第7話 一日目 ~夜~ その四
釜戸から上がる火が鍋の底を舐めるように覆っている。昔はこんな風に燃える火を見るだけで怖かったけど、それがいつの事なのかもう思い出す事も出来なかった。何れにしても、それが体に染み付くと昔の感覚すら忘れる。逆にそれを怖いと感じるようになったのは本当につい最近の事だった。
満遍なく片栗粉が絡んだ野菜炒めを皿に移す。棚の上に置くよりも早く、アリスが伝票を黙ってこちらに突き出す。
「残りは?」
「あと六品。今のところは、だけど」
「了解」
手を上げるとすぐさま踵を返して厨房に戻る。油を売っている暇はない。
「残り六つ。気合い入れて行きましょ」
「了解」
フライパンを持つ手は止めず、ミリアムは淡々と応えた。父は木杓子にまとわりついた野菜を鍋の縁に叩きつけて落としていた。イリナもエプロンを結び直すと伝票を置いてまな板の前に立つ。
今上がっている注文は今のうちに片付けておきたい。誰もが考えている事だ。普段ならば多少注文が残っていてもそれほど気に留める事もないが今日は少し事情が違う。ミリアムも彼が食事を取る様子を直接目の当たりにした訳ではないけど、さっき父が買って来た食材を調理している事に改めて思い到って目付きが変わった。昨日買い置きしたはずの食材が跡形もなく消えていたら誰でも目を疑うに決まっている。しかも、その殆どが一人の胃に収まったのだとしたら、顔色を無くすのも無理からぬ話だ。
それがこれからまた飯を食いに来るのだ。その上酒まで入ると来れば、鍋を握る手にも自然と力もこもる。
厨房に戻った時、父はちょっと剥れた顔でこちらを睨んだけど、その後は何も言わず黙々と手を動かし続けていた。母は母でそんな父の様子を気に留める素振りもなく、出来上がった料理の提供をアリスだけに任せる事もせず、かと言って厨房での作業を疎かにする事もなく、全体を満遍なくフォローしていた。いつも通りだ。
「これ、頼むな」
焼き上がった鶏肉を皿に移してお盆に載せる。流石に疲れたのか声にいつもより若干力がなかったけど、どちらかと言うとそれは疲れたと言うよりウンザリしているように聞こえた。
「こっちも上がり」
鍋から器にスープを入れながらミリアムが言った。受け取った皿を間仕切りから顔を覗かせていた母に直接渡す。
「これで取り敢えず一区切りついたでしょ。少し休もうか」
誰も首を横に振らなかった。水差しの水をコップに注ぐと父の前に置く。礼の代わりに、父は軽く手を上げた。皆は黙ってカウンターの内側に移動すると 散らばっていた椅子を引き寄せて適当に座る。母の口から漏れ出た溜め息がやたらと長い尾を引いて消えた。
「今日はみんな随分機嫌がいいのね」
ミリアムはコップの水で舌を湿らせた。ここにいると客の談笑する声が直接耳に入るせいで相当にうるさいが、決して大声ではないのにミリアムの声はよく通る。
「昼間な彼があいつらを派手にぶちのめしたから、普段よりいくらか気分がいいんだろうな」
目の前で見ていたのに、まるで他人事のように父は言った。
「出来る事なら、蹴飛ばした瞬間をもっと間近で見たかったけどな」
背後にいたからよく見えなかったに違いない。普段あれだけ威張り腐っている連中が無様に泣き叫ぶ様を目の当たりにすれば溜飲も多少は下がると言うものだ。だから、皆もこれだけ盛り上がっている。完全に伸びていたあいつらの頭を蹴飛ばしてやれなかったのが若干数悔やまれるけど、ウォッカがいれば今後そういう機会にも恵まれるかも知れない。ま、伸びてなくても本気で怒ればそれ以上の事をするだろうが。
「なあダン、昼間の兄ちゃんはまだ寝てるのかい?」
馴染みの酔っ払いがカウンターに寄り掛かりながら言った。彼らからして見ればウォッカは渦中の人なのだ。本人には全くそんな自覚はないだろうが。
「風呂からは上がってるから、じき来るよ」
「早く呼んで来てくれよ~。話したい事が山ほどあるんだから」
「俺が泊まってる客を呼びに行ける訳ないだろ。いつ飯を食うかなんて彼が決める事だぜ」
「そんな硬い事言うなよ。酒とツマミ奢るって言えば喜んで出てくるだろ」
それはまず間違いない。絶対に大喜びで飛び出して来る。
「そう思っていつもより多めに注文しといたんだけどな」
それでいつもより注文の量が多かったのか。思わず立ち上がってテーブルを見た。まだ半分以上残っている皿でテーブルが埋め尽くされていた。まだ手付かずの料理もいくつかあった。
