第8話 一日目 ~夜~ その伍
「あんたってホント自分に正直よね」
グラスの酒を口に含みながら、イリナは隣で無心で出来立ての野菜炒め(肉が結構多め)を無心で掻き込んでいるウォッカを睨んだ。完全にタメ口になっているが気にならなかった。この男には敬語を使って話す方が失礼に思えた。父が聞いていたら後頭部に手刀の一発でも食らうかも知れないけど、今は厨房で最後の後片付けをしている。まず、と言うか絶対にこちらの話し声など聞こえない。
「そうか?」
箸を止めた合間に酒を呑む事も忘れない。話しかけられようが食事の手は基本的に止めない。話をする気がないと言う事はないけど、気持ちの大半は腹を満たす事に重きが置かれている。
「羨ましいわ」
「ありがとう」
皮肉も通じない。受け流すと言うよりも、そもそも皮肉として伝わっていない。言葉の通りに受け止めているだけに違いなかった。
「どうしてそこまで素直でいられるのか教えて欲しいわ」
「別に素直だとは思わないけどな」
深く考える様子もなく、グラスを軽く振りながら宙を睨んで縁を唇に宛がう。
「ただ自分のやりたいようにやってるだけだよ」
「だから、それが素直だって言ってるのよ」
「そうかねぇ」
ようやく少し酔いが回り始めて来たのか、微妙に焦点のズレた目で揺れるグラスを見詰めている。
「抱えてる欲求を無理矢理押さえ付けてまで耐え忍ぶのも馬鹿らしい気がするけどな」
「じゃあ」
イリナは酒を口に含むとグラスをテーブルに置いた。頬杖を突いてウォッカの横顔を覗き込む。
「その欲求を満たすために誰かが迷惑や害を被ったとしても、あなたは一向に構わないの?」
ウォッカは野鳥が路上に散らばった餌をついばむように低く喉を鳴らした。
「お前、酔ってるだろ?」
組手の最中に相手を攻略する糸口を見つけた時のようにニンマリと笑う。口元に近付けたグラスを鼻の手前で止めると、ウォッカは香りを楽しむように小さく揺らした。
「それ、丸っきり子供の理屈だぜ?」
「あなたこそ酔ってるでしょ? そんな判り切った事なんか普通いちいち指摘したりしないわ」
「理屈が噛み合わなくなった原因を酒に求めるようじゃお互い様だな」
料理が運ばれて来てから初めてウォッカは箸を置いた。まだ少し酒が残っているグラスに新しい酒を継ぎ足す。
「全うな感覚があれば、自分以外にも周りを少しは見るだろ。無理を通そうとした時にそこで何かしら影響が出るようならそりゃ止めるさ」
それを聞いて少し安心した。単にそこまで我が道を行っていないだけと言えば話は早いけど、自制する手綱くらいは持っているようだ。
ただ、事食欲と酒に関しては別なのだろう。聞かなくても判る。
炒めたほうれん草とエリンギ、細かく刻んだ人参と椎茸をカリカリに焼いたベーコンで巻くと、イリナはゆっくりと奥歯で噛み潰した。酒を口に含む。食材の旨味とアルコールが絡み合って一層食欲を掻き立てる。これだから酒は止められない。もう一口酒を飲んだ。体温の上昇に合わせて食欲に火が点いた。刻んだ肉の塊を口に放り込んだ。一気にアルコールで喉の奥に流し込む。
「ちょっと速くないか?」
「あなたに言われたくないわね」
継ぎ足した酒で舌を湿らせる。水差しを置いておかなかった事を少し後悔した。
「どれだけ呑んだら酔いが回るのよ」
「さあねぇ。そんな事体調とその時の気分次第でいくらでも変わるからな」
「で、今はどうなの?」
ウォッカは縁ギリギリまで酒で満たされたグラスを一息で空にした。今日何度目の一気呑みだろうか。
「絶好調」
イリナは無言でおかわりを注いだ。もう何も言う気になれない。
酒が好きなのか、それとも慣れているだけなのか、或いはその両方か。考える必要もないだろうが、気になる事があるのも確かだった。
「一体いくつの頃から呑んでるのよ。まさか、昨日今日じゃないわよね?」
「ご想像にお任せするよ」
「あんたは普通の人が想像し得る範疇を遥かに超えてるから」
「そうか?」
耳の裏を小指で掻きながら野菜炒めを頬張る。まだなくならないのは気を利かせた父が団体客用の大皿に盛り付けたからだ。それに何の躊躇いもなく箸を伸ばせる時点で既に普通ではない。あれだけ食べた後に。
「ま、酒に関して言えば早熟だった事は確かだな」
「でしょうね」
ようやく多少は納得の行く返答が聞けた。かと言ってそれに満足した訳ではないが。
「そう言うイリナも結構早いうちから呑んでたんだろ? 一朝一夕じゃここまでは呑めないぜ」
「大手を振って呑み始めたのは高等部を卒業してからよ。学校が色々うるさかったから」
「だろうな」
別段疑問を挟む事もなくアッサリ納得する処を見ると、置かれていた状況はお互い似たり寄ったりなのだろう。未成年者に対して酒に寛大な教育機関と言うのも聞いた試しがないけど。
「って言っても、休みの前日とかにはちょくちょく呑んでたんだけどね」
