小瓶と切符
なつのあゆみ
第1話
コートのポケットの底を、つつく。車内では感じていた、硬い紙の感触がない。もう片方のポケットも、チノパンのポケットも探る。
またか、と僕は溜息をつく。
僕のピーコートはしょっちゅう、切符を食っちまうみたいだ。いそいそと仕切りの中にいる駅員に駆け寄り、僕は申し訳なさそうな顔を作って言う。
「すいません、切符をなくしてしまって……」
「いいですよ、どうぞ」
駅員は面倒くさそうに言って、切符を持っていない僕を改札から出してくれた。どうも、と振り返って言うが駅員は見ちゃいなかった。
残業がないとき、僕は電車に揺られたくて通勤とは違う沿線で帰る。その時に切符を買い、ピーコートに入れると必ずと言っていいほど、なくなる。
帰ってきてコートを脱ぐ前に、もう一度ポケットを探る。爪先に硬い紙がひっかかる。引っ張り出すと、食われたと思っていた切符が出てきた。
コートが吐き出してきやがった、手遅れになってから。
僕は曲げたり伸ばしたり、切符の手触りを楽しんだあと、小瓶の蓋をひねり開けて、放り込んだ。中にはすでに何枚もの切符が、礼儀正しくまっすぐだったり、へそを曲げたように曲がっていたり、半分だけ折れたりと、思い思いのポーズで入っている。
切符を食っては吐き出すピーコートのせいで、僕は改札を通らなかった切符集めが趣味になってしまったようだ。趣味なのかどうか。なくしたと思っていた物が出てくると、それがたとえ不要でも捨てにくいものだ。
バレンタインに小瓶に入ったチョコレートをもらった。その空き瓶に、たまたま入れた。
それから一枚、二枚と増えていった。
裏が茶色で面が薄オレンジ色の切符は、小瓶に集めてみると洒落て見えた。インテリアの一部の役目はどうやら果たしている。
しかし、瓶がいっぱいになったら、僕はどうするつもりなのだ。もしこの切符を入れた小瓶を、引越し先に持っていくか。きっと迷うだろう。いらないと、いるといらないの中間、そういう物の扱い方に僕は慣れていない。
同級生で蝉の抜け殻を集めるのが趣味の奴がいたが、僕はそういうのは気色悪い、無意味と糾弾した。そんな僕がいらない切符を瓶に入れて、取っておくことは酷く奇妙だ。
糾弾したあいつに顔向けできない。
なくしたと思った切符が出てきた、たまたま空の小瓶があった。この出会いがいけなかったのだろう。
そもそも、なぜ僕のピーコートは切符を一旦飲み込み、吐き出すようなことになるのか。
ポケットを引っ張り出して、秘密の出入り口でもあるのかと探ったが、ほつれてさえいなかった。
これ以上、切符と小瓶、そしてピーコートについて考えて仕方ない。僕は風呂に入って寝た。
小瓶に結ばれていたブラウンのリボンを、手首に結び付けられる夢を見た。チョコレートをくれた女の子じゃなくて、同僚の背の小さい女の子だった。彼女は黙々と僕の手首にリボンをきゅっと結んで消えた。
本当に手首が締め付けられたような感触があって、目が覚めた。
そういえば僕はホワイトデーのプレゼントに、ステラおばさんのクッキーをあげた。かわいい箱に入ったクッキーの詰め合わせを、ふーん、という顔であの子は見ていた。
どうして、同僚の女の子なんだろう。地味で目立たない、小柄な女の子を僕は気にしたことがないのに。夢とはまぁ、そういうものだと僕はもう深く目を閉じる。
「それにしたって」
突拍子もない声が、眠りかけた耳を貫く。
「ひとりは寂しいから」
小さな女の子のような声は、くぐもっている。
「そういうことなのよ」
声はまるで、小瓶に閉じ込められた妖精が、喋っているみたいだった。
「ほうほう」
今度は低い声。これもくぐもっている。
「そういうことか」
低い声は賛同する。
「それなら、わかるわ」
これは、落ち着いた女の声。
「仕方ないね」
少年のような声。
「きっと、あの箱の中に通されるよりも、こっちのほうがいい。きっとあの中は、ひどいありさま。透明な瓶の方が」
女の子が、楽しそうに話している。妖精だったらぱたぱた、と羽根を動かしているような。
ぱしぱし、と音が鳴った。切符の入った小瓶を振ったときに、鳴る音だ。
「きっといい」
「そうに決まってる」
「しあわせかもしれない」
「切符として」
「切符としてね」
賛同の声が、続く。
「仲間はきっと、多いほうがいい。きっと」
願うような少女の声を聞きながら、僕は再び眠りに落ちた。
まだ、手首が締め付けられているような気がする。ブラウンのリボンも捨てないほうが良かったのか。
僕は仕事中に、ちらりと同僚の女の子の横顔を見た。黒髪のショートボブで、顔が小さく目がまん丸だから、市松人形みたいだと、よくからかわれている。
目が合った。彼女は僕をじっと見た。
「寝不足?」
ふわりとした声で、彼女は問うてくる。
「いや、なんで」
「あくび、よくしてるよ」
彼女はくすくす笑った。すると僕の心は、こんぺいとうをばらまいた、床みたいになった。
彼女を食事に誘ってみようかな、と考えながら僕はピーコートのポケットを探った。
ポケットの中、なんにもない。
すいません、切符をなくしました、と僕は正直に駅員に言った。
今日は料金をとられた。
今晩、また声が増えて僕の睡眠を邪魔するかもしれない。
終
小瓶と切符 なつのあゆみ @natunoayumi
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