第12話 二日目 その参
足の裏全体で地面を掴むようにして足を踏み出す。上げた足をそのまま叩きつけるような真似はしない。膝を痛めるからだ。歩く延長で足を動かせばいい。いつだったか、友達にそんな事を言われた。早速実践して素直に思った。実に的確な忠告だった。勢いを上げようとして無理矢理手足を速く動かそうとすると息ばかり上がって肝心の速度は一向に上がらない。無駄に疲れるだけなのだ。いかに体にかかる負荷を軽減するかが重要だった。それさえ理解出来れば後は早い。
足を踏み出すたびに額から汗が滴る。でも息苦しさは感じなかった。息が乱れない速さを体に刻み込めれば、それを維持する流れが自ずと見えて来る。足の運びに合わせて息を吐き、そして吸う。足に所々少しだけ痛みがあるけど、走る分には全く問題ない。
アリスは手足の動きを更に速めた。鈍足の男子をあっという間に抜き去る。もう何回抜いたかも覚えていない。全く、どれだけ遅いんだ。呆れ果てて言葉もない。確か、今追い抜いた男子に随分前に告白された記憶がある。一考の余地もなくその場でフッてやったけど。一緒に並んで歩きたい、そんな事を言われた気がする。だったら最低限今の速さについて来いよ。それが出来なければ話す気にもなれない。軟弱野郎に用などない。
「これで最後な~」
周回を数えている体育教師が通り過ぎる背中を見送りながら言った。声が若干後を引いたが当然振り向く事などしない。いい調子で足が動いている。息苦しさもない。この勢いを自分から崩すような馬鹿な真似はしたくなかった。
全く、持久走の時はリストバンドくらい着けさせてくれてもいいのに。頬を伝う汗を乱暴に腕で拭う。でも汗が煩わしい程度で集中力が切れる事はない。全身の至るところに血が駆け巡っている。この熱さが堪らない。
でも、走るだけでは物足りない。内にこもった熱さを更に発散させるもの、それがあれば完璧なのに。仕方ない、放課後まで待つとするか。ふう。吐く息が熱い。彼は、ウォッカは私を熱くしてくれるだろうか。今朝からそればかりが気掛かりだった。
腕力は間違いなくある。そうでなければ大の大人の男を片手で投げ飛ばすなんて事はまず出来ない。片手で持ち上げる事すら危うい。問題は力ではなく技術だった。ウォッカの場合、その有無を示すものが何もない。だからさっきから気を揉んでいるのだ。本当に強いのか、それとも単に腕力だけなのか。
昨日ウォッカの話を部員から聞いた時、思わず期待で胸が弾んだ。一体どれほどの腕前なのだろう。片手で人を投げ飛ばす腕力など、とても想像がつかない。そもそも、人に面と向かって喧嘩を売る度胸がまずないのだ。そんな度胸があって、尚且つ直接行動に移せる意思を持った人なんてそう滅多にお目にかかれない。理不尽な仕打ちを受けているのは誰が見ても明らかなのに、何も言わずに立ち去る事しか出来ない。そんな人が大半だ。そこから更にもう一歩踏み込むのは、二階の屋根から隣の屋根へ飛び移るくらいの勇気がいる。ウォッカはその一線を既にあっさりと飛び越えていた。相手を軽く打ち負かしてすぐに食事を再開するくらいの胆力も持ち合わせている。普通そんな事したら心臓が爆発するくらい緊張して卒倒してもおかしくないのに。単に喧嘩を売るだけでなく、間違いなく何度も勝ちを納めて来ている。それだけの経験と風格がウォッカにはある。
振る腕に力がこもっていた。拳を強く握り込んでいる。丸めた小指の隙間から滴った汗が地面に落ちた。考えただけで体が自然と反応してしまう。全く、どうしてこう血の気が多いのだろう。自分で自分に呆れる。
でも。今朝見た光景を思い返すとどうしても内心で首を捻ってしまう事も確かだった。今朝ウォッカが階段を踏み外した時、前を向いていなかった事は間違いない。カティの脇を通り過ぎたウォッカは階段を踏み外す直前にカティと目を合わせていた。カティの証言に嘘があるとは思えない。何より、嘘を吐く必要も理由もない。前を見ずに足を踏み出したらそこが段差でそのまま転げ落ちたと言うのが事のあらましだけど、崩れた重心を咄嗟に元に戻せるような反射神経を期待するのはやっぱり酷なのかな。と言うより、階段までの距離を事前に把握していればたとえその直前に前を見ていなくても対処する事だって不可能ではない。つまり、度胸はともかくその程度の運動神経しかないのだ。鈍いと罵るのは些か酷だけど、それでも決して優れている方ではないと思う。そう考えると彼の力量にはどうしても疑問符が付いて回る。こいつ、本当に大丈夫かと思う。
確かめるには一つしかない。実際に手を合わせてみる、それが唯一にして最大の方法だった。やるならば早い方がいい。出来れば早速今日にでも試したいところだけど、彼にも都合がある。それを確かめるのが先だろうな。家に帰ったら彼に直接聞いてみよう。これと言った予定がなければすぐにでも出来るはずだ。そう、早ければ明日にでも。
そうと決まったら急がなくては。今ここで急いだところでウォッカに会える訳じゃない。すぐそれに気付いたけど体も難なくついて来てくれてるし、折角上げた速度をわざわざ殺すのも勿体無い。手足はかなり速く動かしているけど、息は上がる兆しすらなかった。
初等部から中等部、そして高等部まで含んだ外周を回る。一周で半里あるそこを五周する。二里半走る事になるけど、途中で根を上げる子もいる。女の子ならまだ判るけど、男子にも平気な顔してそんな事に抜かす奴がいるから信じられない。ちっとは根性見せろよ、男だろ。全く、思い切り怒鳴りつけてやりたくなる。或いは尻をかかとで蹴飛ばすか。前を走っていた何人かをそのまま抜き去った。動きが止まって見える。走ってはいるのだろうが、アリスには止まっているも同然だった。
もうすぐ五周目が終わる。この速さを維持すればあと二分もかからない。どうせならば少しでも時間を縮めた方がいい。ペースを上げるのはいいけど、崩さず一定の速度で走れるようにもなっておこうな。いつだったか体育教師にそんな事を言われた気がする。その時はどうしてそんな事をする必要があるのか判らなかったけど、今はそれが少し判る気がする。調子がいいとどうしても気持ちが先に行く。無意識に体が動いてしまう。気持ちだけが先走るとそれまで維持して来たリズムやペースがあっという間に崩れてしまう。でも、調子が良ければいいほどどうしても急ぎたくなってしまう。一秒でも早く、一歩でも先へ。こういうところは格闘と似ている。とにかく一発でも多く打撃を与える。闇雲に手を出す訳じゃないけど、打たなければ、当てなければ相手に勝つ事など出来ない。気持ちが前に向かっていなければ勝ちを掴む一発は出ない。あれこれ考える前に、少しでも前へ。下手な考え何とやらと言うけど(正確な言い方は忘れた)まず動かなければ何も始まらない。
前傾姿勢にして足の回転を更に上げる。心臓がうるさいくらいに早鐘を打っているけど、加速するに際して影響はない。もうすぐゴールが見えてくる頃だ。拳をギュッと握り込む。前を向いた時、思わず目を見開いてしまった。誰かが畦道と校庭(と言ってもただの砂利道だけど)を仕切る柵に肘を突いてぼんやりと校舎の方を眺めている。物思いに耽るような儚げな雰囲気なんてものはこれっぽっちもない。眠そうに欠伸している。どうして、何故彼がこんな所にいるのか。一刻も早くその疑問を解消したくなった。足の動きがおかしいくらいに速まる。だって気になるんだもん。
