第10話 二日目 その壱

 宙に浮いていた体が不意に地面に落ちたような錯覚に陥った。目の前の光景が夢なのか現実なのか判らなくなる。次第に視界全体が白く染まって行き、真っ白で埋め尽くされた瞬間、何かが歪むような感覚に襲われると同時に目が開いた。茶色い天井が何処かボヤけて見えた。まだ意識がハッキリしていないが、夢から覚めた事は間違いなかった。頭が砂袋を押し込んだように重い。テーブルに置いていた水差しからコップに水を注ぐと少しだけ口に含む。口の中が潤いを取り戻すと体と一緒に眠っていた渇きが頭をもたげた。残りを一気に飲み干す。ようやく少し目が冴えて来た。ぼんやりとした頭で壁の掛け時計を見て目が点になる。五時半を過ぎていた。いつもより起床が三十分以上遅い。一気に目が覚めた。隣で妻が寝息を立てているのも構わずに毛布を剥ぐ。元々寝間着を着る習慣はない(素っ裸で寝ている訳ではないが)。シャツの上から上着を羽織り、ハンガーにかけていたズボンを外して足を突っ込む。

「何、どうしたの?」

 背後で妻の寝惚けた声がする。いちいち説明するのも面倒だった。

「寝坊だ」

 短くそれだけ言う。

「あら、やだ」

 勘定しようとした時に初めて財布を忘れた事に気付くような客のような声だった。その割にはあまり緊迫感がなかった。

「先に行ってるぞ」

「そうして」

 ベッドから降りた妻は胸元のボタンを外しながらクローゼットを開けた。寝間着をパッと脱ぎ捨てると殆ど作業着と化した普段着を出した。素早く袖を通し、ボタンを留める。おっとりとした雰囲気とは裏腹に、行動や動作は速い。そして正確だった。こういう部分は素直に見習わないとなあと思う。男にはない、女性ならではの細やかさがある。それが娘達に受け継がれていればいいのだが。父親として一番気掛かりなところだ。

「みんな起きてるかしら」

 何気なく呟いた妻の言葉が耳から頭の芯に浸透するまでしばらく時間がかかった。娘達が既に起きていたら、まだ寝ている両親を真っ先に起こしに来るだろう。或いは、疲れているだろうから起こさずそっとしておいてくれているのかも知れない。だったら嬉しいが。そんな想像に頬が緩み始めた時、ふと我に返った。ドアの向こう側にまるで人の気配を感じない。物音は勿論、声も聞こえない。みんな疲れているのは間違いなかった。昨日は本当に色んな事があった。せめて朝くらいはゆっくりして欲しかった。

「いや、まだみんな寝てるみたいだな。そっとしておこう」

 ベッドを整えていた妻は手を止めると納得したように軽く頷いた。丸めた拳を口元に宛がってクスリと笑う。

「私も、支度が済んだらすぐ行くわ」

 振り向かずに手だけ上げると部屋を出た。廊下を走り、階段を駆け降りる。厨房の前に来た時、包丁が規則的にまな板を叩く音に気付いた。顔を覗かせると背中の真ん中近くまである波打った髪が包丁の動きに合わせて小刻みに揺れていた。

「おはよ」

 イリナは首を捻ってこちらを見た。すぐ前に向き直って作業を再開する。

「早いな」

「いつも通りよ」

 前に垂れた髪を曲げた小指で後ろに鋤く。まな板の前にあるボールには刻んだ玉葱が既に山になっていた。

「俺達だけが食べるにしては随分多いんじゃないのか」

「そりゃそうよ。私達だけのじゃないもん」

 刻んだ玉葱を既に火にかけていたフライパンにあける。油が跳ねる音で狭い厨房が埋め尽くされる。

 オニオンスープは家族の食卓にはいつも並ぶメニューだ。いつから常連として顔を出すようになったのか、ダンは全く覚えていない。一番古い記憶は母が作ったそれを当たり前のように飲んでいた自分の姿だった。母が誰からそのレシピを教わったのかもハッキリとは判らない。ダンの祖母なのか、近所で仲の良かった友人から教わったものなのか、それとも本でも読んだのか、今ではそれを確かめる術もない。聞こうと思った頃には、母はもういここにはなかった。戦後に復員してここに帰って来た時、ずっと一人で留守を預かっていたライザが食卓についたダンに何も言わずに差し出したのもオニオンスープだった。それが家族を繋ぐものになり、子にも受け継がれている。戦場を駆け回っていた頃には全く想像出来なかった事だ。それが今では日常になっている。

「彼のも、か」

「それもあるけど、ウォッカが潰したみんなも相当胃が荒れてるでしょうしね」

 木杓子で素早く玉葱を炒めながらイリナは言った。

「塩気のあるものでも飲めば、少しは楽になるでしょ」

 木杓子の先にまとわりついた玉葱をフライパンの縁に叩きつけて落とす。長く一緒にいるとやる事も似てくるものなのかも知れない。

 酒呑みが、それも二日酔いの人間が聞いたら涙を流すかも知れない。そして、酒を呑まない輩には絶対こんな発想は出て来ない。同時にイリナの意図も透けて見えた。

「私もその方が楽だし」

 搾めた唇の先から少し強めに息を吐き出す。作っている本人が待ち詫びているのは明白だった。

「それにしてもよく起きられたな」

 皮肉ではなかった。起きるどころか意識が戻っていなくてもおかしくはない。

「高々あれしきの量で潰れるほど弱くないわよ」

 端から見ていても結構な量だった。ウォッカには遠く及ばないが。それでも軽く一杯引っかけるのとは訳が違っていた。体もそうだが、内臓も相当頑丈に出来ている。これも親譲りなのか。

「昨日は一日バタバタだったもんね」

 多少寝過ごすのもやむ無しと言ったところだろう。ただ、立場上それに甘える訳にはいかない。

 気持ち少し背中を反り返らせて咳払いする。イリナは昔何処かで聞いた覚えのある歌を小声で口ずさみながら木杓子を動かす。

「眠くないのか?」

「ま、多少はね。全く眠くないって言ったら嘘になるけど」

 玉葱が焦げないように微妙に火加減を調整しながらイリナは言った。

「だったら、朝くらい少しゆっくりしてていいんだぞ」

 さっきまでイリナが使っていたまな板と包丁を流しに置く。

「一番働いてて疲れてる人を差し置いてそんな事言えないわよ」

 思わずイリナを見た。娘はこちらに背中を鍋をかき回している。さっきとはまた違った意味で咳払いが出た。顔まで熱くなる。

 思わずハッとした。厨房に入ったのにまだエプロンもつけていない。ハンガーにかかっていたエプロンを取ろうと手を伸ばした時、ちょっとした違和感を覚えた。いつも使っているエプロンとは違う。ポケットは右側に一つあるだけだったし、何よりウサギのアップリケなんてものはそもそもついていなかった。

「エプロン、悪いけど今日はそれ使って」

「いつものは?」

 背中で紐を結びながら娘を見る。イリナは首だけ捻ってこちらを見た。エプロンの肩紐を指でつまむと軽く上下させる。

「汚れてたから」

 一瞬声が出そうになった。気付いていない訳ではなかったが、忙しさにかまけてすっかり後回しになっていた。

「夕方には乾いてるだろうから、使うならそれ以降かな。あ、だったら明日にした方が良かったか」

 その方が選択としては無難だった。明日の水曜は定休日だからだ。

「ごめん、そこまで気が回らなかった」

「いや、別に構わないよ」

 やっぱり自分の娘と言うより、妻の娘だった。そういうところまでしっかり見てくれている。親バカと言われればそれまでだが、立派に育ってくれたと思う。何処に出しても恥ずかしくない。大の男を拳で殴り倒したりしなければ。これで嫁ぎ先があれば安泰だ。

 紐を結び直したエプロンのシワを伸ばすと頬を両手で叩く。 しっかり目を覚まさなければ娘に合わせる顔がない。

「やる事済ませてさっさと出掛けましょ」

 一瞬思考と一緒に体も固まる。出掛けなければならない理由が見当たらない。イリナの目が細くなる。

「食材、買い出しに行く話は昨夜したわよね」

「忘れてたと思ったのか?」

「だったら今の間は何なのよ」

 そう言われると返す言葉に詰まる。昨夜あれだけ呑んだのにしっかり記憶が残っている事に少し驚いた。呑み始めて間もない頃は呑んでいた時の事など全く覚えていなかったのに。アルコールの刺激に体と頭が慣れただけなのかも知れない。それにしても早すぎだが。元々呑める素養があったのだろう。そう言えば、酒は呑んでもベロベロに酔っている姿は見た事がない。末恐ろしいな、と思う。

「じゃ、やる事済ませてさっさと出掛けますか」

 そもそも客が目を覚まさなければ、食事を済まさなければ出掛けるも何もないのだが。気付いているとは思うが、そうでなければやっぱりまだまだだな。内心で偉そうに腕を組んで頷いている自分がいる。

 まな板を水で洗い流す。そう言えば、少し前までは水も手が切れるくらいに冷たく感じていたが、今はそれがいつの事なのかも思い出せない。そんな風にして人は少しずつ年を食っていくのだろうか。まな板の表面に まとわりついていた滴を切り終えた頃、バタバタと慌ただしく妻が厨房に入って来た。


 何処かで誰かが呼んでいるような声が聞こえる。でも誰の声なのか判らない。目の前が少しずつ明るくなり始めて来たかな、と思い始めた頃にようやく目が開いた。時間と空間の認識が曖昧だった。何処にいるのか、何をしているのかも判らない。呼ぶ声に混ざって何かを叩く音がする。それがドアをノックする音と自分の名前だと気付いた瞬間、一気に目が覚めた。毛布を跳ね除けてベッドから飛び降りる。ドアを開けると、拳を振り上げたアリスが粘着質な目でこちらを睨んでいた。勿論殴ろうとしている訳ではないのは明らかだった。

「アリス、おはよ」

「おはようじゃない。大寝坊よ」

 腰に両手を当てて鼻の頭がくっつきそうになるくらい顔を近付ける。

「でも、アリスも似たようなものでしょ?」

 寝間着姿でこそないものの、目はまだショボショボしていて眠そうだし、何よりトレードマークのポニーテールがない。長すぎて明らかに持て余している髪がそのまま背中に流れている。

 図星だったのか、アリスは腕を組んだまま無言で剥れている。こういう判りやすいところが好きだった。

「みんなは?」

「もうとっくに起きてる。イリナ姉は朝の仕込み、ミリー姉は床掃除」

 素直に凄いと思う。あれだけ大変だった翌朝にいつも通り起きられる事に頭が下がる。体が疲労で埋め尽くされていてそれどころではなかった。でも、それはみんなも変わらないはずだ。だったら、何故みんなは起きられるのだろう。

「早く着替えなさい。ミリー姉はそろそろ終わりそうよ」

「そんなに早くから起きてたなら起こしてくれてもいいのに」

 どうしてアリスが笑って肩を竦めたのか判らなかった。トン、と手刀で頭を叩かれる。

「とにかく、早く着替えて持ち場につきなさい。朝起きて床が汚れてたらお客さんに失礼でしょ」

 幼い頃から両親に言われ続けて来た事だ。床に限らず、部屋も食器も清潔を保つのが基本だと。と言っても、ここを利用する客の目的は主に食事であって宿泊ではない。深酒する事はあっても、大抵の場合は勘定を済ませてしっかり家路に就く。そういう意味では昨夜は例外的だった。一人を除いて完全に潰れていた。勘定どころかまともに立てない以上、ここに泊まるしかない。そういう意味ではウォッカの存在が呼び水になった事は確かだった。彼が来なければみんなも潰れるまで呑む事もなかった。ウォッカも積極的に潰しにかかった訳ではないだろうけど、彼のペースに完全にひきずられたが故の結果に違いなかった。流石にまだ彼らも夢の中だろうな。ならば、目を覚ます前に綺麗にしておかなくては。いつも以上に気合いが入る。

「少しは目が覚めた?」

「うん」

 頭にかかっていた靄がいくらか晴れて来た。若干の眠気こそ残っているけど、それでもベッドに逆戻りするような事にはならないだろう。

「着替えたら四階ね。モップの支度は済んでるから」

「了解」

 おどけて敬礼して見せると、アリスは小さく笑ってドアを閉めた。

 ベッドを素早く整えると服を脱ぐ。畳んだ寝間着を枕の上に置いた。クローゼットからお気に入りのシャツを出して袖を通す。よろめきながらジーンズを履くとそのまま部屋を飛び出した。

 階段の前でミリアムがたっぷり水の染み込んだモップを絞っていた。足音に気付くと顔を上げて少し怖い顔でこちらを睨む。

「遅いわよ」

「ごめん」

 頭を下げようとすると、肩の力を抜くようにミリアムの表情が緩んだ。

「ま、私もついさっき起きたばっかりだから人の事は言えないか」

 モップのお尻に置いた両腕に顎を載せてカラカラと笑う。こういう表情はやっばり誰が見ても普通の女の子だった。袴に袖を通すと一気に引き締まる。そんな時はこういう可愛らしさよりも凛々しさが表に立つ。だから少年っぽく見られる事が多い。本人がどう思っているかは知らないけど。

「昨日はホントに大変だったもんね」

 普段と変わらなかったのは午前中までだった。その後の慌ただしさはそれこそ一週間分の仕事を半日に凝縮したようだった。思い出しただけで目眩がする。

「それに、あなたはとんでもない目に遭ってるしね」

 腕を伸ばすとカティの頭に手を置いた。そのままゆっくりと手を前後させる。

「もう大丈夫?」

 大丈夫、と言う代わりに思い切り笑いながら頷いて見せた。

「そうやって笑ってる方がいいわよ」

 それは誰しも感じている事だろう。でも、昨日のように笑うどころか泣きたくなるような事も沢山ある。だから、せめてそうでない時くらいは笑っている方がいい。

「ミリー姉も疲れてないの? 一日練習した後にあれだけ動いて」

「ま、疲れてないと言えば嘘になるけど、ある程度寝れば別に問題ないわよ」

 そのある程度の睡眠が今朝の寝坊なのだろう。でも起きてすぐにこれだけ動ける。それが寝る直前まで続く。やっばりカティには真似出来ない。

「でも、無理はダメだよ」

「そうなる前に寝てるわ」

大丈夫、と頷く。そこまで疲れているなら普通に寝坊すると言う事だろう。賢明な回答だった。この姉がそこまで疲れる事もないような気もするけど。

「目も覚めたでしょ? 早く持ち場に着きなさい」

 動けるならば基本的に容赦はしない。働かざる者食うべからず、それがこの家の家訓だった。それを幼い頃から徹底的に叩き込まれている。そうしないと店が回らないからだ。誰しも生きるのに必死だった。ものも、そして満足なお金もなく、限られた中でそれでも生きていかなくてはならない。十歳を過ぎた頃から漠然とそう感じるようになった。そしてそれは間違いなく現実に近付いている。一時が万事集中して事に臨める訳ではない。たまには気が弛む事もある。当然遊びもする。でも、怠ける事は出来なかった。環境がそれを許さなかった。少なくともここではそうだった。