「学校で息が酒臭かったら笑い話にしかならないからな」
「一度それでヤバかったからそうしたのよ」
今思い出してもヒヤヒヤする。既に父と母の目を盗んで失敬していた酒をコッソリと部屋で隠れて呑んだ。ちょっとのつもりの一杯がやがて二杯になり、二杯目を呑み終える頃には無意識で三杯目を継ぎ足し、といった事を繰り返していたうちにいつの間にか意識が飛んでいた。
寝覚めの瞬間はやたら爽快だった。全く現実味がなく、夢を見ている延長線上のような気分だった。そして、どうしてベッドに横たわっているのかという当たり前の記憶すらない。寝る前の出来事を必死に思い出そうとしてもそれを手繰る糸口すら掴めない。そして時計を見て初めて現実に引き戻される。
ベッドを満足に整える余裕すらなく、水だけ飲んで一目散に学校へ走った。そんな時間まで寝てしまったのは店が休みだったからだ。定休日は父も母も普段よりいくらかゆっくりとした朝を過ごす。営業日にそんな寝坊をしたら問答無用で叩き起こされる。それが災いした。
フラつく頭を抱えて学校に着いた頃には完全に足に来ていた。馬のように井戸の水を飲んだ後、授業中は完全に寝入っていた。意識が戻ったのは昼を過ぎてからだ。よく吐かなかったものだと今更ながらに冷や汗が出る。もっとも、父にはすぐバレて大目玉を食らったが。それ以降、酒は休みの前日に食事と一緒に呑むようになった。多少呑み過ぎる事はあったが、父は顔をしかめるだけで叱りつけるような事はなかった。
今は気が向いた時には父と一緒にグラスを傾ける。休みの前日には特別拘らなくなった。翌朝しっかり起きられれば、の話だけど。明日も仕事だが、これくらいの酔いなら差して問題はない。
「流石に学校で呑む事はしなかったけど、大酒呑んだ翌朝普通に学校に行く事はよくあったな」
「ちょっと待って。それってついさっき息が酒臭かったら話にならないとか言ってた人の科白じゃないでしょ」
「何か勘違いしてないか? 息があからさまに酒臭かったらそりゃヤバいけど、そうでなければ咎められる覚えもないだろ」
酔いが回り始めた頭でウォッカの発言を反芻する。たとえ晩酌したとしても、そうと気付かれなければ何ら問題はない。要はどれだけ呑もうが寝坊も遅刻もせず吐く息も爽やかなら飲酒を疑われる事もない。たとえ未成年であっても。
こいつにはそれを可能にする体力と頑健過ぎる内臓(主に肝臓)がある。想像して冷や汗が背筋を伝った。どんなに遅い時間まで散々飲み食いしようと、明日の朝に目が覚めた頃には当たり前のように何か食っている。そういう事だろう。
それが繰り返されれば体が慣れるのも当然だった。いつからこういう食習慣を続けているのだろう。
「さっき、酒には早熟って言ったわよね」
「ああ」
「じゃ、その逆は?」
「逆?」
ピンと来ないのか、ウォッカは首を捻ったまま顔をしかめる。
「人より遅れてたものとか」
「勉強はかなり遅れてたぜ」
見るからにそんな感じだった。酒が残っていなくても当たり前のように居眠りをし、お昼前には二人前の弁当を平らげ、誰の目にも触れず忽然と教室から姿を消す。その癖、試験前になるとクラスメイトのノートを写すのに躍起になる。そんな姿が目に浮かぶようだった。
「それ以外には?」
「別にないかな。少なくとも人に話して聞かせるような大層な代物はない」
「あなただっていい歳なんだから、彼女くらいはいたんでしょ?」
素面だったら今日知り合ったばかりの相手にこんな事はまず聞かない、否聞けない。呑みの席での無礼講で通してくれればいいのだが。酔った頭でそんな都合のいい事を想像する。
「それこそ一般的には大層な話に含まれると思うけどな」
「別に大層でも何でもないでしょ。それこそよくある話よ」
年頃の男女が集まれば大抵こういう話題になる。居合わせた面子や雰囲気にも左右されるけど、この男とならあまり気にせず話が出来る。酒が入っているなら尚更だ。
「それとも、こういう話は好きじゃないとか?」
「好きじゃないと言うか、興味がないんだよ」
面白そうと言うには程遠いが、それでも顔をしかめるような嫌悪感もない。ウォッカが楽しめる対象の中に色恋沙汰は含まれていない、と言う事だろうか。だとしたら、それは絶対に健全ではない。そういう処を突っつく事に意義がある。酒呑みの方便だが、そんな免罪符でもなければ迂闊においそれとは聞けない。
だから、こういう時は酒の力を借りようと思う。ちょっと格好悪いと恥じる反面、臆面もなく堂々と聞けるような無神経さとも敬遠したい。
「別に女なんかいなかったし、持とうとも思わなかったな」
一口酒を含むと箸で豪快に野菜炒めを挟む。顎でモグモグしている間にも酒を呑んだ。
強がっている様子はなかった。いない事を無理矢理隠し通そうとするような不自然さもない。少なくとも嘘を吐いているようには見えなかった。