ゴール地点に立っていた体育教師の前を猛スピードで通過する。あれ? と言う顔をしてこっちを見た。当然の事ながら今度も振り向かない。速度を落とすどころか更に加速する。人影に、それとも足音に気付いたのか、彼が顔を上げた。それまで高速回転していた足を固定して砂利道を滑る。盛大に上がった砂煙を別段気にする様子もなく、ウォッカは首を捻ったまま軽く手を上げた。
「持久走か」
「ええ」
息は多少上がっているけど、それでも話が出来ない程じゃない。これくらいでヘバるようでは宿屋の娘は務まらない。
「大した速さだな」
「そう? これくらい普通よ」
「普通かねぇ」
ウォッカは首を捻ってコースを見た。遥か向こうでは肩を上下させながら走っている子達が大勢いる。少なくとも追いつかれたり追い抜かれたりした記憶はないから、恐らく一番だったのだろう。もう少し頑張ってくれる人がいてくれた方が張り合いがあるのに。全く、どいつもこいつも骨がない。
「相当速い方なんじゃないか?」
「そうかも知れない。特別興味ないわ」
「どうして?」
ウォッカは不思議そうに首を傾げた。ちょっと照れ臭くなったけど、アリスは飽くまで平然として言った。
「負けるのは嫌だけど、絶対に一番になりたいものが他にあるから」
ウォッカは被っていた帽子の庇を掴むと少しだけ顔を隠した。口元が優しそうに笑っているのが見えて驚いた。これまで見た朗らかさとはまた少し違った笑顔だった。もっと不器用に見えたけど、こんな表情も見せるのか。何だか勿体無い気がした。普段からもっとこんな顔をすればいいのに。そこまで考えて、はたと思った。勿体無いも何も、彼を知ってからまだ二十四時間も経っていない。そんな事を考える事自体がそもそもおかしい。彼の事なんか殆ど何も知らないのに。
「どしたの?」
「え?」
「何かくすぐったそうな顔をしてるから、いい事でもあったのかなと思ってね」
指摘されて初めて気付いた。意図せず込み上がっていた笑いだった。アリスは笑ったまま上目遣いにウォッカと目を合わせると首を横に振った。肝心の彼に感じた事をそのまま伝えないのは少しおかしいような気もするけど、それを有り体に表に出すにはちょっと照れ臭かった。
ウォッカは組んでいた腕を上下に揺らして笑った。無神経な輩がよくそうするように、根掘り葉掘り聞いて回るような無粋な真似はしない。そういう事を心得ていてくれたら有り難い。でも、それはないだろうな。考えるまでもない。自分を隠す事も本心を偽る事もしない。素直すぎる笑顔だった。どんな環境で育てばここまで無警戒な人間が出来上がるのだろう。
「走り終わってすぐに足を停めるのはあまり心臓によろしくないな」
「知ってる」
「少し歩くか」
地面に置かれていたリュックを肩に提げると、アリスが走って来た道をそのまま逆戻りして行く。
「ねえ、何処に行くの?」
「何処って、まだ授業中だろ? 部外者と油売ってたら流石にマズんじゃないか?」
言われてみれば確かにその通りだ。まずいい顔はされない。むしろ怒られそうだ。
「それよりもさ」
「ああ」
ああ、ではない。本当に相槌としての用しかなさないような返事だった。
「こんな所で何してるの?」
「散歩」
「散歩?」
ポケットに右手を突っ込んだまま眠そうに欠伸をした。余っていた左手で口を覆う。散歩と言う行為以上に呑気な仕草だった。
「どうして、散歩なんかする必要があるの?」
「ま、それは飽くまでついでであって食糧の買い出しが本来の目的だけどな」
だったら尚更散歩をする必要などないのではないか。少し前を歩いていたウォッカはポケットに両手を突っ込んだまま、首を後ろに傾けてこちらを見た。
「地理を把握する事って結構重要なんだ。見知らぬ土地に来たような場合は特にな」
アリスは思わず顔をしかめた。間違いなく眉間にシワが寄っているだろうけど、さっきみたいに安易に疑問の言葉を口にしたくなかった。ヒントは示されている。それを基に考える事も必要だろう。少し考えなさい。よく言われる。色んな人から、やかましいくらいに。殆ど初対面に等しいこの男からもそんな風に思われたとしたら結構を通り越して非常に恥ずかしい。
「ちょっと想像しづらいかもな」
しづらいのではなく全く想像出来ない。そして、この男がそれを見越している理由も判らない。それが何だか悔しかった。
「この街から出た事はあるかい?」
その経験がアリスにはなかった。店を何日も空ける事は出来ないし、旅行をするにしてもここから隣の街までは相当な距離がある。馬を使えば何とかならない事もないけど、移動するだけで一苦労だ。とても旅を楽しむなんて気分にはなれない。
そこまで考えてハッとした。家業の性質やこの街の置かれている状況を把握していれば推論として導き出す事はそれほど難しくはない。何日もかけてようやく辿り着いた街だという事は実際に自分の足で歩いて来たこの男も当然知っている。仕事の内容は言うに及ばずだ。
「アリスが仕事をする時も、厨房の何処に何があるか判ってるから作業も滞りなく進むだろ。それと変わらないよ」
「把握してるから作業が順調に進むのは判るけど……」
でも、それがこの街の地理を把握する理由に繋がらない。常に街中を動き回る必要でもあるのだろうか。
「何かあった時、その方が多少動きやすくなるってだけなんだけどな」
「じゃあ、時間をかけてそんな事するなんて馬鹿らしくない?」
「何もなければな。でも実際事が起こった時にそういう情報が全くなかったら初動にかなり差が出るんだよ」
腕を組んだまま首を傾げる。まだピンと来ない。それを察したのか、それまで背中を向けて歩いていたウォッカがこちらに振り返った。
「仮に地震が起きた場合、避難場所に指定されてるのは?」
「ここよ」
「実際に大地震が起こった時にそれを知らなかったら?」
あ。言われてみれば確かにその通りだ。地震による直接的な害は免れたとしても、その後に火災や家屋の倒壊に巻き込まれる恐れもある。
「でも、その時周りにいる人に聞いてもいいんじゃない?」
「いればそれでも構わないけど、じゃ一人だけだったら?」
返す言葉に詰まる。つまりそういう可能性も事前に考慮した上での事なのだろう。ガサツな外見に似合わず思慮深いのか、それとも気配りが細かいのか。少なくともこれまで抱いていた印象が変わる事は確かだった。
「慎重なのね」
とてもそうは見えないけど、とは言わなかった。
「死にたくないだけだよ」
「そこまで大袈裟に考えなくてもいいと思うけど」
「でもそういう可能性が全くない訳じゃないだろ。限り無く低くはあるかも知れないけどな」
「じゃ、大抵が杞憂に終わるのね」
苦虫を噛み潰したような顔をしたので流石に怒ったのかと思ったけど、よく見たら唇を歪めて笑っていた。さっき見せた笑顔とは対照的だった。
「そんなもんだよ。現実なんてものは」
言葉だけ聞けば儚げに聞こえるけど、そんな朽ちかけた木が風に吹かれて倒れそうになるような危うい雰囲気はまるでない。大地にどっしりと腰を下ろし、深く根を張っている。斧で切っても倒れない。ウォッカを木に例えるならそんなところだろう。