 だから物心がつく頃には店の手伝いが姉妹四人の日課になっていた。寝起きの床掃除もいつ始まった事なのかカティにも明確な記憶はない。気付いた時にはそれが日常の中に組み込まれていた。我先にと手伝いを四人で取り合っていた時期もあった。半分は遊びながら、もう半分は真剣に。子供から離れて大人に近付くに連れ、遊びの部分は徐々にナリを潜めて行った。気持ちの上では既に半分は大人のつもりだ。周囲がどう見るかは判らないけど。

 任されている以上、そこから逃げようなどとは思わない。もし放り捨てたりしたら誰かに迷惑がかかるのは目に見えている。それを把握しているのに放棄するような真似など絶対に出来ないし、何よりしたくもなかった。

「じゃ、また後で」

「お客さん、まだ殆ど寝てるから、あんまり廊下をドタバタ走るのは止めてね」

「判ってる」

 偉そうに即答して見せたが、指摘されるまでその可能性に気付かなかった。言われなければ、いつも通り普通に廊下を力一杯全速力でドタバタしていた。そういう配慮は一切ない。そこが自分の問題点だなあと頭の中で漠然と考える。たとえだれだけ久し振りに宿泊客が来ようと、そういう部分にもすぐに気が回る。反省するように眉間を人差し指でトントン叩いた。靴を履き替えようかとも思ったけど、そんな事をしている間にも時間は当たり前のように過ぎていく。そんな事で朝の貴重な時間を無駄にするなんてとても考えられない。軽く手を挙げてミリアムに挨拶すると、階段を一気に四階まで上がって行く。心拍は上がっても、息は乱れない。姉三人に比べれば体力も筋力も根性も劣るけど、そこまでひ弱ではない。速歩きに毛が生えたような速度だけど、伊達に学校まで毎日走って通学していない。店の手伝いだって毎日しているし、同年代の友達より体力はいくらか養われている自信はある。

 四階に上がった手すりにモップが立て掛けられていた。モップの先には水の張ったバケツが置かれている。準備までしっかりしてくれている辺りが流石だと思う。多少寝過ごすのは仕方ないにしても、完全に忘れるのは許さないと言ったところだろう。だから叩き起こしに来た。そういう一線は絶対に引いておいた方がいい。そうでないと筋が通らない。

 バケツから出したモップを力を込めて絞る。滴が垂れなくなるまで絞ると床に置いた。モップを両手で抱えるように持つと静かに、そして素早く廊下を走る。見た目にはあまり汚れているようには見えないけど、モップを見ると既に薄っすらと茶色くなっている。毎朝やっても一日経てばこうなってしまう。やらなかったらどうなるんだろうと思うと欠かす事などとても出来なくなってしまう。

 それにモップをかける事だけが仕事ではない。

 バケツの縁にかかっていた雑巾を水の中に落とした。たっぷり水を染み込ませてから今度はしっかり絞る。閉じられた窓から朝の訪れを告げる光が静かに差し込んでいる。その窓を一枚一枚丁寧に、力を込めて拭いていく。これも朝の日課の一つだった。床掃除にしてもモップだけに頼る訳には行かない。細かい部分は手でやらなければ綺麗にはならない。その手間を惜しむかどうかで店の見栄えも大きく変わる。

 それを朝起きてすぐ、学校に行くまでの僅かな時間で消化しなければならない。だから気は抜けない。ちょっとモタモタしたらあっという間に遅刻確定だ。床を掃除している間にも何処が汚れているかを目で探している。見つかればすぐに拭き取る。その繰り返しだ。

 最後の一枚を拭き終えると体からちょっと力が抜けた。長い息が唇から漏れて出ていく。まだ誰も呼びに来ないところを見るとまだ朝食の支度は出来ていないのだろう。ふぅ、何とか間に合った。ちょっと自分を褒めてやりたくなった。何せ、あれだけ寝坊しても間に合ったのだから。普通に起きていたら余裕を通り越して楽勝だったな。気持ち胸も少し反り返った。きっと、こういう事の積み重ねが自信に繋がるのだろう。ゴタクを抜かす前にまず動けと言われたけど、その意味が最近になってようやく判った気がした。

 バケツを持って階段を降りようとした時、不意に足が止まった。そう言えば、彼はこの部屋にいるはずだ。昨日あれだけ飲み食いしたのだ、普通の人なら寝返りを打つ事さえ出来ないに違いない。それ以前にあれだけの量の酒を呑む事も、そして胃に収める事も絶対に不可能だ。全く、色んな意味で人間離れしている。目が覚めたら昨日の出来事を、食べた量をすっかり忘れてまた当たり前のような顔をして食べるのかも知れないと思うとゾッとするけど、昨夜のお酒がちょっとくらいは残っているかも知れない。だったら今頃は残った酒が悪さをしていてもおかしくない。

 そんな事ばかり考えていたら頭の中でおかしな想像がどんどん膨らんで行く。本当に心配になって来た。

 大丈夫だよね?

 忍び足でドアの前に立つと耳を澄ませる。何も聞こえない。そこでホッと胸を撫で下ろすべきか余計に心配すべきなのか、何秒か真剣に悩んだ。静か過ぎるのも不気味だし、寝苦しそうな息遣いが聞こえて来ても困る。そうこうしているうちに、微かに低く呻くような声が聞こえて来た。胸が大きく音を立てて跳ねた。逸る気持ちを抑えて、今度は片方の耳をドアに着けた。最初は何も聞こえなかった。でも一定の周期で本当に微かにけど呻き声のようなものが聞こえる。やっぱり、昨日食べ過ぎたか呑み過ぎたせいでお腹を壊すか何かしたんだ。助けを呼ぼうにも苦しくて動けないに違いない。

 そこまで考えたらいても立ってもいられなくなった。本当に苦しんでるならすぐにでも彼の状態を確認して助けを呼ばないと。ドアノブを掴んで思い切り引っ張る。何の抵抗もなくドアが開いた。

「ウォッカさん、大丈夫で……っ!」

 そこから先は声にならなかった。

 目の前に太い棒が二本突っ立っていた。それが棒ではなく足だと気付くまで軽く三秒はかかった。何故それが目の高さにあるのか判らない。それが周期的に上下している。そして上下する度に低く呻く声が聞こえる。それもかなり低い位置から。

「おはよう」

 やっぱり足元から声がした。見ると本来ならば足がある位置に後頭部が見えた。少し目線を上にずらす。裸の背中が足の動きに合わせて上下している。

「うわあああああ!」

 開けた時よりも遥かに勢いよく閉めるとそのまま背中をドアに押し付けた。

 何だ、今のは一体何なのだ。どうして頭と足の位置が逆になっているのか。今見たものはそもそも何なのか。人なのか、それとも新種の生物なのか。いや、人以外の何者でもない。現にさっきこちらに反応して挨拶までしたではないか。化け物がウォッカと取って変わってしまったと言う訳ではなさそうだった。ならば、さっきの物体は一体何だったと言うのだろう。カティには全く説明出来ない。完全に頭が混乱している。部屋からは相変わらず低く唸るような声が微かに聞こえて来る。それに被せるように時折床が小さく揺れている。ますます以て判らない。

「カティ!」

 下の方から誰かが名前を呼んでいるけど、それが誰なのかをこれまで収集した情報と照らし合わせる。単に思い出すだけなのに、それくらい難儀した。

「ちょっと、どうしたの? 何があったの!」

 誰かが肩を揺さぶっている。何だか床が随分と低い。この時初めて床に座り込んでいる事に気付いた。呆然と顔を上げる。アリスだった。

「どうしたのよ、突然大声出して」

 どうしてと言われても、今のカティには見たものが何なのか説明出来る自信はない。そもそも、見たものを理解出来ていない。右手で頭を抱えるけど考えた事は一向に言葉にならない。ブルブル震える指でドアを指すのが精一杯だった。

「ここって、彼の部屋でしょ? 彼に何かあったの?」

 再び首を横に振る。アリスが露骨に顔をしかめたが、説明出来ないものは仕方がない。

 アリスは立ち上がると一歩前に踏み出した。握り拳を作ると軽くドアに当てる。そのまま二度ドアをノックした。

「すみません。ウォッカさん、入りますよ」

「どうぞ」

 少し苦しそうな声がドアの向こう側から聞こえた。

 アリスが肩を掴んで引き上げた。立ちなさい、という事だろう。確かにいつまでも座り込んではいられない。

アリスがドアノブを掴んだ。そのままゆっくり引く。カティは思わず目を背けた。

 低く呻くような声に床が軋む音が重なっている。さっきとまるで変わらない。でもまだ正視する勇気はなかった。アリスは部屋に入る事もなく、ドアを開けたまま呆然と立ち尽くしていた。何故話しかけようとしないのか。そして、何故ウォッカも出迎える事をしないのか。

 恐る恐る前を向くとやっぱり足が目の前に見えた。頭が床スレスレにある。その中間には裸の背中があった。

 ん?

 どうして頭と足の位置が逆なのか。何故その真ん中にある背中が裸なのか。改めてそれを目の当たりにした時、初めて違和感を覚えた。全体をゆっくり観察して初めて判った。

「何、なさってるんですか?」

 遠慮がちと言うには若干意味合いが違っていた。どちらかと言えば呆れたくなるのを懸命に堪えているように聞こえた。無理もない。

「腕立て」

 ウォッカは腕を深く曲げながら応えた。頬や首筋に滴っていた汗が床に落ちる。

「凄いですね、逆立ちしながらやるなんて」

 半分は本気で感心して、もう半分は呆れながらアリスは言った。

 カティ以外の三人は体を鍛える事が日常になっているので、うちで鍛錬をする事は差して珍しくはない。腕立て伏せもその中に含まれているけど、流石に逆立ちして出来るほどの腕力はない。それをさっきから平然と、そして黙々とこなしている。でも、本当に驚くべきなのはそんな事ではない。

 突然ドアが開く。その直後に悲鳴と共に閉まる。部屋のすぐ外では腰を抜かした女とその連れがギャアギャア騒いでいる。そして意を決したアリスが再びドアを開けるまでこの男は一体何をしていたのか。黙って腕立てをしていた。詫びる事も出迎える事もせずに。

 客の部屋を勝手に(しかも朝のこんなに早い時間帯に)開けたのはカティだし否は明らかにこちらにあるけど、出来る事なら一声かけるくらいの気遣いは欲しい。それが本音だけど、問題の核心は少し違うところにある。

「すみませんでした。こんなに早い時間からご不快な思いをさせてしまって」

 両手を前に揃えたアリスが深々と頭を垂れる。

「本当に、すみませんでした」

 カティも慌ててそれに倣う。ここに来てボーッと突っ立っていたら、それこそ本物の大馬鹿者だ。

「こっちこそ申し訳ないね」

 ウォッカは相変わらず腕立て伏せをしていた。アリスの目尻が少し引きつる。何が申し訳ないのか。

 ウォッカは床に顎が着きそうになるくらいに腕を曲げると弾みをつけて一気に伸ばした。腕の力だけで飛び上がったかと思うと後ろ向きに綺麗に宙返りして静かに着地した。巨体からは想像も出来ないような身軽さだった。

「いつまでもこんな事しててさ」

「こんな事って?」

 首を傾げたアリスに、ウォッカは少し赤みが差している顔を手で扇ぎながら言った。

「腕立てだよ」

 カティは反射的に背筋を伸ばした。見透かされているような気がしたからだろう。少しだけ首を曲げてアリスの横顔を覗き見る。視線に気付いたアリスがこちらを向いて苦笑いしていた。

 悪いと思っているならどうして止めなかったのか。一番おかしいのはそこだった。悪いと感じていると言う事は、そういう行為を続ける事に後ろめたいものは感じているのだろう。でも、別に止めない。誰にどう見られようと、それをいちいち気にする事もないのだろう。何せ素っ裸で年頃の女を脱衣所に迎え入れるような男だ、自分の見てくれを気にかけるような発想など引っ繰り返して思い切り振り回しても絶対に出て来ない。この男を引っ繰り返して振り回せるような人間がいるかどうかは甚だ疑問だけど。

 どうしてこんなに自分に素直でいられるのだろう。寒気がするくらいに羨ましい。真似したいとは思わないけど。

「ま、お陰でスッキリしたよ」

 実に清々しい笑顔だった。

 でも、元を正せばお客の部屋を断りもなく勝手に開けたこちらに否がある事は間違いない。鍵がかかっていなかった事は正直驚きだったけど。

「あなたも、どうしてお客様の部屋を勝手に開けたりしたの?」

 アリスが眉間に皺を寄せて顔を覗き込んだ。一番聞かれたくない質問だった。目尻から頬にかけて大きく引きつる。

「何か、心配してくれてたのかな?」

 軽く首を傾げながらウォッカが言った。

「どうしてそう思うんですか?」

「いや、最初にドアを開けた時に大丈夫ですか? って言ってたから」

 アリスのもっともな質問にウォッカは朝食に食べる食パンを切るように淡々と応えた。

 そう言えばそうだった。自分で言っておいてすっかり忘れていた。

「俺、君にわざわざ心配してもらえるような事なんてあったかな」

 探偵が現場から手掛かりになるものを探すように、真剣な眼差しで宙を睨んでいる。そこまで真面目に考えてもらうのは流石に申し訳ない気がした。かと言って、大した事ではないと応えるのも気が引ける。

 使う言葉を探しあぐねていると、アリスが軽く肩を揺すった。

「この期に及んで下手に悪足掻きなんてしないの。素直に白状しなさい」

 たった一人の可愛い妹でも、こういう処は容赦しない。通すべき部分では必ず筋を通すし、同時に見えない一線も引く。もっとも、これはアリスに限った話ではないけど。そうでないと全てがあやふやになってしまう。皆それを極端に嫌っていた。それが四人の暗黙の決まり事だった。今更になってそれに背くなど絶対に許されない。