「今日の客、こんな連中ばっかりらぜ」
自分を指差して偉そうに言った。既に呂律の方がかなり怪しくなっている。まだ八時前だけど、一体どれだけのペースで呑んでいるのか。しかも週の頭から。
来ている客の皆が皆、ウォッカの酒と料理を先に頼んで待っている。本人にも好みはあるだろうが、そんな事は丸っきり眼中にない強引さをどうフォローすればいいのか判らない。勧めて真面目にいりませんと言われたら一体どうするつもりなのだろうか。でもあれに好き嫌いがあるとはとても思えない。激甘のケーキでもそれしかなかったら普通に酒の肴にしそうだった。
この分ならウォッカの注文を取る必要は流石になさそうだった。酒も一通り揃っている。ここに来ればいつでも酒宴が始められるのだ、素直に羨ましい。
あの様子ならば、恐らくウォッカはイリナの意図に気付いているだろう。少なくとも、本当に酒やツマミが運ばれて来るとは考えていないはずだ。
ならば、そろそろ姿を見せてもいい頃合いだった。カティにも話したい気持ちはあるかも知れないけど、そこまで間が持つとは思えない。況してや今日会ったばかりだ、共通の趣味や話題もない二人の会話がそこまで盛り上がるとは考えづらい。話す意思はあっても気持ちばかりが先に急いで空回りするのがオチだ。それに気付いて彼が何処までフォローしてくれるか判らないけど、そこまで求めるのは明らかに酷だろう。無理矢理付き合わせた事に関して言えば素直に申し訳ないと思うがそのきっかけを作ったのはウォッカなのだ、彼にもその責の一端をを担う義務はある、と言う事にしておこう。これを聞いたら、全うな感覚の持ち主ならばまず間違いなく怒る。だがあれの場合は笑うだろうな、と呑気に考える。女に理屈は通用しない。
廊下を歩く足音が聞こえて来たのは丁度そんな時だった。隠れんぼで物陰から鬼の様子を窺うようにして、ひょっこり覗かせた首を左右に振る。
「やっと来た」
驚いたように目を丸くしたウォッカが自分を指差す。促すように手招きすると困ったように頭を掻いた。そんなウォッカの背中を誰かが押している。カティだった。
「皆さん、お待ちかねですよ」
振り向いたウォッカに、カティは花が綻ぶように笑った。どうして最初からこういう笑顔を見せられないのか。ま、さっきまで腰を据えていた仏頂面は何処かに置き忘れて来たように跡形もないし、取り敢えず良しとしよう。
「ささ、座ってくれ」
食堂に現れたウォッカを全員が割れんばかりの拍手喝采で迎える。当の本人だけが事態を飲み込めていない。照れたり恐縮したりと言うより、失態を詫びるように顎を突き出すようにして何度も頭を下げながら椅子に近付いていく。印象として堂々とは程遠く、明らかに卑屈だった。
真ん中の椅子に半ば強引に座らされたウォッカの前に、ミリアムがタイミング良くグラスを置く。
「兄ちゃん、酒は呑めるだろ?」
呑めて当然、いや呑める事を前提にした聞き方だった。ここまで強引だとかける言葉すら見つからない。
「ええまあ。人並み程度に」
「そうか、なら問題ないな」
すぐさまウォッカのグラスに並々と酒が注がれる。
「兄ちゃん、乾杯の音頭取ってくれ」
酔っ払いの筆頭がウォッカの肩をピシャリと叩いた。
「え? 余所者の俺がそんな事していいんですか?」
「何言ってんだい、今日はあんたが主役なんだからビシッと決めてくれよ」
一体いつから主役になったと言うのか。訳も判らず一方的に神輿を担がれているけど座の空気に慣れたのかあれこれ考えるのを止めただけなのか、一つ咳払いしたウォッカは椅子を引いて立ち上がると、実に堂に入った雰囲気でカウンターを含めた食堂全体をゆっくりと見回す。その場にいる全員がその一挙一動を見守っている。見ると、父が空のグラスに酒を注いでいた。縁から溢れそうになった酒を猫のように舌で舐めとる。眠そうな目をした父はウォッカを見たままこちらにボトルを差し出した。
「ありがと」
父はチラリとこちらを見ると、小さく笑った。三本の指で掴んだグラスをゆっくりと揺らす。乾杯を待ちわびているようだった。グラスを胸の高さまで持ち上げ、カウンターの向こう側にいるウォッカを見る。こっちは準備万端なんだから。いい加減さっさと始めてよ。カウンターの中の視線に気付いているかどうかは判らない。でも、客席側にもこう思っている輩はいるはずだ。さっさと始めろ、と。ここで呑気に「本日はお日柄も良く……」なんて言い出した日には一体どうしてくれよう。すぐさま正座させて小一時間説教しても足りないくらいだ。
