第11話 二日目 その弐

 少しずつ息が上がり始めている。先を走っていたミリアムとアリスは米粒大を既に通り越して見えなくなっている。どうして朝っぱらから涼しい顔してこんなに走れるのだろう。ただ、二人ほどではないにしても家から学校までの距離を走り切れるだけの体力が養われている。大袈裟に胸を張る事はとても出来ないけど、それでも昔と比べれば遥かにマシになった。多少息は切れても、へばるような事はない。むしろ、朝は軽く体を動かした方が調子がいいくらいだ。だから動く事は嫌いではない。三人が剣術や槍術、格闘技に夢中になる理由が最近になってようやく少し判った気がする。それでも剣術や格闘技を習おうとは思わないけど。

 走りながら前方左側へ首を曲げる。学校の敷地が見えて来た。もうそろそろだ。ここで更にペースを上げられる程の体力は流石にない。あの二人は、いや三人はそれが出来るんだよなあ。一体どういう体をしているのか。無尽蔵の体力の持ち主だ。ペースを上げる事は出来ないけど、維持する事なら何とか出来る。学校を見据えたまま左に曲がると、もう校門はすぐ目の前だ。そのまま一気に校門を突っ切る。徐々に速度を緩め、校舎の手前で完全に止まった。鼓動が速い。でも、そこまで息苦しくはなかった。体だけが熱かった。ずっと走って来たんだから、それも当たり前か。ゆっくり呼吸を整えながら体を起こす。汗が一筋頬から顎にかけて流れて落ちる。まだ始業にはいくらか余裕がある。間に合わなかったら何のために走って来たのか判らない。

 校舎を過ぎて校庭を抜ける。牛舎の手前の飼育小屋に入ると、先客が飼い葉を餌箱に詰め込んでいた。

「こんなに遅いなんて珍しいわね」

 兎を抱いたエレンは目だけでこちらを見て言った。態度は素っ気ないが別に腹を立てているような事はない。

「さては寝坊したな。昨日久し振りにお客が来たから大変だったとか」

 隣にいたサラが何一つ悩みのないような声でカラカラ笑った。実際これまで真剣に悩んでいるサラの姿を見た事がなかった。二人とは立って歩き始める前からの付き合いだ。ある意味、家族よりも親密だった。身内だからこそ話せない事もある。

「ま、確かに寝坊は事実ね」

 それは素直に認める事にした。そこから先は安易に口にしたくはないが。

「寝坊ってあなただけ? さっきアリスがクールダウンで校庭軽く走ってたわよ。みんなで仲良く寝坊したとか?」

 屈んだ拍子にそのままずっこけそうになった。図星だけに言い返せない。

「え、何。本当に家族皆で寝坊したの?」

「昨日そんなに大変だったの?」

「大変なんてもんじゃなかったわよ。一週間分の仕事が半日に集中したんだから」

 思い出そうとするだけで吐き気がした。家からここまで全速力で走って来たとしてもこうはならない。

 足元にいた兎が鼻先を太股に押し付けていた。頭を撫でて抱き上げると大人しくなった。

「大変ったって一人泊まっただけなんでしょ?」

 兎を抱きながらも、エレンはその間に餌箱を片付けたりゴミを拾ったりと常に動いている。この辺は姉三人の手際の良さに匹敵するものがある。本人いわく、「退屈が嫌いなだけ」らしいけど。

「その一人が大いに問題だったの。一人でどれだけ食べたと思ってるのよ。買い溜めしておいた食材が一日でなくなっちゃったんだから。おかげで今日も買い出し行くみたいだし」

「その割には随分嬉しそうに話すんだね」

 本人は別段これと言った意図もなく口にした言葉なのだろう。カティの反応が一瞬鈍った。サラは驚いたように目を丸くした。

「何? 何かいい事でもあったの?」

 途端に目の色を変える。どうして何かあると必ずと言っていいほど色恋沙汰に話を持って行くのだろう。これに関して言えば男も女もないように思う。実際そうだろうな。クラスで無遠慮に盛り上がっている男子の話題に耳を傾けてみると、大抵下ネタか誰が可愛いだの付き合いたいだのそんな話ばかりだ。スケベな内容が殆どだけど、それ以外は女子連中諸氏も大して変わらない。つまり、そういう事だ。

「別に、何もないわよ」

 ちょっと顔を背ける。厳密に言わなくてもそれは事実とは程遠い。思い切り何かありました。でも、それを素直に口に出来るだけの勇気はまだなかった。私だけじゃないよね、と思いたい。誰にだって、人に言いたくない事くらいあるに決まっている。

「そうなの? 昨日カティの店にあの馬鹿連中も来て、で大暴れしそうになったあいつらを止めたのが彼なんでしょ」

 よくご存知で。出そうになった声を辛うじて喉元で抑える。サラは無邪気にニコニコしている。

「どうしてそんな事まで知ってるのよ」

「だって、昨日は一日その話題で持ちきりだったのよ。そのど真ん中にいたあんたが何すっとぼけた事言ってるのよ」

 全く。エレンは両腕以外に肩と頭の上に兎を載せている。馬鹿にされているとしか思えない。少なくとも、まともには相手にされていない。それは間違いない。でも、指摘している内容は極々真実に近い。スルドい。

「それに、そのお客さん、あいつらが暴れ出そうとした時にお店の誰かを助けたって聞いたわよ。それってあなたじゃないの?」

「違う違う違う違う!」

「どうしてそんなにムキになって否定するのよ」

 耳の先まで真っ赤にしているカティとは対照的に、兎の頭を撫でているエレンは飽くまで冷静だった。

「だから、図星なんでしょ?」

「だから違うって言ってるじゃない!」

「ムキなって否定するから余計に怪しいのよ」

 サラは抱っこしている兎を無理矢理バンザイさせながら言った。かなり強引に腕を広げられているが、嫌がっているようには見えなかった。可愛い。勿論兎が。

 エレンが眠そうに欠伸をした。起きてから三時間近く経っているからそれも無理はない。隣にいるサラは何を考えているのかよく判らない表情でキャベツの切れ端を兎に与えていた。

出来る事ならカティももっと早い時間にここに来たかった。でも、家庭の事情がそれを許さない。イリナ姉も含めて、余程の事がなければ朝練には出なかった。出られなかったと言った方が正確だろうな。そこで一人だけ我が儘を言う気にはとてもなれなかった。そんな勇気はない。

 エレンは学校の隣にある農場の娘だった。季節によっては日が昇るよりも遥かに早い時間に起きる事もさして珍しくはない。椅子に座ってボーッとしているならこんなに楽な事はないけど、朝早くに起きてそんな事をするくらいならまだ寝てるな。牛舎の掃除をしたり、餌場に新しい飼い葉を運んだり、飼育している動物の食事を作ったりする事もあるみたいだった。別に珍しい事ではない。親を、家業を手伝うのは誰しも変わらない。隣にいるサラの親は獣医だった。家に患畜を診る部屋はあるみたいだけど、専ら往診が主みたいだった。判りやすく言えば、医者と患者の関係だった。年がら年中動物も風邪をひいたり体調を崩したりする訳じゃない。でも、定期的に診る必要はあるだろうな。そう、人と変わらない。親が忙しく患畜を見ている背中で無邪気に動物と遊んでいたのがサラだった。二人とも動物と接する環境がすぐ側にあった。カティにはそれが羨ましかった。出来る事ならこうして少しでも長く動物と戯れていたかった。友達と遊ぶ事も沢山あったけど、それ以外にも昔は放課後にエレンの家(正確には牛舎や馬小屋)や山に足を運んだ。肌に触れ匂いをかぎ、目を見て笑う。人と何も変わらない。大きく違うのは決して嘘を吐かないという事だろうか。だから好きだった。学校がなければ気が済むまでこうして動物と遊んでいられるのに。

 肩で遊んでいた兎が首を伝って頭に載った。すっかりはしゃいでいる。可愛い。

「で、実際どうだったの?」

「あなた、言わせたいだけでしょう?」

「やっぱり図星なんだ」

 あ。思考と一緒に表情が固まった瞬間、二人は込み上げた笑いを堪える事もせず盛大に吹き出した。取り囲んでいた兎が慌てて逃げていく。

「本当だったら最初からそうだよ、って言えばいいじゃない」

「言える訳ないでしょ、そんな事」

 今日店に来た旅の人に危ないところを助けて頂きました。そんな事を普通に言えると思っているのだろうか。そこが当事者と第三者の違いだ。実際にその場に居合わせた人間と、それを後から人伝に聞いた人間とでは同じものを見ていても受ける印象が全く違う。それを補えるだけの想像力があればいいけど、それを会話の中で咄嗟に発揮出来るほど機転が利く人はそうはいない。

「ホントに、昨日は一日大変だったのよ」

「そうみたいね。悪漢に襲われるわ、店中の食材を粗方一人で食い尽くされるわ」

 その場に居合わせた訳でもないのに、まるでその様子を見てきたかのような言い方だった。エレンに言わせれば「見なくても判る」事なんだろうな。想像つくわよ、大抵はその一言で一蹴される。でも、その瞬間私がどんな顔をしてたかなんて事はさすがに判らないに違いない。むしろ、判ったら怖い。