「周りには彼女持ちとかもいたんでしょ? 寂しいとかはなかったの?」
「そういうものは全くなかったな」
鉄の盾が鉛の弾を弾くようにアッサリ受け流された。
「別に、誰に惚れたところで腹が膨らむ訳じゃない」
飲み込もうとしていた酒の一部が鼻から吹き出る。一瞬息が止まったが、噎せたのは一度だけだった。
「大丈夫かよ」
噎せる原因を作った張本人は優しく背中を擦るような事もなく、グラスを傾ける事に集中していた。そういうキザを気取ったような真似はまずこの男には似合わない。それに、普通にやろうにも相応の勇気がいる。真面目にやろうとした場合は、だけど。自然にやれるだろうが如何せんこいつの印象には明らかにそぐわない。格好つけてそんな事をするなど絶対に有り得ない。断言してもいい。
大事なのはそんな事ではない。
「どうして色恋沙汰と食欲を同列で扱うのよ」
人を突き動かす欲求ではあると思う。本質体には全く違う二つを同じ土俵に載せる事の意味がそもそも判らない。それを異性の前で躊躇う様子もなく普通に口に出来る神経も理解出来ない。
「単純な話さ。花より団子ってだけだよ」
一番手っ取り早く、かつ判りやすい形容だった。
「あなたにとっては団子の方が遥かに大事って事なんでしょ?」
「ああ」
照れも隠しもしない。清々しいまでに明快な回答だった。ま、冷静に考えるまでもなくここに来てからのウォッカの行動を振り返れば想像しなくてもある程度は判っただろう。でも、それを本人の口から改めて聞くのとでは受ける印象が違う。そういう可能性まで考慮しての発言……な訳がないな。聞かなくても判る。
「人である以上必ず誰かと係わるだろうけど、色恋沙汰って絶対に必要なものじゃない。他の人はどうだか知らないけど、少なくとも俺にとってはな。
でも、食わなかったら人は生きられない。食べる事そのものも勿論好きだけど、こうして食うのは俺にとって生きるためにやってる事だからな」
異性に興味を持つ事よりも、この男の中では食べる事、生きる事が優先されている。人としてある意味全うな気はするが、同時に人として大切なものを何処かに置き忘れてしまっているようにも思える。
それにしても、どうしてここまで食う事に積極的なのだろう。それとも単に死にたくないだけなのか、それとも死ねない理由でもあるのか。そんな大袈裟なものじゃないか、単に食い意地が張ってるだけだな。
「どうしてそこまでひたすらに食べようとするのか判らないわね。あなたが並外れた大食漢なのはよく判ったけど、もう少し周りに目を向けてみるのも悪くないんじゃないの?」
「それもさっき言ったろ? 興味がないんだよ」
まるで、今の俺に必要なものは生に直結するものだけなんだよ、と言われたような気分だった。事実その通りの事をウォッカは言っている。
でも、彼の中にある男としての本能がそれで納得するのだろうか。
「でもさ、あんたの気持ちは恋愛を拒んでも体が反応する事は勿論あるでしょ」
「大胆な事言うなあ」
顔に似合わず。驚くと言うよりどちらかと言うと呆れるような顔でイリナを見る。酒の力を借りなければ出ない科白だ。
「ねぇよ」
思い切り肩透かしを食らったような気分だった。たった今口にした大胆という言葉は一体何だったのだろう。
「昔そういう雰囲気になった事はあるけど、別に体が応じる事もない。至っていつも通り」
「ねぇ」
流石にいい加減腹が立って来た。こいつにとっての女はその程度のものなのか。好きになった訳でも、ましてや恋人になった訳でもないのに、そんな事を考える事自体がそもそもおかしいのだけど。
「じゃ聞くけど、って事はあんたインポ?」
「いや、そういう訳じゃない」
じゃあどういう訳なんだ。それ以外の可能性を見出だせない。それを晒したくないが故にもっともらしい言葉を並べて煙に巻こうとしていたのではないか、とすら考えてしまう。
「さっきも言ったと思うけど、そもそもそういう事自体に興味がないんだって」
「食べる事の方が好きだから?」
「それもあるにはあるけど、根本的には全く関係ない。誰かを好いたり惚れたりする事そのものが俺には必要ないだけだよ」
グラスを握っていた手に力がこもる。分厚いグラスで良かった。薄かったら割れていたかも知れない。
「どうして?」
かなり語気荒く呟いていた。テーブルにグラスを叩きつけそうになって、危ういところで踏み留まる。何となくウォッカの視線を感じた気がしたが、顔は上げなかった。目を合わせたところで何を話せばいいかも判らない。煙草をくわえて先端に火を灯し、ゆっくり煙を吐き出すくらいの時間が経ったけど、グラスに半分残っていた酒をウォッカはやたらチビチビ呑んでいた。
「かなり誤解を招いたようだから一応断っておくけど、所謂不能ではない」
真面目に言うなと思った。素面での発言だったら腹筋が痙攣してネジ切れていたかも知れない。