「どういう経緯で俺が今この場にいるのか不明な点も多々ありますが、乾杯の音頭と言う大役を授かった以上、全身全霊を以て全うしたいと思います」
改めるべき点も部分的にはあるが、取り敢えず概ねは及第点だろう。今日契りを結びますとか抜かしたら鼻っ柱に膝蹴りは必須だが。だとしたら、そもそも相手は誰なんだ。
「皆様が素晴らしい気分で酒が呑めるこの瞬間に感謝して、」
乾杯! グラスを持った右手を高々と掲げる。その場にいる全員がそれに倣った。その後はグラスがぶつかる音がそこかしこから立て続けに聞こえる。父はコップを差し出すとイリナのグラスにコツンとぶつける。縁から溢れた酒を今度はイリナが舐めた。口の中が少し熱くなっただけだった。唇をつけたコップを一気に傾ける。舌を通り過ぎ喉から胃に吸い込まれるように落ちると、体の中が火を灯したように熱くなる。吐き出した息は随分と長かった。今日一日の疲れを吐き出すにはまだまだ足りないが。父は一息でコップを空にしてしまった。
「さてと」
立ち上がると、父は空になったコップを持って厨房に歩いて行く。
「俺らも飯にするか」
「そうね」
母も父の後に続く。
半分くらい酒の残ったグラスを軽く回しながら客席を見る。椅子に座った、もとい座らされたウォッカの周りに人が群がっていた。好みもロクに確認せず既に注文していた料理を次々とウォッカの前に並べる。本人も食べるなら出来立てがいいだろうに、そんな事すらお構い無しだった。早々にグラスを空にしたウォッカは目の前に置かれたポークソテーに早速フォークを突き刺す。切り終える頃には空だったグラスに酒が注がれている。ありがとうございます~とか何とか適当に言いながら、二杯目もあっという間に空にした。肉を口に放り込んでしばらく咀嚼する。紙を丸めるように顔がクシャクシャになった。「美味い!」という言葉がその後に続く。思わず頬が綻んだ。やっぱり何度聞いても清々しい。肉の他、サラダに魚に煮物焼き物何でもござれと言わんばかりの様相だった。いくら底無し胃袋とは言え、これだけあれば充分だろう。と思う事にした。何事もなかったように綺麗に平らげて追加で注文を頼みそうな気がしないでもないけど。少なくとも、料理がまだ残っているのに追加するような真似はしないだろう。父の言う通り、食事を済ませるなら今しかない。これを逃したら絶対に晩御飯にはありつけない。
グラスに残っていた酒を一気に飲み干して立ち上がる。
「まだ少し休んでればいいのに」
駆け寄ったカティが横からイリナを覗き込む。
「足元が少しフラフラしてるよ」
「高々グラス一杯で酔う訳ないでしょ」
からかっている事は明らかだった。この大きさなら、十杯呑んでも足に来る事などまずない。
「あんたこそ、彼とはしっかり話せたの?」
横目で睨むと、気勢を削がれて怯むどころか逆に勝ち誇るように胸を張った。親指を立てて器用に片目を瞑る。全く、何を調子に乗ってるんだが。でもまともな会話が出来たのであるならば外野が余計な口を挟む事もない。本人が満足しているならばそれでいい。そんなカティの背後から誰かが突然抱きついた。カティが驚いて声を上げる。こういう事を何の前触れもなくやる輩は一人しかいない。カティにはいい加減慣れろと言いたいところだ。
「昼間、ヤバかったんだって?」
背中越しにカティを覗き込むと、アリスは愛しそうに頬擦りする。
「アリス、くすぐったい」
揉み上げから垂れた髪が当たった頬を掻きながらカティは言った。イリナはイリナ姉、ミリアムはミリー姉と呼ぶけど、昔からアリスだけは名前で呼んでいる。歳が一つしか離れていない分、より身近に感じているのかも知れない。何より、アリス本人もそれを事の他喜んでいた。
「彼に危ないところを助けてもらったんでしょ?」
「うん、まあ」
「コラコラ、どうしてそんなに歯切れが悪いのよ。何かやましい事でもあるの?」
「べ、別に何もないよ」
ねえ? 同意を求められても困るが、ここで下手に首を横に振る訳にも行かない。昼間の一件はともかく、アリスには脱衣所の件は絶対に知られてはならない。母やミリアムが迂闊に話すとも思えないが。
「ま、いいや。後でゆっくり聞かせてね」
