星野くんはいいの! 私の話を聞いてよ!」
「どうせあれだろ。連続殺人がくだらない都市伝説の仕業なんじゃないかって、怖くなってんでしょ?」
鎖子ちゃんはブレザーの代わりに着ている学校指定の黒いジャージのファスナーを上下させなが言う。
「本当真凛は子供っぽい。そんなの在り得ないって言ってるでしょ?」
鎖子ちゃんは言うと、人目を憚らずその長い脚を机の上に載せる。私と鎖子ちゃんしか居ない教室だから人目はないし、鎖子ちゃんはレギンスを履いているけれど、お行儀が悪い。
「鎖子ちゃんお行儀悪い」
「誰も見てないよ」
鎖子ちゃんは適当に返事をすると、青のスクールバッグからイヤホンを取り出し、スマートフォンに挿して外界の音を遮断してしまった。
投げやりな態度に少しイラっとしたので、私は鎖子ちゃんの肩を揺さぶる。鎖子ちゃんはあからさまに怒った様子でイヤホンを外す。
「なに?」
怒気を孕んだその言葉に、私はあっけらかんとして答えてみた。
「さっきの話の続きなんだけどね」
そこまで言ったところで、鎖子ちゃんに頭を叩かれる。
「お前の宿題忘れの補習終わるまで待っててやってんだから早くやれ!!」
鎖子ちゃんは、私が借りている席、その机の上にある古文のプリントを指差して怒鳴った。
■
「ふぁ……ああ」
補習を終え、学校の門を出たところで、私は思いっ切り伸びをした。腰や背中の骨が、乾いた音をリズミカルに奏でる。
「すっかり散っちゃったね」
五月の夕空は、半分を赤く、半分を藍に変えていた。学校脇のコンクリートの道路の上には、ピンクの花びらが転々と落ちていて、時より見かける一部分に固まっているそれは、潰れたり汚れたりして毒々しかった。
「あっ、猫だ」
校舎脇を抜けてテニスコート沿いの道、ソフトテニスボールをスマッシュする間抜けな音が聞こえてくる辺りで、一軒家と道路を仕切るブロック塀の上を歩く猫に手を振った。
「にゃー! にゃにゃにゃー! しゃー!」
猫に話しかけてみるけれど、少しの間だけ目を丸くしてから私を睨んで、塀の向こうへと消えてしまった。
「にゃー……行っちゃったにゃ」
私は、大袈裟に声量を上げ、大袈裟な身振り手振りで落ち込んで見せる。
私の所為で鎖子ちゃんが不機嫌になってしまったけれど、謝るタイミングを逃してしまい、気まずい下校。猫ににゃあと声をかけてお茶を濁してみるけれど、進展しない状況に思わず涙目になってしまった。
鎖子ちゃんは相変わらず私の隣でイヤホンをしたままだけれど、そんな私を見て、呆れた様に溜息を一つ吐いて、イヤホンを外した。
「今度は宿題やれよな」
親に諭される様に。高校生にもなってこんな自分が情けなくて、余計惨めな気持ちになった。
「うん。もう怒ってない?」
「許す許す」
言いながら、鎖子ちゃんは私の頭を撫でた。茶色のデジタルパーマがぐしゃぐしゃになるけれど、気にはならない。
私はそれで気を良くして、話の続きを始めた。
「でね、さっきの続きなんだけど」
鎖子ちゃんにでこぴんされる。
「痛っ、ちょっと鎖子ちゃん! 聞いてよー!」
「聞かない。帰るぞ」
鎖子ちゃんは私のカーディガンの襟を掴むと、引き摺って歩いた。
「鎖子ちゃん苦しいよー!」
「五月蠅い」
鎖子ちゃんはそのままの状態で帰路にある公園に入った。
あの日、鎖子ちゃんに驚かされた公園。
ブランコと砂場では子供が遊んでいて、私達の様子を不思議そうに見ている。鎖子ちゃんはそれに気を留めないで水飲み場まで来ると、私を放してから蛇口を捻った。流れ出る水に左手を数秒浸すと、右手で落ちていた木の枝を拾い上げる。
「この間もやった! 今日もやった! ほら見ろ、何も起きない!」
鎖子ちゃんは、地面に座り込む私を見下ろして言った。
「おねえちゃん。それ、夜の一時じゃないとだめなんだよ。あと、右手と左手が逆。それに、怖い人が出て来るからやらない方がいいよ」
私の言いたい事を、砂場で遊んでいた女の子が舌っ足らずな声で代弁した。女の子から見れば、鎖子ちゃんは流行りの情報すら知らない遅れた女子高生だ。鎖子ちゃんは濡れた左手を上着のジャージで拭いて、右手の木の枝を片手で可能な限り細かく折った。
「……ほら、もう暗いから、皆帰りなさい」
「はーい」
ブランコと砂場で遊んでいた子供達は、鎖子ちゃんの溜息混じりの声に元気よく応えて公園から出て行った。
「鎖子ちゃん地域密着型だねえ。知らない子達でしょ?」
私は公園から出て行く子供達に手を振りながら言う。
「あんな子供まで知ってるのか。午前一時の怪物」
「深夜一時の化け物ね。微妙に間違ってるよ」
鎖子ちゃんは大きく息を吐き出しながら言った。
「五月蠅い。興味ないからなんでもいいの」