突如襲った便意を堪えるようにしてお腹を抱えたけど、ウォッカは見えていないのか気付かない振りをしているだけなのか、詩を朗読するように淡々と続ける。
「普通の男はそういう雰囲気になったりすると体が勝手に反応するのが大抵だろうけど、簡単に言えば俺の体はそういう風には出来てないってだけだよ」
まだ僅かに痙攣の名残がある腹筋を指先で解しながらウォッカの横顔を見る。横目でこちらを見た。目が合った途端、悪戯小僧のような顔で二ッと笑う。 奇妙な話だが、年齢を感じさせない笑顔だった。歳相応に感じる反面、子供っぽくも見える。一体いくつなのだろう。
「体が反応しない事には何か理由があるの?」
「さっき、カティの部屋で話した事覚えてるか?」
少しは思い出そうかとも思ったが、アッサリとそれを放棄した。話した事は一つではない。今ここで話している内容と合致していたものを的確に見つけ出せる自信はなかった。
「冷静でいなきゃならない、そういう話をしたんだけどな」
それなら間違いなく覚えている。確かにそれが理想だが、それが良かろうが悪かろうが感情が高まる瞬間は誰にでも必ず訪れる。それすら無理矢理押さえ付ける必要が何処にあるのだろう。
「誰かにそういう感情を抱くって事は、心が誰かに囚われるっていう風に解釈するのはおかしいかな」
心が誰かに囚われる。寝ても覚めても、考えるのは特定の個人だけで他が入り込む余地は全く残されていない。イリナにもそんな風に誰かを想い続けていた時期が確かにあった。悪い事ではないと思う。でも、よくよく冷静に考えてみれば胸に浮かぶのはその人の事ばかりで、どうしても気持ちもそぞろになる。そう思えば確かに囚われていたのかも知れない。
「そうなっちゃいけないんだよ。俺の場合は特にな。そうなったら、もうそこから動けなくなる」
「ねえ、それを抑えるのが理性でしょ? あなたなら欲求のタガを抑えるものくらいあるように見えるけど」
むしろ同年代のその他大勢よりは遥かにそれが備わっているように見える。そう言えば、この男一体いくつなのだろうか。
「すっかり聞くの忘れてたけど、あなた年齢は?」
「いくつに見える?」
逆に聞き返された。さっきまで正面を向いていたウォッカは、相変わらずグラスを握ったまま軽く首だけ曲げてこちらを見ている。明らかに何かを楽しんでいる目だった。その何かは全く判らないが。
「こんな事年頃の女に聞くのは非常に失礼かとは思うんだけど」
傾けたグラスの中身を音もなく喉の奥に流し込む。既に手に握っていた瓶の中身を空になったグラスに空けた。さっきから際限なく繰り返されている行為だ。普通だったらもういい加減止めるところだが、この男に関しては無駄な気がした。と言うより、そういう気持ちすら起きない。はいはい。
「イリナはいくつなんだ?」
てぐすね引いて待ち構えていた質問だった。そもそも最初にその疑問を投げ掛けたのはこちらなのに、何故先にそれに応えないのか。どうして平気でそっちのけに出来るのか。酔っているようには見えないし、それを口実にする気もこの男にはない。だとすると天然か、素でボケているだけなのか。
「あんたにはいくつに見えるの?」
体の向きを変え、真っ正面からウォッカと目を合わせる。首を傾げたまま覗き込むようにして顔を近付けてもたじろぐ事はおろか、動揺すらしない。至って普通だった。こんな事をされたらどんな男でもそれなりの反応は見せる。端から見たら、それこそイリナが誘っているようにしか見えないだろう。父が見ていたらマズかったなあと思いつつも、さっきまでと全く変わらないウォッカの反応に軽く打ちのめされた。
本当に、全然女に興味がないんだ。それをまざまざと見せつけられた思いがした。
「多分、俺とそう大して変わらないと思うけど」
顔が歪んだ。正直ウォッカがいくつなのか皆目見当もつかないけど、それでも自分と近いなどとは全く思えない。
「ねえ、仮に今私がここで脱いだら、あんたどうする?」
酒が入っていなければ到底出来ない発言だった。内容の是非を検討する最低限の理性すら働いていない。
「イリナ、酔ってるだろ」
「酔ってないわよ」
酔っ払いのこういう安易な発言ほど当てにならないものも他にないと常日頃から思っていても、一度酔いが回ればそういう連中と大差ない。ダメだなあとは頭の何処かで感じていても、酒が抜けるまでこの脱線した思考は元に戻りそうにない。それだけは判った。
「さっきに増して大胆過ぎる発言だな」
爆弾発言と言わないだけまだ人はいいのかも知れない。品のない男ならそれ以上の事を平気でやらかす。誘ったのはイリナだが。
「止めときな。損するだけだから」
「ホントに見せるかと思った?」
「まさか」
顔色を変える事もなく、グラスを弄びながらウォッカは言った。
「昔、ダチに誘われてそういう店に行ったけど」