「あの、ウォッカさん、昨夜はあれだけ沢山お酒を呑んで、あんなにいっぱいご飯も食べて、今日は大丈夫なのかなあ、て。お腹壊してベッドで苦しんでないかな、って考えたら途端に心配になっちゃって」

 お腹が痛くなる程度で済むならまだいい。急性アルコール中毒になるか、なりはしなくても呑みすぎて吐いた場合、吐瀉物が気管に詰まったら窒息してしまう。

「だから、大丈夫かな、って思って、それでドアの前で耳を澄ましてたんです。最初は静かだったから取り越し苦労かな、って思ったんですけど、ちょっとしたら呻き声が聞こえて来て、そしたらもう気が気でなくなっちゃって……」

 声が尻すぼみに小さくなっていく。アリスは山になった汚れた食器をどれから洗えばいいのか思案するように、今の状況に相応しい表情を探しあぐねていた。俯いていたカティの頭に手を置いた。

 俯き加減のまま、様子を窺うように上目遣いにウォッカを見る。困ったような、或いは照れるような顔をしてガリガリ音を立てて後頭部を掻きむしっていた。

「そんなに心配されるような事なんかしてないんだけどなぁ」

「いや、でもあんなに飲み食いしてたらやっぱり心配になりますよ。食べるのもそうですけど、呑みすぎは本当に危ないし」

 隣でアリスが助け船を出す。これまで何人もの酔っ払いを見てきているだけあって、それを知っている人には十分に説得力がある、と思う。例えば家族、或いはこの店の客には判ってもらえるだろう。でも、ウォッカは当然それを知らないし、何よりあれだけの量を飲み食いするのが彼の標準だとしたら、こちらが心配する理由すら見つからない事だって大いに考えられる。実際、胃がもたれるような事もなく、翌朝には逆立ちしたまま腕立て伏せまでしている。あれだけ食べておいて全く問題なしというのも正直凄すぎるけど。これから朝御飯かと思うと軽く目眩がした。この様子ならまず間違いなく食べる。拳を握り締めて背筋を伸ばした。

「ウォッカさんも、これまで他の人からいっぱい呑むな、って言われた事ってないんですか?」

「あるよ。腐るほど」

 ならば何故自分の異常さに気付かないのか。これだけ飲み食いするのを大手を振って受け入れる輩がいるならば是非見てみたかった。

「まあ、それでも俺にはあれが普通の量だからなぁ」

 サラリととんでもない事を口にした。あれだけ盛大に食べて呑んで、それで普通も何もないだろう。

「取り敢えず、あれくらいならば翌日動けなくなるような事もないから心配には及ばないよ」

 ありがとう。年端のいかない子供のような表情で屈託なく笑う。

「それにしても、君、想像力が随分逞しいね」

 隣でアリスが囁くような声で「無駄にね」と呟いたが聞こえない振りをした。

「今日もいっぱい食べるんですか?」

「昨日ほどではないだろうけど、それなりにはね」

「じゃ、私達も大いに気合いを入れてお待ちしてますから」

「頼もしいな」

 腕捲りして見せたアリスに、ウォッカは嬉しそうに笑った。と思ったら、今度は思い出したように声を上げた。

「そう言えば、君と会うのはこれが初めてかな」

 あ。本人も頭になかったのだろう。不意を突かれたように一瞬ポカンと口を開けた。そんなちょっと間抜けな顔を晒したのは本当に一瞬だった。次の瞬間には歯を見せてニッコリ笑って力瘤まで作っている。笑うまではまだ判るにしても、どうしてそこで喜んで二の腕を見せるのかが理解出来ない。内股になれとは言わないし誰も求めていないけど、もう少し自然なやり方で女を伝えられないものか。見た目は誰が見ても女でも、中身は完全に男だった。それでも女に惚れる事はない。性的な嗜好と性格は全く違うと言う事なのだろうか。そこだけは良かったと心の底から思う。

「はい。昨晩もお話伺いたかったんですけど、何だか皆さんと盛り上がってたんで間に入れなくて……」

 聞く奴が聞けば思い切り勘違いしそうな言葉だった。そういう意味合いは全く込めていない。身内だから判るけど、赤の他人で果たしてそれが伝わるのか、大いに気になる。少し粘っこい視線をウォッカに向けた。

「別にそんな事気にしなくていいのに。話したければ声かければいいし、煩わしいなら相手にしなけりゃいいだけだしさ」

 これも案外似た者同士なのかも知れない。少なくとも、カティが危惧した部分では全く噛み合っていない。それに安心すべきか否かは正直かなり迷うところだけど。具体的にどんな話をしたいのかという点に関して互いに全く触れようとしていない。それを指摘する事もしていないのだから、恐らく気付いていないのだろう。いい勝負だ。

「今の腕立て伏せは何回くらいやったんですか?」

 好奇心を抑えられないのか、客であるウォッカに断る事もせずいつの間にかズカズカと部屋に入っている。さっきまでとは雰囲気が違う。個人的かつ純粋な興味で接している。父が見たら間違いなく怒るだろうな。

「二百回」

「二百?」

 顔を思い切り前につき出す。ウォッカが顔を仰け反らせた。

「そんなにやってるんですか?」

「何と言うか、朝の日課ってだけなんだけどな」

 困ったように頬を掻いている。気持ちはよく判る。二百という回数は確かに凄いけど、ここまで大袈裟に驚かれたらどう反応すればいいのか迷ってしまう。

「朝から体動かさないと調子狂うんだよ」

「それで、朝から逆立ちした状態で腕立て伏せを二百回も」

 アリスはくるりとこちらに向き直った。

「カティ、出来る?」

「出来る訳ないじゃない」

 そんな事は既に百も承知のはずだ。十回も出来ない。それなのに聞いてくる辺り、余程興奮しているな。どうして体育会系な話題になるとこうも熱くなるのか。まだ春なのに暑苦しい。

「その積み重ねが、大人一人を片手で投げ飛ばす腕力に繋がってるんですね」

 目をキラキラさせて、胸の前で両手を合わせている。何かが違う気がする。

「あの、触ってもいいですか?」

 本人の返事を聞くよりも早く勝手にウォッカの二の腕に手が伸びていた。ウォッカも腕も引っ込める事も出来ず、ましてや進んで差し出す事も明らかに不自然なので、鋭角に曲げた肘の先にある手を額の辺りに載せている。カティにはそれが出来損ないの敬礼のように見えた。アリスが真下になった二の腕を少しおっかなびっくりしながら指先でつまんでいる。木箱の餌をついばむ新参者の小鳥のようだった。ちょっとおかしい。

「少し力を入れてみてもらってもいいですか?」

 ウォッカの腕が微かに震えた。腕全体が更に一回り太くなる。

「わっ、凄~い。カチカチになった!」

 子供のように声を上げている。カチカチという言葉に物凄く卑猥なものを感じた。少なくとも、年頃の女が若い男の前で口にする科白ではない。

「アリス、そろそろ戻らなきゃ」

 興奮気味の姉にたしなめるように声をかける。

「判ってる。もうちょっと待って」

 問答無用とでも言うように顔の目の前に手を突き出された。思わず仰け反る。すっかり夢中になってしまっている。どちらが姉で妹か判らない。

「やっぱり、何かしらの格闘技は身に付けてるんですよね」

「ただの護身術だよ」

 アリスは笑顔で首を横に振った。

「護身術程度の技術しか持ち合わせていない人だったら、悪漢相手にそんな堂々としている事なんてまず出来ませんよ」

「どうかな。技術はなくてもそういう修羅場ならば無駄に潜って来てるだけかもかも知れないぜ? 単に血の気が多いだけとかな」

「喧嘩を売るにしても、相手の力量を見極めた上で初めて出来る事ですよね。相手の方が強いのにそんな事をしたら確実に負けちゃう訳だし。でも、あなたはあっさり勝ってのけた。それも一度や二度じゃない」

 即答はしなかった。何だか少し楽しそうに笑いながら首を傾げている。

「ま、ご想像にお任せするよ」

「遠慮なく、そうさせて頂きます」

 両手を体の前に揃えてニッコリ笑った。持論の正当性を確信したような笑いだった。

「迷惑ついでに一つお願いがあるんですけど、よろしいですか?」

「俺に出来る事なら何でも」

 アリスは半歩下がると掌を拳で叩いて頭を垂れた。

「是非、一度手合わせ願います」

 組み手の前に必ずやる挨拶だった。今この瞬間にも拳を交えたいという衝動に駆られているのだろう。それを懸命に堪えている。そもそも、そんな衝動に駆られる人なんてまずいないけど。断言してもいい。勝負事、特に格闘になると目の色が変わる。イリナもミリアムも女の子にしては闘争心(負けん気とは意味合いが少し違う)は強い方だけど、アリスには遥かに劣る。そうで良かったと心の底から思う。こんなのに二人も三人も囲まれてたら一体どんな人間になるか判ったものではない。顔立ちだけ見れば十分可愛いのに。父の悩みの深さが少しだけ判った気がした。反面母は全く気にしていない。どんな子でもいい。元気に育ってくれさえすればそれで。いつだったかそんな事を言っていた。人に迷惑をかけるのは甚だ問題だけど、そういう輩は四人の中にはいない。それは父も母も判っているはずだ。

 だから、せめて自分は女の子らしくおしとやかでいようと思う。これでカティまで剣術や武術を習いたいなんて言おうものなら本気で泣くだろうな。或いは全力で止めるか。何れにしてもロクな事にはならない。それだけは確かだった。

 ウォッカも出迎えるように拳で掌を叩いた。

「俺はいつでも構わないぜ」

「あなたがここを発つまでには必ず。いいですよね?」

「何なら、今ここでやるかい?」

 両手の拳を軽く握るとリズムを取るように片足ずつ交互にステップを踏む。満更冗談と言う訳でもなさそうだった。アリスがかかって来ればいつでもそれを受けて立つ。そんな雰囲気を漂わせている。流石にそれは勘弁して欲しかった。こんな時間に、しかもこんな場所で。

「そうしたいのも山々ですけど、朝は一日で一番忙しい時間帯だから」

「じゃ、暇が出来たら声かけてよ」

「是非」

 アリスはもう一度掌を拳で叩いた。バチンという気合いの入った音が部屋に響く。拳を交える事を歓迎するようにウォッカは口笛を吹いた。彼の雰囲気には全くそぐわない繊細で綺麗な音だった。不意に、昨夜の脱衣所での出来事を思い出した。そう言えば、あの時もこんな風に口笛を吹いていた。武骨な雰囲気には程遠い、でも芯の通った存在感のある音だった。これで自分のイメージした通りに音を組み立てる事が出来たらそれこそ本当に作曲家になれそうな気がした。そこまで考えて我に返る。それこそ、ウォッカには絶対に似合わない職業だ。

「流石に、朝飯の支度はまだ出来てないよね」

「今その真っ最中のはずですよ。いっけない、油売ってる場合じゃなかった!」

 気付くのが遅すぎる。このまま厨房に入ったら小言の一つや二つは間違いなく頂戴する事になるだろうな。慣れているはずの床掃除に時間がかかりすぎている。こんな事ならさっさと一人で一階に降りていれば良かった。そこまで考えてふと我に返る。悲鳴を聞いて真っ先に駆けつけて来てくれた姉をそこまで邪険にするのは、やっぱり良くないよな。全くもう。ここで頬を膨らませても笑ってごまかすだけなのは目に見えている。そこがアリスの愛すべきところでもある。こういう愛嬌はアリスにしかない。ちょっと羨ましい。

「カティ、お待たせ。行きましょ」

 ドアを開けたアリスに続こうとした瞬間、そのまま通過するかと思った背中が突然停まった。くるりとこちらに向き直る。

「そうだ、すっかり忘れてた」

 アリスは姿勢を正すと体の前に両手を添えた。

「アリス・ランスローです。よろしくお願い致します」

 綺麗な角度でお辞儀する。頭の天辺で結わえたポニーテールが左右に垂れた。

「俺ってばホントに抜けてるよなぁ」

 ウォッカは頭をガリガリ掻きながらアリスに歩み寄る。笑いながら右手を差し出した。

「ウォッカ・レイガンスだ。よろしく頼むわ」

 砕けた口調だった。でも図々しさもなく、馴れ馴れしいとも思わなかった。それどころかむしろ奇妙な親近感すら湧く。ウォッカの雰囲気には人の心にある垣根を取っ払う何かがあった。それが一体どんなものなのか全く検討もつかないんだけど。

 アリスは白い歯を見せて笑うとウォッカの手を握り返す。

「凄く大きい手ですね。こんなので殴られたら痛いだろうなあ」

 何気無く呟く言葉にしては些か不謹慎、いや明らかに失礼だった。みんなが聞いたら即後頭部に拳が飛んでいる。

「ま、余程の事がなければまずそんな事はしないけどな」

「でも、組み手の時は別にしておいて下さいね」

 手を握ったままウォッカは大笑いした。

「君面白いね」

 そういう問題なのだろうか。明らかに違う気がするけど。取り敢えず、怒ってなくて良かった。ホッと胸を撫で下ろす。でも、カティにはそういう言葉を聞いて彼が怒る様子が想像出来ない。何を聞いてもこんな風に笑っているような気がしてしまう。