カティの頭を撫でると厨房に駆け足で突っ込んで行く。朝から今まで動き続けてどうして全く疲れないのか。元気印もここまで来ると溜め息しか出ない。でも、だからでこそ皆を明るくしてくれる。昔、そう言ったら素直に笑っていた。その時ばかりは思い切り頭を撫でてやった。そしたらもっと嬉しそうな顔で笑った。全く以て単純極まりない。でもそれがアリスのアリスたる所以だった。
「イリナ姉、何か疲れた顔してるけど大丈夫?」
間仕切りから顔を覗かせたアリスがからかうように言った。
「休んでても構わないわよ。結構大変な一日だったみたいだし」
ミリアムがそれに同調する。顔を見合わせた二人は可笑しそうに笑った。朝から夜まで通しで働いた程度で音を上げているようではこの仕事は務まらない。若干張り始めた肩を拳骨で何度か叩きながら厨房に入る。熱したフライパンに胡麻油を垂らした香りがした。腕捲りをすると、手に馴染んだ包丁を持ってまな板の前に立った。
晩御飯の支度が粗方整うと、ミリアムとアリスがカウンターの中に折り畳み式のテーブルを広げた。客席に空きがない場合はこうして中で食事している。もっとも、月曜にここで食事を取るなどこれまで殆どなかったのだが。
皿に盛られた料理をテーブルに並べて行く。水の入ったコップの他に酒瓶が二本と空のグラスが三個揃えて置かれた。席に着くより早く、父が空のグラスに酒を注いだ。
「私も」
瓶をグラスの縁につけると一気に傾けた。手に取って香りを楽しむ。そのまま呑みたい衝動に駆られたが、グッと堪える。まだ全員が席に着いていない。
母が煮物の入った鍋を運んで来た。テーブルに置く直前にカティが鍋敷きを滑り込ませる。立ち上る香りをだけで昇天しそうだった。反射的に胃がキュッと音を立てて締まった気がした。空腹もここまで来るとそろそろ限界だった。母とカティが席に着くホンの数秒が腹立たしいくらいに長く感じる。
「よいしょ」
おっとりと言うよりゆったりとした動作で母は椅子に腰を下ろした。先に椅子に下ろしていたカティが母の前に皿を並べる。
「みんな、席に着いたな」
椅子に深々と腰を据えた父は落とし穴の底から聞こえるような低い声で言った。
「取り敢えず、食べるか」
誰にも異存はなかった。
「頂きます」
下げた頭を上げる頃にはもうグラスを手に取っていた。縁が唇に触れようとした時、父と目が合った。何も言わずにグラスを差し出す。グラス同士が軽くぶつかった瞬間、キンという特徴的な硬い音が響く。一気にグラスを煽った。空きっ腹にアルコールが沁みる。思わず声が出てしまった。
「イリナ姉、オッサンみたい」
隣で煮物と一緒にご飯を掻き込んでいたアリスがボソリと言う。喉元から呑んだ酒が逆流しかけて少し噎せる。
「あんたも呑むようになれば判るわよ」
もっとも、アリスには当分呑ませるつもりはない。以前、戯れに少し呑ませた事があった。酔いが回るまでは徐々にテンションが上がって行き、よく笑ってよく話す。そこまではまだ良かった。酔いが最高潮に達すると手がつけられなくなる。騒ぎ、笑い、そして歌う。誰かに手を上げなくて良かったと胸を撫で下ろしたが、翌朝本人にその時の事を聞いても全く覚えていなかった。呑んだ事すら記憶になかったと知った時は素直に羨むか一発殴るか真剣に迷ったものだ。
グラスの残りを一気に飲み干す。最初の一口目程ではないが、それでも体の芯に火が点いたように熱くなる。空のグラスを差し出すと、すぐさま父が新しい酒を継ぎ足す。
「少しペースが速いんじゃないのか?」
「だったら足す事ないじゃない」
「そうしなかったらせがむだろ?」
酒呑みは酒呑みの嗜好も傾向も理解している。余程無茶をしない限り、それが裏目に出る事がない事も最近知った。何にしても、判ってくれる事は思った以上に有り難い事だった。
「程々にしておきなさいね」
そう言いながら、母はグラスに注いだ酒で舌の先を湿していた。
「ねぇ、お酒ってそんなに美味しいものなの?」
箸を口に運びながら、カティは首を傾げた。あまりいい印象がないのかも知れない。客席からは相変わらずけたたましい馬鹿笑いが聞こえてくる。騒がしいを通り越して騒々しかった。それでも、ウォッカが姿を現した時に比べると若干静けさが増している気もする。本当に、極僅かだけど。
「そうね、お酒自体が私は好きかな。純粋に美味しいし。中には不味いのもあるけどね」