「汗はまだ引かないか」
「まだしばらくかかるわ」
着ていたシャツの襟を掴むとパタパタと扇ぐ。汗は止まるどころか次々と溢れ出して来ている。この熱さが何度でもアリスを奮い立たせる。この男は、一体どれだけ私を熱くしてくれるだろうか。左肩にリュックを引っ掛けたウォッカは右側の背中を無防備に晒したまま呑気に歩いている。ふと、思った。突きにしろ蹴りにしろ、一発入れるには数歩は踏み込まなければならない。でも、その距離がアリスには却って都合が良かった。体は既に熱い。準備は充分過ぎるくらいに整っている。ふと、魔が差した。拳を握り込んだ。右足に重心を載せる。力を溜めるようにして膝をゆっくりと曲げた。このまま待つ訳にも行かない。重心を片足に据えてしまった以上、動くには曲げた膝を伸ばすしかない。
迷いはなかった。軽く吸い込んだ息を思い切り吐き出すと同時に一気に伸ばした。引き伸ばしていたゴムが縮まるようにして間合いが瞬時に狭まって行く。後は腰の捻りに合わせて拳を突き出すだけだ。引き絞っていた右脇から力を抜いた。
瞬間、目の前から人の姿が消えた。え? と頭では感じても体は止まらない。何もない空間に右手を突き出していた。
「どうした?」
背後からウォッカの声が聞こえた。驚いて振り向く。ウォッカは腕を組んだまま眠そうな目をしてこちらを見ていた。
「背中に蝿でも止まってたか?」
返答に詰まる。まさか魔が差して殴りかかったなんて事は口が裂けても言えない。こんな事だから危険人物扱いされるんだろうな。やってる事は勿論だけど、体に火が点いた途端に全く自制が効かなくなった。ただ根底にあるものは彼を殴りたいなどと言った暴力的なものではなく、純粋に力を試したいと言う思いだけだった。でも今の正拳突きが命中していたらそれも暴力以外の何物でもない訳で、正直当たらなくて何よりだった。そういう意味ではかわしてくれて本当に良かった。いや、助かったと言った方がいい。だったらそもそも何故殴りかかったりしたのか。それを自分でも説明出来ない。
そう、かわされたのだ。踏み込む必要こそあったけど、決して間合いは広くはなかった。踏み込みの速さだって決して遅くはない。あの速さで踏み込んでかわされた事なんて、これまで一度もなかった。しかも背中を向けていた相手にかわされたのだ。自分でやっておいてこんな事を言うのもおかしいけど、俄かに信じられる話じゃない。振り向いた時、確かにウォッカはアリスの背後にはいたけど真後ろにいた訳じゃない。多分、かわした後にアリスが突っ込み過ぎて前に出た分、彼が後ろに下がったと言う事だと思う。背後を取られていたのに、相手から背後を取り返すほどの運動神経なんて普通絶対に考えられない。
「何だったら今ここでやったって構わないんだぜ?」
声は不気味なくらいに優しいけど、唇の端が酷く物騒に歪んで見えた。怒っているのではない。それは口調や雰囲気からも判る。そうではなくて、拳を交える事を純粋に歓迎している、そんな笑いだった。だから、突然殴りかかられても怒る道理などウォッカにはないのだろう。だとすれば一体どれだけ血の気が多いのだろうか。アリスも血の気が多いとはよく言われるけど、この男も大概だった。
「ご、ごめんなさい! 体が熱くなっててボーッとしてたら、何か体が勝手に……」
危険人物丸出しの言い訳だった。熱がホンの一瞬体の内にこもったと思ったら体が勝手に動いていた。よく考えなくても非常に危険だと思う。走ったせいで熱が体の中にこもるばかりで外に発散させる事が出来なかったのも災いした。溜まった熱を外に撒き散らしてそれを誰かと共有する瞬間に無上の悦びを感じる。だから誰かと拳を交える瞬間が一番好きだった。
「別に気にしなくていいよ。誰かと本気で殴り合うのが好きなのは俺も変わらないからな」
理解してくれた事は正直非常に有り難いけど、要はウォッカもアリスと同類項という事なのだろう。不思議な安心感があった。一般的には危険としか見られない性質を共有出来る相手がいる。こんな事、とても人には話せないけど。でも、そういう性質を持った、そんな特異な個性を理解してくれる人が現れた事は素直に嬉しかった。奇妙な連帯感すら覚える。出来る事ならここで今すぐにでも打ち合いたかった。言葉だけじゃなく、拳を通して伝わるものもある。
「あの、ビックリさせちゃってごめんなさい。何か、背中があまりに無防備だったもんだからつい……」
自分で言っていてその言葉の内容の危うさに顔が引きつりそうになった。だったら背中を見せた相手は誰彼構わず殴りに行くと言う風にも取れる。勿論そんな事はない。相手がウォッカだから、明らかに武術に心得のある人だから、つい腕試しをしたくなってしまった。ついそんな事を、腕試しがしたくて背後から殴りかかるなんて事をする輩なんか何処にもいない。私ってやっぱり普通じゃないんだなと改めて実感する。
それにしても、背後からの攻撃、いや奇襲をあれだけ鮮やかにかわせる運動神経があるのに何故階段を踏み外すのか。ただ抜けているだけなのかも知れないけど。でも、中にはさっきみたいに意外に考えている部分もある。ウォッカと言う人間の印象がまだ定まらない。掴み所がないと言ってしまえばそれだけだった。
「いいのいいの。気にしない気にしない」
笑いながら顔の前で手を横に振る。人が良いのか、それとも人と感覚がズレているだけなのか。或いは単に馬鹿なだけなのか。少なくとも悪人ではなさそうだった。今判っているのは精々それくらいだ。
「取り敢えず、戻ろうか」
さっきまで歩いていた先を指差した。先生がまだ周回を数えていた。あ、いかんいかん。まだ授業中だった。
ゴール前には先生以外誰もいなかった。手持ち無沙汰な体育教師が一人でポツンと佇んでいる様は何故か奇妙なおかしさを醸し出していた。彼はアリス、と言うよりウォッカを含めた二人の存在に気付くと少し驚いたような顔をした。そりゃそうだろう。話には聞いているだろいけど、街の住人全員が彼に会った訳じゃない。
「失礼します」
帽子を脱ぐとウォッカは軽く頭を下げる。先生はやっぱり驚いたように目を丸くした。
「昨日この街に来た旅の者です。今この子の宿にお世話になってまして」
先生はぎこちなく頷いた。で、どうしてここに来たの? と言う目でウォッカを見ている。
「ちょっと忘れ物を届けに来まして。それも先程済ませましたが。あと、受付は通してますから。ガイデルさんに聞いて頂ければ判ると思います」
先生は安心したように頷いた。確かに無断で堂々と入り込まれては困る。それよりも、一つ聞いておかなくてはならない事が出来た。
「もう少し見学させて頂いてもよろしいですか?」
「どうぞどうぞ。ご満足頂ける程大層なものはありませんが」
「いえいえ」
先生の表情がようやく和らいだ。ウォッカの存在を知る事は出来ても、昨日店に来ていた人でなければ姿は見られない。こんな大男が突然目の前に現れたら誰だって驚く。それくらい威圧感がこの男にはある。
「他に走り終えた子は?」
「まだ誰も。お前がダントツで一番だよ」
追い付かれたり抜かれたりした記憶もないから必然的にそういう事になるだろう。女子はともかく、男子連中の情けなさと来たら目も当てられない。もう少し骨のあるのがいてくれないと困る。張り合いがない。