「じゃ、俺も下に行こうかな」

 腹も減ったし。怖い事をサラリと言ってのけた。普通に食事を取るだけならいいけど、彼の食事は一般的な人のそれとは勝手が違う。

「私達も急ぎましょう」

 アリスが足早に部屋から出る。カティの後に続いたウォッカがのんびりとした様子でドアを閉めた。

部屋の前に置きっ放しにしていたバケツとモップを手に取る。これは下に降りないと片付けられない。

「朝から床の掃除?」

「はい。朝の日課なんです」

 ハキハキとした声でアリスが応えた。少し頬が熱くなった。ウォッカから少し顔を逸らす。

「偉いねえ。朝から家業手伝うなんて」

「だって、そうしないとお店が回らないから」

 ね。こちらに軽く首を傾げて同意を求める。人前でわざわざ口にするような事ではないと思うけど、それすら言葉に出来ない。顔を赤らめたまま軽く頷くのが精一杯だった。

「ウォッカさんも、ご実家はこういう家業か何かをされてたんですか?」

「家業って言う程大袈裟じゃないけど、仕事は手伝ってたよ」

「なんだぁ、お互い変わらないじゃないですか」

 アリスは可笑しそうにカラカラと笑った。こういう風に自然に笑えるのは素直に羨ましい。上の二人に言わせれば何も考えていないだけ、といつも一刀両断されるけど。

「どんなお仕事をされてたんですか?」

「煙突掃除とか田植えとか畑の収穫の手伝いとか荷物運びとか、相手の要求に応じて色々」

「誰かのお手伝いがお仕事、だったんですか?」

「ま、そんなトコかな」

 小首を傾げたアリスにウォッカは曖昧に笑って言った。どうしてこんなにぎこちない表情なのか。

「でも、それだけ色んな事をしていたならお家でもさぞかし大活躍だったんじゃないですか?」

「働かざる者食うべからずが家の家訓だったからな」

 込み上げそうになった笑いを思い切り堪えた。アリスは我慢する事なく豪快に笑った。アリスと目が合った瞬間、堪えていたものが一気に噴き出した。だよね、やっぱり。何処もそんなものだ、ウチだけじゃない。

「それ、ウチと同じ。しっかり食べたきゃまず働け。小さい頃から聞かされてるから耳にタコですよ」

 モップを脇に挟んだアリスは空いた右手で耳を引っ張って首を竦めた。アリスに限らず、姉妹全員、物心がつき始める辺りから念仏のように言われ続けて来た。よく言えば教育、悪く言えば洗脳に近い。勉強は勿論だが、家業の手伝いは四人にとって紛れもない義務そのものだった。それをこなさなければ立ち行かない。みんな一生懸命頑張っているのだから、自分だけ怠ける事も、誰かに甘える事もしたくなかった。

 でも、それを家族ではない誰かに褒められると嬉しい反面ちょっと照れ臭い。さっき少し顔を背けた時、ウォッカは一体どんな顔をしていたのだろう。カティにそれが判る訳がない。安易にそんな表情を晒してしまった迂闊さを一瞬呪いたくなった。そんな事を考えながら振り向き様にウォッカの顔を覗き見た時、出会い頭にぶつかるようにして目が合った。反射的に目を大きく見開いた。驚いただけと言われればそれまでだけど、それくらいしか出来なかった。目を背けるのもこういう時の反応としてはそんなに不自然ではない。でも、そんな事をする暇もなかった。それくらい唐突だった。

 と思っていたのはカティだけだったのかも知れない。ウォッカは別段驚く事もせず、最初は起こった事態を把握するような緊張感を少しだけ漂わせていたけど、それすらどうでも良くなったのかあっという間にいつもの表情に戻った。起きようと思えばいつまでも起きていられるけど、寝ると決めたら三秒で寝られる、そんな顔だ。眠そうな目で瞬きすると我が子の帰宅を迎える父親のような顔でニッコリ笑った。下心も良からぬ魂胆も何もない。純粋そのものの笑顔だった。彼の年齢はまだ聞いていないけど、成人している事はまず間違いない。そういう年齢の男がこんな風に子供みたいに笑っている様子なんて、これまで想像も出来なかった。でも、目の前でこうして笑っているのを見ると何だかどうでもよくなって来た。笑ってくれて嬉しい事に変わりはないからだ。ただ何も考えていないだけかも知れないけど。

 アリスと並んで歩いていたウォッカがゆっくりとカティの横を通り過ぎる。首を捻ってこちらを振り返ったウォッカは子供みたいな顔をしてカティに手を振った。白い歯まで見せている。真面目なのかふざけているのか判らない。でも面白い事も確かだった。カティが手を振るとふざけてもっと大きく手を振った。丸っきり子供の反応だった。

 その顔が突然大きく傾いた。前を向いていなかったせいで階段を踏み外したのだ。あ、と思う間もない。悲鳴と共に樽の天辺を平手で乱打するような音を立てて一気に階段を下って行く。体の一部が思い切り床に激突する派手な音が響いた。

 手に持っていたモップとバケツを床に置く。脇目も振らずに一気に駆け出していた。そうしようと思っていたのはアリスも同じだった。カティがそうしたように、持っていたバケツをそのまま床に置いた。確認より動作が先行していた。当然、後ろを振り向く事などしない。

 今度は「あ」、と思った。思っただけだった。かわす事はおろか、声を上げる事すら出来ない。階段を降りようとしていたカティの丁度足元にバケツが置かれた。これ以上ないタイミングだった。

 下ろそうとしていた右足がバケツにぶつかってあっさり弾かれた。残った左足一本でバランスを取る。真っ直ぐならばまだいい。目の前は階段だった。

「わっ!」

 声を上げたまま左足を曲げて衝撃を吸収する。それが一度で済めばいい。階段はまだ軽く十段以上残っている。

あ、と声を上げて咄嗟にアリスが手を伸ばした。遅いよ、と思う間もなくあっさり空を掴む。

 体重だけでなく、階段まで走った勢いまで加わっている。一段降りるのが精一杯だった。もう一段下に降りたところで勢いを抑え切れなくなった。元に戻りかけた右足を階段に載せたけど無駄だった。むしろ足が加わったせいで勢いが増した。そのまま体が宙に放り出された。最初は体が浮いたように感じたけど、勿論それは錯覚以外の何物でもなかった。クルリと前方に綺麗に宙返りする。一瞬の間を置いた直後、お尻から思い切り床に落ちた。と同時に、蛙を踏み潰したような品のない声が体の真下から聞こえた。

 宙を舞って床にお尻を強打した割にはそこまで強い痛みは感じなかった。着いた瞬間、衝撃を吸収するようにして床が少しへこんだような気がした。いつから家の床にはクッションが入ったのだろう。床に座り込んだまま辺りを伺う。どういう訳か、狭い踊り場の何処を見てもウォッカの姿はなかった。

 あれ?

 怪訝に思いながら階段を見上げた時、アリスが茫然とした顔をしてこちらを指差していた。

「何、どうしたの?」

 アリスはそれに応える事もせず、露骨に頬を引きつらせたまま依然として黙って床に視線を落としている。示された通りに床を見た。そこだけ、より厳密に言うとカティのお尻の下だけ床の色が明らかに違う。何より、お尻と爪先の高さが微妙に違う。どうしてお尻の方が高いのか。

「うわああああ!」

 慌てて立ち上がる。

 床に、お尻の真下にウォッカが倒れていた。微動だにしない。死んでいるのかも知れない。死んでいてもおかしくない。ウォッカが階段から転げ落ちた時、床に何処を打ち付けたのかは判らない。でも、その直後、無防備同然の背中に全体重を載せた尻が直撃したのだ。その上、落下した時の勢いまで加わっている。打ち所次第では命に係わる。否、死んでもおかしくない。

 ウォッカは相変わらずピクリともしない。生きているなら声くらい出して欲しかった。静かだと本当に死んだと思ってしまう。怖さが表に立って声をかける事も出来ない。

「あ、あの……」

 半分以上泣きそうになりながら声をかける。返事はない。体を揺する勇気もない。せめて目を見れば少しは状態が判るかも知れない。一縷の望みをかけて顔を覗き込む。喉元が音を立てて引きつった。唇の端から僅かに血の混じった唾液が流れている。よく見ると唇に歯で噛んだ跡があり、血が滲んでいた。目は半開きで焦点も定まっていない。骨の何本かが折れているか、或いは内蔵の何処かが既にやられているのかも知れない。

「アリス、下に行ってお父さん呼んで来て」

「何? ヤバいの?」

 首を横に振る事しか出来ない。泣き出しそうになるのを堪えるのが精一杯だった。

「ウォッカさん、大丈夫ですか?」

 肩を揺すってみても反応はない。唾液が糸を引いて床に着いただけだった。

「ウォッカさん、お願い。目を開けて」

 さっきから目だけは開いているけど、意識がないなら開いている事には何の意味もない。視線は宙ぶらりんのままで像を結ぶ気配すらなかった。

 どうしよう、どうしよう。

 混乱が最高潮に達しようとした瞬間、

「ワッ!」

 足元から響き渡った大声が鼓膜を貫いた。音を立てて床に尻餅を突く。

「アハハハハハ。引っ掛かった引っ掛かった」

 子供のような声で笑っている。ウォッカはさっき上で手を振った時として変わらない表情でこちらを見ていた。床に両手を着いたかと思うと、軽い掛け声と同時に腕の力だけで体を持ち上げた。兵隊が整列するように真っ直ぐ背筋を伸ばして綺麗に倒立したかと思うと、今度は顎が床に着くスレスレまで両腕を曲げる。後はさっきと同じだった。腕を伸ばす勢いで体を跳ね上げると綺麗に宙返りして着地した。重さを全くと言っていいほど感じさせない。足が床に着いた時、僅かに音が聞こえただけだった。

「大丈夫?」

 首を傾げてカティの様子を窺う。こっちの科白だった。

「ウォッカさんこそ、大丈夫ですか?」

「何ともないよ」

 本当に何ともなさそうだった。首に手を当てて左右交互に曲げている。

「この通りね」

 何がこの通りなのかサッパリ判らない。でも、体の何処かを痛めているようには見えなかった。

「骨とか、折れたりしてないんですか?」

「あれくらいで折れたら転んだだけで身体中の骨がバラバラになっちゃうよ」

 それはないと思う。転んだ程度では折れないけど、階段十段分近い高さから人一人が自由落下した衝撃をまともに受けたら骨の二、三本くらいはアッサリ折れそうだった。痛がっていないし、苦しそうにも見えない。痛みを堪えて強がっているような素振りもない。だとすると、本当に痛くないのだろう。

「大丈夫ですか?」

 階段を駆け降りて来たアリスは開口一番にそう言った。

「見ての通り、何の問題も以上もないよ」

「信じていいんですか?」

「いいよ」

 散々騙されて借金で首が回らなくなった人が借金全てを肩代わりするという申し出を受けた時のようなやり取りだった。潔すぎて逆に疑わしい。

「背骨が折れるとか、ずれるとかしてないんですか」

「そこまで重傷だったら立てないよ。ま、何れにしても心配してくれて有り難う。どういう訳か、昔から体だけは頑丈でね」

 あれで無傷だとしたら頑丈の域を遥かに超えている。鉄で出来ているのだろうか。

「それより、良かったよ。大した怪我もないみたいだし」

 背中を逸らして少し高いのか位置からカティを見遣る。思わずハッとした。

「何て言っといて、本当に怪我してたらごめんなさいしか言えないけどさ」

「いえ、私は何ともありません」

 確かに、床にお尻から思い切り叩き付けられていたらただの怪我では済まなかった。尾底骨か腰骨が折れるかヒビか入るかしていただろう。そういう意味では、ウォッカの上に落ちた事は結構な幸いだったのかも知れない。彼にしてみれば相当な災難だけど。

「そもそも、俺がすっ転んで階段から転げ落ちたのが原因なんだから」

 あ。言われて見ればその通りだ。ウォッカがコケさえしなければカティが慌てて駆け出す事もなかった。アリスが後ろも見ずにバケツを置く事もなかった。バケツに足を取られる事もなかった。

 そう、私は何も悪くない。一瞬、腰に両手を当てて胸を張りそうになった。本気でそう思えたら一体どれだけ楽だろう。

 眉間を人差し指と中指でトントン叩く。まだウォッカとまともに目を合わせられない。

「でも、足元に気を付けていればバケツにも気付いてたはずですよ」

 ウォッカは喉を鳴らして笑った。今度は眉を潜めた。どうして笑うのか判らない。隣ではアリスがちょっとバツの悪そうな顔をしてソッポを向いている。

「人が良いねえ」

 それだけ言うとサッサと階段を降りて行く。あ~腹減った~とか何とか適当な事を言いながら広い背中少しずつが小さくなって行く。

 何が何なのかサッパリ判らない。同意を求めるようにアリスを見ても決まりが悪そうな表情をして顔を背けただけだった。それでも食い下がるようにしつこく顔を覗き込むと、アリスは観念したようにカティと目を合わせた。ゴホン、と仕切り直すように一つ咳払いする。

「取り敢えず、やらなきゃいけない事が一つ増えちゃったみたいね」

 カティは背筋を伸ばすと観念したように頷いた。


「誠に、申し訳ございませんでした」

 隣にいる妻と並んで深々と頭を垂れた。妻も目を伏せたまま顔を上げようとはしない。

「あの、お怪我は?」

「この通り何ともないですよ。だから顔を上げて下さい」

「そういう訳には参りません」

 眉間に掌を置くと出かかった溜め息を辛うじて喉元で抑える。妻の更に隣では神妙な顔をした娘二人が体の前に両手を揃えて人形のように行儀よく立っている。

「申し訳ございませんでした」

 二人は声だけでなく、折った体の角度まで綺麗に揃えてお辞儀した。普段仲がいいとこういう時の息まで合うものなのだろうか。

「何処も怪我なんかしてないし痛いところもないんだから、頭を下げる必要なんてどこにもありませんよ」

「ですので、そういう訳には行きません」

 ウォッカの言葉を遮るようにダンは首を横に振った。どんな状況に於いても、通すべき筋と言うものは間違いなくある。それを安易に踏み越えるような真似は絶対にしてはならない。 それが、商売人としてこれまで培って来た僅かばかりの自尊心だった。

「ま、事実は事実として覆せないところもありますけど、その発端は俺にあるんですから」

「と、おっしゃいますと?」

「俺が余所見して階段から転げ落ちたのが原因なんですから、それに付随して起こった事の責任を二人に問うのは 当事者として納得しかねます」

 確かに、ウォッカの言い分にも一理ある。いくつか不幸な偶然が重なって今回の結果に到っているけど、その根っこにあるものは彼の不注意にあるのだ。その後の二人が取った行動自体は決して間違っていない。その時ダンが同じ立場にいたとしても、同じ事をしていたはずだ。それは隣にいる妻も変わらない。

 だが。

 その後の結果は決して褒められたものではない。下手をしなくても死んでいる。どうして何ともないのか。たらふく食ってしこたま呑んだ翌朝に、何故普通に食事を取れるのか。食卓についている彼はさっきイリナが作ったばかりのオニオンスープを美味そうに啜っている。固形物でないから胃に負担が少ないのかも知れない。しかし隣にある大皿には既にご飯がてんこ盛りにされている。別の意味で溜め息が出そうになった。