「お酒の何がそんなに美味しいのかよく判らないな。ちょっと呑んでも苦くて辛くて、何か私にはあまり魅力を感じないな」
子供らしい発想だった。疑問を何も考えず素直に口にしただけ、と言ってしまえばそれまでだけど酒の味を理解するにはまだまだ足りないものがある。イリナは酒の味を知らなかった頃の自分を知っている。だからカティの気持ちもよく判る。だがカティは酒の味は全く知らない。経験の差と言ってしまえばそれまでだが、足りないものを補うには何をすべきなのか。決定的に欠けているのはそういう発想だった。想像力と言っていい。
「呑むようになれば判るわよ」
そうとしか言えない。カティは釈然としない表情で首を傾げた。
「向こうで呑んでる人に聞いてみたら少しは判るんじゃない?」
イリナは酒の注がれたグラスをすぐに傾ける事はせず、流すような目で客席を見た。話しているのか、はたまた喧嘩をしているのか判らないくらいデカい声が店中に響いている。騒がしいのが嫌いな人も多いだろうが、イリナはこういう雰囲気が昔から好きだった。確かにうるさいが、こういう喧騒は人がいる事の顕れでもある。誰かが側にいる。たったそれだけなのに、不思議と気持ちが落ち着く。一人で過ごす時も、その時は自分一人でも常に誰かがいる事を心の何処かで感じているような、時折そんな錯覚に陥る事がある。詰まるところ、人が好きなのだろう。そんな、人を楽しませてくれる酒というものもまた好きだった。
父も一気に煽る事こそしないが、いつもより若干ペースが速いように見えた。食後に後片付けがあるから酔い潰れるような事はないだろうが、少し心配になる。
「みんな、今日は本当にお疲れ様」
空になったグラスをテーブルに置くと、父は両手を膝の上に載せた。家族の顔をゆっくりと順繰りに眺める。
「昼に彼が来て、一騒動あったと思ったら彼がカティを助けてくれて、家中の食材を食べ尽くして」
「ひょっとしたら、お酒も全部飲み尽くしちゃうかも知れないわね」
箸を置いた母は客席のウォッカを見遣ると楽しそうに苦笑いした。釣られて客席を見てギョッとした。さっきは横顔しか見なかったが、テーブルには空瓶が既に五、六本転がっている。見ていた先からグラスの縁ギリギリまで酒で満たされたグラスを一息で空にした。そう言えば、さっきからグラスに注いだ酒は当たり前のように一気に飲み干しているが酔いが回る様子もなく、当人は到って呑気に食事を続けている。水を飲むような感覚で酒を呑んでいた。たまに声を上げて笑っているが、酔っ払い特有の馬鹿げた雰囲気は何処にもなく、食事を取り分けたり空のグラスに酒を注いだり、酔いで意識が朦朧としている人を介抱したり、酔うどころかむしろ余裕すら感じられる。グラスを傾けて半分だけ酒を呑むと、器に盛られたサラダを箸で摘まんで口に放り込む。実に楽しそうに食事をしている。
まだウォッカ達が食事しているテーブルには何本が酒瓶がある。普通の人なら十分過ぎるくらいの量だけど、ウォッカを前にすると心許なく思えてしまう。一体どれだけ呑めば酔いが回るのか。
「彼が食事している間にこっちも済まそうな」
父は箸を握り直すと空を見上げて明日の天気を案じる農家のおじさんのようにのんびりと言った。どうしてこんなに悠然としていられるのか判らない。ま、慌てても仕方がないんだけど。
「久し振りに来たお客さんが、まさかこんなに呑んで食べる人なんてね。こっちもしっかり歓迎してあげなきゃ」
アリスは解した鮭をご飯に載せると一気に掻き込みながら言った。もう少し女の子らしい食べ方は出来ないものだろうか。
「たまにはいい事言うじゃない」
隣にいたミリアムはスプーンでスープを音もなく啜る。大して汚れている訳ではないけど、それでも口の周りをナプキンで軽く拭う。並べて見ると対照的な食べ方だった。
「カティも危ないところを助けてもらったんだから、みんなでしっかりお礼しないとね」
ミリアムが笑いかけると、カティは少しだけ顔を赤くして頷いた。
「それにしても、何で彼はこんな辺鄙な所に来たのかしら」
フォークで薄切りにした豚肉を口に運びながら、母は隣の奥さんと世間話でもするようにのんびりと言った。
「明確な目的があって来た訳じゃなさそうだけどな」
呟いた父の言葉に、イリナは 箸を止めた。握っていたグラスを黙って口に運ぶ。