「でも、どんな感じにヤバかったのよ。まさかいきなり殴りかかって来た訳じゃないんでしょ?」

「暴力的な連中だけど、そこまで原始的ではなかったわね」

 父の推論が事実ならば、相手の裏をかく程度の知恵はあるようだった。それを評価する事はとても出来ないけど。知恵と言っても悪知恵だし、その使い方も最低だった。本当にロクな連中じゃない。何事もなくて良かったと今更ながらに思う。助けてくれたウォッカに改めて感謝した。その時、彼にそういう意思があったかどうか、冷静に考えるとちょっと判らない。それでも構わないような気がした。助けてくれた事は確かだし、ウォッカの行動の是非について外野の人間がどうこう言う事なんて出来ない。彼の行動は彼にしか決められない。

「ま、良かったじゃない。怪我もなくて」

 両手が塞がった無防備な状態で一度転んでいる。でも痛みも何もなかった。気が動転していたと言われればそれまでかも知れないけど。

「ねね、その助けてくれた旅の人ってどんな人なの?」

 好奇心を抑えようともせず、サラは体を思い切り前に乗り出して言った。素直と羨むべきか無神経と呆れるべきかかなり真剣に迷うところだ。

「体は馬鹿みたいに大きくて、あ、気持ちもそれに負けないくらい大きいかな」

「ふ~ん、そうなんだぁ」

 頬を人差し指でカリカリ掻きながらサラは首を傾げる。

「どうしてそう思うの?」

 当たり前のように投げ掛けられた質問を聞いて初めて後悔した。発言の迂闊さを呪ったところで何も始まらない。と思った時には、悪戯坊主みたいな顔をした二人が手ぐすね引いて待ち構えていた。理由を聞くまで絶対に納得しないだろうな。

「コラコラ、お三方。話に夢中になるのはいいけど、そろそろ教室に行かないとまずいわよ~」

 飼育小屋の金網越しにアリスがネットリとした粘着質な視線を浴びせかけていた。頬や首筋の辺りに滴った汗が日の光を受けてキラキラ光っている。

「わ、ビックリした。先輩、いたんですか」

「いましたとも。どうせ今頃はこんな風にして話に華を咲かせてるのかな~って思ってたからね」

 露骨に驚いたサラに、アリスは相変わらず不気味に笑った表情を崩さなかった。

「いい加減動かないと、それこそ本当に遅刻よ」

「そうね。そろそろ行きましょうか」

 エレンが曲げていた膝を伸ばすとそこに載っていた兎が地面に飛び降りた。

「彼がどんな風に気持ちが大きいのか、後でちゃんと聞かせなさいよ」

 抜かりなく覚えている辺りが困る。サラはともかく、エレンはこういう言葉は絶対に聞いているし、忘れる事もない。しつこく詰め寄られる前に白状した方が楽な事は確かだった。隠すつもりがなかったと言えば嘘になるけど、口が滑ってしまってそれを聞かれた以上、逃げおおせる事などまず出来ない。素直に両手を上げるのが賢い選択だろう。

「楽しみね」

 上手く本音を引き出す事に成功したサラはしてやったりというように唇の両端を上げてほくそ笑んだ。

「それじゃ、早いところ行きましょうか」

 垂れ下がっていた胴着を帯を引っ張って肩にかけ直したアリスが勢いよく駆け出して行く。今の今までやっていたはずのクールダウンは一体何だったのだろうか。多分、当の本人が真っ先に、そして間違いなくそれを忘れている。教室に着く頃にはまた汗だくだろうな。

「急がないと本当にヤバイわ」

 アリスのすぐ後ろを走っていたエレンが走る速度を上げた。幼い頃から肉体労働に従事しているだけあって、体力は下手な男子に引けを取らない。殿を務めているサラは早くも息が上がりそうになっていた。

 さっき朝御飯を食べたばかりなのに、もうお腹が空き初めていた。食べた後にすぐ走るからそんなに食べられないのもあるんだけど。お昼に食べるお弁当が今から楽しみだった。自分で作るようになってから食べるのがもっと待ち遠しくなった。自分のために一生懸命頑張るのも悪くない。柄にもなく、そんな風に感じたものだ。

 空は馬鹿みたいに青々と晴れ渡っている。少なくとも、学校で大人しく授業を受けるには一番不向きな天候である事は間違いなさそうだった。


 馬車から降りたダンを見た瞬間、酒屋の店主は露骨に眉値を寄せた。どうして来たのか判らない、そんな顔をしていた。無理もない。

「確か、昨日の夕方前に買い出しに来てたよな」

「ああ」

「で、それから一日も経ってないのにまた来る理由が判らないな」

 買い出しだろ? と言う質問に対して無言で頷く。それ以外に朝っぱらから酒屋に行く理由があるなら教えて欲しかった。まさか利き酒をやりに来たとでも思ったのだろうか。

「なあ、一つ聞いていいか」

「ああ」

「あれだけ買って行った酒がどうして昨日の今日でなくなるんだよ」

 今度はダンが眉間に皺を寄せた。的確な返答が思い付かない訳ではないが、説得するには些か力量が不足気味だ。どうせ言ったところで信じない。そんな頭があった。馬車の荷台にいるイリナは最初から説明する事を放棄するように肩を竦めたまま首を横に振っている。

「ジンを一気呑み出来るか?」

「おいおい馬鹿にするなよ。それくらい毎晩必ず一度はやってるぜ」

「それをグラスじゃなく瓶でやるとしたら?」

「命に関わるな」

 至極全うな回答だった。疑問を挟む余地もない。

「そのペースで呑まれたら減るのも速いだろ」

「そもそも、どうしてそんなペースで呑めるんだよ」

 ダンは何も言わずに首を振った。酒屋の主人は言葉もなく立ち尽くした。

「冗談だろ?」

「冗談じゃないから、今こうして買いに来てる訳なんだがな」

 ありったけをくれとは一言も言っていないが、酒屋の店主は店の表にある酒を順繰りにバルコニーに並べ始めた。

「適当に持って行ってくれ」

 呆れたような、或いは諦めたような顔をして店主は溜め息を吐いた。適当にと言われても困るが、少なくともこちらが欲しい酒をあれこれ指示するよりかは明らかに楽だった。

 いつの間にか荷台から降りていたイリナが整然と並べられた酒瓶の前で腕を組んでいた。

「どれにする?」

「高いのは必要ないんじゃない?」

「どうして?」

「質より量でしょ」

 どう見ても。何せ瓶ごと一気に空けるような男だ。高いのは勿体無い。所望されれば話は別だが。

「じゃ、このジンを……そうだな、二十本くれ」

「随分豪快に頼むな」

「懐は心配しなくていい」

 懐から引きずり出した布袋を手の甲でパンと叩いた。一枚一枚数えた訳ではないが、全部金貨なら結構な額だ。どうしてこんな大金を持っているのだろう。疑問に感じたところでこれが一家の懐に入って来た事に変わりはない。それがこうして(主に)彼が呑む酒に姿を変えるだけの話だ。金の使い方としてはまともと言うか当然過ぎるくらいに全うだろう。

「もう少し用意しておく?」

「その方が無難だろうな」

 アルコールなら何でも良さそうな気がするが、途中で味が変わった方が刺激になる。それで多少でも酔いが速く回ればいいのだが。

 注文したジンに紛れるようにして、イリナがラムやメスカルをカゴに入れている。

「それは?」

「一番呑むのはウォッカだろうけど、一人で呑む訳じゃないでしょ」

 正論だが、方便も含まれている。単に呑みたいだけだろう。明日は定休日だし、ダンにしても呑みたい気持ちはある。ここは多目に見るとしよう。

「後は何を買いに行くんだ?」

「米に野菜に肉も必要だな」

「調味料も用意しておいた方がいいわよ」

「大変だな」

 声をかけた店主の顔がウンザリしたように歪んだ。同情してくれているのは間違いないが、代わろうなどとは絶対に考えていない。そういう顔をしていた。

「仕事だよ」

「ウォッカもいつまでここにいるか判らないにしね」

 彼がどれくらい滞在するかは判らない。本人に長居する意思がなかったとしても、この街の置かれている現状がそれを許さない事も可能性の一つとして考慮しておく必要はあるだろう。何れにしても、もう少し考える必要がある。

 酒瓶全てを積み終えるのにそれほど時間はかからなかった。さすがに二人いると速い。思い切り力仕事だがそれを極普通に娘に任せている。任されている娘も別段拒む事もなく、そんな素振りすら見せず積極的に手伝ってくれている。正直非常に有り難い。高等部を卒業したら家業に専念出来るからいくらか楽にはなると思ったが、想像以上だった。