「そういう店って?」
「ステージで曲に合わせて踊る女が少しずつ脱いでいくような店」
イリナは顔をしかめた。ウォッカは横目でこちらを一瞥した。すぐ前に視線を戻す。自分から振った話題である事は重々承知している。それでも相手の口から聞くには抵抗がある言葉だった。身勝手である事くらい先刻承知だ。でも理屈だけで生きられるほど人は合理的に出来ていない。
小皿に取り分けた野菜炒めを酒と一緒に喉の奥に流し込んだ。長く、ゆっくりと息を吐く。
「で、どうだったの?」
「別にどうもしない。つまんねえから壁に寄りかかってずっと酒呑んでた」
「友達は?」
「最前列に陣取ってギャーギャー騒いでたな。何がいいのか俺にはさっぱり判らなかったけど」
目を閉じてグラスの酒を飲み干す。その時もこんな風にして酒を呑んでいたのだろうか。
「それ、いつ頃の話?」
「確か二年半前の秋だったから十七か」
飲み込もうとしていた酒が食道ではなく気管支に入った。激しく噎せる。
「おいおい、大丈夫かよ」
ウォッカが背中を擦る。緊張したりドギマギしたり硬くなったりしても良さそうなものだが、良くも悪くも自然、いや普通だった。
「って事は、あんた今二十歳?」
「そういやそうだったかもな。確か、そうだ先週で二十歳になったんだ」
忘れてた、と言うようにピシャリと額を叩く。
愕然と目を見開いてウォッカを見る。この顔と風貌で成人したばかり? 浴びるほど酒を呑んでも酔う兆しすらなく、真っ昼間から堂々と喧嘩を売って豪快にぶちのめすようなタフな神経の持ち主が二十歳そこそこなんてとても信じられなかった。ああいう修羅場で止めに入る度胸のある人間はまずいない。いたとしても、心臓はやぐら太鼓を乱打するように早鐘を打つか、ビビって満足に立つ事すらままならないかのどちらかだ。こいつは何をしていたかと思えば、馬鹿者を店から放り出した後には律儀に手を合わせて頂きますをしていた。それに、あの時いつウォッカが椅子から立ち上がったのか、イリナは全く判らなかった。禿げ兵士の背後に立った時の立ち振舞い、全く動じない落ち着きよう、それを可能にする経験を間違いなく積んで来ている。それも二十歳そこそこで。一体これまでどんな生活を送っていたのだろうか。
イリナもミリアムも、アリスには及ばないにしても格闘技は身に付けている。単に体育で必修科目に含まれているだけなのだが、それでも大人が二、三人束になってかかって来ても軽く叩き伏せられるくらいの力量は備えている。その上でイリナは剣術を、ミリアムは槍術を学び、アリスは(本人曰く、余計な事はせずに)格闘術一本に絞っている。勉強も嫌いではないが、そちらより性に合っていた。だからここまでのめり込めたのだろう。
酔いが回った頭で昼間の出来事を冷静に反芻する。ビビらず動じず、飾らない。いや、飾るだけのものもないし発想そのものがない。我が道を行きつつも最低限の礼儀と冗談を言うくらいの余裕もある。
色んな意味で普通とは明らかに違う。二十歳そこそこと言われてはいそうですかと納得出来る人間が果たしてどれだけいるだろうか。
「そんなに驚く事かな。歳相応だろ」
「何処がよ。こんな老けた二十歳が他にいたら見てみたいもんだわ」
「酷ぇ言われようだな」
当然本気で口にしている言葉ではないが、人によってはそれに腹を立てる場合もある。だから安易にそういう事は口にしない。商売柄と言うより、それ以前の問題だ。
呑みの席でなら多少の無礼講も大目に見られる事もあるだろう。それを前提にした上で言葉を振る場合もある。それが判らない相手は正直絡みづらい。当たり障りのない言葉で片付ければそれでいいのだろうが、それではつまらない。こういう場ならば特に。
「私と一つしか違わないなんてとても信じられないわ」
「え? って事は今年で二十一か」
「十九よ!」
どうして一つ上になるのか。この男より年上に見られたらショックでそれこそしばらく立ち直れない。
「ま、歳相応なんじゃない?」
「ありがとう」
喜んでいいのかどうか何秒か真剣に迷った。上に見られた事は絶対に納得出来ないが。
「あんたも、随分老けた二十歳ってよく言われない?」
「ついこの間なったばっかりだぜ? それに、その間誰も俺が二十歳なったなんて知らねえしな」
言い返そうとして言葉に詰まる。まともに抗弁出来ない悔しさよりも、これだけ呑んでいても簡単な理屈ならすぐに捻り出せる事に少し驚いた。単に口が上手いだけかも知れないが。
「いや、単純に老けてるって言われない?」
「言われない」
即座に否定したが目元が微妙に引きつっていた。図星だな。当然だろう。この顔で、この雰囲気で歳相応なら世の中の二十歳は一体どうなってしまうのか。どうにかなるかならないかは別にしても、立場がなくなる事は確かだった。
「多分、と言うか間違いなくあなたの年齢聞いたら絶対皆驚くわよ」