「時間は?」
「三十八分二十四秒」
いつもより調子がいいとは思っていたけど、四十分を切れるとは思わなかった。自己の最短記録を三分近く更新した。その割には体にこれと言って大きな疲労はない。走っている最中は体も軽かったし息も乱れなかった。心身共に充実していた証拠だろうな。
「距離はどれくらいあるんですか?」
「二里半。初等部から高等部までの外周を五週」
「一周半里だから五週で二里半か」
ウォッカは額に手を翳してゆっくりと外周に視線を巡らせる。
「この距離をその時間で走り切るのか」
搾めた唇から高い音が響いた。繊細だけど芯の通った音だった。
「充分速いだろ」
外周に目を凝らしたまま腕を組んで頷く。素直な称賛だった。でも、それにすんなり頷ける素直さはアリスにはない。さっきとはまた別の意味で熱くなった頬を風に当てる。
「毎日走ってるから」
だから、これくらいならばそう難しくはない、と思う。朝の通学も立派なトレーニングだった。毎日学校まで全力疾走していればこの程度の持久力は自然と養われる。それでも、姉妹の中で随一の持久力だと言う自負はある。カティは昔に比べれば養われて来たけどそれでもまだまだだし、ミリアムは胸が邪魔でここまでの速度は出せない。
「毎日って、いつ走ってるんだい?」
「朝、学校に行く時」
「あ、成程ね。少なくともそれなら時間を有効に使えてる訳だしなあ」
チラリと横目でこちらを伺う。意図せず見てしまった。目が合った瞬間ここぞとばかりにニンマリ笑う。ここで笑顔で応じられるほどの柔軟さはないし、目を背けるような真似は明らかに不躾、いや失礼だ。見開いた目をそのままウォッカに向けた。人畜無害な顔で笑っている。全く、どういう顔をすればいいのか判らない。仕方ないから取り敢えず笑う事にした。ウォッカも満足そうに笑った。この時になってようやく気付いた。笑わせる事が目的だったんだな。それを達成出来たからこその笑顔だろう。そういう意味では非常に判りやすかった。そしてその意図にアッサリ載ってしまった事になるけど、悔しいとはちっとも思わなかった。むしろ嬉しかった。
「ところでさ」
柵に肘を置いたウォッカは校舎の方を指差した。
「あそこで袴着てる子達がやってるのは武術だよな」
「そう。体育で必修だから」
ウォッカが指で示した先では袴を来た子達が並んで正座し、その前では二人が組手をしていた。
「で、今やってるのがミリアムか」
アリスは黙って頷いた。勢いよく拳が突き出された。半歩身を引くと同時に左腕で外側に弾いた。無防備になった相手の胴体に軽く右の拳を当てる。すぐさま主審の手が上がった。勝負ありだ。全く人がいい。アリスだったら受けで打撃を弾く事などしない。下がるのではなく逆に前に踏み込んで相手の打撃に被せるようにして一撃を叩き込む。その方が速いし確実に相手を仕留める事が出来る。授業中の組手でそこまでする必要なんて何処にもないんだけど。アリスに言わせれば、ミリアム相手に果敢に攻める積極さは誉めてやりたい。ただ相手が悪すぎる。自分だったら尚更だ。開始線と思しき箇所に立った両者は互いに軽く頭を下げた。負けた方の子だけが改めて一礼してから場内を後にする。その子と入れ替わりで次の子が一礼して場内に入って来た。どうやら勝ち抜き戦のようだ。
心臓が音を立てて跳ねた。再び体が熱を帯びていく。いいなあ、羨ましい。勝ち抜き戦は本当に燃える。疲労や痛みで手も足も動かなくなる。それでも勝たなくてはならない。勝ちを掴むための行動を起こさなければ何も前には進まない。アリスにとっては相手と言うより自分自身との戦いだ。諦めようとする自分との、ともすれば投げ出そうとする自分をいかに奮い立たせるか、それが試される。それも相手の力量次第だけど。さっき来た相手も、安易に出した突きをミリアムは綺麗に受け流して豪快に投げを決めていた。全く相手になっていない。道場だったら、板の間だったらまず投げる事はしていないだろうな。投げられた相手はしきりに背中を擦りながら(大柄な男子生徒だ)開始線の前に立つ。対するミリアムは実に落ち着き払った様子で彼が来るのを待っていた。痛手はおろか、疲労すらない。この分ならあと二、三人くらいは全く問題ないだろう。
「大したもんだな」
ウォッカは腕を組んだまま感心したように言った。
「このくらいなら私にだって出来るわ」
つい本音が口から出てしまった。しかもムキになっているのが丸判りの声だった。慌てて口をつぐむ。気不味さよりも恥ずかしさが先に立った。俯き加減のまま横目でウォッカを伺うと小刻みに肩を震わせていた。
「負けず嫌いなんだな」
何の遠慮も躊躇いもなく図星のど真ん中を突かれた。顔全体が熱い。耳の先まで真っ赤になっているのは明白だった。
「欲がないよりは、まあその方がいいんじゃねえか?」
言われた方からしてみれば何の慰めにもなっていない。穴があったら入りたくなった。そもそも穴なんて何処にもないんだけど。
「ウォッカさんも、やっぱり負けるのは悔しいんですか?」
「そりゃ悔しいさ。ただ悔しかろうが地団駄踏もうが負けたらそれは覆せないからな。負けは負けさ」
勝ちたいのか負けたくないのか、それとも負けても構わないのか、適当に聞いただけだと間違いなく混乱しそうな言葉だった。ただ、少なくともアリスと違って勝つ事にそこまで拘りを持っていない。ウォッカにとって負けは確かに悔しい事だけど、さっき本人も言ったように負けは負けでしかない。だからそれを無理矢理覆すような真似もしないのだろう。この男が負ける様子もちょっと想像しづらいけど。
「勝負事は嫌いなの?」
「好きだよ、三度の飯よりもな。熱くなるし」
「だったら、勝つ事に躍起になりそうな気がするけどな」
「昔はな」
半開きにした目を蚊でも追うように宙に這わせたまま、ウォッカは眠そうに欠伸しながら言った。
「拘る事に意味はないんだよ」
何に拘るのか、しばらく黙っていたけどウォッカはそれが何かについては触れようとはしなかった。柵に肘を突いていたウォッカは親しげな感じで手を振った。一体誰を相手にして手を振るのだろう、と一瞬考えて視線を前に向けた瞬間、よく見知った顔が目の前に迫っていた。
「お疲れ様」
「おはようございます」
ミリアムは綺麗に腰を折って一礼した。
「どうされたんですか? こんな所に来るなんて」
考えもしなかったのだろう。実際ウォッカがここに来るなんて事は予想も出来なかった。そもそもここに来る事になった理由を聞いていなかった事に初めて気付いた。
「あなたも何してるのよ」
「何って、一着で走り終えたから適当に時間潰してるだけよ」
全く失礼しちゃうな。うなじの辺りにまとわりついた髪を右手で払い除ける。汗をかくのは嫌いじゃないけど、肌が濡れたり服が汚れたりするのは本当に困る。もっとも、汚れても構わない格好でなければここまで動いたりしないけど。
「そういうミリー姉こそ何してるのよ。まだ組手の途中でしょ」
「五人勝ち抜いて勝負ありよ。もう次の組がやってるから。で、少し時間が余ったから先生に断って抜けて来たの」
「どうして?」
ミリアムの目が途端に細くなった。眉根を寄せる暇もない。ミリアムはアリスの右手の裾を摘まむと強く引いた。
「すみません。ちょっとこれ、お借りします」