 荷台に座ると馬、ラストルが少し高い声で嘶いた。この馬も元々飼うつもりはなかった。ミリアムが馬が欲しいと言い出したのは今から二年前の事だった。騎乗で槍を扱う事もある。だからどうしても馬を飼いたい。ミリアムは普段滅多に我が儘など言わない。ましてや馬だ、本を一冊買うのとは訳が違う。そんな次女が頭を下げて懇願して来たものだからダンも、そして妻も面食らった。取り敢えず椅子に座らせて話を聞いた。もっと上手く槍を扱えるようになりたいから、だから私も馬に乗れるようになりたい。騎乗で槍を使う様子はダンも戦地で何度か見かけた事はあるが、騎兵は例外なく男だった。女の騎兵など見た事もない。そもそも戦場に女の姿自体がなかった。余程腕が立たない限り戦力とは見なされない。それに、いつ命を落とすとも知れない戦地に進んで女を向かわせる事などダンには絶対に出来なかった。想像すらしたくない。最悪殺される事は辛うじて免れたとしても、その後は更なる生き地獄が待っている。そんな時代が過ぎて良かったと心残り底から思う。そういう物騒な頃を思い出させる事にあまり積極的に係わって欲しくないが、無理矢理止める事も出来ない。どう行動するかは娘の自由だ。槍術を習う事自体をどうこう言うつもりはないが、そこまで本格的に取り組まなくてもいいのではと言うのがダンの本音だった。当時はまだ十六歳だったが既に相当な腕前を持っていた。事これに関して言えばミリアムだけでなく、イリナもアリスもそうだった。三人とも生まれながらにして武の才があった。慢心せず、それどころか向上心を持って事に臨む姿勢は非常に素晴らしいと思う。それで十分だった。でもあからさまに首を横に振る事はしなかった。馬がなくても十分に強いよ。そう応えたダンに、ミリアムはしばらく考えてから言った。

「きっと、役に立つから」

 ある程度確信はあったのだろう。そうでなければあそこまで自信を持って言えない。自分の都合以外に、こういう用途で使われる事も考慮していたに違いない。それ故の行動だとしたら、周りがしっかり観察出来ている。逞しいと言えば聞こえはいいが、子供の割にはしたたかだった。

 酒瓶を満載した馬車がゆっくりと走り出す。イリナが時折振動で揺れる瓶を両腕で抱えた。買うべきものはまだあるが、荷馬車は疲れた様子もなく春の日差しを浴びながら元気よく闊歩している。

 決して安い買い物ではなかった。だが、こうして家業を間接的に支える作業に大きく貢献している。これを見越しての事に違いなかった。やっぱりしたたかだ。馬での通学は禁止されているが、昨日のように休日の場合は稀に許可が降りる事もある。騎乗で槍を扱う時は大手を振って家を出ている。ダンが知る限りで、普段あまり感情を表に出さないミリアムが見せる一番嬉しそうな瞬間だった。見ているこっちも自然と微笑んでしまう。世話も基本はミリアムがしている。飼いたいと言った本人が面倒を見るのが筋だろう。これについては本人も含めて誰にも異存はなかった。それでも、誰も全く手をつけないなどと言った事はない。手が空いた時は餌をあげたり納屋の掃除をしたりする事もある。率先して、と言うより喜んで手伝っているのはカティだった。馬を飼いたいと言ったミリアムを積極的に後押ししていたし、飼う事を許した時はミリアムと手を繋いで飛び上がっていた。そんなに嬉しいものなのかと思うが、当人にして見ればそれだけ嬉しかったのだろう。ミリアムは馬が飼える事を真剣に喜んでいたが、カティは動物を飼える事を手放しに喜んでいた。動物が好きなのだ。それを素直に歓迎していた。

 そして、今は飼い始めた馬がこうして家業に大きく貢献している。ミリアムからして見れば鼻も高かろう。全く、本当にしっかりしている。こういう処は間違いなく母親譲りだろうな。

 もうかなり日が高くなっている。今日も暑くなりそうだった。

「ウォッカは今頃どの辺りにいるかしらね」

「そろそろ学校に着いていてもおかしくない頃なんじゃないかな」

 どれだけ歩くのが速いかは判らないが、何度見ても鈍足と言う気がしない。逆に馬鹿みたいに速いのかも知れない。その方が彼のイメージに綺麗に当て嵌まる。

「何れにしても、もう本人に渡していてもいい頃合いか」

 そう、順調に行けば。そして本来の目的に移っているはずだ。学校に寄るのは飽くまでついででしかない。

「ひょっとしたら、昼過ぎには何処かで会えるかも知れないわね」

 半ばそうなる事を期待しているのか、イリナは楽しそうに言った。

「会えたら一緒に飯でも食いに行くか」

 丁度昼時に会えたらそれもいいかも知れない。そういう偶然は不思議と心をウキウキさせてくれる。と言う事は、ダンにも内心ではウォッカに会う事を期待しているところがあるのかも知れない。口下手と扱き下ろすほど話が苦手な訳ではないが、聞いていて思わず吹き出しそうになるような軽妙な話し方でもない。だが一緒にいると妙に気持ちが軽くなる。理由はよく判らない。それも彼の人徳によるものなのかも知れない。

 彼が弁当を届けると言った時、本音を言えばやっぱり嬉しかった。たった一日過ごしただけなのに、そんな事にまで気を配ってくれる。おせっかいと煙たがる輩も中にはいるかも知れない。本人がどう考えているかは判らない。ただ、そういう些細な気遣いは体の芯がホンノリと温かくなる。それを隠そうとしただけ、と言われたら首は横に振れない。妻が指摘する通り、もう少し素直に生きた方が楽に過ごせるのかも知れない。何も考えず、易きに流れて行ければそれほど楽な事もないだろう。だが現実はそれを許さない。それを刺激と呼ぶか程よい重圧と解釈するかは意見が別れるところだろう。ダンも自分を天秤にかけた場合、どちらに傾くのか判らなかった。

 あまり長々と買い出しに時間を費やすのは巧くない。妻一人に任せるのは流石に悪いし、そうでなくてもやる事は山積みなのだ。ウォッカと何処かで落ち合えて昼飯でも一緒に食べられれば何よりだが、さっさと済ませて妻の負担を軽くする方が選択としては遥かに現実的だった。何より、あれも間違いなくそれを望んでいる。聞かなくても判る。振り向くと、イリナが酒瓶を抱えながら酒の品定めをしていた。明日は休みだ、今から夜が待ち切れないのだろう。気持ちは判る。ダンも逸るところはある。それを表に出さないだけだ。

「今夜は、昨日よりもうちょっとゆっくり呑めそうだな」

 長女は悪びれる様子など微塵もなく、あっさり頷いて見せた。今から楽しみなんだろうな、と言うのがありありと判る。そんな顔をしていた。

「さっさと済ませて夜に備えるか」

 イリナは顔を上げると白い歯を見せて笑った。手綱を握り直して空を見上げる。馬鹿みたいに晴れ渡った空をトンビが一羽、悠然と舞っていた。


 風が流れる音に混じって、時折小鳥のさえずりが耳に吸い込まれる。教室から思い出したように笑い声が響く事もあるが、広い校舎の大半を占めているのは間違いなく静寂だった。だが、一度チャイムが鳴れば寝た子を起こしたように雰囲気が一変する。水中から出た瞬間に一気に息を吐き出すようにして騒ぎ出す。授業中はそれだけ抑え込んでいるものがあるのか、それとも単に集中しているだけなのか。どちらにしても、今の子達は皆真面目だ。寝る事こそあるものの、サボるような真似はまずしない。学校そのものの指導も去る事ながら、家庭での教育に依る部分もあるに違いない。口の悪い連中に言わせれば、ようやく訪れた平和な時代なんだから、また悪さをしでかさないようにまともな事を頭に叩き込んでおけ、とでも言ったところなのかも知れない。同世代の人間の識字率は極端に低い。それが上昇に転じるには少なくとも十年は待たなくてはならない。流石に今はそれも無事克服している。遅れた分苦労もしたが。よくよく冷静に考えてみれば、いや冷静に考えるまでもなく自分が子供の頃にはこんなところにはいなかった。大抵の場合は畑か、そうでなければ雑踏の中だった。最も明確な記憶は空腹だ。飢えと言った方がいい。常に腹は減っていた。それこそ気が狂いそうなくらいに。だから、それを満たす事が最優先された。生きなければ、食わなければ死んでしまう。食う事にただただ躍起になっていた。何より、毎日学校に通える程呑気な時代でもなかった。何処かで誰かが息を引き取る。それが赤の他人だった、それだけに過ぎない。明日その順番が突然回って来たとしても何の不思議もなかった。それが日常だった。

 肩にかけていたタオルで滴る汗を拭う。まだ四月だと言うのに結構な暑さだった。椅子に腰を下ろすと水差しからコップに水を注ぐ。仕事を片付けるなら授業中に限るな、と内心で考えながらガイデルはコップの水を口に含んだ。窓の外を眺める。もうかなり高い位置から日が差していた。四月の太陽は昼前でこんなところにいただろうか。その時は覚えていても一年も経てば何の記憶も残らない。年を食うとこんなものか、と自嘲気味に笑う。昇降口と納屋の掃除も終わっている。今の段階でやるべき事の大半は片付いているのだから、多少ゆっくりしたところで大きな問題はない。そして文句を言われる筋合いもない。ガタガタ口を挟む輩もいないのだが。背凭れに預けた背中を大きく反らせる。程よく力が抜けて来た。気まで抜けると流石にまずいが。