この街を含め、周辺の事情をろくすっぽ把握していない処を見ても、確固たる目的を持ってここに来た訳ではない事は間違いないだろう。となると、単に道を間違えるか何かで全く意図せずここに来た事になる。かなり間抜けな話だった。しかも偶々辿り着いた先が、入る事は出来ても出る事が出来ないような場所なら尚更だ。奴らに知られてしまった以上、こっそり誰かに助けを求める事も事実上不可能になってしまったが、誰もそれ落胆している様子は窺えなかった。仕方がないと思うほど投げ遣りではないにしても、ウォッカの存在に少なからず希望を見出だしているのだろう。帯刀している相手にも一切物怖じせず、大人一人を片手で軽々投げ飛ばし、土手っ腹を突き破るように蹴飛ばして店から叩き出すような男だ。単純に久し振りにこの街に現れた来訪者を歓迎しているだけなのかも知れないけど。
当の本人はこちらの思惑など知る由もなく、と言うより意に介さず陽気に笑いながら酒を呑み、肉にかぶりついている。我が身の不幸を嘆くような様子など最初からないし、緊張感などに到っては何処をどう引っ繰り返しても絶対に出て来ない。明日、いやひょっとしたら今この瞬間にでも奴らが因縁吹っ掛けて襲って来ないとも限らないのだ。そんな風に、みんな奴らに拐われた。絶対に許せないし、許す気もない。だから、ウォッカも絶対にそんな目には遭って欲しくなかった。
少し酔いが回り始めて来たのか、それともようやく疲れが目に見える形で現れて来ただけなのか、気付けば無心で箸を動かし続けていた。時折思い出したようにグラスを傾ける。口元が寂しいと思ってふと前を見ると、皿や器から料理が綺麗に姿を消していた。持ち上げた箸が虚しく空を挟む。
「食べ足りない?」
食器を下げていたミリアムが悪戯っぽく少し首を傾げる。
「それとも呑み足りないとか?」
「両方よ」
瓶に僅かに残っていた酒をグラスに移すと一気に煽った。若干の熱さこそ感じるが、最初の一杯目のような興奮は得られない。呑める状態なら更に体が求める事も事実だ。でも現実がそれを許さない。一線を越えない限り問題はないと思うが、実際のところ今日はかなり疲れている。それは誰しも変わらないはずだが、ここに来て椅子に座った時に溜まっていたものが少し溢れたのかも知れない。 半分塞がりかけていた瞼を指で無理矢理引っ張り上げる。父がグラスに透明の液体を注いだ。
「取り敢えず、これ飲んで少し目を覚ました方がいい」
素直にグラスに傾ける。水だった。アルコールで焼けた粘膜が冷やされる。
「別に寝てなんかいないわよ」
「さっきしばらく意識が飛んでたように見えたけどな」
記憶がないので肯定も否定も出来ない。
「多少は疲れてるのかも知れないわね」
「たまにはそういう日があってもいい」
連日は御免だが。そんな声なき声が聞こえた気がした。
「今日はみんないつも以上に疲れてる。別に誰も責めるような真似なんかしないさ」
「確かに疲れてない、って言ったら嘘になるかな。まあ、それで寝てたかどうかは別にしても、まだ少し食べ足りないのよね」
父は鳩が鳴くように喉を鳴らした。含みのある笑いだった。
「何だったら、もう少し食べるか?」
「食べるかって、まだ残ってるの?」
「これから作るんだよ」
「作るって、誰の?」
父は苦笑いを隠そうともせずに客席を親指で指した。即座に立ち上がって客席を見る。
さっきまで呑んでいた連中のほぼ全員が潰れていた。テーブルに突っ伏す者、背凭れに背中を預ける者、だらしなく床に寝転ぶ者と様々だけど、その誰もが例外なく完全に意識を無くしていた。自分の足で歩く事はおろか、立つ事すらままならないのは明らかだった。
そんな中で、さっきまでと変わらないペースで酒を呑んでいる人物が一人だけいた。ウォッカだった。他の連中が食べ切れなかった料理を大皿に一つひとつ集めている。その間、グラスの酒で喉を潤す事も忘れない。呑み残したグラスの酒(勿論他の人が呑んだものだ)もその過程でしっかり胃袋に収めていく。誰が口を付けたとか誰かの食べ掛けだとか言った事は一切気にならないのだろう。気持ちは判らなくもないけど、人前で堂々と実践する行動力、否勇気はない。食べ残しを全部綺麗に取り集めると、空になった皿や器を片付け始めた。母が慌てて客席に向かう。それはこちらの仕事だ。
「いいんですよ。ゆっくり召し上がってて下さい」
「皆さんお疲れかじゃないかなと思ってね、俺で出来る範囲の事は手伝えたら……」