鎖子ちゃんは、ジャージでは十分に拭き取れずに濡れたままの手を、私のおでこに当てる。
「私がブッ飛ばしてやるって言ってるでしょ? それでもまだ怖い? 小学生?」
「こっ、怖くないもん! 平気だもん!」
「じゃぁ、なんでその話ばっかするんだよ?」
「うう……」
鎖子ちゃんも、お兄ちゃんも、口を揃えて在り得ないと言う。
けれど、お兄ちゃんの言葉が引っかかる。引っかかってしまう。
鎖子ちゃんと公園を出る。夕暮れの住宅街は、家々の明かりが確かに人の存在を知らせるのに、時折吹く風の音以外ない閑静な空間だった。両脇の住宅から流れてくる夕食の匂いが、空腹に響く。
少し歩いて空に星が目立つ頃、住宅街を抜けて雑木林に挟まれた道に入る。より一層夜を深くする道は、木々に紛れ十メートル間隔で立ち並ぶ外灯だけが頼りだった。その十三本目を過ぎると、身長百七十センチの鎖子ちゃんを超える高さで聳える、錆びついた鉄製の門が現れる。
門には、『
鎖子ちゃんが門に手をかけると、錆びている門は古めかしい見た目に反して静かに開く。先には、サッカーコート半分はある砂利の敷きつめられた敷地が広がり、その中心、暗闇に木造二階建ての私達の家が佇んでいる。右端にある玄関の電灯は、左にずっと伸びる戸を閉めた縁側の全てを照らせていない。
「ただいま」
「ただいま」
私が鍵を開け、暗い家の中へ入る。洗面所に向かって手洗いとうがいを済ませると、二人して和室横の台所へ向かう。
私と鎖子ちゃんは、一つ屋根の下で共同生活をしている。
いや、共同生活という言い方は少し変だ。だって、私達は家族なのだから。
私と鎖子ちゃんは、本当の家族を失った。
私は捨てられ、鎖子ちゃんは逃げて来た。戸破の家は、そういう子供達が暮らす不思議な空間。
私と鎖子ちゃんの他にも、鎖子ちゃんの本当の妹である
「さて、夕ご飯を作ろうか!」
冷蔵庫を開けて、材料を見渡す。買い物には行ったばかりなので、冷蔵庫の中は食材でいっぱいだ。
「あ、真凛今日お味噌汁作る?」
「作るよー」
冷蔵庫に手を伸ばす私の背後で、鎖子ちゃんは言いながらなにかをしている。がさがさという音の見当は容易につく。ついてしまう。
「鎖子ちゃん!」
振り向いた私に飛び込んだのは、じゃがいもの入ったネットを抱える鎖子ちゃん。
「なーんでじゃがいも隠そうとしてるの?」
「ぐっ……だって、真凛じゃがいもの味噌汁作る気だろ?」
「そうだけど?」
「合わないって言ってるじゃん!! 味噌汁! じゃがいも! 組み合わせ悪いんだって! 私、どろどろしたじゃがいも嫌なんだよ!」
「えーーー! それが美味しいって言ってるじゃん!」
長年の争いの一つ。戸破家台所問題。
私と鎖子ちゃんは、じゃがいもの扱いが相反する。私はドロドロが好きで、鎖子ちゃんは触感がしっかり残っているか、デロデロ派。デロデロというのは、ポテトサラダの事らしい。
「あー最悪だよーーー嫌だよーーーー」
「文句があるなら今日は鎖子ちゃんがご飯作ってよね! お豆腐余ってるし、好きにして!!」
「へいへい、じゃあそうしますよー」
私は大げさに頬を膨らませて見せる、鎖子ちゃんは当面の味噌汁問題が解決するや否や、料理の準備に入る。
手の空いた私は、そのまま隣の和室に移動して座布団の上に座ると、テレビを付ける。時間的には、バラエティ番組が始まるまで大分ある。退屈なニュースが大凡を占める。
そんな、なんでもない時間の筈だった。
今朝、香織ちゃんから聞いた話が、強烈にフラッシュバックする。
『五月九日夕方のニュースです。今日未明、日月市路上で女性の遺体が発見された事件ですが、遺体の身元が、市内の高校に通う学生と判明しました。遺体の損壊が激しく——』
キャスターが原稿を読み上げている途中で、テレビの電源が落ちた。
「あ」
間抜けな声を上げる私の隣で、鎖子ちゃんがリモコンを持っていた。
「真凛、在り得ないからね」
まだ私は何も言ってないのに、鎖子ちゃんは私を制する様に言う。
「私まだ何も言ってない」
「考えてる事は分かる」
そうやって、鎖子ちゃんは。
「あんたは、こっちに来なくていいの。だから、仮にそうだとしても、何も知らなくていいから」
お姉ちゃんぶって、私を子供扱いして。
「……うん」
それでも、私はなんの役にも立たないから。
私は、弱々しく頷いた。
そうやって、五月九日が過ぎていく。私だけが置いてけぼりの今日が、過ぎていく。
私はいつまで杞憂に後ろ髪を引かれるのだろうか? そんな曖昧な私の不満は、次の日の朝、流転する。
朝のニュースで、全てが色濃く浮き出る。
日月市で、三件目の殺人事件が発生した。
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