「どうぞ」
多少困った顔はしていたけど、余計な事は言わない。それが選択としては一番無難だろう。口を挟まれても返答に困るだけだ。
ミリアムは律儀に頭を下げると袖を掴んだままウォッカと距離を取る。十分離れた事を確認すると、耳元でボソリと囁いた。
「あなた、さっき彼の事背後から思い切り殴ろうとしたでしょ」
ギクリと音を立てて全身が固まる。まさか見られているとは思わなかった。しかも、よりにもよってこの姉に。
余っていた左手でアリスの襟首を掴むと、ミリアムは自分の顔に引き寄せた。
「何考えてるのよ」
「いや、走って体が熱くなったら何かこう頭がボーッとして来ちゃって、気付いたら体が勝手に……」
おっかなかったミリアムの表情が更に険しくなった。
「何考えてるのよ!」
もっとも過ぎて返す言葉に詰まる。ミリアムの拳が喉に当たる。苦しい。
「彼がよけてくれたからよかったけど、当たったら大変な事になってたでしょうが!」
今朝の出来事を凌ぐ事態に発展していた事は確実だった。しかも過失ではなく、明らかに故意によるものだ。何の申し開きも出来ない。
「じゃ、ミリー姉は彼がかわした瞬間を見たの?」
私が殴りかかった瞬間、とは言いたくなかった。ミリアムは顔をしかめたまま首を横に振る。
「私が見たのはかわした直後。丁度彼があなたの背後に立ってたところよ」
「かわしたところしか見てないのにどうして殴りかかったなんて言えるのよ」
「彼がいたであろうところに拳突き出して立ってたら誰がどう見ても黒でしょ」
そう、立っていたはずのところに拳を打ち込んだのに、それは当たるどころか掠りもしなかった。文字通り空を切る、いや突いていた訳だけど、彼の背後にいたにも関わらずアリスにはウォッカがどうやってかわしたのか未だに判らなかった。
「じゃ、彼がどうやって私の背後を取ったのかは、その瞬間は見てないのね」
「今言ったでしょ。彼がかわした直後に気付いたの。見た時にはあなたの後ろにいたわ」
目にも止まらぬ速さと言う言い回しは耳にするけど、寸前まで背後を取っていた張本人にすらそれが見えていないと言う事は、目に映る事すらしない速さなのだろう。普通に考えなくても信じ難い話だった。
殴ろうとした瞬間を見られた事は確かに失態だった。でも、ウォッカが突きをかわした瞬間をミリアムが見られなかった事は残念で堪らなかった。そうすれば、速さの正体の一端を掴む事くらい出来たかも知れないのに。
そんな人が階段を踏み外すなんて、むしろそっちの方が馬鹿らしくて信じられなかった。動きの速さと運動神経は別なのか。
「それにしても、」
ミリアムは首を竦めたまま背後にいるウォッカをチラリと盗み見た。
「背中を取られた状態でよくかわせたわね」
しかも、あなたの渾身の正拳突きを。ミリアムの顔が若干引きつったように見えた。まともに正面から相対していてもかわされた事の方が遥かに少なかった。勿論相手との距離にも依るけど、踏み込みさえ良ければ相手との距離を一瞬で無に出来る。それを可能にする瞬発力がアリスにはあった。最初に見た時は師匠ですら舌を巻いたものだ。お前の間合いには迂闊に踏み込めないな。接近した状態でいかに上手く立ち回るかも重要だが、相手の間合いを潰していかに自分のペースに持ち込めるか。この踏み込みを活かすか殺すかはお前次第だぞ。そう言って師匠はアリスの肩を叩いた。誉められた事など数える程しかない。だからその時は本当に嬉しかった。その後はしばらく踏み込みからの突進ばかり狙っていたら、接近線での攻防のいろはをかなりみっちり、そして丁寧に教えられた。今思えば貴重な体験だった。
それを難なくかわされたのだ。しかも背後を取られた状態で。冷静に考えるとかなりショックだ。でも、そんな相手だからこそ一度本気で拳を交えたいと思う。どの程度の力があるのか、それを純粋に試したかった。
「どうせ、走って体が熱くなったから腕試ししたくてムラムラしちゃったとか、そんなところでしょ」
流石に姉だけあってよく判っている。それを素直に喜ぶべきかは甚だ疑問だけど。
「本っ当に、それじゃただの危険人物と何も変わらないじゃない」
「そんな身も蓋もない言い方しなくても……」
「じゃ聞くけど、女の立場で夜道を一人で歩いてたら後ろから怪しい男が尾けて来て、ムラムラしたから襲わせてって言ってるのと何ら変わらないのよ?」
ごもっともと言うか、性別を逆にして満たす内容を性的な欲求から闘争本能に置き換えただけだった。誰が何処からどう見ても危険人物そのものだ。冷静に考えると、いや冷静にならなくてもかなり怖い。自分に対して素でここまで引いたのは久し振りだった。
「彼にお詫びはしたの?」
「我に返ったらすぐに謝ったわよ」
「普通そういう事で我を忘れたりしないから」
呆れる様子もなく至極冷静に切り返された。そんな冷たい言い方しなくてもいいのに。
「あなたが、性欲の強い男に生まれなくて良かったわ」
性欲の強い男、を殊更強調して脇を通り抜ける。どちらにしても危険人物である事に変わりはない、と言ったところか。
胸を張るでもなく、かと言って背中を丸める事もなく程好く力んだ肩で風を切って堂々と歩いて行く。
「先程は妹がとんだご無礼を……」
一拍間を置くと両手を体の前に添えて綺麗な角度で頭を垂れる。
「誠に申し訳ございませんでした」
声や姿勢、そして全身から滲み出る雰囲気を見ても本気で頭を下げているのは明らかだった。硬いと言われればそれまでかも知れないけど、心の底から詫びているのは間違いなかった。冗談抜きで母の、女将の代理が務まりそうだった。ミリアムにはイリナとはまた違った風格がある。イリナが筋を通すならミリアムは情に訴えると言うか、個性が違い過ぎるせいで型こそ全く異なるけどそれでも共通しているのは相手に対する誠実さだろう。当然アリスも悪いとは思っているし頭を下げる気持ちもあるけど、きっとここまではしない。許してくれたんだからいいじゃん、と言いたくなってしまう。そういう問題ではなく、それが判るかどうかだ。ミリアムも、そしてイリナも当然それを理解している。
やっぱり、まだまだ考え方が甘いんだろうな。歳は一つしか変わらないのにどうしてこうも違うのだろう。
「さっきアリスにも言ったけど、別に気にしなくていいよ。今朝既に手合わせを頼まれてるし、応じる支度は出来てるから」
「そういう問題じゃないです。互いに礼もしてないのに一方的に殴りかかるなんて勝負とは言えません」
ウォッカは肩を揺らして笑った。ちょっと面食らった。何処に笑う要素があるのか判らない。
「真面目だねえ、君は」
「別に真面目でも何でもありません。でも、ウォッカさんもそういうものは真剣勝負とは思わないですよね?」
「確かにいざ尋常に勝負ってのとは訳が違うけど、背中を見せた時点で俺にも隙はあったって見方も出来るだろ? そういう隙を突くのも兵法の一つじゃないかな?」
「そんなのただの詭弁ですよ」
「正論だけが罷り通れば例外なんてものはそもそも何処にも存在しないんだよ。君の言う全うな状態ってのがどんなものかを理解した上で、それ以外の可能性も考えておかないとな」
「今の一件はウォッカさんにとって例外的な出来事なんですか?」
ウォッカは笑いながら首を横に振った。