「そんな下らない事断言すんなよ」
「だって、流石に四十とまでは言わないけど、三十半ばは間違いなく過ぎてるように見えたわよ」
「そんな歳な訳ねえだろ。じゃ三十過ぎたら見た目は六十過ぎか」
「有り得ない話じゃないと思うけど」
露骨に顔をしかめた。案外気にしているのかも知れない。少し弄りすぎたかな。少し反省しかけた時、
「ま、別に見てくれなんてどうでもいいんだけどな」
本当にどうでも良さそうに言った。強がっているようには見えない。だったらさっき見せた反応は一体何だったのか。
本当に、何を考えているのかさっぱり判らない。
「で」
グラスの酒を少しだけ口に含むと、ウォッカは頬杖を突いてイリナを見た。
「イリナが十九ってのは判ったけど、他の二人は?」
「三人よ」
捲り過ぎたページを元に戻すようにサラリと訂正した。
「三人?」
「さっきまで皆と盛り上がってたから挨拶しずらかったんじゃない? その後は後片付けもあったし」
「えっと、一番上がイリナで」
「二番目がミリアム。さっきカティの部屋で会ったわよね」
「歳は?」
「私の一つ下。皆年子だから」
「年子で四人かよ。あの奥さん見掛けに依らずやるなあ」
「何よ、その見掛けに依らずって」
苦笑したイリナに釣られるようにしてウォッカも笑った。
「俺には結構おっとりしてるように見えたからなあ。誰かと違って落ち着いてるし」
チラリとイリナを横目で見る。目元が笑っていた。
「誰が落ち着きがないって?」
「ま、ああいう状況じゃ仕方ないか」
膨れそうになった頬を少しつねって無理矢理ごまかす。会って半日しか経っていないのにこういう冗談を口に出来る。それに不自然さも違和感もなく、普通に受け入れられる事に内心で驚いていた。今もそうだ。まるで旧知の仲のように酒を酌み交わしている。イリナ自身、今日の昼に会った事をついさっきまで忘れていた。酒のせいで記憶があやふやになった影響も否めないけど、この男には場の雰囲気にすんなり溶け込める何かがある。だから隣に座っていても何の違和感もないし、話していて硬くなるなんて事もない。
不思議な男だった。
「ミリアムのすぐ下がアリス。見かけてるかも知れないけど」
「どんな子?」
「髪が長くてその上量も豊富で、それをポニーテールにしてる」
下ろしていた髪を頭の後ろで束ねて見せた。イリナも結構長い方だがアリスには及ばない。 長い上にあれだけ量があると見ていて非常に暑苦しい。それに手入れも大変だ。乾かすだけで優に一時間はかかる。それでもアリスが髪を切る事はない。
想いが届けばいいのだが。思う事はあっても口にした事はなかった。好いた惚れたは人の自由だし、それに応えるかどうかも本人次第だ。強制する権利などない。だから、こうして必死に努力している。姉として、そんな妹を陰ながら応援しようと思う。飽くまで陰ながらだし、応援するだけだ。実質的に何もしていないのと変わらない。知ったら怒るだろうな。元々言う気もないが。
グラスに僅かに残っていた酒を喉の置くに流し込む。流石に少し苦しくなって来た。
「あの子の事だから、きっとあなたに色々話を聞きに来るわよ」
ウォッカは首を傾げた。どんな話を聞きに来るのか検討もつかないからだろう。
「あの子、格闘技習ってるから」
驚いたように目を丸くした。何処と無く歓迎するような雰囲気だった。
「ま、格闘技なら一応全員やってるんだけどね。単に体育で必修ってだけなんだけど」
「イリナはそれ以外にもやってるんだろ?」
「どうしてそう思うの?」
最後の一口になった野菜炒めを口に運ぶと、ウォッカは酒で舌を湿らせる。
「昼間ここに来た時、結構興味津々って顔で腰に釣ってた奴見てたからな」
驚いてウォッカを見る。ようやく酔いが回って来たのか、単に眠いだけなのか、半分閉じかけた目でぼんやりと前を見たまま欠伸をしていた。
「判った?」
「あれだけジッと見てれば気付くさ」
そんなにジッと見ていた記憶はない。時間にすればホンの数秒だ。食事の事で頭がいっぱいだと思っていたが、意外に視野が広いのかも知れない。いや、観察力と言った方が正確か。
「で、イリナは剣か」
「ミリアムは槍。アリスは格闘技を専門にやってる」
「生まれる時代を間違えたんじゃないのか?」
よく言われる事だ。幼い頃から何度聞いたか判らない。男子と喧嘩になっても負けた事など一度もなかったし、そもそも普通の女の子は男相手に殴り合うような喧嘩などまずしない。
格闘技と剣術を学ぶようになってからは具体的な技術が身に付いたお陰で格段に腕が上がった。上達して来た事が肌で感じられるようになると、「もっと強くなりたい」と言う欲が胸の中で更に大きく膨らむようになった。勉強そっちのけで熱中していた時期もあった。学校を卒業した今でも憂さ晴らしにちょくちょく顔を覗かせる。師匠には歓迎されても大抵の後輩には苦笑いされるが。