「あの、本当にお怪我はされてないんですか?」

「はい」

「痛みは?」

「ありません」

 スープとご飯を交互に口に運びながら淡々と応える。いや、心ここにあらずと言った風情だった。食事に集中したいのだろう。

「本当に、痛くないんですよね?」

「全く」

 呑み込んだ音がここまで聞こえて来そうなくらいの量を一気に胃に落とした。

 ダンは一礼すると食堂の隅に身を引いた。手招きして娘二人を呼ぶ。

「彼はああ言ってるけど、本当に何処も痛めてないのかな」

「さっきから私達も聞いてるけど、何ともないとしか言わないし、実際何処か怪我してるようには見えないのよ」

 ねえ? アリスは首を捻って妹を見る。カティも頷く事しかしなかった

「二人とも、その時の状況をもう一度教えて」

 妻はアリスとカティの肩に手を置くと顔を交互に覗き込んだ。疑っているのではなく、飽くまで事実を確かめようとしている、そういう目をしていた。

「まず、彼が階段で足を踏み外して一気に踊り場まで転げ落ちて」

 顔面を床に強打した。アリスは身振り手振りを交えてその時の様子を再現する。転げ落ちた勢いそのままに顔を床に叩き付けたらしい。カティは隣で大人しく話に耳を傾けていた。階段の上にいたアリスしかその時の様子を見ていないのだろう。

「で、その後どうしたんだっけ?」

「すぐに駆け降りようと思って、持ってたモップとバケツを床に置いた」

「カティは?」

「階段まで一気に走った。そしたら足元にバケツがあって、後は……」

 そこから先は説明するまでもなかった。妻も求める事はしなかった。腰に両手を当てたまま、神妙な顔をして溜め息を吐いている。

「事故ね」

 そんな事は判っている。だが、それで済ます事などとても出来ない。

「となると、カティは階段の上から殆どそのまま彼の背中に落ちた訳か」

「二段か三段は踏み留まったと思うけど」

 所詮焼け石に水だろう。その後すぐに宙に放り出されて無防備な背中に思い切りボディプレスしているのだ。平衡感覚がなくなったというカティの証言が事実ならば、宙返りくらいしていてもおかしくない。短い距離とは言え、階段の直前まで走っていた事を考慮すれば別に不思議な事ではない。つまり、物質の落下という位置エネルギーの移動による衝撃だけでなく、そこに走った事による勢いも加わっている事になる。

 頭をもたげると、食事しているウォッカの様子をこっそりと窺う。山盛りだったご飯がもうそろそろなくなりそうだった。オニオンスープも空に近い。それでも一向にペースが衰えそうにないところを見ると、まだ食事は続けるのだろう。

 それだけの衝撃を受けてどうして怪我の一つもしていないのか。何故何事もなく食事に興じる事が出来るのか。そう言えば、最初に転げ落ちた時床に顔面を強打したようだが、鼻血はおろか血が滲む事すらしていない。昨日と全く変わっていない。

 ここまで来ると最早頑丈と言う域を遥かに越えている。このくらいならば痛くないのか、そもそも痛みすら感じないのか。だとすれば立派な、そして非常に深刻な病気だけどその可能性すらない事にすぐ気付いた。痛みを感じない事と怪我をしない事は根本的に全く別物だからだ。となると、痛みを感じ、かつ怪我をする程の衝撃ではないと解釈するのが妥当なのだろう。

 何れにしても、痛みもなければ怪我もしていないのが本当に唯一の救いだった。相手が良かった。逆にウォッカでなければ大変な事になっていた。そんな想像をしたら本当に背筋がゾッとした。一瞬感じた目眩を堪えるようにふらつき始めた頭を右手で支えるとゆっくり腰を上げる。妻と娘二人も黙って後に続く。ウォッカの横に立つと、丁度食べ終えた器をテーブルに置いたところだった。

「これ、無茶苦茶美味いですね」

 スープを盛っていた皿を指差しながら言う。称賛の言葉にしてはちょっと素直過ぎる。でも、だからこそ嬉しい。頬が緩むのを止める事が出来なかった。首を捻って後ろを振り向く。娘二人は花が咲いたような顔をしている。妻は満足そうにニッコリ笑っていた。四人の中で一番冷静な反応だった。

「お褒めに預かって光栄です」

 一歩前に出ると、妻は深々と頭を下げる。顔の両脇に垂れた髪を指で弾く。娘二人には劣るが、ダンに言わせれば妻のそれも十分に長い。

「おかわり、頼んでもいいですか?」

 妻はウォッカが差し出した器を受け取るともう一度一礼した。踵を返して厨房へ向かう。ある意味、それは実に無難で何より全うな反応だったのかも知れない。少なくとも、一方的にこちらの筋を通す事に躍起になるより選択として賢明なのは確かだった。

 これ以上謝る必要がないとは思わない。だが、ウォッカがそれを求めている訳ではない。かと言って、ここで引き下がる事は許されない。

「有り難うございます」

「何か、さっきから頭下げてばっかりですね」

 ウォッカがからかうように笑いながら言った。視線の先を床に向けたまま、どんな顔をすべきかしばらく真剣に考えてしまった。全く、言われなくてもその通りだ。

「本当に、すみませんでした」

 隣でアリスが腰を折った。

「だからいいって。いい加減顔を上げて下さいよ」

 言葉は嬉しいがおいそれと従う訳にもいかない。それくらい彼にも判っているはずだ。

「じゃ、取り敢えず二人とも顔を上げましょうよ。普通話しする時はお互いの目を見ながらするものだと思うし」

 照れ臭そうに頬を掻く。いつもよりもいくらか笑顔がぎこちない。

「こっちもおかわり、頼んでいいかい?」

 頭を下げていたアリスにおずおずとご飯の盛られていた皿を差し出す。驚いて顔を上げたアリスに、ウォッカは人懐っこく笑った。

「山盛りのてんこ盛りでいいんですよね?」

 笑いながら即座に頷いた。まだ食うのか。まだ入るのか。昨夜、かなり多めに先払いで代金をもらっているが、追加で請求した方が良さそうだった。今日の買い出しも普段の倍は見ておかないと後がまずい。

 皿を手に取ったアリスは母がそうしたように綺麗な角度で一礼すると足早に厨房へ向かった。嬉しそうな横顔だった。全く、素直過ぎてかける言葉をなくす。良くも悪くも直球勝負だ。力を抜く事もいなす事もしない。武術の腕は確かなようだが、心理戦になったら確実に負ける。

「ちょっと喉渇いちゃったな」

 少し物欲しそうな顔でウォッカは言った。確かにテーブルにコップも水差しも置かれていない。

 あ。内心でしまったとほぞを噛んだ。一時忘れるだけならまだしも、客から指摘されるまでそれに気付かなかったのは失態以外の何物でもない。それを返上するように足を動かそうとした時だった。

「ねえ、水、頼める?」

 さっきから神妙な顔を維持しているカティに声をかけた。突然でビックリしたせいか、一瞬反応が遅れる。

「いいかな?」

「は、はい」

 ウォッカは促すように軽く首を傾げた。返事をしたはいいが、完全に声が裏返っている。

「それと、水差しごと持ってきてくれると助かる」

 もう驚かなかった。これだけ食べるならば採る水分もそれに比例すると言う事だろう。

 一歩下がると二人がそうしたように一礼して厨房へ走っていく。片付いたテーブルに肘を突きながら、ウォッカは足早に食堂を後にするカティの後ろ姿を見守る。カティが厨房の暖簾を潜ったところを見届けると内緒話でもするように首を竦めてダンに視線を送った。勿論変な意味合いではない。ただ何かしらの意図が介在していのは確かだった。

 ダンはテーブルの前に立った。椅子から立ち上がったウォッカが椅子に座るよう勧めた。当然のように首を横に振る。ウォッカも首を横に振った。

「朝から立ち通しじゃ後に堪えますよ」

「いつもの事です。ご心配には及びません」

「その方が話しやすいんですよ」

 あなたじゃなくて、俺が。屈託なく笑いながら椅子を引いた。思わず声が出そうになった。彼の意思を汲み取ろうとせず、さっきからこちらの都合ばかりウォッカに押し付けていた。彼が求めているのはそんなものではない。無論それには気付いていた。だが、犬が与えられた餌に食い付くようにそれに従う事は出来ない。こちらにはこちらの事情がある。通すべき筋は通さなければならない。

 ウォッカにしてみれば、それも押し付けに過ぎないのだろう。遠回しに指摘されて初めて気付いた。ただ自分のプライドや体裁を守りたかった、それだけだった。

 真冬でもないのにやたら喉が乾燥している。こんな事ならダンも水を頼んでおけば良かった。代わりに一つ咳払いすると椅子に腰を据える。

「すみませんね。朝っぱらから余計な心労をかけちゃったみたいで」

 返そうとした言葉が喉元で詰まった。実際その通りだった。それをこちらの立場で指摘する事など出来るはずもい。それを見越して言っているのか偶々口を突いて出ただけなのか。

「見ての通り、俺は何ともないし何も気にしちゃいません」

「そうみたいですね」

 ここで下手に頭を下げたりしたら、今度は顔をしかめられそうな気がした。いい加減、彼の気持ちに応えてもいい頃だろう。

「だから、これ以上頭を下げるのは止めて下さい。お気持ちは非常に有り難いしそれがあなたの義務なのは俺も重々承知はしているつもりです」

 体から力が抜けた。見透かされていた事よりも、体裁ばかりを気にしていた事を指摘されたような錯覚に陥った。いや、錯覚ではないな。紛れもない事実だった。

「気疲れって場合によっては肉体的な疲労よりよっぽど疲れるし、人に気を遣いすぎるとどうしても態度とか雰囲気がよそよそしくなるでしょ?」

 口調が明らかに砕けて来ている。だが馴れ馴れしさも図々しさも感じない。むしろ不思議な親近感すら湧く。不思議な感覚だった。

「そういうの、あんまり好きじゃないんですよ。小さい服を無理矢理着てるみたいで明らかに窮屈だし、何か不自然になるし」

「今は不自然ですか?」

「完全には消えてないと思います。でもさっきに比べたら幾らかマシになったかな?」

 完全に主導権を握られているが気にならなかった。取り返そうとも思わない。相手の声に耳を澄ませる、今はそれに集中しよう。

「余計な力は抜いた方がいい。疲れるだけだし、いい事なんて一つもない」

 頬杖を突いていたウォッカと目が合った。眠そうな目で笑っているが、実際眠るようには見えなかった。

「今回の一件は元を正せば俺が階段から転げ落ちたのがそもそもの原因なんだし、二人に責任なんて感じて欲しくないってのが本音なんですが」

「人がいいんですね」

「買い被りですよ。俺がやりやすいようにしようとしてるだけだし」

 随分身も蓋もない言い方だったが、実際ウォッカはその通りの事をしようとしている。誰でも自分にとって都合がいいように事が運べばそれに越した事はない。いちいちそれを口にしないだけの話だ。

「床にバケツを置いたのもそこにつまづいたのもただの偶然だし、それを責めるのは酷ですよ。でも、あなたの置かれてる立場はそれを許さない」

「当然です」

 事情や経緯はどうあれ、筋は通す。それがあやふやになる事だけは絶対にあってはならない。二人がやろうとした事自体は間違っていない。ただ、結果に責任は感じて欲しい。今回は偶々怪我がなかった、相手に救われた、それだけの話なのだから。子を持つ親としての立場ではなく、一人の商売人として向き合わなければ娘にも、そしてウォッカにも合わせる顔がない。

「反省する必要性だけ理解させれば十分なんじゃないですか? 後はそうならないように気を付ければいいだけだし」

「それくらいは流石に判ってるでしょう」

「だったら簡単じゃないですか。後は二人に任せればいい。注意なり工夫なりは本人が勝手にやりますよ。外野があれこれ口を挟んだら逆にやりづらくなるんじゃないですか?」

 問題は理解の程度だ。行為自体は勿論だが、今回は相手に恵まれただけに過ぎない。怪我をしていない事にも、怒っていない事にも。それを単なる幸運で済ませて欲しくないのだ。判っているとは思うが、それでも不安は拭えない。

「四人とも凄く聡明ですよ。あなたの考えてる事もきっと理解してる。だから、もう少し信じてやりましょうよ」

 同意を求めるように軽く首を傾げる。真面目腐った顔を維持するのはちょっと難しい、そんな笑い方だった。思わず頬が弛む。ウォッカもここぞとばかりに笑った。粗野な外見に似合わず人懐っこい。全く、不思議な男だ。

「あの子達にはもう大丈夫とだけ伝えて頂けませんか? 多分、俺よりあなたが言う方がより伝わるでしょう」

 首を伸ばして厨房の入口を覗き込む。もうそろそろ戻って来てもいい頃合いだ。二人に余計な気を遣わせたくないから、適当な理由を作って退席させたに違いない。ガサツな印象に反して気配りが細かい。ここまでされて首を横に振るのは結構な勇気がいる。何より、これ以上彼の気持ちを無にしたくなかった。

「では、お言葉に甘えさせて頂くとしましょう」

 神妙な顔をしたつもりだったが、唇の端が僅かにむず痒くなった。横目でウォッカの様子を窺うと満足そうに笑っている。自分の意図する方向に展開を誘導出来た事に対してか、はたまたこれ以上余計な気を遣わせずに済む事への安心感に依るものなのか、一瞥しただけでは判断しかねる表情だった。そこまで考える必要もなさそうだが。

「お待たせしました」

 妻がオニオンスープの入った器を両手に持ったまま丁寧に一礼した。その背中に隠れるように立っていたアリスとカティがひょっこりと顔を覗かせる。

「これぐらいはいけますよね?」

 差し出した皿には文字通り山のように盛られたご飯がどっしりと腰を据えていた。本当に山盛りだった。一般的な感性の持ち主ならまずここまで盛らない。食べ切れる訳がないからだ。それを何の躊躇いもなくやってのける辺り、アリスの感性も一般的なそれとはかなりかけ離れているのかも知れない。溜め息が出た。それを食べる方はと言うと、顔色を変える事もなく極普通に頷いた。この男の胃袋も大概だった。

 目の前に料理が置かれると、ウォッカは改めて両手を合わせた。離すと同時に皿を掴んでいる。飽くまで自分に正直な食べ方だった。偽る事をしない。見ていて爽快とも思えるくらいの勢いで料理が胃袋に消えて行く。