「日常茶飯事とまでは言わないけど、別にそこまで珍しいって事はないかな」
背後からの不意打ちが稀有な出来事でないならば、ウォッカにとっての例外は一体何なのだろうか。寝込みを襲うか、安心させて油断したところに毒でも盛るか。怪しすぎる想像に我ながら呆れた。下手に聞かれでもしたら絶対に引かれるだろうな。
「気が抜けてたせいでやられるならその程度だよ。負けたくないなら、死にたくないなら、そうならないように工夫しないとな」
「生きるための工夫があったから、だからかわせたんですか?」
「いや、ただの慣れだよ」
耳に小指を突っ込むと中をほじくり回した。小指の先っぽについていた耳垢をフッと息をかけて吹き飛ばす。
「そんな大層なものじゃない」
「後ろも見ずにかわせるだけで十分大層だと思いますけど」
「そうかい?」
ウォッカは相変わらずあっけらかんとしている。全てが噛み合っていない。
「だからさ、そんな大袈裟に頭なんか下げなくていいから。もっと肩の力抜いて楽になろうぜ」
軽く首を傾げて無邪気に笑う。厳格で生真面目なミリアムとは対照的に、硬さや緊張は微塵もない。
「ガイデルさんも言ってたけど、君はホントに硬いなあ」
「師匠に会ったんですか?」
「ああ。学校に入る時に受付にいたからな」
あ、そうか。この時間帯は用務員としての勤務だから作業が終わっていれば大抵そこに詰めている。それに気付けば会っていたとしても不思議はない。
「ま、一般的に考えればそうなのかも知れないけど、中には俺みたいにそれが当て嵌まらない奴もいるし、そんな堅苦しく考えと疲れるだけだよ」
ミリアムは困った顔をしてこめかみに人差し指の先端を当てる。どう返していいのか判らないのだろう。ミリアムは飽くまで筋を通そうとしているだけだし、ウォッカもそれは重々承知している。でも、やっぱり肝心な部分で噛み合っていない。この男を一般的な観点で捉えようとする事自体が既に間違っているのだ。それにさっきようやく気付いた。何処かが確実にズレている。救いなのはウォッカ自身がそのズレを自覚している事だろうか。座を白けさせる事しか出来ない輩とは明らかに違う。そこまで痛々しかったらかける言葉も無くしそうだ。ちょっと安心した。
深い溜め息と一緒に張り詰めていたミリアムの肩から力が抜けた。姉も遅ればせながらウォッカとの感覚の違いに気付いたのかも知れない。困ったような、それでいて何処か諦めたような、でも隣からソッと伺った横顔は誰が見ても晴れがましかった。
「私自身、そこまで物事を堅苦しく考えているつもりは更々ないんですけど、端から見る分にはやっぱりそう見えるんですか?」
「良くも悪くも真面目だよ。力を抜いたり楽をしたりする事は別に間違ってるなんて事はないのは判るよな。でも、絶対にそんな事はしないんじゃないかな?」
喉元にナイフを突きつけられたようにしてミリアムは半歩身を引いた。目を見開いていた事に気付いてアリスも初めて驚いた。まだ会って一日と経っていないのに、特徴をしっかり把握している。ボケッとした見た目に反して案外侮れないのかも知れない。少なくとも、観察眼は確かなようだ。
「まずは、それが出来るかどうかだよ。頭だけで理解した事と実際行動した事って、一見似た者同士に見えるけど実際はかなり違うからな」
「よく言われます」
それこそ異口同音に。ミリアム本人もそれは痛いくらいに理解している。でも、なかなかそれを行動に移せない。
「それを実践出来るだけの行動力は間違いなく持ってる。でも実際に実行出来た事はまだない、と思うんだけど」
「お見通しなんですね」
「ただの推測だよ」
謙遜するでも照れ隠しをするでもなく、黒板に書かれた公式をノートに書き写すようにウォッカは淡々と言った。
「そこまで判ってりゃ後は早いだろ。行動に移せばいいだけの話だからな」
「そこが一番難しいんですけどね」
ミリアムにつられるようにしてウォッカも苦笑いした。
「試しに一回やってみればいい。それが出来たら後は早いさ。案外拍子抜け過ぎてビックリするかも知れないぜ」
「だといいんですけど」
ミリアムは肩を竦めて笑った。ウォッカは肩を上下に揺すって笑った。
「アリスと組手やるんですよね?」
「ああ。そういやまだいつやるか決めてなかったな」
「私も混ぜて頂きたいんですが、よろしいですか?」
高い音で口笛が鳴った。ウォッカは腕白盛りの悪戯小僧のような顔して片方の唇の端を上げた。口の隅から白い歯を覗かせている。
「俺は大歓迎だぜ。そういう事は大人数の方が盛り上がるからな」
日暮れに祭りを控えた子供のような顔で笑っている。実際ウォッカはそれくらい、いやそれ以上に楽しみに違いない。互いに拳をぶつけ合い、緊張と危うさが混在する一瞬を共有する。これほど胸が高鳴る瞬間はない。少なくともアリスは知らない。固めた握り拳で掌を叩いていた。そう、出来る事ならいますぐここで始めたい。準備なら充分過ぎるくらいに出来ている。
「明日授業午前中で終わりなの。お昼ご飯食べた後部活なんだけど、その時でどう?」
「ま、明日なら今のところ特別やる事もないし丁度いいか」
ウォッカの「やる事」が具体的にどんなものなのか全く想像がつかない。今日はこの後買い出しに行くみたいだけど、それ以外に取り急ぎやらなければならない事があるなら是非聞きたかった。純粋に興味がある。
「じゃ、明日の午後に学校で。時間は?」
「二時から二時半の間でいかがでしょう?」
ミリアムは飽くまで折り目正しく言った。堅苦しさに呆れそうになった時、ハッとするものを感じた。ミリアムがジロリと横目で睨む。
「お客様相手にタメ口聞くんじゃないの」
背筋がギクリと音を立てて固まる。ウォッカの存在に気付いてから、ミリアムは彼に対して一貫して敬語を使っている。ついさっき、いやたった今それに思い至った。店の外とは言え、アリス達家族にとってウォッカが客である事に変わりはない。さっきウォッカとここで、学校で会った時、アリスの中でウォッカは客ではなくなっていた。わきまえなさい。ここ近年、何かと耳にする言葉だ。さっきウォッカがミリアムを「硬い」と評したように、アリスもよくそんな事を言われる。それこそ異口同音に。対して姉は馴れ馴れしい態度も言葉遣いも一切見せていない。堅苦しいと詰られようが、越えてはいけない一線が見えている。越えていけないと言う事は、言い換えればやってはいけない事でもある。当然、それくらいは既に理解している。でも行動がそれに伴っていない。判ってないと言われても何の抗弁も出来ない。
ミリアムは人差し指でツン、と額を突いた。
「親しみやすいと馴れ馴れしいは違う。普段から言ってるわよね?」
流石にここで逆ギレする程攻撃的でもなければ恥知らずでもない。下唇に前歯を突き立てて俯く。
「彼は絶対にそんな事は気にしないでしょうけど、それで済まされる問題じゃない事くらいはいい加減判るでしょ?」