もし、あと二十年早く生まれていたら、たとえ女であっても戦場に駆り出されていたのだろうか。稽古ではなく、誰かを殺すために剣を振るう。想像するといつも背筋に怖気が走る。もっとも、そうなる前に父に間違いなく止められているだろうが。
「そう言うあんたこそどうなのよ。多少なりとも腕に覚えはあるんでしょ」
「護身術程度だよ」
「何が護身術よ。武術の心得がないと普通あんな事出来ないわ」
「掴んで放り投げて蹴飛ばしただけだぜ? 度胸があれば誰にでも出来るよ」
「その度胸がまずないの」
「そうなの?」
ピンと来ないのか、ボケているだけなのか、焦点のずれた目を宙に泳がせる。
「それに、大の大人の男を片手で持ち上げる腕力なんてまずないわよ」
「ガキの頃から腕っぷしだけは強くてね」
「どういう子供よ」
「大人相手に腕相撲してテーブルごと引っ繰り返すとかはざらにあったけど」
こいつが言うと冗談に聞こえない。テーブルは引っ繰り返すを通り越して叩き割っていそうな気さえしてしまう。だとしたら一体どれほどの馬鹿力なのか。
「あんたの話は当然アリスも知ってるでしょうから、恐らく会うなりその事について聞かれるんじゃない?」
「話して聞かせるほど御大層な事をした記憶もないんだけどなあ」
困った顔をしてガリガリと頭を掻く。フケが落ちてこなくてちょっと安心した。
「そのうち手合わせ願いたいとか言われそうだな」
「そうなるかもよ。あの子、人の三倍くらい血の気が多いから」
「そりゃいい。期待して待つとしようか」
グラスをテーブルに置くと大きく伸びをする。満更でもなさそうだった。
瓶を傾けて中身をグラスに注ぐ。最後の一滴まで搾り取った瓶をテーブルの真ん中に寄せた。既に空瓶が何本か転がっている。さっきまでは空瓶が山になっていたが、ウォッカが潰れた客を部屋に運んでいる間に片付けたのだ。一人で呑み始めてからたった数十分で数本の酒を空にしている事になる。溜め息も出ない。
「じゃ、そろそろ終わりにするかな」
ようやく席を立った。あれだけ食べたのに、お腹が膨れた様子もない。消えたのだとすれば、物理的な法則を完全に無視している。
「これ、もらってくぜ」
いいかい? 断るようにこちらを見る。手を差し出すと本当に嬉しそうに笑った。まだ栓を開けていない酒瓶を手元に置くと財布を開いた。鷲掴みにした硬貨を無造作にテーブルに置いた。
「これだけあれば足りるだろ」
思わずギョッとした。全て金貨だった。料理も酒もかなりの量がウォッカの胃袋に消えたけど、それを十分に補って余りある額だった。
「多いくらいよ。こんなにもらえないわ」
「まだしばらくは世話になるだろうから、先に渡しておくよ。大丈夫、いるったって二、三日だしそんなに長居はしないから」
だといいけど。一人で団体客並みに飲み食いされた日にはいくら食材があっても足りない。
「二、三日って、あんた今この街がどういう状況か判ってるでしょ? あんな派手な事やらかしてるんだから、もう絶対奴らに目をつけられてる。それにこの現状を外に知られたらあいつらだってただじゃ済まない」
「潰しに来る、って事だろ?」
瓶の口から少し飛び出していたコルクを親指と人差し指ですっぽりと包み込んだ。回しながらゆっくりと引いて行く。
嘘。冗談でしょ?
ポン、という軽い音を立てて栓が抜かれた。グラスに注ぐ事はせず、そのまま煽った。
「ま、何とかするさ」
唇の端から垂れた酒を手の甲で拭う。
「迷惑はかけねえよ」
そのまま酒瓶を持って食堂から出て行く。出る間際、こちらに背中を向けたままごちそう様、と軽く手を上げた。
どう応えるか考えたがまとまらなかった。ウォッカがそうしたように軽く手を上げて笑った。
足音だけがゆっくりと食堂から遠ざかって行く。完全に聞こえなくなってふと目の前に視線を戻すと、さっきまで料理が盛られた皿が何枚か取り残されるようにして置かれていた。家族連れや友人と連れ立って来た客ならまだ判るけど、明らかに一人で食べ切れる量ではない。明日の朝には数時間前にこれだけ食べた事などすっかり忘れて当たり前のように食事を取るのだろうか。考えたら目眩がして来た。まだそこまで酔っていないが、軽い吐き気を覚えた。
グラスに僅かに残っている酒を舐めるようにして呑む。もうガブガブは呑めない。唇に宛がったグラスを軽く傾ける。
「随分盛り上がってたな」
振り返ると父がいた。疲れたと言うより、眠そうな顔をしていた。
「みんなは?」
「もう寝てるよ。起きてるのは俺とイリナと、それと」
「ウォッカだけ」
父は腕を組んだまま無言で頷いた。ゆっくりテーブルを見回すと肩を上下させて溜め息を吐いた。
「どういう胃袋の持ち主なのかな」
「普通じゃない事は確かね」
「明日は朝から買い出しに行くようだな」