 昼間の学校に部外者が姿を見せる事はまずない。だが、目を逸らした隙に見も知らぬ輩に中に入り込まれるのはどう考えても上手くない。仕方なくと言う訳ではないが、頬杖を突いたまま校門を眺める。どうせ誰も来ない。呑気にそう考えて欠伸をしようとした時、人影が門を潜った。目論見をあっさり覆された事に対する決まりの悪さよりも、その人物への興味が勝った。男である事はまず間違いない。あんなデカい女がいたら、女という性に対して今後絶対に魅力を感じなくなる。デカいのみならず全身が筋肉で張り詰めている。よくもまあここまで鍛えたものだ。下手な兵士なら裸足で逃げ出しそうだ。誰かはすぐに判った。無論面識はないが。帽子を目深に被っているので表情は窺えない。遠目に見てもハッキリそうと判る程薄汚れた帽子だったが、清潔さよりも野性味に溢れたこの男にはその方が雰囲気と噛み合っていた。かいた汗は手拭いなどは使わず何の躊躇いもなく袖で拭う。それに疑問も違和感も持たない。断言してもいい。洗練された清潔さとは最も縁遠い男だった。と思った矢先に頬を滴っていた汗を右の袖で拭う。思わず吹き出しそうになった。ここまで律儀に期待に応えてくれるとは思わなかった。男は軽い足取りで校舎に近付いて来る。背中には小柄な人間ならスッポリ収まってしまいそうなくらい馬鹿デカいリュックを背負っている。どうしてそこまで大きなリュックを持ってこんな所に来る必要があるのか。ダブついているので重そうには見えない。とすると中はほぼ空か。つまり、これから中にモノを詰めていくのだろう。

 男は玄関で見るからに重そうなブーツを脱ぐとこちら、つまり受付の守衛室に歩み寄って来た。男が頭を下げるより先に、ガイデルは閉まっていたガラス戸を開けた。

「いらっしゃい」

 どうも、と男が被っていた帽子を脱ぐ。硬いのかボサボサなのか判らない髪が顔を出した。

「高等部の校舎はどちらですか?」

「ここだよ。隣の校舎が中等部、その更に隣が初等部」

「成程」

 男はいまいち納得しかねるような顔で頬を掻いた。

「俺はてっきりここが初等部かと」

「ああ。確かに昔はそうだったよ。終戦から間もなくはな」

「成程」

 さっきと同じ相槌だが意味合いは全く違う。

 物騒な戦争が終わって戦地に駆り出されていた男が戻ってくる。長いこと待たされていた女が男と一緒になればする事は一つしかない。

 改めて考えるまでもなく、子供は平和の象徴だった。そして未来への希望でもある。だから、学校の担う役割は非常に重要だった。同じ過ちは二度と繰り返してはならない。戦後間もなくわんさと生まれた子供を、この一番大きな校舎で育てた。

「二十年前くらいですかね」

「ま、そんなもんかな。あの頃はそこら中に子供が溢れてたな」

「そういうのは何処も変わらないんですね」

「文化や宗教に多少の違いはあっても、つまるところは同じ人間だからな、やる事なんか大して変わらないさ」

 肌や髪の色、崇める神や風習に違いはあれど、飯を食わなければ人は死ぬし男と女が一緒になれば子が出来る。それだけの事だ。

「あんた、生まれはいつだい?」

「終戦の翌年ですよ」

「するってぇと、まだ二十歳かい」

 椅子から立ち上がって男の顔を食い入るように見る。とてもそんな年には見えない。

「十才くらいサバ読んでるとか」

「よく言われますね。でも、正真正銘二十歳ですよ。つい最近なったばかりだけど」

 髭は剃ってあるが、伸びれば風貌もガラリと変わりそうだ。何より落ち着いている。つい二年前まで学校に通っていたなどとはとても思えない。見た目だけの問題ではない。

 ガイデルは腕を組んだまま椅子に腰を下ろした。見た目はともかく、彼の持つ雰囲気は実年齢のそれを遥かに超えている。結構苦労しているのかも知れない、かつての自分と同じように。

「で、どうしたんだい? わざわざこんな所に足を運ぶなんて。また一から勉強やり直してみる気にでもなったかい?」

「いや、それは流石にごめん被ります」

 男は顔の前で左右に手を振ると、背負っていたリュックの口を開いて中をまさぐる。

「忘れ物を届けに来たんです」

 男は中から取り出した巾着袋を右手の指先に引っ掛ける。

「昼飯を忘れるとは何とも気の毒な話だな。誰だい?」

「カティ。カティ・ランスローですよ」

 ガイデルは額を右手でピシャリと叩いた。彼は昨日この街に来た後、ダンの店で厄介になったと聞いている。と言うより人が宿泊出来るところはそこしかない。そこの関係者が忘れ物をしたとなれば、真っ先にここを思い浮かべたとしても何ら不思議はない。多少勘が鋭ければすぐに気付いたはずだ。

 全く、ホントに最近耄碌して来たな。

「カティのか。全く、あの子らしいな」

「ご存知なんですか?」

「ああ。よく知ってるよ。あの子だけじゃなく、四人ともな」

 男は驚いたように目を丸くした。この老いぼれと四人の間に接点を見出だせないに違いない。

「上の三人、武術やら剣術やら、あと槍を習っとるのは聞いてるかい」

 ええ、男はと頷いた。

「その師匠が俺だ」

 立てた親指で自分の胸を指した。男はへぇ、と声を上げた。

「あいつらがこまい頃からずっと面倒を見て来てる。ひょっとしたらダンよりもこっちの方は細かく把握してるかもな」

 右の二の腕を軽く叩いて見せる。実際そういう自負もあった。まだ幼かった頃から、ずっとここで面倒を見て来ている。叱る事も決して珍しくはなかったが、それでもめげる事もなく食らい付いて来て何年経ったのか判らない。単に根性と言う汗臭い言葉だけで片付けるのは明らかに乱暴だった。まだ幼い頃から、多少キツいくらいではへこたれない体力と何度でも立ち上がれる気力が既に養われていた。練習だけで培われたものではない。それは容易に想像出来た。それが三人を突き動かしている。そういう事情をよく知らない連中は、持って生まれたものが違うとか才能だとかと実によく判ったような適当な言葉を平気で口にするが、実際はかなり違う。筋がいいのは確かだ。しかし、それを遥かに凌駕する努力を三人は重ねている。それを知っている者はそういない。そこが少し誇らしかった。

「剣も槍も、武術もあなたが教えてるんですか?」

「主に剣と武術をな。槍は基本的な手解きをしたくらいか。俺もそこまで専門的に扱って来た訳じゃないからな」

 それでも、比較的不得手な槍を得物にしていても弟子相手に不覚を取る事はまずない。武術や剣術なら尚更だ。

「後は臨機応変と言えば聞こえはいいが、状況に応じた型や返しを教えていく。それだけだよ」

「それで十分ですよ。状況の変化に素早く対応出来ないから手詰まりになるんじゃないですか?」

「さあ、どうだろうな」

 知ったような口振りだが、知ったか振りではない。実際に経験を積んでいる人間の言葉だった。だとしたら、二十歳そこそこのこの若者はこれまで一体どんな道程を歩んで来たのだろうか。そこに純粋に興味があった。

「お前さん、昨日この街に来た旅の人だよな?」

 男は別段顔色を変える事もなく、眠そうにしていた目を少しだけ開いた。

「よくご存知で、と言いたいところですけど、やっぱり判りますか」

「これだけ小さい街だと人の出入りってのはそれだけで話の種になる。そこまでデカいナリであそこまで派手な事やらかせば尚更だよ」

「派手な事?」

 全く心当たりがないのか、男は眉を潜めると言葉の意味を吟味するように腕を組んだ。

「兵隊二人をぶちのめした、って聞いてるけどな」

「耳が早いですね」

「そんなもんだよ。話が伝わる速さなんてものは」

 人の口に戸は立てられない。見たままを口にするのはそうやって吐き出したい欲求を満たすための始めの一歩でしかない。分別や配慮が介入するのはそこから更に少し先だ。況してや口止めされている訳でもない。