「あ、あの……」

 隣に立っていたカティがおずおずとコップを差し出す。

「あ。ありがとう」

 ウォッカがコップを受け取ると、そこに並々と水を注ぐ。カティはホッとしたように笑った。ウォッカもニッコリ笑ったかと思うと、そのまま一気に煽った。一瞬で中身が空になる。

「そこに置いといていいよ。後は適当にやるからさ」

「はい」

 コップと水差しを載せていたお盆を前に抱えてペコリと頭を下げる。

 ダンはカティの肩に手を置いた。

「他のお客ももうじき起きる頃だからな。そろそろ仕事に戻ろう」

 頷く事もせず、それぞれが三々五々持ち場に散っていく。コップに水を注ぐ音が僅かに尾を引いていた。


 カゴから出したシャツの皺を素早く、そして丁寧に伸ばしていく。それをハンガーにかけてから洗濯挟みで物干し竿に留める。それをカゴが空になるまでひたすら繰り返す。一日で一番忙しい朝にダラダラやっている暇などない。効率よく干せる配置を考えながら手を動かさないと時間があっという間になくなってしまう。もっとも、平日に、学校に行く前に洗濯を手伝う事はそれほどない。今は専ら母とイリナが担っている。この後の各々の予定を考慮すると至極無難な選択だと思う。まだ他にやる事もある。朝御飯は当然まだ済ませていないし、お弁当も作っていない。と言っても昨夜の残り物を適当に詰め込むだけだが。厨房の仕込みが足りない時もある。そこまで手が回る事は稀だが、これまで何度か駆り出された事があった。そういう時は大抵団体客の宿泊と相場が決まっていた。経験したのは生まれてから片手で足りる程度だ。頻繁にお目にかかっても困るのだが。そこまで昔の出来事ではない。でも、ミリアムにはそれがいつの事なのか思い出せなかった。間違いなく記憶はあると言うのに。こんな風にしてこれまで辿って来た足跡を見失って行くのだろうか。だとしたら少し哀しい気もする。単に忙しくて忘れただけだろうな、という実に無難な結論に到ろうとした時、隣で殊更派手に音を立ててシーツの皺を伸ばしたイリナがジロリと横目でこちらを睨んだ。

「手が止まってるわよ」

 綺麗に皺が伸びたシーツを物干し竿にかけながら言った。口は動いていても手は全く止まる気配がない。

「宿題が全くの手付かずとか」

「一昨日の夜には終わらせてたわよ」

 カゴから引っ張り出したエプロンをハンガーにかける。全く、失礼しちゃうな。そういうものは言われたその時に片付けるのが基本だ。仕上がらなければ出来るところまでは手をつけて、続きは他の作業を進めながら考えておく。そういう流れがいつの間にか身についていた。試験の時も、解らない問題を長々時間を割いて考える事など絶対にしない。解ける問題から先に片付けて、最後にじっくり考えればいい。その方が後が楽なのだ。そういう意味では楽をしている。後で楽をするために最初に少し汗を流しておく。そんなところだ。

「そりゃ失敬。誰かみたいに終わってなくて泣きついて来られても困るしね」

「アリスと一緒にしないで」

 あの脳ミソ筋肉娘と同列に扱われては敵わない。宿題手伝って攻撃には何度泣かされたか知れない。それはイリナも重々承知しているはずだ。

「ま、あんたに限ってそれはないか。一番真面目だもんね」

 そうなのだろうか。ミリアム自身はそこまで自分を真面目だとは思っていない。ミリアムから言わせればカティの方が余程真面目だ。言われた事はキチンと守るし、ハメを外しすぎる事もない。でも、肝心なところが抜けているのだ。それが真面目という評価からカティを少し遠ざけている。

「それはそうと、随分珍しいわね。あんたが朝から洗濯やるなんて」

「母さんに頼まれたの。何か外せない急用が出来たとか何とかって……」

 イリナは露骨に顔をしかめた。

「外せない急用って何よ。何処かに出掛けたっての? しかもこんな朝っぱらから」

「私が知る訳ないじゃない。だからイリナに聞こうと思ってたんだけど」

 一つ違いの姉は洗濯物を干す手を一瞬止めると無言で何秒かこちらを睨んだ。

「急ぎましょう」

 前を向いてそれだけ言うとすぐに作業を再開する。動作に迷いや無駄がない。何より速い。それで雑なら話にもならないが丁寧だから畏れ入る。まともにやったら相手にならない。でも仕事が雑と言われるのは避けたかった。

隣ではイリナが最後のカゴに手を伸ばしていた。手の動きの速さが尋常ではない。

 頭上から降り注ぐ日差しが眩しい。時折風の音に混じってトンビの鳴き声が細く尾を引いている。空は馬鹿みたいに晴れ渡っていた。学校に行くのが勿体ないくらいの晴天だった。出来る事なら芝生に寝転がって昼寝がしたかった。まだ朝だけど。少なくとも窮屈な教室で大して好きでもない授業を聞くよりは余程価値がある。

「終わった?」

 空になったカゴを重ねたイリナは首だけ曲げてこちらを見た。

「ほぼ終わりよ」

 冗談でも強がりでもない。カゴの底で寝転がっているタオルをかければ片付く。イリナには及ばないまでも、そこまでひけを取らない。ちょっと胸を張りたくなる反面で、まだまだだなと叱咤する自分がいる。

 さっき指摘されたように、姉妹の中では真面目だと思う。だがイリナの方が明らかに要領がいい。だから何をやるにしても無駄がない。そして速い。ミリアムが一つひとつの行程を素早く正確にこなす事に心を砕いているのに対して、イリナは最小限の労力でいかに成果を出すかという事に重きを置いている。その差だろうな。今のままではこの一つ年上の姉には追い付けない。やっぱりちょっと悔しい。出来る事なら今の姿勢を維持したまま追い抜いてみたい。

 イリナはどう思っているのだろう? カゴを重ねながら首を曲げて姉の様子を伺う。腕を組んだまま横目でこちらを見たイリナと目が合った。

「どうしたの?」

「行きましょう」

 ごまかすには丁度いい科白だった。カゴを抱えてドアを開ける。極力足音を立てないようにして階段をかけ降りて行く。誰も朝から騒々しい足音など聞きたくないに決まっている。四階、三階と通り過ぎ様に客室を伺うがまだ静かだった。

「みんなまだ寝てるのかな」

「多分ね。でもそろそろ起きて来ないと仕事に間に合わなくなる頃じゃない?」

 首を捻って振り向くと仕方なさそうな、それでいて何処か諦めたような顔で笑っている。ミリアム達三人にはこの後の仕事は出来ない。そうなると誰にお鉢が廻ってくるか、考えなくても判りそうなものだ。

「とにかく、急ぎましょう」

「そうね」

 気になる事は間違いない。だから確かめずにはいられない。階段を降りる足も自然と速まる。

「そう言えば、やっぱり彼もまだ寝てるのかしら」

「あれだけ呑んだんだから、流石にまだ寝てるんじゃない? 別に起きてやらなきゃいけない事がある訳でもなさそうだし」

 他の人達と違い、彼は働いている訳ではない。偶々ここに、この街に立ち寄っただけだ。旅で疲れているだろうし、屋根のある所で寝るのもそれこそ数日振りに違いない。特別用も無ければ朝くらいゆっくり過ごす。少なくともミリアムならば間違いなくそうする。

 だから食堂に足を踏み入れた途端にずっこけそうになった。件の男は実に清々しい顔をして水で喉を潤していた。目が合うと軽くコップを上げて挨拶する。慌ててカゴを床に置いて会釈する。背後にいたイリナは友達にそうするように軽く手を上げてみせた。思わず言葉をなくした。全く、気兼ねなく話せる雰囲気なのはよく知ってるけど、それを躊躇う事もせず普通にやってのける辺り神経が何処か普通とは違う気がする。自分の置かれている立場と義務は当然把握しているがその上での行動なのだ。ミリアムには絶対に真似出来ない。

「随分早いわね」

「決まった時間に目が覚めるだけだよ」

「便利な体ね」

 全く以て羨ましい。どれだけ疲れていても、どんなに呑んでいても毎日同じ朝を迎えられたら寝起きがずっと楽になる事請け合いだ。

「ここの皆さんも起きるの早いな」

ま、職業柄当然か。ウォッカは空になったグラスに水差しから水を継ぎ足した。

「朝から家の手伝いなんて偉いな。いや、ホントに頭が下がるよ」

 素直に称賛してくれるのは凄く嬉しいけど、ホンの少しだけ居心地の悪いものも感じる。そうするのが四人の日常なのだ。何も特別な事をしている訳ではない。あんまりそんな風に言われるとどんな顔をすればいいのか判らなくなる。

「ありがと。でも私達にはこれがいつもの朝の始まりなんだ。だからそういう風に改めて言われると何だかちょっとくすぐったいと言うか、むず痒いと言うか」

 多少気にはなるのだろう。でもそれをこうして当たり障りのない形で言葉に出来る。ミリアムにはちょっと真似出来ない。

「そっか。そりゃ悪かったな。なかなか出来る事じゃないから思わず感心しちゃってな」

 言葉も態度も詫びてはいるけど、そこまで真剣には聞こえなかった。でも、そこに心が軽くなるものを感じた。不思議な感覚だった。

 不意に、忘れかけていた事を思い出すようにして人懐っこく笑う。別に怒っていた訳ではないが、すっかり毒気を抜かれてしまった。文句を言う事なんてとても出来ない。もっとも、最初からそんな事を言う気なんて全くなかったけど。

「ところで、父さんと母さんは厨房?」

「みんな厨房にいるよ。朝飯の仕込みじゃないかな?」

「そうね。これだけまとまった人数の宿泊なんてホント久し振りよ。誰かがお客を連れてきてくれたお陰かしら」

「連れてきたと言うか、単に潰しただけだけと言うか、それとも潰れただけと言うか」

 自分で訂正してくれる辺り、やはり多少の自覚はあるのだろう。とは言っても、積極的に潰すような意図があった訳ではない。結果的にそうなっただけだ。それでも、あれだけ理性がまともに働いていれば意識がなくなる前に止める事も出来たはずだ。そうしなかったのはただ思い切り楽しみたかった、それだけなんだろうな。深く考えないからこそ無防備に楽しめる、そんな一面があってもいいはずだ。限度もあるけど。

 今にしてもそうだ。客が増えて嬉しい反面、大変な事もある。そして、今その真っ只中にある。

重ねたカゴを食堂の隅に置いた。空いた両手で頬を叩く。まだ仕事が終わった訳ではない。下手に手を抜く事など出来ない。確かめたい事がある。それはイリナも同じだった。あっという間に追い抜いたかと思うと厨房に姿を消した。

「ありがとうございました。ごゆっくり」

 振り向きながら慌てて頭を下げると、ウォッカは一瞬こちらを見て笑った。軽く手を上げる。その後は捕まえた虫の一挙一動を食い入るように観察する子供のような目をして店の外を眺めていた。外で遊びたいのだろうか。それとも日向ぼっこがしたいのかも知れない。そんな事は絶対にしないと判っているのにどうして想像してしまうのか不思議だった。そして馬鹿笑いしながら走り回っている様を想像して吹き出しそうになった。案外似合っているかも知れない。

 そう言えば、今日は一体どうするのだろう。いちいち根掘り葉掘り詮索する気はないけど、それでも気になる。少なくとも一日ここにいるとは思えない。ま、待たなくてもその内判る事だ。聞かずにおくのが無難な対応だろうなと思う。

 食堂を出た足でそのまま厨房に入る。さっきウォッカが言っていたようにイリナとミリアムを除いた四人が既に食堂にいた。そのイリナが妹二人に詰め寄っている。事情を聞くと言うよりも、それは後輩相手に幅を利かせる質の悪い先輩のように見えた。

「ありがとう、ミリアム。助かったわ」

 母はこれから眠りに就くような穏やかな表情で微笑んだ。

「別にそんなに改めてお礼を言われるような大層な事なんかしてないじゃない。洗濯物干しただけなんだから」

「でも、通学前にやるのはかなりしんどいと思うけど」

 作業の負荷を指しているのではない。時間的な制約の問題だ。肩を軽く上下させてゆっくりと息を吐いた。言われて、初めて少しだけ力が抜けた。

「何があったの?」

 母はぎこちなく笑うだけで、鍋を洗う手を止める事はなかった。言いたくないのではなく、言いづらいのだろう。

「本人から説明させるわよ」

 振り向くとイリナが妹二人の背中を押してこちらにゆっくり歩いて来た。

 つまり、母の急用の原因はこの二人にあるのだろう。最低限の状況は把握出来たけど、まだ肝心な部分が見えない。それを母に求めても応えてはくれないだろうな。

「何があったの?」

 さっきから俯いているカティの顔を気持ち少しだけ腰を折って下から覗き込んだ。アリスは気不味そうな顔をしたまま目を背けていた。

 気が重くなるような沈黙が狭い厨房を満たした。イリナが仕方なさそうに溜め息を吐くと音を立てて後頭部を掻いた。

「客に大怪我させるところだったみたい」

 思わずギョッとして目を開けた。声が出なかった。

「客って誰よ」

「今起きてるのは一人しかいないでしょ」

 腕を組んだイリナは食堂の方を顎で示した。

「何があったの?」

「事故だよ」

 厨房の入口に父が薪を肩に担いだ父が苦渋に満ちた顔をして立っていた。

「事の発端は彼にあるが、それでも笑って済ませるのは上手くない」

「何かがあったのは判った。でもそれをハッキリ説明してくれなきゃ何が起こったのか判らないわ」

 父の眉間のシワが一層深くなった。アリスは殆んど背後を振り向くのと変わらないくらい首を曲げている。目を逸らそうとしているなら体の向きを変えた方が選択としては賢明な気がした。