イリナは思わず苦笑いした。これを見たら誰だってこんな顔をしたくなる。
「私も行こうか?」
「そうだな。明日の朝の仕事の進捗状況を見てから考えるか」
妥当な見解だろう。さっさと朝の仕事を片付けた上で出掛ける。店が開店する前に家を出る仕度が整っているのが理想だ。つまり、さっさと寝ろという事になる。今日は朝から動き通しでかなり疲れている。夜更かしする気など更々ない。
グラスに僅かに残っていた酒を口に含むと言うよりそのまま喉に落とした。最後に残しておいたベーコンの切れ端を口に放り込むと椅子から立ち上がる。
「ごちそうさま」
皿を持って厨房に向かうと、父がテーブルに残っていた皿を手に取ってついてくる。
「別にいいよ。これくらい一人でやれるから」
「お前も、結構呑んでたぞ」
「あれくらい、呑んだうちにも入らないわよ」
持っていた皿を一旦カウンターに置くと、代わりに隅で四角く畳まれていた布巾を掴む。
父がテーブルの前に立ったまま首を横に振っている。何も言わずに右手を差し出した。その布巾を貸せ、という事だろう。そのまま渡すのも癪な気がした。投げて寄越すと同時に手近なテーブルに転がっていた布巾を手に取る。
「あれだけ食ってよく動けるな」
「ウォッカほどじゃないでしょ」
苦しげに喉を鳴らして笑う父を見て、イリナも思わず苦笑した。あれだけ呑んで食ってどうして普通に動けるのか。それに、あの様子から察するにまだ満腹ではないのだろう。呆れ果てて言葉も出ない。旅の最中はここまで食べられないから今は抑えていたタガが外れてしまっているという事は容易に想像出来る。それにしても食い過ぎだ。
でも、楽しかった。初対面の相手とこれだけ腹を割って話せた事など、これまで一度もない。そうあって欲しい相手も、今は手の届く所にはいない。戻って来たら……。そこまで考えて視線を落とす。あいつがこのくらいでへばる訳がない。きっと、バカみたいに明るい顔して帰って来る。そう思う事にした。
「どうした?」
「どうしたって、別に何でもないけど」
「横顔に哀愁が漂ってたぞ」
慌てて両手で顔を覆う。どんな顔をしていたかは判らないが、それでも誰にも見られたくないような顔をしていた事は間違いない。そんな表情を晒すなんて、確かに父の言う通り酔っているのだろう。認めたくはないが。
「明日もゆっくり寝れないかと思うと少し憂鬱でさ」
「たまにはゆっくり寝ててもいいんだぞ」
「本気にしないでよ」
丸めた布巾を右手に握ると間仕切りから厨房の棚の上に置いた。皿も同様に厨房へ移す。
「父さんこそ、もう寝て。一番動いてるんだから」
「そうする」
あっさり従った。ちょっと肩透かしを食らったような気分だが、そうしてくれた方が助かる事も確かなのだ。自分のペースで進められるし、出来る事ならこれ以上父に負担はかけたくない。食器も厄介事も、後始末は自分でつける。
外したエプロンをハンガーにかけて壁のフックにかける。父、母、イリナ、ミリアム、アリス、カティの順で並んでいる。汚れが目立たないように黒で統一しているが、それでも皆のものと比べると父のはシワが寄り汚れも浮いている。来ている本人もそうだが、エプロンも十分に働いている。汚れた事を恥じるのではなく、逆にそれを誇らしく感じているように見えた。普段使っているものには、愛着と変わらないくらいの意地もある。たまには労ってやらないとな。
コップを置く音が背後で聞こえた。
「おやすみ」
振り向くと、背中を向けた父が手を振っていた。
「おやすみ」
イリナは首を捻って手を上げた。頬を汗が一筋伝う。
食器洗い用の布切れに石鹸を塗りつける。少しだけ水をかけてから揉み込んで空気を含ませる。でも、皿を握る手に力が入らない。顔を俯けるとそのまま瞼が塞がりそうになる。流石に少し呑み過ぎたか、とも思ったが、本腰を入れて呑む時の量に比べればその半分にも満たない。でもいつもに比べると体が重い。
色んな意味で疲れた一日だった。でもそれ以上に楽しくもあった。変化が刺激をもたらすのだとしたら、ウォッカの来訪は変化の一つであると同時に大きな刺激にもなっていた。明日は何をするのか知らないが、出来る事ならもう少し大人しくしてくれると助かる。少なくとも、昼間のような騒動は勘弁願いたい。とも言ってられないだろうなと言う思いもある。ウォッカの存在は当然奴らも既に把握しているはずだ。今後何かしらの形で接触してくる恐れは十分ある。緊張感など欠片もないあの男にそんな事を要求する事自体が既に間違っているのかも知れないが。
体が少しずつ熱を帯びて来た。全身がその熱に覆い尽くされる寝た方がいいのは間違いなかった。気合いを入れて皿を握る。吹き出た汗が、額を伝って流しに落ちた。やたら大きな欠伸が口から零れ落ちた。
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