「飯の邪魔したから叩き出しただけですよ」

「一人は腹を思い切り蹴飛ばして、もう一人は放り投げたって聞いたぜ?」

「軽く蹴っただけですよ。本気でやったら胴体に風穴開いてます」

 それが事実だとしたら、一体どれだけの脚力だろうか。あながち冗談にも聞こえない。

「放り投げるにしても、大の大人を片手で投げ飛ばす腕力なんてものは普通の人間にはないぜ」

「あいつが馬鹿みたいに軽かっただけですよ。図体だけ無駄にデカい癖に、中身は藁みたいに空っぽだった」

「空っぽか、そりゃあいい」

 相好を崩すと男も満足そうに笑った。男が指摘する通り、あいつらでの中でキチンと中身が詰まった輩など見た事もない。ろくでなしが服を来て歩いている、そういう連中だ。

「人が人を投げようとする場合、相手も抵抗するから容易には投げられない。だから投げに入る前にやらないといけない事があるんだが、兄ちゃん聞いた事はあるかい?」

「崩しですか?」

 即答出来るところを見ると、単に概念として理解しているだけでなく実際に体現出来る、それだけの技量を間違いなく備えていると見ていいだろう。技術がそれに伴っている方が、闘う人間が持つスタンスとしては崩しと言う知識しかない事よりも遥かに自然だった。力任せに投げ飛ばそうとしかしない人間には永遠に辿り着かない発想だ。

「片手で持ち上げて投げれば崩しも何もないな」

「持ち上げる事が崩しそのもの、って見方もあると思いますけど」

 男は白い歯を見せて悪戯っぽく笑った。悪ガキそのものの笑い方だった。

「っとすみません。図に乗りすぎましたね」

 ガリガリ頭を掻きながら頭を下げた。言葉は詫びているが態度には悪びれた様子がない。それでもこれと言った不快感はない。いい感じに力が抜けている。これが自然体だとすれば実に理想的だった。

「そう言や自己紹介がまだでしたね」

 男は背筋をピンと伸ばした。目を閉じて軽く頭を下げる。

「ウォッカ・レイガンスです」

「ガイデル・バーンズだ。よろしくな」

 ガイデルも立ち上がった。中途半端に腰を折ったまま、二人を隔てていたガラス戸を開けて右手を差し出す。

「こちらこそよろしくお願いします」

 ガイデルの右手を握り返す。体格に見あったデカい手がガイデルのそれをスッポリ包み込む。汗で少し湿っていたが気にならなかった。

「いい拳だな。本気で殴ったらさぞかし痛えだろうな」

「大丈夫です。どういう場合でも手加減はしますから」

 殴る可能性を否定しない。無理矢理隠したところでバレる事は明らかだ。ある程度経験があればすぐに判る。動作や立ち振舞い、そんな何気無い所作の中に痕跡が残る。それを見れば一目瞭然だった。知っているから判る、知らないから気付かない。経験とはそういうものだ。

「ところで、アリスはウォッカを見て何か言って来ちゃいないか?」

「今朝方早々に手合わせの依頼を頂戴しましたよ」

 ガイデルはウンザリして、それでも何処か諦めたように肩で溜め息を吐いた。

「弟子の中であいつが一番血の気が多い。男を入れてもあれ以上の奴なんか何処にもいないからなあ」

 ウォッカは声を上げて笑った。ガイデルは苦笑いするのがやっとだった。

「あんたにしてみりゃいい迷惑だろうが、一つよろしく頼むわ」

「迷惑だなんてとんでもない。むしろ光栄ですよ」

 ウォッカは慌てて両手を顔の前で振る。

「あの子がやりたいならばいつでも応じますよ。でないと失礼だし」

「据え膳食わぬは何とやら、とも言うしな」

「そうですね。でも女に興味はありませんが」

 当たり前のような顔をして言う。嘘を吐いているようには見えなかった。

「俺みたいな老いぼれならともかく、年頃の男が随分味気無え事言うなあ」

「勝負が楽しければそれでいいんですよ。実際、誰もそんな事なんか求めちゃいないでしょうし」

「それは相手にも依ると思うぜ。そういう縁でくっついた奴らもいるからな」

 明らかに話が逸れてしまっているが、乗り掛かった船を無理矢理止めるのも些か不自然だった。それに、初対面の男相手にこういう馬鹿話が出来る事が純粋に楽しかった。人や会話に餓えている訳ではないが、今はこの時間を楽しみたかった。ウォッカには甚だ迷惑な話かも知れないが。

「ま、無理矢理くっついてくれ何て言う気は別にねぇけど、やる気も満々みたいだし一つ胸を貸してやってくれ」

「ええ、喜んで」

 ウォッカは拳で掌を叩いた。ドスの効いた音だった。

「ここに来る前は、やっぱり軍に籍を?」

「ああ。復員してこの街にな。丁度ウォッカが生まれた年か」

「そうですね」

 ウォッカが唇の端を上げて笑った。二十年。言葉にすれば僅かだが決して短い時間ではない。それでも、山の頂上からここを見下ろした時がまるで昨日の事のように思える。それも錯覚でしかないのだが。

「この街で生まれたんですか」

「いや、別にそういう訳じゃない。帰ろうにも帰る場所がなくてな。戦地で知り合った奴に誘われてここに来た。     

働き口も斡旋してくれたしな。手のかかる弟子も出来たし、本当に感謝してるよ」

 もっとも、その当人に面と向かってそれを伝えた事はない。言葉にするにはこっ恥ずかし過ぎる。そして、今となってはそれも叶わない。苦い後悔の味が口の中に広がった。それを押さえ付けるように無理矢理口を閉じる。

「出来がいいと言うか、血の気が多すぎて困るけどな」

「それでも、戦地の最前線から生還した方の指導を受けられるなんて恵まれてますよ」

「おいおい、復員したとは言ったが最前線とは一言も言ってないぜ? どうしてそう簡単に言い切れるんだよ」

「だってぇ」

 ウォッカは勿体つけるようにわざとらしく頬をカリカリ掻いた。

「死線を超えた人に指導されたからこそ強くなれた。個々の能力もあるでしょうけど、指導者が優れていたから伸びる部分も大きかった。俺にはそんな風に思えますけどね」

 椅子にふんぞり返りそうになるのを腹筋を思い切り硬くして何とか遣り過ごす。お世辞でも嬉しい言葉だった。

「コラコラ、誉めたって何も出ねえぞ」

「いえいえ。事実を申したまでですよ」

「半分はな。だがもう半分は違うぜ」

 気勢を削がれたのか、ウォッカは眉間にシワを寄せる。意図せず笑いが漏れた。

「俺はあいつらの背中を押しただけさ。そこから前に出るか止まるか、それとも下がるかはそいつにしか決められない。そうだろ?」

「そうですね」

 バツが悪いのか、それとも照れ隠しなのか、ウォッカは苦笑いしながら頭を掻いた。この男なら推して知るべしかという気もしたが。ふと思った。ただ口にしないだけなのだろう。それを見越しての発言ならこちらがしてやられた事になるが。

 今度はガイデルが苦笑いした。

「ところで、剣術、武術、槍術の一番弟子はやっぱりあの三人なんですか?」

「ああ、槍術はな。練習量は勿論だが、筋もいいし覚えも速い。創意工夫も欠かさないが、思考が硬いところが珠にキズだな」

「真面目そうですもんね、あの子」

 そう、真面目なのだ。呆れるほどに。どんなにキツい練習をさせても、それが義務である以上確実にこなす。弱音も泣き言も一切吐かない。汗を滴らせ、歯を食い縛りながらひたすら鍛錬に打ち込む。努力を惜しまない姿勢とへこたれない根性は素晴らしいが、どうしても力が抜けない。そこがミリアムの弱さでもあった。

「高等部の二年に上がる前から主将を任せてるが、後にも先にもあれに勝る腕を持った奴は見かけないな」

「凄いな、大したもんだ」

 ウォッカは腕を組むと感心したように肩を揺すった。

「って事は、剣術と武術は二人以上の腕を持った人がいると」

 ガイデルは黙って頷いた。ウォッカは楽しそうに笑った。これから遠足に行く幼子のようなワクワクした笑みだった。

「セージにトージ。セージが剣術、トージが武術だ」

「腕前は?」

「二人以上である事は確かだな。それでもそこまで大きな差じゃない。技術的には殆ど互角に近いが精神的な差の方が大きいかも知れねぇなあ」

 互いに限界まで打ち合えるだけの体力はある(それはそれで凄い事だが)。万策尽きかけた時にそれを表に出さない気力と己を奮い立たせる根性、そこはやたりセージとユーリの二人に軍配が上がる。

「時代が時代なら、みんな戦地に赴いていたかも知れないですね」

「それは間違いないだろうな。いつになるかは別にして、必ず武勲は上げてたろうよ」

 二十歳に満たない若者がそれだけの力量を備えている。そこに素直に驚くと同時に、そういう人材が求められていた時代が既に過去のものになっている事に対して遠慮なく快哉を叫びたくなった。あんな時代は二度もいらない。一度きりでも御免被る。当時の自分だったら、恐らく嫉妬していたかも知れない。それに気付いた時、そんな後ろ暗い感情すら忘れていた自分を知って歳を重ねた事を改めて思い知った。