 俯いていたカティが不意に顔を上げた。

「階段から転げ落ちた彼の上に思い切り落っこっちゃったの」

「誰が?」

「私が」

「怪我は?」

「無傷だ。幸いにして」

 遠慮がちに手を上げたカティの背後で目を閉じた父は組んだ腕を上下に揺すった。

「で、そもそもどうして階段から落ちたのよ」

 詰問するようにイリナは回答を急かした。隣から父がそれを制した。

「さっきも言ったろ? 事故だよ」

「それで済ませる訳にも行かない、さっきそう言ってたじゃない」

「勿論それで終わりって事はないさ。本人にも大いに反省はしてもらわないとな」

 父はカティの頭にポンと右手を置いた。しょんぼりして肩を落としたカティを見ていると、これ以上詰めるのは躊躇われた。やはり情が先に立ってしまう。

「で、カティが階段から落ちた原因は何なの?」

「私が持ってたバケツを床に置いたの。そこに駆け寄ったカティが突っ込んで来て」

 思い切りつまずいた、と。当事者の一人としてと言うより、偶々現場に居合わせた人間の、目撃者としての義務を果たすように淡々とアリスは言った。でも、横顔はやっぱり気不味そうだった。アリスからしてみればバケツを床に置いただけ、と言う気持ちもあるだろう。それは容易に想像がつく。実際その通りだった。

「要は、ウォッカが単にちょっと抜けていた、と」

 誰も、何も言わなかった。強ちそれも間違いではない。当人を前にして口には出来ないけど。

「それは彼も認めている部分だよ。俺が階段から転げ落ちなければこんな事にはならなかった、ってな」

 当の本人が完全にそれを忘れ去って被害者面丸出しだったら完全に引いていたが。取り敢えず安心した。最低限の常識と客観的な視点は持ち合わせているようだ。

「だから、彼も必要以上に気にはしなくていいと言ってたよ。だが、反省はしてくれ。彼が許した事と怪我がなかった事とはまた話が違うからな」

 妹二人の肩に手を置いた父は顔を交互に覗き込んだ。

「それよりもっと重要なのはさ、階段の踊り場からそのまま下に落ちた訳でしょ? その高さからまともに衝撃受けてどうして無傷なのよ」

 母が良かったような困ったような顔をして頭を抱えている。

「どうしてかしらね。少なくとも、私達にはそれを説明出来ないのよ」

「カティ。落ちたのは彼のお腹? それとも背中」

「ハッキリとは覚えてないけど、うつ伏せに倒れてたから背中かな」

「どの辺り?」

「真ん中より若干上くらい、だったと思う」

 階段の上から、しかも無防備な状態で落下の衝撃をモロに受けたら痛いでは済まない。骨が折れるか臓器の一つや二つに損傷や痛手を負っていても何ら不思議はない。

 それで何故無事なのか。もし相手が彼でなかったら。そんな想像をしたら一瞬目の前が真っ暗になった。ホッと胸を撫で下ろしたくなる反面、事の重大さに背筋がゾッとした。

 腰に両手を当てて妹を見下ろす。カティは肩を丸くして更に俯いた。

「一歩間違ったら、相手が彼じゃなかったら大変な事になってたのよ」

 カティは何も言わずに頷いた。それは本人も重々承知しているところだろう。判っていればこそ、そんな判り切った事を何度もくどくど言うのは些か酷だった。青菜に塩をかけたようにすっかり萎れてしまった妹を前にすると、気持ちから突き出ていた棘から力も抜ける。さっきまで逆立っていたように感じたうなじの髪を撫でる。やっぱり、いつもより若干硬く芯が通っていたような気がしてしまう。でも、今はそれもかなり弱々しくなっていた。

 さっき父がそうしたように、カティの頭に右手を置く。撫でる事はせず、体温を伝えるようにずっと頭に載せたままにする。何かあった時、母はいつもこうしてくれた。手を握ってくれたり抱き締めたりしてくれた事もあったけど、大抵は辛抱強く黙ってこうしていた。ただそれだけで不思議と伝わるものがあった。それが何なのか未だに判らない。少なくとも、ミリアムには説明出来ない。ただ、そうしてくれると肩から荷物を下ろしたように気持ちが軽くなる。

「優しいのね、あんたは」

「イリナが厳しすぎるだけよ」

 イリナは肩を竦めた。横目で様子を窺ってもこちらを見る事はしなかった。まんじりともせずカティを見下ろしている。

「イリナ。さっきも言ったと思うが問題点を理解させればそれでいい」

「必要以上に叩く必要はない、と」

「お前にその意思も意図もないのは判ってるつもりだけどな」

 イリナは降参するように掌を上に向けて肩を竦めた。

「判った? 多少キツい部分もあったけど誰もあなた達を責めたりなんかしてないの。だからいい加減カティも顔を上げなさい」

 二人の肩を両手で掴むと、母は交互に顔を覗き込んだ。それまで俯いていたカティがようやく顔を上げた。母はここぞとばかりに笑って見せた。それに釣られるようにしてカティも笑った。それを隣で見ていたアリスはさっきから小さく肩を震わせている。厨房の空気が少し和んだ。突っ張っていた肩や肘から力が抜ける。緊張感を維持するのは大事だけど、これくらいは力が抜けた方がいい。

「頼むわよ」

 棒切れでスイカを叩き割るように、アリスは手刀でカティとアリスの頭を交互に軽く叩いた。二人共頭を押さえただけで、後は殊更神妙な顔をして頷いた。

 階段の方から足音が聞こえて来た。父は持っていた薪を置いて紐をほどいた。イリナは崩れた薪を何本か手に取ると、釜戸の中に勢いよく放り込んだ。


 日はようやくこれから昇ろうとしていた。暑くなるにはまだしばらく時間がかかるだろう、とさっきまでは安易にそう考えていた。

「これも頼む」

 厨房に戻るなり、父はスープの入った器を差し出す。当然拒む事など許されない。元々拒む気などないが。それがイリナ達の仕事だった。

「水差しはまだある?」

「皆さんまだまだたっぷり酒が残ってるのか」

「そりゃね。あれだけ呑めばそう簡単には抜けないでしょ」

 げんなりと顔をしかめた父を尻目にすぐに踵を返した。食堂に姿を現したイリナを見るなり、隅のテーブルについていた中年オヤジは待ち侘びるように手を上げた。

「大丈夫?」

「あんまり大丈夫じゃない」

 それでも吐かないだけまだマシだった。さっきここに来た三人は水を飲もうとした途端表に向かって駆け出した。すぐにミリアムが水を撒いたけど、まだ少し胃液の臭いが残っている。

「ま、これでも飲んで荒れた胃を早く楽にしてあげて下さいな」

 オヤジは拝むように手を合わせると、スプーンでスープを一口啜った。喉を通り越して胃に落ちた瞬間、紙を乱暴に丸めるようにして顔をクシャクシャにする。

「胃に滲みるなぁ」

 乾いた砂が水を吸い込むように、アルコールで荒れた胃が塩分を吸収しているのだろう。

「少しは目が覚めた?」

「まだ完全にはな。でも、おかずで胃は大分楽になったよ。地獄に仏とはこの事だな」

 本来ならば鶏を丸々一匹入れるのだが、昨夜ここに来た誰かが綺麗に食べてしまった。次はレシピ通りのものを作るつもりだ。あいつがどんな顔をするか見てみたかった。

「昨日の彼は何処に行ったんだい? まだ寝てるのかな」

「とうの昔に起きてる。朝御飯も済んでるし」

「冗談だろ? あれだけ食って、その上呑んでるのに何でもないのかよ?」

 どう返答すればいいのか判らない。あれだけ呑める理由も、その翌朝何事もなかったかのように動ける体の構造も、恐らく誰にも説明する事など出来ない。

「私達とはかなり違うんじゃない? 体の作りとか、アルコールを取り込める量とか」

 我ながら適当極まる回答だった。反芻するようにイリナの言葉をブツクサ呟くと、オヤジは食事を再開した。

 食堂には彼以外にも何人かが テーブルにつくかカウンターと向かい合っていた。目の前には誰一人として例外なくスープの入った器が置かれている。スープは家族のためではなく、飽くまで彼らのために作ったものだった。だから、こうして食べてくれないと困る。喜んでくれれば尚嬉しい。

「いつ食ってもこれは美味いな」

 いつ聞いても嬉しい言葉だった。自然と頬が綻ぶ。

「何かこう、ホッとすると言うか安心すると言うか……」

 何でかな? 客は首を傾げた。イリナは口元を手で覆いながら肩を竦めた。

「うちの家庭の味だからかな。最初に母さんから教わった料理がこれだから」

「四人とも?」

「父さんも含めて、みんな作れる。味には多少のバラツキもあるけどね」

 煮込まなければならないため多少時間こそかかるけど、そこまで難しいものではない。だから最初に教わるのもこのオニオンスープだった。あんたは筋がいいから。母にそう言われて八歳の頃、包丁を握ると同時に母から作り方を学んだ。他の料理を教わる事よりも、このレシピを体に刻み込む事に躍起になっていたのを今でも覚えている。家族の舌に馴染んだ味を自分の手で作れるようになりたい。そんな無邪気な思いに依るものだった。

 それが、こうして家族以外の人間にも受け入れられている事が素直に嬉しかった。

「食事も大切だけど、そろそろ仕事に行かないとマズいんじゃないの?」

「嫌な事思い出させないでくれよ」

 握っていたスプーンをテーブルに置くと器に唇をつけてスープを呷る。テーブルに置かれた器は綺麗に空になっていた。

「ご馳走様」

 慌ただしく椅子を立つとその足でカウンターに向かう。中に立っていた父が昨夜からの注文に宿泊費と今済ませた朝食代の伝票を受け皿に置いて待っていた。身構えていたと言った方がいい。恐らく、精算の準備も終わっているのだろう。手際が良すぎる。

「毎度あり」

「やる事が速いんだな」

「売掛ってのが嫌いでね」

 後ろ姿にバツの悪さが滲み出ていた。哀愁でも背負っていたらいくらか同情の余地もあっただろうが。溜まったツケを先に回収しようとしない辺りに父の温情を感じる。

放課後の教室から少しずつ人影が消えていくように、朝食を済ませた客は例外なくそそくさと支払いを済ませると足早に店を後にする。朝にダラダラ出来るほど皆も暇ではない。多少の変化はあっても、やるべき事は既に決まっている。

 テーブルに載っている食器を片付ける。その後は客室のシーツをひっぺがして洗濯して干さなければならない。買い出しに行くのはそれからだ。シーツは既に母がいくらか剥がしているはずだ。さっさとここを片付けたら母の手伝いに行かなくては。ダラダラしている時間などない。

「行ってきまーす」

 厨房に食器を下げようとした時、木槍を肩に担いだミリアムがすぐ脇を勢いよく駆け抜けた。

「間に合うの?」

「走れば余裕よ」

 裏を返せば走らなければ遅刻する公算が高いという事になる。朝っぱらから、しかも食後に走れるだけの体力がいつの間にか養われている。最初それに気付いた時、慣れの恐ろしさに背筋が寒くなった。得ようと思って努力したら最低でも五回は吐きそうだった。今では四人全員にそれが備わっている。頭脳派か脳筋系かと聞かれたら雲泥の差で後者に軍配か上がるのは間違いなかった。それでもそこまで馬鹿とも思っていないが。

「ミリー姉待ってよ~」

 すぐ後ろからアリスが続く。勉強道具が入った鞄に加え、肩からは帯を巻いた袴をぶら下げている。勉強道具は忘れても、弁当と袴は絶対に忘れない。全く、一体どれだけ動くのが好きなんだ。例に漏れず、アリスも走って行くのだろう。朝からそれだけ動けば普通の人はそれだけでお腹いっぱいだ。もとい、吐きそうになる。

「私も行くね」

 背後をドタドタと派手に足音を立て、殿を務めるカティが店を出て行く。これも走って行かなければ間に合わない。一見ひ弱に見えるカティにも、食後に一里以上の距離を走り切れるだけの持久力が養われている。昔は一緒に遊びに行っても、帰る頃には疲れて歩けなくなっていた事もあったのに、それがまるで嘘のようだった。泣く妹を背負って帰っていた頃が懐かしい。人間、変われば変わるものだな、と思う。虚弱と言えば怒るかも知れないけど、それでも決してタフではなかった。それが今では同じように肩を並べて仕事をしている。

「頑張って、勉強して来なさいね」

 店から出ようとしていたカティはこちらに向き直ると悪戯っぽく笑った。

「出来る事なら代わって欲しいけどね」

「それは死んでも断るわ」

 冗談でも何でもなく、雑じり気ナシの本心だった。カティは苦笑いして頬を掻いている。

「早く行きなさい」

 カティはものも言わずに一目散に駆け出した。まだ店にいた客の何人かが手を振って見送っている。

「厳しいねぇ」

「何処がよ。本人の義務を全うさせたいだけじゃない」

「訂正しとく、クソ真面目だわ」

 眉根が痙攣した。馴染みの客だから許される冗談と言うものも確かにあるけど、そんな冗談に対して真剣に(馴染みから言わせれば明らかに真面目に)反応してしまった自分に対してゲップ混じりの吐き気を覚える。そんなに堅物に育った覚えもないんだけどなあ、ミリアムならともかく。そういう言葉に対して過剰に反応すると言う事は、イリナは自分自身をそこまで堅物と考えていないのだろう。

どうして自分自身の感覚と人の印象の間にはこれほどまでの開きがあるのか。両者は全く噛み合っていないが、それがイリナに対する印象であり、評価なのだ。それは覆しようがない。腕を組んで唸ったところで何がどう変わる訳でもない。

「じゃ、俺らもボチボチ行くか」

「会計、忘れないでね」

 椅子から浮きかけていた腰が中途半端な高さで止まる。

「忘れる訳ないだろ。全く失礼なヤツだな」

「いや、爪先が店の外に向いてるから」

 音が聞こえたかと思うくらい極端に背筋から首筋を痙攣させて足を止める。カウンターにいた父は仕方なさそうに笑うと肩を竦めた。

「いくら足りないんだ?」

「宿泊代丸々」

 元々それは出費の範囲に含まれていなかったのだろう。飽くまで呑みに来ていただけなら足りなくなるのも無理からぬ話だった。

「割賦でいい。ただし必ず支払ってくれよ」

「恩に切るよ」

 申し訳なさそうな雰囲気は微塵もなく、むしろこの場での支払いを免れた事を歓迎するような表情だった。だらしないなあと思いつつも、何処か憎めないものを感じてしまう。この街はそんな輩ばかりだ。