気持ちは有り難い。だがそれはこちらの領分だ。それに甘える訳にはいかない。
母はニッコリ笑うとウォッカから皿を受け取った。ウォッカは苦笑いしながら頭を掻く。出過ぎた真似だと言う事は流石に承知しているようだ。
「今日ってまだ部屋は空いてるんですよね?」
「ええ、宿泊されるのはあなただけですから」
「そうですか、良かった」
ホッとしたように笑う。何が良かったなのか。
「この人達、空いてる部屋に運んでもいいですか?」
真顔で聞かれて母も一瞬答えに詰まった。たった今、そういう事はこちらの仕事と言った手前、酔っ払いを運ぶのはお願いしますとは言い難いものがある。しかもこちらの方が遥かに重労働だ。いや、完全に酔い潰れた男を女の手で運ぶ事はほぼ不可能に近い。完全に脱力した人間は、それが子供であっても充分重い。それをよく知っている人間の言葉だった。
濡れた手を前掛けで拭いながら父は客席に向かう。母が父と目を合わせた。困ったような、それでいて少し助かったような顔をして笑うと軽く肩を竦める。父も小さく首を傾げて頭を掻いた。こちらに背中を向けているので表情は窺えない。
「お強いんですね、お酒」
「そうですか? こんなもんでしょ」
何がこんなもんなのか。転がっている空瓶全てをウォッカが飲み干した訳ではないのだろうが、それでもその大半が彼の胃袋に収まっている事はまず間違いない。第一、普通の人間は一度の食事で瓶を空ける事などまずない。余程の酒豪でもない限り。それを遥かに超える量を呑み、その上全く酔っていない。少なくとも、表面上それは窺えない。日はともかく、酒はまだまだ宵の口とかふざけた事を普通に言い出しそうで怖い。
「それほど酔っているようにも見えませんし」
「そうですね、まだまだ序の口くらいかな」
母の顔が露骨に引きつった。父も膝が半分折れかけた。倒れそうになった父をウォッカが支える。
「大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫です」
ザルを通り越して奈落の底まで、いやその底さえない。イリナもそのままテーブルに顔面から突っ伏すところだった。
「酒も料理も本当に美味しいんで最高に幸せですよ、有り難うございます」
姿勢を正して頭を下げる。見てくれや雰囲気はともかく、やっぱり根は真面目で礼儀正しい。
「この人達も折角誘って頂いたのにこのままにするのも流石に申し訳ないんで、せめてそこだけでもお手伝いさせちゃくれませんか?」
申し訳なさそうに小指でコリコリ眉毛を掻く。ご馳走してくれた彼らを潰した事に責任を感じているのだろう。全うな感覚だ。
腰に手を当てた父はテーブル全体をゆっくり見回すと観念したように肩を竦めた。
「それじゃあ、お言葉に甘えさせて頂きましょうか」
「助かります」
ウォッカの顔が綻んだ。床に倒れていた一人を横向きに抱き上げると廊下の方へ歩いて行く。廊下の手前で思い出したように「あ」と呟いて振り返った。
「この人達、部屋何処にしましょうか?」
皿を運んでいたミリアムとアリスは顔を見合わせるとクスクス笑った。本来ならばそれを止めないといけないんだけど、イリナもお腹の辺りがムズムズして来た。カティに到っては声を上げて笑っている。
イリナは椅子から立ち上がった。
「私が案内する」
「助かる」
それだけ言うと、ウォッカは躾けの行き届いた飼い犬のようにすぐ後ろをついて来る。ずり落ちないようにもう一度抱き上げる。そもそも、男を抱き上げるのか。おぶればいいだけの話ではないか。何故お姫様抱っこなのか。
そっちの気でもあるのか。
首を捻って後ろを見る。完全に酔い潰れた大人の男を苦もなく担ぎ上げて運んでいる。欠伸こそしているが特別眠そうな様子はなく、足元はふらつく事もせず階段を一段一段正確に上がっていた。
酔い潰れた連中の部屋は二階の空き部屋を宛がった。運びやすい部屋から割り振っていったので、必然的に階段に近い部屋から埋まって行った。イリナが案内したのは最初の一人だけだった。より正確にはウォッカから断られた。曰く、
「近い部屋から埋めてきゃいいだけの話だろ」
その通りだった。深く考えるまでもない。あとは鍵だけ預ければいい。
大の大人を片手で持ち上げて投げ飛ばす男にかかれば完全に潰れた酔っ払いを運ぶ事など造作もないのだろう、十五分もする頃には全員を部屋に寝かせていた。息を弾ませる事もなく、すっかり片付いたテーブルにつくなりグラスの酒を美味そうに煽った。