 だが、戦争は終わってもその余波はまだ確実に残っている。それを否応なく見せつけられている現実に、嫌気を通り越して吐き気がする。

「ここでこうして切磋琢磨を重ねてるんですね」

「ああ。前までは確かにそうだった」

 ウォッカの顔が曇った。ガイデルは顔をしかめたまま眉を小指で眉の端を掻いた。

「今は、どちらに?」

「砦の地下牢にぶちこまれてる」

 ウォッカは表情を変えなかった。ただ流石に硬くはなっていたが、それが弛む事もそれ以上強張る事もなかった。ガイデルも黙っていた。無駄に言葉を挟む必要もない。

「つまり」

 ウォッカはこめかみの辺りを人差し指でトントン叩きながら言った。

「奴らの中にはそれ以上の力量を備えた人間がいる、と」

「そういう事になるな」

 腕を組んだまま、鼻からゆっくり息を吐き出す。ウォッカはそのまままんじりともせずに宙を睨んでいた。

「でも、全員が全員そこまで強い訳じゃないでしょう。いたとしても極一部、少数ですよね」

「俺も人伝に聞いただけだから詳しい事は判らねえが、一人だけ抜きん出て腕の立つのがいるって話だ。まだ三十そこそこみてえだがな」

 ガイデルの言葉の意味を図りかねたのか、ウォッカが微妙に顔をしかめた。

「それが事実なら、その歳ならば、その奴さん間違いなく従軍してねえ。やっと戦争が終わって落ち着いて来たって時に、何処でどうやってそこまでの実力を養ったのか、これまでどういう経験を積んで来たのか、それが純粋に疑問でな」

「お弟子さん二人はそいつにやられた、それは間違いないんですね?」

「ああ。でなきゃ返り討ちにしてるところだな」

 老いぼれて来たとは言え、サシでの勝負ならまず負ける事はない。奴らもそれなりに場数は踏んでいるようだが、こっちはそれ以上の修羅場を潜っている。ガイデルに言わせれば、ここにいるゴロつき共などヒヨッ子も同然だった。だが、その中の一人にしてやられている。それは確かなのだ。

 無意識で拳を強く握り込んでいた。爪が皮膚に食い込んでいるが気にならなかった。出来る事ならすぐにでも助けに行きたい。それもそう容易く実行には移せない。失敗した時のリスクがあまりに大き過ぎる。同様に、安易に街を脱け出す事にも二の足を踏んでしまう。脱出して外部に助けを求め、この街に戻って来るまで奴らに気付かれない保証などない。バレれば誰かが間違いなく殺される。だから誰も動けない。行動を起こせない。真綿で首を絞めるような状態を受け入れる事しか出来ない。歯痒いを通り越して、腹立たしかった。

 だがこの男なら、そんな現状を打開してくれるかも知れない。直接的な行動は起こさなくても、何かの切っ掛けになるだけでもいい。この街の置かれている状態が外部に漏れる事は、即ち奴らの終わりを意味する。ウォッカがこれから何をするのか、何処に行くかなど当然ガイデルには知る由もない。だが、ここに来てしまった以上、彼も一蓮托生なのだ。最後まで付き合ってもらうより他ないだろう。

「何かしない事には何も変わりそうにありませんね」

「問題は何をするか、って事だな。そちらさんはどうする?」

「取り敢えず、旅に必要なモノを買い揃えますよ。米とか乾物とか」

 そのまま椅子からズリ落ちそうになったが、ウォッカが手っ取り早く手をつけられそうな事を挙げるとすれば精々そんなところだろう。それを責める事など出来ない。

「何かあったら声かけて下さい。体はいつでも空いてますから」

「取り敢えず、一杯呑もうぜ。夕方まではこっちを教えなきゃならないから多少遅くなると思うが」

「一向に構いませんよ」

 ウォッカは胸の前で親指を立てた。ガイデルも笑いながら頷き返した。明日は水曜だから店も定休日だ、普段よりもいくらかゆっくり呑める。と思う。宿泊でもないのに閉店ギリギリまでいたら誰かが思い切り顔をしかめそうな気がするが。

「教室はどちらに?」

 ウォッカは腕にかかっていたリュックを肩にかけ直した。

「悪い悪い。そうだったな、すっかり忘れてた」

 ガイデルは椅子から立ち上がるとガラス戸を開けて右腕をつき出した。

「廊下を向こうの方に真っ直ぐ歩いて行くと左側に階段がある。二階が一年生の校舎だ。一組、だったはずだ、確か」

「よく覚えてますね」

 ガイデルは腕を組んだままガガガと声を上げて笑った。

「今子供を見るのは部活だけだが、昔は体育も俺が教えてたからな。顔と名前は全員覚えてるよ」

「素晴らしい記憶力ですね」

「昔ちっちゃかったのが単にデカくなっただけだからな、別に難しい事なんかないさ」

「確かに、仰る通りで」

 ウォッカは肩を竦めると派手に笑った。廊下に声が反響する。体格に見合った野太い笑い声だった。

「色々お話聞けて楽しかったですよ。ありがとうございました」

「続きは酒を呑みながら、ゆっくりとな」

 ウォッカは被ろうとしていた帽子を右手に握ったまま踵を返した。こちらに振り向くと「それじゃ今晩」とおどけて手を振る。

 二時限目が終わるまでまだ若干余裕がある。ガイデルは椅子に腰を下ろすと足を組んだ。

 体格は申し分ない。ただ力量の程は殆ど判らない。大の男を片手で投げ飛ばせるくらいの腕力を備えている。今判っているのは精々その程度で、腕前に関しては完全に未知数だ。ただ焦りもしていなければ動揺しているようにも見えない。ひょっとしたら、ウォッカは奴らを野良犬程度にしか感じていないのかも知れない。それくらい落ち着いている。少なくとも脅威の対象にはなっていない。それだけの力量を備えているのか、或いは何も考えていないだけなのか、そのどちらとも取れる気がした。全く以て掴み所がない。そこが不気味でもあり、頼もしくもあった。戦力に成り得るだけの力量があるならば、嫌が応でも付き合ってもらう。彼も先に進むにはそうする以外にない。それが何処まで判ってるのか正直疑問だが。ガイデルには彼が自分の置かれている状況を正確に把握しているようには見えなかった。

 全く、大丈夫かねえ。

 後頭部をガリガリ掻いた。全くの素人でない事は間違いないが、やっぱり全然判らない。無理に把握しようとする必要もないだろう。それはアリスが勝手にやってくれる。あれが黙っているはずがない。その後にゆっくり聞けばいい。それと、今夜だ。酒でも呑みながらノンビリ話せるだけで気も紛れるし、恐らく得るものもある。何より街の連中以外と酒を呑むなど、ここしばらく記憶にすらない。それだけでも十分に楽しめそうだった。

 背凭れに背中を押し付けて大きく延びをする。まだ昼前だ。日暮れまでの数時間がやたら長くなりそうだった。


 ハア、と唇から漏れた息はやたら重かった。俯いた顔を上げる事も出来ない。

「今に始まった事じゃないけどさ」

 使い終えたノートを鞄に仕舞いながら、エレンは呆れた口調で言った。

「あんたってホントに抜けてるわよね」

 口調にも態度にも遠慮や優しさがない。そんな冷たい言い方しなくてもいいのに、とも思うけど、実際その通りだから返す言葉がない。

「どうして動物にあげる餌は持って来てるのに、自分の食事を忘れるのよ」

 言葉の針が胸に容赦なく突き刺さる。痛い。

「そんな冷たい言い方しなくても……」

「冷たいも何も、紛れもない事実じゃない」

 ねえ? 助け船を出すどころか、サラは隣で呆れ返っているエレンに何の疑いもなく同意を求めた。伸ばした手から音もなく力が抜けていく。

 朝御飯を食べる前に厨房で三人並んでお弁当を作る。と言っても夕御飯の残りもの、もといお弁当用に確保しておいた分を詰めるだけだからそんなに大袈裟なものではないんだけど。手間隙かけてるとか簡単に済ませるとかではなく、折角作ったお弁当を忘れた事がショックだった。しかも完全に自分の不注意によるものだ。誰のせいにも出来ない。自分の行動や言動には責任を持ちなさい。どういう経緯かはもう覚えていないけど、初等部を卒業する頃、母にそんな事を言われた記憶がある。当時はその意味がさっぱり判らなかった。今ではその言葉の意味と重さが身に染みる。

「いい加減そんなしみったれた顔するのやめなさいよ」

「だってぇ~」

 借りていた本を胸の前で抱えながら頬を膨らませる。

「私の、少し分けてあげるから」

 え。その言葉には正直非常に惹かれる。どれだけお腹が空いているんだと呆れられそうだけど、空腹と退屈だけは耐えられない。

「そんな嬉しそうな顔しないでよ」

 だったらそんな困った顔しないでよ、と言い出しっぺのエレンに言いたい。自分の行動や言動にはしっかり責任を持ちましょう。ネットリとした視線を浴びせかけると、エレンは赤点の答案から目を逸らすように身を引いた。自分から振っておいてこの反応はないと思う。