決して大袈裟な事を言っている訳ではない。こういう軽はずみな言動がなくならないと後々困る事になるのが目に見えているから釘を差しているのだ。それを風紀委員のように懇切丁寧な口調で説教してくれるミリアムに一矢報いるくらいの根性は見せたい。かなり難しそうだけど。口喧嘩では上手い言葉が出てこないし、今更素手で殴り合う事も出来ない。アリスは別に構わないけど、ミリアムは嫌がるだろうな。やったらお互いただでは済まない。やったら勝つ自信は勿論あるけど、それはミリアムも変わらないだろうし。純粋な勝負ならこちらに軍配が上がると思うけど、姉妹喧嘩になったら絶対勝てない気がする。幼い頃から続いている力の均衡を変えるのは一筋縄ではいかないのだ。
「確かに人の三倍くらい血の気は多いけど、こっちの方はそこまで馬鹿じゃないでしょ?」
頭の丁度真ん中の辺りに掌を置く。慰めているのか馬鹿にしているのか判らない。掌から温かさが少しずつ伝わって来る。そう言えば、母も何か失敗したり迷惑をかけたりした時はこうして掌を頭に載せて懇々と諭す事が常だった。頭ごなしに怒鳴り付けるような真似はまずしなかった。叩かれたら痛いけど、こうして掌が頭に載っていると温かい。それに顔を上げられないから自然と頭が下がる。
「うん、気を付ける」
よし、とでも言うようにミリアムは腕を組んで頷いた。自分に足りないものや必要なものを叱りつけるでもなく突き放すでもなく、いつもこうして教え諭してくれる。何だかんだで面倒見はいい。伏せていた顔を上げて目を合わせると微かに笑った。たまに胸に顔を埋めたくなると言うカティの気持ちが少し判る気がした。
「それじゃ、明日の昼過ぎでいいかい?」
「はい、よろしくお願いします」
さっきミリアムがそうしたように背筋を伸ばして腰を折る。ウォッカは弾けたように笑い声を上げた。
「厳しいねえ」
「ただ筋を通したいだけです」
「今の言葉をもう少しにこやかに言えたら随分印象も変わるだろうけどな」
手本を示すように笑ったウォッカにつられるようにしてミリアムも笑った。
「そうそう、その調子」
硬さを解すと言うよりもどちらかと言えば口説いているようにも見える。新手のナンパと言われても頷けるだけの雰囲気があった。当の本人にはそんな意思は微塵もないだろうけど。
「ところで、」
ウォッカはボサボサの髪をかきむしると首を傾げた。
「格闘技を続けるならその髪は切った方がいいんじゃないかな」
「大きなお世話です!」
言ってから慌てて両手で口を塞いだ。ミリアムは叱る事も出来ず目を閉じたまま眉間に指先を当てていた。やっちゃった、と言う目でアリスを睨む。
「あ、あの、すみませんでした! 大きなお世話なんて、失礼な事を……」
今更詫びても遅いのは百も承知だ。それでも言わない訳にはいかない。何より言わずにはおれない。考えるより先に口が動いていた。さっきもそうだ。意思とは関係なく口から言葉が飛び出していた。内容を吟味する事などあるはずがない。つい、では絶対に済まされない。耳の先まで真っ赤になった。今はとてもではないが顔は上げられない。隣にいたのがミリアムではなく父だったら、或いはイリナ姉だったら、間違いなくがら空きの脳天に拳が飛んでいる。
どのくらいそうしていたのか判らない。芝を踏み締める足音が少しずつ近付いて来た。アリスの目の前で停まる。そのまましばらくまんじりともしなかった。
「髪結わえてたら流石につむじは見えねえな」
一体何を言うかと思った。確かに頭を垂れたこの姿勢なら頭の天辺は丸見えだ。殴るにはさぞかしいい的だろう。でも、それを何の躊躇いもなく口に出来る素直さは流石にない。アリスはゆっくり鎌首をもたげた。顔を上げる気になったのはどんな面をしているのか拝みたくなったからだ。
目の前にウォッカの無警戒な笑顔があった。毒気や悪意と言った後ろ暗い感情など欠片もない。一瞬、本当にポカンとしてしまった。取り敢えず、怒っていないのは確かだろう。でもここまでのほほんと構えていられる理由が見当たらない。
「ま、確かに大きなお世話だよなあ」
納得するように一人でうんうんと頷いている。
「伸ばすも切るも、それは本人の自由だし」
ウォッカはそこで神妙な顔をして隣に立っているミリアムを見た。ミリアムは元から伸びていた背筋をもっと真っ直ぐにして姿勢を正す。
「わ、私は短い方が性に合ってるだけで……」
僅かに耳の周りを覆っている髪を両腕で隠す。さっきまでとは明らかに目が違う。緊張感で強張っていた全身から力が抜け、頬にも赤みが差している。姉ではなく、一人の女の顔をしていた。やっぱり、何だかんだでまだ女の子だ。それはアリス自身も変わらない。伸ばす男も中にはいるけど、これも女の象徴の一つだと思っている。
「闘う上で不利になる事もあるけど、やっぱり大切なものなんだよな」
咄嗟に言葉が出なかった。頷く事も出来ない。頭の天辺で結わえていた髪の根元を両手で覆った。
「悪かったな」
大事にしてやってくれ。軽く肩を叩かれた。
じゃ、夕方に家で。合図でもするように手を上げるとこちらに背を向けた。そのまま学校の外の方へ歩いて行く。ありがとうございました、と先生に頭を下げた。先生はやっぱり今度もぎこちなく手を上げた。まだ硬さが取れていない。解れて来たと思ったのに。それか、実は結構人見知りする質なのかも知れない。
格闘の最中だけではない。走っている時も既に十分邪魔だった。上下左右に揺れる、肌にまとわりつく。手入れだって大変だ。お風呂で濡れた髪が乾くまで優に一時間はかかる。今は暖かくなったからいいけど、冬場はすぐにふかないとたちどころに風邪をひいてしまう。枝毛の処理も楽ではない。いや、むしろ非常に面倒臭い。でも、切るつもりは更々ない。どれだけ手間がかかろうがまだ今のままでいたかった。
頭の天辺で結わえた根元を掴むと背中に垂れていた髪を鋤くようにして胸の前に移した。かいた汗が染み込んでいる事を抜きにしても、ずっしりと重たかった。鮮やかな茶色い髪が日の光に晒されて目映く光っている。ミリアムは茶色と言うよりも淡い栗色に近いし、イリナ姉も茶色だけどアリスほどではない。カティは論外だ。茶色い髪の両親から何故鴉の塗れ羽色のような髪をした子供が生まれるかは昔から大いに疑問だったけど。そして家族の中にその疑問に応えられる者は一人としていなかった。
彼がこの髪を、自分を受け入れてくれるかどうか。それを思うといつも不安になる。怖くて怖くて堪らなくなる。男勝りで手が速くて好戦的な女なんて、食指をそそるどころか箸にも棒にもかからないかも知れない。普通に考えれば真っ先に敬遠されるだろうな。考えなくても判る。でも、彼を想う気持ちに偽りはない。それが変わる事もない。今のところは、なのだけど。もし想いが遂げられなかったら、その時は思い切ってバッサリ行く、かも知れない。出来る事なら積極的に歓迎はしたくない現実だった。絶対に来ないなんて保証は何処にもないんだけど。
「大きなお世話か」
見上げるとミリアムが隣に立っていた。目が合ったかと思った拍子に笑った。さっきそうしたように手を頭の上に載せる。
「そういう指摘をする事自体は確かに大きなお世話だけど、内容は至極全うだと思うな」
それに関してはアリスも同感だ。むしろ異論を挟む余地もない。
「でも、事これに関しては絶対に譲れないんだ」
「判ってる」