「何回にする?」

「そうだな、これくらい、何てどうだ?」

 馴染みは右手の指を四本立てた。父がうんざりとしたように溜め息を吐く。

「判った。一回の会計に分割した分を加算していく。じゃ、ここにサインしてくれ」

 差し出された帳面にサインすると、そそくさと店を後にする。別に珍しい事ではない。一月営業していれば少なくとも五人はこんなのがいる。全額を支払わない訳ではないので無銭飲食にはならないけど、こういう事が続くようでは流石に困る。常習的にツケにする客は全体数からすればホンの極一部に過ぎないのだが。それが二人も続くと言うのは宿泊が彼らにとって全くの計算外だった事に他ならない。ま、そりゃそうだろうな。件の男は食事が済んでから姿が見えない。出かける支度でもしているのだろう。誰しも予定はある。のんびりしている暇はない。

 厨房に戻りながらこの後にやるべき作業の流れを整理する。まだ八時になるにはいくらか余裕がある。全て綺麗に片付けて十時前にここを出られるのが理想だ。

 体が軽い。そして程よく熱い。気合いを入れて仕事をするのに丁度いい体温だった。さて。そこから更に発破をかけるように頬を両手で叩く。

 テーブルに残っていた皿を綺麗に重ねて一まとめにすると厨房に向かう。入った瞬間思い切り脱力した。シンクの上に巾着袋が場違いのように置かれている。実際場違い以外の何物でもない。本来ならば作った当人の荷物の底に入っているはずだ。そう、この時間帯ならば。まだ鞄から出されるには随分早い。それがこんな所で一体何をやっているのか。

 と、完全に置き去りにされた哀れな巾着袋に愚痴をこぼしてみても何一つ事態は好転しない。やる事が一つ増えただけだった。しかもそれが余計な仕事となれば溜め息の一つも吐きたくなる。

「便秘か?」

 冗談にしては明らかに下らなさすぎる。もう少しマシな言葉を思い付かないものだろうか。

「そういう冗談ってホントに下らないわよね。まともに受け答えしたらそれだけで馬鹿見そうだわ」

 冗談を完全に踏み外した瞬間ほど居心地の悪いものはない。玉砕覚悟で臨んだのならともかく、そんな準備も構えも何もない状態で見事に大破すれば言葉もなくなる。階段を見事に踏み外した誰かの方が余程マシだった。少なくとも、アイツは笑いを取ろうとはしていないはずだ。

「そんな冷たい言い方しなくてもいいじゃないか」

 父は悪戯を咎められた悪餓鬼のように、少しだけ唇をすぼめて抗議した。

「そういう下らない冗談は一人だけの時にしてよ。余計疲れるから」

 顔も見ずに言った。どちらが親で子供か判らない。

「何があったんだ? いくらなんでも、それくらいは教えてくれるだろ?」

 説明するのも面倒だった。イリナはシンクの上に置きっ放しになっている巾着袋を顎で示した。色を見れば誰のものか判る。

「誰に似たのかなあ」

 唇から漏れた息にあまり力がない。力が抜けるのは誰しも変わらないようだ。

「誰に似るとか遺伝とかじゃなくて、単にあの子の個性なんじゃない?」

 父の顔がかなり露骨に歪んだ。進んで歓迎するかと聞かれたら、迷う事なく首を横に振る。

「どうする? 買い出しに行く途中に届ける?」

「かなり遠回りになるな」

 商店街は街の中心に分布しているのに対し、学校はここの裏手の山の峰に沿って行った街の外れにある。買い出しである以上それなりの量を買い込む事になるから馬車は必須だ。だが荷馬車で山道は登れない。となると、学校に寄る時は荷馬車を置いて行かなくてはならない。真面目に届けに行ったらかなりの時間を無駄にする事になる。そうしたいのも山々だが、二の足を踏んでしまう事も確かだった。

「どうしようか」

「届けるしかないだろ」

 返事に迷いがなかった。本当に届けるつもりなのだろう。

「かなり時間が無駄になるわね」

「昼飯抜きは相当キツいぞ。俺だったら食えないショックと空腹で丸一日動けなくなるな」

 強ち冗談と言う訳でもなさそうだった。食事を抜いて動き続けた経験がなければ絶対に判らない。空腹を紛らわすものがあればいい。忙しくて食べる暇もないなら、多少お腹が減っていても忘れる事が出来る。だがそうでないとキツいのは間違いなかった。空腹の苦痛をまともに感じる事になるからだ。それと真っ向から組み合わなければならない。たった今まで効率を優先させようとしていた自分に少し後味の悪いものを感じる。昔に比べて少し、いやかなり冷たくなったかも知れない。舌打ちしたくなった。

「取り敢えず、やる事を済ませてさっさと家を出よう。手堅いところから片付けていけばいいさ」

 あれこれ無駄に思案を巡らせるだけならその前に動く。どうするかはやりながら考えればいい。一番確実だし、何より手っ取り早く始められる。

 食器を洗いながら、さっき考えた作業の流れをもう一度整理する。そこに弁当を届ける作業を追加しなくてはならない。時間的な消費は勿論だけど、他の作業の遅れをカバーする方法を考える必要がある。時間的な無駄が最も少ないと思われる方法があるとすれば、父とは完全に別行動を取る事だろう。イリナは学校に弁当を届る。父はその間買い出しに行く。届け終わったらすぐに父と合流すれば時間的な無駄も最小限で済む。よし、これで行こう。顔を上げようとした時だった。

「すみません」

 聞き覚えのある声が厨房の入口辺りから聞こえた。ウォッカだった。

「はい、何でしょう?」

 父が食器を洗っていた手を止めて顔を上げる。

「これから買い物に行こうと思ってるんですけど、何処を通ればいいですか?」

「買い出しですか?」

「ええ。保存食がすっかり底をついてるんで。補充しとかないと俺も干上がっちゃいます」

 この男からしてみれば最も憂慮すべき死活問題なのは間違いなさそうだった。裏を返せば、そこさえ解決すれば他はどうにでもなる、いやどうでもいいと言い切ってしまっても構わないだろう。旅の身仕度でこの男に必要なものが他に思い浮かばない。

「あと、鍛冶屋って何処にあります?」

「鍛冶屋だったらヨハンのところにすればいいんじゃない? お互い面識もあるし」

「ヨハン?」

 首を傾げたウォッカを見たら、意図せず笑いが込み上げた。そんな真剣に悩むような顔をしなくてもいいのに。

「昨日、男性客二人組の若い方と少し話してたでしょ? 彼がヨハンよ。一緒にいたちょっと偏屈そうな感じの年輩の方が彼の親方」

「あ、あの結構砕けた感じの」

 言う奴に言わせれば馴れ馴れしいだけなのなんだけど、そう言わない処にウォッカの気遣いを感じる。好意的に解釈すれば、の話だが。実際は何も考えていないだけなのかも知れない。

「確かに、いいガタイしてたな」

「あなたが言うと嫌味にしか聞こえないわ」

「そうか?」

 欠伸混じりに頭をガリガリ掻いている。あまり、と言うか全く関心がなさそうだった。

「で、その鍛冶屋はどの辺りにあるのかな」

「街の中心にある商店街の一角。私達もこれから買い出しに行くんだけど、良かったら一緒にどう?」

「非常に有り難い申し出だな」

 帽子の中に手を突っ込んでへこみを直すとスッポリと頭に被る。準備は既に万端なのだろう。

「私達はまだ少し片付けなきゃならない仕事が残ってますんで、適当に椅子にでも座って待ってて下さい」

 食堂の方へ手を差し出した父にウォッカは軽く頭を下げる。

「よろしかったら、お茶でもご用意しますが」

「いえ、お構い無く。あと、それ何ですか?」

 ウォッカはシンクに置き去りにされた巾着袋を指差して遠慮がちに言う。

「忘れ物よ。全く、肝心な処がいつも抜けてるんだから」

 声に少しだけ感情が混ざる。必要なものならともかく、余計な仕事が増えるのは決して歓迎出来ない。

「誰の……、あ、学校の三人組か」

「折角自分で作ったのに、持って行くのを忘れるなんて間抜け以外の何物でもないわ」

「へぇ、自分で作ってるんだ」

 マメだねぇ。感心するように口笛を吹く。細くて綺麗な音だった。外見の印象と違いすぎてちょっと驚く。

「昼飯抜きなんて可哀想に。俺だったら気付いた時点で授業受ける気なくすな」

 食器を洗っていた父が噎せるように咳払いした。イリナも顔を背けて口元を右手で覆った。ウォッカだけが置いてきぼりを食らったような顔をしていたが、眠そうに一つ欠伸をしただけだった。

「ところで、学校から街の中心までは歩いてどれくらいかかる?」

「そうね、急いで歩いても優に三十分以上は見ないと」

 もっとも、この男ならもう少し速いかも知れない。食べる量以上に、運動量ならその十倍くらいはありそうだ。

「ここから学校に行く場合、何処を通ればいいのかな」

「簡単よ。店の裏手の山を登って峰に沿って行けばいずれ着くわよ。歩きならば一時間は見ないとキツいけど」

「成程、了解」

 ちょっと失礼、と軽く手を上げて厨房に入ると巾着袋を手に取った。一瞬、食うのではと本気で思ってしまった。まず有り得ないが、この男ならやりかねない。

「俺、届けますよ。忙しいでしょ」

 ね? 無邪気に笑った。事実なので返す言葉に詰まる。ぎこちなく歪んだ顔を父と見合わせるのが精々だった。

「お気遣いは無用ですよ。私の娘が仕出かした事ですから、私共で責任を持って処理致します」

「そんな堅苦しい事言わないで下さいよ。出かけるついでに届けたいって言ってるだけなんですから」

 互いの言い分に、趣旨にかなりのズレが生じているが、それに気付いていないという事はまずないだろう。申し出は嬉しいけどおいそれとそれに乗じる訳にも行かない。やはり立場と言うものがある。

 そういうものを取っ払って話がしたい、ウォッカの言わんとしたいところはそこだった。そういう発想の持ち主からすれば確かに父はちょっと硬すぎるのだろう。もっと単純に考えた方が楽に事が運ぶ場合もあるだろうに。たまにそんな風に感じる。娘の立場から言わせても、やっぱり父は十分硬い。

「俺もこの街の地理を覚えておきたいんですよ。ある程度距離があるなら散歩にも丁度いいし」

 ウォッカにも漠然とだが考えや予定があるのだろう。その延長線上でやる事が増えたとしても、最初からそれも予定の一部に含まれているから大きな変更ではない。大雑把に解釈するとそういう事だろうか。

 何れにしても、ウォッカが届けに行ってくれればこちらもすぐ買い出しに行けるし、彼も別に困る事などない。ならば、ここは素直にお言葉に甘えた方が無難な気がした。

「どうする? ウォッカもこう言ってくれてる事だし、今回は甘えちゃう?」

 父が目を半閉じにしてこちらを睨んだ。立場をわきまえろ、とでも言いたいのだろう。

「私は出来たらそうしたいけど」

 顔をしかめたまま、父は大きく咳払いした。本音と建前の間で板挟みになっているのがありありと判る。

暖簾を潜って母が厨房に顔を出した。

「イリナ、こっちの首尾はどう? あら、ウォッカさんも」

 会釈した母にウォッカも帽子を取って頭を下げた。

「これからお出かけですか?」

「ええ。食料がすっかり底をついてるんで、ちょっと買い出しに」

 ウォッカが持っている巾着袋を見た母の目が丸くなった。

「ついでにこれを届けようと思って」

「あらまあ」

 母は非常におっとりとした声で言った。あらまあではない。

「全くしょうのない子ねぇ。折角自分で作ったのに忘れるなんて」

 父から言わせれば確認作業が足りないと一刀両断されるだろう。イリナも同感だった。ここを出る前に見れば、確かめればすぐに気付く事だ。それをしないから忘れる。まだまだだな。

「ウォッカもそう言ってくれてるし、私達もこれから買い出しに行かないといけないからお言葉に甘えようかなと思うんだけど」

「そうねぇ、学校に寄ってからだと時間もかかっちゃうし」

 頬に手を当てて溜め息を吐く。母でなくても溜め息を吐きたくなる。うなじの辺りが熱い。そう言えば、さっきから作業が全く進んでいない。

 溜め息ではなく、気持ち少しだけ窄めた唇からゆっくり息を吐いた。こうすると力が抜けるのだ。

「だから、私としてはウォッカの申し出に甘えたいなと」

「いいんじゃない? 寄るのも大変だし、素直に甘えちゃえば」

 リンゴを鉈で叩き割るくらい単純で爽快な回答だった。迷う事も、そして躊躇う事もない。誰かとは対照的だった。

「だって」

 イリナは勝ち誇ったように言った。二対一、いや三対一だ。父からしてみれば明らかに分が悪い。

「お前、いくら客の申し出だからってそんな簡単に甘える奴があるか」

「私達から無理に頼むならともかく、彼がわざわざ申し出てくれてるんだからあまり無下にするのも逆に失礼じゃない?」

 父がムッツリと押し黙った。いいぞ、もっと言ったれ。

「立場をわきまえる事も必要だけど、あまり固執すると周りが見えなくなるわよ。少し硬過ぎるのよ、あなたは」

 父の眉間の皺が更に深くなった。図星だけに言い返せない。や~いや~いと子供のように囃し立てたくなった。そんな事をしたら間違いなく怒られるだろうな。しないけど。

「じゃ、いいですか?」

 ウォッカは確かめるように巾着袋を順繰りに見せた。イリナは軽く手を上げた。母は体の前に両手を添えて深々と頭を下げた。

「行ってきます」

 帽子を被り直すと廊下に置いていたリュックを鷲掴みにする。

「お願い致します」

「はい」

 頭を下げた父に、ウォッカは朗らかに笑った。肩にリュックを引っ掛けてスイングドアを潜る。と思ったらあっという間に戻って来た。

「すみません、これ、誰のお弁当ですか?」

 あ。四人は順繰りに目を合わせた後、弾けるように大笑いした。

「ごめんごめん。そうよね、私達は誰のか判ってるけどあなたが知る訳ないもんね」

 気付いてくれたウォッカに感謝したかった。バツが悪そうに頬を掻くイリナに、ウォッカは相変わらず笑っていた。

「結構デカいよな」

「足りる?」

 巾着袋を顔の高さに持って来ていたウォッカは首を横に振った。聞くまでもなかった。これくらいで足りる訳がない。女の子が食べるにしては、と言う意味だろう。

「これくらい食べないと身が持たないのよ」

 動くためには相応の栄養は絶対に欠かせない。この男を見ていると改めてそれがよく判る。

「で、誰のなんだ?」

 一瞬躊躇ったが、イリナは思い切って言った。

「抜けてる子のよ」

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