「頂戴ね」

 エレンの顔が露骨に引きつった。今更嫌とは言わせない。

「サラもお願い」

 こちらは両手を合わせて頭を下げた。サラは困った顔をして頬を掻いている。少し顔を上げて上目遣いに様子を伺う。困っているのは間違いなさそうだけど、満更でもないような表情だった。

「そんなにいっぱいある訳じゃないから、少しね」

「助かる!」

 両手を合わせたままもう一度サラに頭を下げた。その隣でエレンが仕方なさそうに肩を竦めた。

「私のも少しあげるわ。少しだけね」

 今度はネットリとした視線で睨まれた。でも全然嫌な気はしない。

「今度家に来た時、何かご馳走するわ」

「ま、当然よね」

 全く遠慮する様子もなくエレンは偉そうに背中を逸らす。ここまで素直に胸を張られると逆に嬉しくなる。爽快過ぎる尊大さだった。

「エレンは何がいいの?」

「そうね、甘いものがいいけど、お料理も美味しいもんね。何にしようかな」

 軽く握り込んだ拳を顎の下に当てて宙を見上げる。エレンとは対照的な反応だった。

「やっぱりオニオンスープかな」

 チラリとこちらを見てニッコリ笑った。

 顔が熱くなったのは恥ずかしさや照れ臭さよりも嬉しさが勝ったからだ。赤らんでいる頬を隠す事もせず、思い切り頷く。

「それとオムライスかな?」

 そう来たか。しっかり二品目まで頼む辺り、流石に抜け目ない。だから最初に軽いスープを挙げたに違いない。

「エレンは?」

「私もそれがいい。腕が上がったかどうか確かめてあげる」

 確かめるかどうかは別にして、実際スープもオムライスもエレンの好きなメニューだった。店で食事する時、迷ったら大抵はここに行き着く。落ち着くと言った方がいい。エレンの、いや二人の定番と言って良かった。

「いつがいい?」

「今日」

 即答だった。お昼御飯で満腹になっても放課後にはお腹が減っている。伸び盛りに食べるのは何も男子だけじゃない。うちにいるとよく判る。

「と言いたいところだけど、牛舎の掃除しないといけないのよね」

「手伝いも大変ね」

「そういうサラはどうなのよ。患畜がいなくてもやる事はあるでしょ」

「よくご存知で」

 サラは苦笑いしながら頬を掻いた。

「勉強しないとね。知識が絶対的に足りないから」

「知らないといけない事が沢山あるのも大変ね」

「でも、一概にそうとも言えないんだよなあ」

 今度は困った顔をしてこめかみを掻く。カティは顔をしかめて首を捻った。隣ではエレンが露骨に眉間にシワを寄せている。

「勉強も大事だけど、実際に動物に触れないと、接しないと判らない事が多いんだ。殆どって言ってもいいかも知れない。あらかじめ勉強して調べてあれば、それが何かすぐに判るでしょ。だから勉強は、知識は少しでも多く身に付けておかないといけない。

 でも、知識だけじゃ足りない。実際に患畜に接しないと知り得たものが具体的にどういうものなのか判らないのよ。何と言うか、知ってる事と目の前にあるものが上手く繋がらないと意味がないのよね。父さんに言わせると、そういうのは頭でっかちなんだって」

「頭でっかち?」

「知識ばかりで肝心の経験が足りない、って事でしょ?」

 前を歩いていたサラはこちらに振り向くと手を叩いた。

「流石に鋭いわね」

「そりゃそうよ。私はあいつらと毎日面付き合わせてるんだから」

 サラの素直な称賛の言葉に対して、エレンは喜ぶ事も照れる事もなく仏頂面をして腕を組んだ。ひょっとしたら、照れ隠しなのかも知れないけど。

「診たかったらいつでも来なさい。思い切りこき使ってあげるから」

「優しく指導して欲しいわね」

「そんな甘ったるいやり方してたら何も身に付かないわよ」

 エレンの言葉を厳しいと取るか妥当と取るかは意見が別れるところだろう。体に刻み込む事が目的なら、中途半端な気持ちでは何も得られない。習うより慣れろ。小さい頃から何度聞かされたか判らない科白だ。

「勉強も大切だけど、実際にそういう場に立たないと何も変わらないわよ」

 料理を作るのにレシピは必要だ。でも、レシピだけ見ていても料理は作れない。包丁を握って、肉や野菜を刻んで、味付けをして、焼くなり煮るなり炒めるなりして初めて一つの料理が出来上がる。それがいつかは別にしても、その瞬間は必ず訪れる。準備体操もなしにすぐさま動けるだけのフットワークがあるか。考えると少しだけ鼓動が速くなる。

「ま、無理のない程度に頑張りなさい。で、勉強に疲れたら家の農場に来てね。いつでも触らせてあげるから」

「じゃ、私はいつ休めばいいのよ」

 サラの問いには応えず、エレンは抱えていた本を持ち直した。小走りになるとサラを追い抜いて図書室に吸い込まれて行く。

「コラコラ、ちょっと待ちなさいよ」

 図書室とは言ってもドアや壁はない。廊下よりいくらか低くした空間に書棚や椅子、テーブルが並べられている。 廊下から丸見えだし声もよく聞こえるから、ここで静かに本を読んだり勉強したりするには不向きかも知れない。もっとも、ここがそういう場所なのはこの学校にいれば誰しも知っている事だから、ここでそんなに騒ぐ人もいないけど。椅子はテーブルと一緒になっているものの他に、柱の周りにソファが置かれている。その前に人だかりが出来ていた。誰かが勉強する事はあっても、こんな風に一ヶ所に固まる必要なんて何処にもない。

「何かしら?」

 そんなことを聞かれても困る。むしろこちらが聞きたいくらいだった。首を横に振るしかない。サラは苦笑いした。

「お互い今ここに来たばっかりだもんね、知る訳ないか」

 拳骨で頭を叩いてやりたくなった。もう少しものを考えてから言葉にした方がいい。こんな事で本当に勉強は大丈夫なのかな。少し心配になって来た。

 廊下から人だかりの中心を覗く込む。柱廻りのソファに誰かが座っていた。厳密に言うと座っているのではなく居眠りをしていた。帽子を顔に被せているので誰かは判らない。でもこの学校の関係者でないのは間違いなかった。あんなデカい人は見た事もない。組んだ両手に頭を預けて、長めの足を酷くぶっきらぼうな感じでやっぱり組んでいる。呼吸に合わせて肩や首が微かに動いていた。完全に寝入っている事は間違いなさそうだった。

 そんな彼を、周りにいる子達はヒソヒソ耳打ちしたり、露骨に指を指したりしながらやや遠巻きに眺めている。声をかける勇気はないのだろう。信じられないのは周囲がこれだけざわついているのに気が付く様子もなく堂々と寝ていられる神経だ。並じゃないな。樹齢百年を超える大木よりも絶対に太い。怪しまれるとか不審に思われるなんて発想がそもそもない。眠いから寝る、あるのはその一念だけだ。

 不意に、彼の頭の辺りがモゾモゾと蠢いた。取り囲んでいた全員が音を立てて一歩身を引く。天井に向かって組んでいた両手をそのまま大きく突き出した。拍子に顔に被せていた帽子がずれ落ちた。対格に見合った馬鹿デカい手が帽子を鷲掴みにする。ウォッカは帽子を内側から叩いて潰れていたヘコミを元に戻した。よいしょ、という何処か不似合いな掛け声と共に立ち上がった。床に置いていたリュックを肩にかける。

「あの……」

 人の壁の隙間から体を滑り込ませてエレンが一歩前に出た。いつの間にそんな所にまで来ていたのか全く判らなかった。神出鬼没と言うか、気配を感じさせないものがある。アリスに言わせると、「素質がある」という事らしいけど。

「あなた、昨日ここに来た旅の方ですか?」

「ああ」

 よくご存知で。別段驚いた様子もない。半ばそれを予想していたような反応にも見えた。

「風貌も年齢もあまり学校に縁があるようには見えないんですけど」

「そうかい? 一昨年までは普通に学校通ってたんだけどな」

 エレンの背中が音を立てて引きつった。いや、その場の全員が一歩後ろに身を引いた。その顔で二十歳は絶対に有り得ない。背中がそう語っていた。だろうな、と思う。

「ここへはどんなご用件で?」

 単刀直入もここまで来ると畏れ入るのを通り越して呆れ返る。自己紹介が始まっても困るところだけど。

「いや、忘れ物を届けにね」

 それにこれと言った疑問も持たず素直に応じる彼もいい勝負なのかも知れない。ホントにこんな所に何しに来たんだ。

 ウォッカはダブダブのリュックに手を突っ込むと何か取り出した。巾着袋だった。ん? 頬が微妙に歪む。袋に対して紐が明らかに長すぎたり縫い付けたアップリケを剥がした痕があったり、明らかに見覚えがあった。いや、そうではなくて間違いなくカティの巾着袋だった。それを何故ウォッカが持っているのか。