石頭と言われようが分からず屋と罵倒されようが、これだけは絶対に譲れない。そしてその気もない。踏ん切りか、あるいは諦めがつくまではこの髪を切る事はない。前に切ったのがいつの事なのか、今となっては思い出す事も出来ない。大分伸びた頃にかけられた「似合うね」と言う言葉がなかったら、絶対にここまで伸ばそうとは思わなかった。少しくらいなら切る事も出来ただろう。でも切りすぎたら嫌だし、「前の方が良かった」なんて言われた日には恐らくショックで立ち直れない。切ろうとも思わなかったけど、怖くて切れなかったと言う気持ちの方が強い。誰が誰を好きになるかなんて、その人にしか決められない。だから自己満足でもいい、白黒ハッキリつくまではこのままでいたかった。
「大丈夫、きっと。ずっとあなたと一緒にやって来たんだから」
幾度となく拳を交えて来た仲だ。想いはきっと伝わっている、そう願いたい気持ちはある。でも、それすら文字通り一方的な願望でしかない。そこに彼の気持ちは全く介在していない。だからいつも不安になる。自信なんて絶対に持てない。
「ミリー姉が羨ましいな」
「どうしてよ?」
思い当たる節がないのか不思議そうに首を傾げるミリアムを、アリスは思い切り睨み付けた。
「手が届く距離にいるじゃない」
途端に顔が真っ赤になった。普段は人一倍冷静だけど、こういう事にはまるで免疫がない。男連中が姉のこんなところを見たら一体どう思うだろう。
「でも、手が届いた訳じゃないわ」
「その気になればすぐに届くわよ、きっと」
勇気がなくて、その一歩が踏み出せない。ミリアムが、ではなくお互いにだ。一見図太いように見えて実は結構臆病なところもある、と言う事なのだろう。彼をよく知るイリナ姉に言わせると「見かけ倒しの根性なし」らしいけど、流石にそれは少し言い過ぎだと思う。全部が全部本気で言っている言葉ではない。罵声の中に、隠し味のようにそっと親しみを忍ばせている。表に出さないのは、きっと本人に知られたくないからだろうな。
「その気になればって、どうすりゃいいのよ」
唇を搾めて目を逸らす姉の横顔を見ていたら無性にからかいたくなった。何だかいつもと立場が逆転したようだった。
「素直になればいいんじゃない? 想ってる事をそのまま伝えれば」
ミリアムは頬を赤らめたまま両目を釣り上げた。
「それが出来ないから苦労してるんでしょ」
「無駄に肩肘張ってるだけよ。その場に思い切り寝転がるくらいの気持ちで身体中の力抜いてみたら、見えるものも変わって来るんじゃない?」
硬くなりすぎていて、それが解れなくて身動きが取れない。どちらか一方ならともかく、両方それだから尚更始末に悪い。格闘技にしても槍術にしても、力を抜く事が一番肝心だしそれは充分理解している。その上で実践まで出来ているのに、未知の領域には殊更臆病だった。傷付きたくないだけなのかも知れない。気持ちは、それこそ痛いくらいによく判る。誰だって積極的に自分を痛め付けようなんて事はまず考えない。
でも彼と離れた事で、会えなくなって、それまで胸の中で渦巻いていた気持ちがどんなものなのかようやく判った。見まいとしていた自分の気持ちと初めて向き合う事が出来た。それが、いつも体の芯をホンノリと温めてくれる。それがあるからどれだけ辛くても頑張れる。いつ会えるのか、それは全く判らない。もし会えたらかけるべき言葉はもう決まっている。それを於いて他にない。
「何だか、こっちに関してはあんたに先を越されたような気がするな」
「私だってまだ成就した訳じゃいわ」
「そんな事ないと思うわよ」
遅れを取っているのに、ミリアムは勝ち誇るように堂々として言った。
「少なくとも自分の気持ちがどんなものか気付いてるし、それとしっかり向き合えてる」
「ただ自分の気持ちを知ってるだけよ。それ以外何も変わらないと思うけど」
ミリアムは少しだけ悔しそうに唇を歪めて笑った。どうしてこんな顔をするのか判らない。
「私は、あなたほど自分の気持ちに自信は持てないわ」
言葉の意味が頭の奥に浸透するまで随分時間がかかった。そして腰が抜けるかと思ったくらい驚いた。途端に火が点いたように顔が真っ赤になった。顔が火照っていて熱い。耳の先まで真っ赤に違いない。授業中の静まり返った教室でオナラが出ても、多分これには及ばない。
「あんたってホントに判りやすいわね」
鎌をかけられたのだとしたらモノの見事に引っ掛かってしまった事になる。それに対して怒る事も出来なかった。恥ずかしすぎて。
「でも、自分に対して素直ならそれでいいんじゃない? それが元で誰かを傷付けるなら話は別だけど」
無言で頷く。言葉を口にする事が出来なかった。
誰を好きだったのか、大分前からみんな薄々ではなく大いに気付いていた。アリスがそれを隠す事をしなかったからだ。でも、ハッキリ口にした事は一度としてなかった。今もそれを言った訳ではない。
でも、言ったも同然だった。だから顔が熱くなる。それを隠す事も出来ない。自分の気持ちに嘘は吐けないからだ。
「その気持ち、大切にしなさい」
頭に載せた手をトンと押した。からかっているのとは明らかに違う。今度は前髪がクシャクシャになった。乱れた前髪を整える事もなく、アリスはそれまで半分俯けていた顔を上げた。ウォッカの姿は視界から完全に消えていた。背中も見えない。名残りすらなかった。
さっきの科白にしても何の意図もなかったに違いない。さして深く考えた言葉ではないけど、それがそのまま口から出た。きっと単にそれだけなのだろう。なんだ、私と大差ないじゃん。一瞬何の躊躇いもなくそんな事を考えた自分に本気で呆れそうになった。確かに本質的には変わらないかも知れないけど、ウォッカが指摘した事は至極全うだったし誰かを傷付けたり不快にさせたりする類いのものではない。そういう当たり前の忠告を感情的に否定したアリスと同類項で一括りにしたら流石にウォッカも怒るだろうな。
それに、考えた言葉がそのまま口から出たとは言っても、それが明らかに失礼なものだったり誰かを不快にさせたりするものだったら絶対にそんな事は口にしていないに違いない。それくらいの分別や最低限の礼儀はわきまえている。うっかり大きなお世話なんて怒鳴る大馬鹿者とは訳が違う。
要は大人と言う事なのだろう。それともアリスがまだまだ子供なのか。或いはその両方か。自分の感情を抑える術もロクに知らず、誰かにぶつけてようやくそれに気付く。それでは遅いのだ。感情的な言葉は勢いで口から飛び出しただけで必ずしもそれが本心とは限らない。さっきの言葉にしても思わず出てしまっただけであって、それ以外には何の感情もない。それを判ってくれると嬉しいんだけど。
取り敢えず、ウォッカにはもう一度謝りたかった。まだ自分の気持ちを上手く伝えられたとは言い難い。伝わっているかも知れないけどまだ何の確証もない。それを確かめたかった。むしろ、こちらの方を気遣ってくれたような気さえした。だから判ってくれているとは思うけど、でもそのまま放っておくような真似は怖くて出来ない。確かに自分は無神経だけど、それ以上に無責任な人間ではありたくなかった。
ウォッカと知り合ってからまだ一日と経っていない。なのに、どうしてここまで気持ちを晒せてしまうのか不思議だった。しかも、これまでそんな事は誰にも話した事なんてないのに。夕方家で話してみたら何か判るかも知れない。そうあって欲しかった。
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