7話 師匠と弟子①
ラクラ・グランフェルトの朝は、耳障りな騒音から始まる。
目を開けまず視界に飛び込んでくるのは、二枚の鍋蓋を手に笑顔で佇む弟子の姿。それを無視して再び布団に潜り込むと、弟子も負けじと全力で鍋蓋を打ち鳴らす。
少し前までの目覚まし音は、フライパンとお玉が奏でていたはずだ。ようやくそれに耐性が付き、
(いつから鍋蓋に変わったんだ?)
鳴り響く鍋蓋の音に脳を揺さぶられながら、ラクラはそんなどうでも良い事を考える。
促され起き上がると、弟子は満足して部屋を後にする。その悪魔のような姿をぼんやり見送ると、二度寝の誘惑を断ち切る為着替えにとりかかった。
鏡の前に立つと、活気も何も感じられない冴えない男が映った。日の光を受けても輝かぬ、
冴えない男は顔も然ることながら、着るものも冴えない。ハイネックの黒いシャツに、
一階へ下りると、リリアは既に朝の仕事を終えていた。ストーブには火が入っており、テーブルの上には朝食が並んでいる。師匠には
「おはようございます、師匠」
「おはよー……」
席に着くとすぐに温かいお茶が出された。モソモソとした動作でそれを飲み、ほっと息をつく。リリアも向かいに腰を落ち着かせ、朝食のパンを取り分けている。
「あのさ……鍋蓋、壊さないでね」
ぼそっと呟くと、リリアは顔を上げて笑みを見せた。
「あ! やっと気付きましたね、師匠。フライパンとお玉じゃ効果が無くなってきたから、新しくしたんです」
「うん……最近、鍋の蓋がボロボロになってるなーとは思ったんだ」
「どうです? ちゃんと起きられそうですか?」
「そうだね……
「それなら良かった」
弟子の返事に釈然としない気持ちを抱きながら、ラクラは千切ったパンを口へ放り投げた。カリッとした香ばしい皮の中に、バターが香るフワフワの食感。いつ食べても美味いものだと、密かに感心する。
ラクラが朝食をとるようになったのは、この家にリリアが来てからだ。それまでは朝食どころか、昼や夜さえも食事をせず、ただひたすら眠る事もざらにあった。あの頃に比べると、今の自分は十分健康的なのだが、
「しっかり食べなきゃ駄目ですよ。師匠ってば、いつ見ても『不健康代表!』みたいな顔してるんですから」
なんて事を弟子に言われたりする。
「不健康代表って、凄いんだか凄くないんだかイマイチ分からないな」
「凄くないですよ。不健康なんだし」
「でも代表なんだろう、不健康の」
「もー。訳分からない事言ってないで、ちゃっちゃと食べて下さい。冷めちゃいますよ」
話している間にも、リリアの皿からは料理が減っていく。
師匠と弟子の温度差は、(
天と地ほどもテンションに差のある師弟は、イマイチ噛み合わない話を続けながら朝を過ごす。
これが、この家における一日の始まりだ。
薬を求めて訪れる客に対応し、忙しなく動いていると、時間が過ぎるのはあっという間である。気付けば正午を大幅に超えていて、師匠と弟子は揃って遅い昼食をとる。
予定されていた来客は全てこなしたので、この後はゆっくり時間が取れそうだ。
(木イチゴのジャムが切れ掛かってるし、作ろうかな)
リリアは思い付いて、さっそく台所へと向かう。通り掛かったリビングで、ソファーに陣取り本を読んでいるラクラを見付けたが、いつもの事なので放っておく。起きているだけで疲れてしまう可哀想な師匠なのだ。
店での慌しさが消えると、この家の中は途端に静かになる。ゆったりとした時間が流れ、鳥の
赤髪の大男が訪ねて来たのは、そんな昼過ぎの事であった。
「よーう、相変わらずシケた面してんなぁ」
男は挨拶代わりにそんな台詞を言いながら、リリアに案内されてリビングへと上がり込んで来る。
「ノエルさん、今お茶淹れますね」
「おっ、悪いなリリア」
ノエルと呼ばれた男は、
薬を求めて此処へ来る人間は多いが、店の方ではなくリビングへ通される客はそう多くない。ノエル・マッカラムはその数少ない人間のうちの一人で、ラクラの友人である。(ただし、友人というのはあくまでノエル談である。)
時々ふらりと此処を訪れては、リリアの遊び相手になっていたり、ラクラと世間話をしたりと、暇を潰して帰っていく。
読書に
「……暑苦しいのが来たなぁ」
ボソボソとした声で呟いた。
「暑苦しいってどういう事だコラ。俺はお客様だぞ。そのソファーを譲りやがれ」
「断る。
「リリアが通してくれたんだから良いんだよ。あと、今日は客として来た。薬を貰いにな」
その言葉にラクラは本を読む手を止め、目の前の男に向かって首を傾げた。
「薬を? 君が?」
ノエルの肉体は鋼のように鍛えられており、病とは無縁にも思える。そこそこ付き合いの長いラクラでさえも、ノエルが病に
馬鹿は風邪をひかない――その言葉を体現しているような男だったのに。
「残念だよ……君には薬なんて必要と思っていたのに……」
「どういう意味だ、そりゃ? つーか、俺の薬じゃねえよ。フローラに持っていくんだ」
フローラとは彼の妻である。燃えるような赤髪とは対照的に、夜を
ともあれ、薬はそのフローラが使うものらしい。
「フローラさん、風邪でもひいたのかい?」
「風邪……じゃねえような気もするんだよなぁ」
「症状は?」
「最近、吐き気がするって言ってたな。いつもダルそうにしてるし……食い物も、さっぱりしたヤツしか食いたくねえって」
「それは……」
ノエルの言葉を
「もしかすると、薬は飲まないほうがいいかもな」
「おっ、分かったのか?」
「確定は出来ないけどね」
「教えろ。何だ?」
身を乗り出す男を制して、ラクラは首を振った。
「いや、一度フローラさんからも話を聞こう。多分彼女は気付いてると思うけど」
「んだよ、勿体ぶりやがって」
「まぁ、すぐに分かるさ」
そう言うなり、ラクラは立ち上がりって弟子を呼んだ。
丁度お茶が入ったのだろう、リリアはティーセットを持ったまま現れ、
「あれ、出かけるんですか? 折角お茶を淹れたのに……」
と、残念そうに口を尖らせた。留守番を任されると思っているようだ。
今度はお
「リリアも一緒に行くんだよ」
「私も一緒に? でも、お店はどうするんですか?」
「もう予定は無いんだし、閉めていいよ。多分、誰も来ない」
「んー……師匠がそう言うなら、閉めちゃいますね」
いつも冴えない師匠だが、こんな時の勘はよく当たる。
リリアは促されるまま身支度を整えると、ラクラ達の後について家を出た。木イチゴのジャムは今度作ろう――と思いながら。
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