「ところで君、カティ・ランスローって子知ってる?」

「知ってます」

「案内してくれると非常に有り難いんだけどな」

「その必要もないと思いますよ」

 首を傾げたウォッカに、エレンは黙ってこちらを指差した。背中を向けているのにどうしてこちらの位置が判るのか。

 ウォッカも何の疑問も持たずにこちらを向く。目が合った瞬間、反射的に頭を下げてしまった。ウォッカは無邪気に手を振っている。しかめっ面になる直前に無理矢理顔を固める。危なかった。

「ちょいと、失礼するよ」

 手を構えると包丁でジャガイモを両断するように人が左右に割れた。そんなに驚かなくてもいいと思うけど。彼らにしてみれば訳の判らない侵入者の来訪をどう受け止めたらいいのか判らないのかも知れない。昨日兵士を二人ぶちのめしたという話は伝え聞いているとは思うけど、まだみんなにとって彼は得体の知れない存在なのだろう。それはカティにしても変わらない。

 掌に載せたいた巾着袋をカティの目の前に差し出す。反射的に両手が前に出ていた。ウォッカはニッと笑う。

「はい、忘れ物」

 ポン、と巾着袋を置く。どうしてウォッカが巾着袋を持っているのか、どうしてここに来たのか、それが初めて判った。

「折角作ったんだから、忘れたりしたらこいつが可哀想だぜ」

 途端に火が点いたように顔が熱くなる。ウォッカがここに来た理由に、それに今の今まで全く気付かなかった自分に呆れ返るを通り越して目眩がした。恥ずかしすぎて。

「有り難う、ございます……」

「どう致しまして」

 ウォッカは飽くまで淡々としている。恥ずかしくて顔を上げられない。隣にいるサラは小刻みに肩をヒクヒクさせている。何だってこんな人目を集めるような真似をするのか。本人に詰め寄ったところで「眠いから寝ただけ」と言われるのが関の山だろう。聞かなくても判る。

「にしても」

 ウォッカは巾着袋とカティを交互に繁々と見比べながら言った。

「見かけによらず食うんだねぇ」

 感心したような口振りだ。赤かった顔が更に熱を帯びる。

「そんな事あなたに言われたくありません!」

 意図せず普段出さないような大声を出していた。周囲にいた子達が驚いてこちらに振り向く。さっきとはまた別の意味で頬が赤くなった。

「ま、それもそうか」

 周囲の視線など全く意に介さず大声でガガガと笑った。露骨にジロジロ見ている恥知らずも中にはいるけど、そうでなくてももう少し人の目を気にしてくれてもいいと思うんだけど。折角時間を割いて持って来てくれたのにとてもそんな事は言えないけど。恥ずかしくないのかな。いや、恥ずかしくないんだろうな。

「腹が減っては戦が出来ぬ、って言うし食うもの食わないとまともに動けないからな」

「さっきまで私達に分けてもらおうとしてたんですよ」

「コラ、サラ!」

 横目で睨み付けるとサッとウォッカの背後に身を隠す。図々しいと言うか、抜け目がない。

「しっかり食って、午後の授業も頑張ってな」

 ポン、と軽く肩を叩いた。じゃ、と背中を向けたまま手を上げる。用が済んだからさっさと帰るのだろう。

「あの!」

 玄関に向かっていたウォッカが足を止めてこちらに振り向いた。呼び止めたはいいけど、何を言うべきか全く考えていなかった。本来ならば考えるまでもなく言わないといけない事があるはずなんだけど、それが上手く言葉にならない。

 ウォッカは不思議そうに首を傾げている。

「どうしたの?」

「今日は、この後どうされるんですか?」

 どうして思っている事がそのまま言葉にならないのだろう。彼の素直さが羨ましい。見た目は年齢以上のオッサンだけど、こういうところは子供そのものだ。

「買い出しだよ」

「買い出し、ですか?」

「ああ。旅暮らしだから出歩いてる事の方が多くてね。こういう所に来たら食糧補充しとかないと」

 世間話でもするようにのんびり言っているけど、多分想像以上に厳しいに違いない。街が何処にあるかは地図を見れば判るけど、そこまでの距離を計って消費量を計算した上で買わないと最悪飢え死にする事になりかねない……って、多分彼ならばそうなる前に間違いなく何とかするだろうな。必要に迫られたら泥水でも啜りそうだ。この男ならやりかねない。そう、生き延びるためならば。

 だからこそ買い出しが大事なのは明白だった。有り難さは勿論だけど、何だか申し訳ない気持ちで胸がいっぱいになった。

「あの、いっぱい買って下さいね」

 言った直後に膝が折れそうになるくらい後悔した。どうしてもっと気の利いた事を、言わなければならない事を言えないのか。

「そうするよ。俺にとっては死活問題だからな」

 聞く人が聞けばたかが食事で、と思うだろう。でも彼の場合は事情が違う。生きる事に一生懸命だった。だから食べる事にも真剣だ。絶対に手は抜かない。

 そう言えば。

 今朝ウォッカが階段から転げ落ちて床に顔を強打した時、確か少しだけど唇を切っていた。そのすぐ後に唾液混じりの血を手の甲で拭っていたから間違いない。ウォッカの体の事が心配だったり謝らなきゃいけなかったりですっかり頭から飛んでいた。今見た限りでは傷はおろか痕すら残っていなかった。だとしたら見間違ったのか、単に錯覚だったのか。いやそれはない。拭った唾液は確かに若干赤みを帯びていた。透明ならともかく、色がついているものを見間違う道理がない。

 カティは俯けていた顔を上げた。既にウォッカは玄関の方へ歩いている。呼び止めるには距離が開きすぎていた。中途半端に伸ばした手をおずおずと引っ込める。

「随分変わった人ね」

 いつの間に隣にいたのか、エレンが腕を組ながらぶっきらぼうに言った。

「よくこんな所で堂々と寝れるわ。ここの関係者ならばともかく」

 しかもあれだけ周りで騒いでいたのに、気付きもせずに寝息まで立てていた。羨ましくなるくらいの図太さだった。人前で上がるなんて事は絶対にないだろうな。

「体格は並みじゃないけど、とてもあの馬鹿兵士共をぶちのめしたようには思えないわね」

「じゃ、何? 逆にぶちのめされそう?」

「いや、そういう訳じゃなくて」

 エレンは困ったように頭を掻きむしった。

「そういう事をしそうな雰囲気じゃないと言うか、そんな乱暴な事をするような人には見えないな」

 思わずハッとするものがあった。食べる量も呑む量も異常で、お礼を伝えに来た相手を素っ裸の状態で脱衣場に招き入れようとするし、寝起きには倒立をしたまま二百回も腕立て伏せをして階段から転げ落ちて顔のみならず全身を床に強打したにも係わらず怪我の一つもなく、学校に来てみれば衆人環視の中図書室のソファで堂々と居眠りをする。取る行動の全部が全部特徴的過ぎて「変わっている」と言うありふれた言葉では簡単にくくり切れないくらいに変わっている。こういう人が近くに二人もいたら周囲の人はさぞかし迷惑だろうな。退屈はしないかも知れないけど。

「いい人じゃない。予定があるのにわざわざ届くてくれるなんて」

 サラもエレンの背中を押す。二人は肩を竦めると顔を見合わせて笑った。

 昨日は確かに乱暴な真似をしたけど、それは飽くまで自分を助けるにやっただけ、なのかな。ウォッカの取った行動そのものは物凄く暴力的だったけど、その根底にあるものは明らかに違う。そんな風には見えないというエレンの評価に、胸の奥の方がホンノリと温かくなるものを感じた。自分の事でもないのに胸を張りたくなる。

「そう言えば」

 エレンはカティの前に回り込むと胸に抱えていた本をジッと睨み付けた。

「あんた、本返しに来たんでしょ?」

 あ。すっかり忘れてた。予想もしない人物の来訪で本来の目的が綺麗に頭からすっ飛んでいた。

「先に戻ってるから」

 急かす事もせずさっさと教室に向かって歩いて行く。ヒドい。

「ちょっと待ってよぉ。返すのなんかすぐ済むんだから」

「いや、もう時間ないし」

 柱時計を指差したエレンは足を止める気配すら見せない。その後をサラが追う。今にも笑いそうなるのを懸命に堪えている。一体何がそんなにおかしいのだろう。

 カティは本を抱えて受付に並んだ。やらないといけない事がまた増えてしまったような、そんな気がする。宙を見上げてゆっくり深呼吸する。いや、どう考えても錯覚じゃないよなあ。誰が見てもそう言うはずだ。しっかりやっておかないとみんなから思い切り叱られそうだった。それに、人として物凄くだらしない。何より礼儀知らずと言われそうだ。そんな人間になりたくないし、彼にもキチンと気持ちを伝えなくてはならない。

 受付の最前列に来た時、ふと周りを眺めた。図書室の脇の角で二人が何かぶつくさ話しながらこちらをチラチラ見ていた。柱時計を見る。授業が始まるまで三分もなかった。

 ペコリと頭を下げると廊下に向かって駆け出した。走る間際、司書の先生が仕方なさそうに笑っているのが視界の片隅に映った。

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