「隣、いい?」
「どうぞ」
椅子を引いて腰を下ろすと持っていた酒瓶とグラスをテーブルに置く。
「私もいい?」
「断る理由はないな」
お構い無く手酌でグラスに注いだ。この男は絶対にそんな事は気にしない。楽しく呑めればそれでいいのだ。
「どう?」
「頼む」
ウォッカが差し出したグラスに並々と酒を注ぐ。酒で満たされた事を確認すると、どちらからともなくグラスをぶつけた。ウォッカは軽くグラスを持ち上げて揺らすと唇に宛がった。長く、そしてゆっくりと息を吐く。アルコールの匂いが鼻についた。
「それにしても、よく呑むわね」
「そうか?」
「これの何処が人並み程度なのよ」
テーブルの真ん中にはウォッカが飲み干した空瓶が嫌味のようにズラリと並べられている。
「この中であなたが呑んだのはどれくらいなの?」
「はっきりとは覚えてないけど、七割は俺かな」
「もう一回聞いてもいい?」
「どうぞ」
「これの何処が人並み程度なのよ」
グラスの酒をチビチビ舐めながら自分の戦果をまんじりともせず眺めている。
「呑んだ実感が湧かないとか?」
「いや、流石にそれはない」
足に来る事もなく、記憶にも問題はない。そもそも酔っていないのだからこんな事を考える事自体既におかしいのかも知れないが。
「その気になって呑むとこれくらいは普通に行っちゃうんだよな、いつも」
「いつも」
イリナはおうむ返しに聞き返した。ウォッカはグラスの酒を水でも飲むように一気に飲み干した。息は酒臭いが雰囲気は素面そのものだった。
瓶を持って空になったグラスに近付けるとウォッカは手を出して遮った。
「呑みたいのは山々だけど、料理が来るまで待つわ」
その方が酒も料理も思い切り味わえる。そうとでも言うようにニンマリと笑う。心待ちにするようにテーブルを忙しなく指で叩いている。食事に関しては我が出るのか、本当に子供のようだった。
父が料理を作っていた事を今思い出した。イリナの分も用意してくれているはずだが、頭の中からは綺麗に消し飛んでいた。忘れていたのが自分の注文で良かった。客のだったら洒落にもならない。
「よく食べるわね」
こんなに呑んでるのに。一体何処に入るのだろう。早食いに懸賞金がかかっていたら、きっとそれだけで生活出来る。だが、この店では絶対にそんな事はしない。割に合わないからだ。
「食う事は生きる事だ。呑む事も含めてな。だから感謝して食ってるつもりだ」
人が何を思って食事を取るのか、当然イリナにはそんな事は知る由もない。ただ、作っている立場から言わせてもらえれば、残されるのはあまり愉快ではない。無理をしてでも食べろなどと言うつもりはない。でも食べるものがある以上、必ず何かが、誰かがそれに関わっている。それを忘れて欲しくなかった。
ウォッカは食べられる事の有り難みだけでなく、食べられない怖さも同時に知っている。だから、食事が取れるこの瞬間を大切にしている。
決して豊かな時代ではない。金もモノも、誰もが十分に与えられているような事はない。それでも、ここまで生きる事に懸命な人は見た事がなかった。
イリナは壁の掛け時計を見た。短針が十時にかかっている。
「これでラストオーダーだけど、他に何か追加する?」
しばらく考えていたが、ウォッカは首を横に振った。丁度その時、間仕切りから父が顔を覗かせた。皿を片手に持って手招きする。一人で運び切れない量と言う事だろう。あれだけ食べたのに、まだ胃袋に空きがあるという事が既に信じられない。
「待ってて、取って来るから」
「助かる」
立ち上がる間際、グラスに僅かに残っていた酒を一気に空ける。
「お客がそんな事言うもんじゃないわよ」
「昼から食ってばっかで悪いと思ってな」
厨房に向かっていたイリナは体を百八十度反転させた。
「これ、私の分も含まれてるから。だから安心して」
何を安心すべきなのか自分で言っていて判らなくなる。そんな気遣いは不要だと悟ってくれれば有り難いが。
ウォッカは返事をするように手を上げた。空だったイリナのグラスに勝手に酒を注いでいたかと思ったら、いっぱいになったところで相手もいないのに勝手に乾杯していた。
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