第6話 一日目 ~夜~ その参

 釜戸に置いたフライパンからいい案配で湯気が上がり始めて来た。フライパンを軽く回してもう一度油を全体に行き渡らせると同時に刻んだ玉葱を放り込む。木杓子でかき混ぜていると馴染みの客が間仕切りから顔を覗かせた。

「伝票、ここ置いとくぞ」

「助かる」

 馴染みは物珍しそうな顔をしてキョロキョロ厨房を見回す。

「案外狭いんだな」

「逆に広いとやりづらいんだよ。モノを取るにも、移動するにもな」

 成程、と頷く。

「女衆は?」

「ちょっと外してる。すぐ戻るよ」

「その間一人で留守番か」

 大変だな、と他人事のように言う。実際他人事以外の何物でもないのだが、一人で待つ身からしてみれば本当にうんざりだった。何も全員連れだって行く事もなかろうに。思わず出そうになった溜め息を喉元で飲み込む。

「酒はまだ持つかな」

「ボトル二本も置いてくれれば充分だよ」

「足りなくなったらまた声をかけてくれればいい」

「馬鹿言うな。そんなに呑んだら財布が干上がっちまうよ」

 半ばそれを期待しての事だが、それだけ呑まれたら後が面倒な事も確かだ。酔い潰れた人間を運ぶのは生半可な労力ではない。

「ま、程々にな」

 そうするわ、と手を上げて客席に戻って行く。

 フライパンの玉葱が飴色になるまでまだ少し時間がかかる。だが、ダンは構わず豚肉をフライパンに落とした。後は火加減を調整しながら仕上げればいい。ダンは釜戸にあるペダルを軽く踏んだ。元々弱火だった火が、横から吹き込んだ風に煽られて勢いを増す。この繰り返しだ。

 客席がにわかに騒がしくなって来た。団体客が来た訳でも、喧嘩が始まった訳でもない。待ち兼ねたように歓迎する声が聞こえる。やっと帰って来たか。 正直、こっちも帰って来るのを待ち侘びていた。捌き切れない訳ではないが、猫の手も借りたいと言うのが本心だった。

 客席からドタドタと品のない足音が近付いて来た。

「ただいま」

「お帰り」

 肩から提げていた鞄を廊下に放り投げた娘は、入口のすぐ脇にかけてあるエプロンを手に取ると腰に手を回す。顎に滴った汗を手で拭ったのを見たダンは肩から提げていたタオルを娘に手渡した。

「取り敢えず、手と顔を洗いなさい」

「そうする」

 アリスは流しの水で手と顔を洗った。ダンは水差しからコップに水を注ぐとアリスに差し出す。

「ありがと」

「少し休んでからでもいいんだぞ」

「いい、大丈夫」

 全く以て頼もしい応えだった。アリスに限らず、娘達四人は本当によくやってくれている。それが自分達二人の背中を見て来た結果だとしたら、柄にもなくそんな事を考えてちょっと照れ臭くなった。そんな事を言われた試しはないが。

「これ、作っちゃえばいい?」

「いや、それは俺が作る。アリスは食堂を頼む」

 判った、と威勢よく応えて駆け出して行く。と思ったら出入口の前で突然止まった。

「ねえ、ミリー姉は何時頃帰って来た?」

「俺もその頃は出てたからハッキリとは判らないけど、十五分か二十分くらい前じゃないのかな」

 正確には判らない。だが二人が学校を出たのは殆ど同時のハズだから、そう大して変わらない。ダンが買い出しから戻って来たのと入れ違いでライザとミリアムが厨房から出て行った。 それから少なくとも二十分は経っていない。全く、揃いも揃って一体何をやっているのか。

「どうしてそんな事を気にするんだ?」

「いや、まだまだ鍛え方が足りないなってね」

 腕捲りしたアリスは尻まであるポニーテールを結わえ直すと客席へドタドタと走って行った。

 格闘技をたしなんでいるのにどうしてあんなに髪を伸ばすのか。その理由はつい最近知った。あいつらがこの街を根城にしてからだ。尤も、本人から聞いた訳ではない。口止めされた上でミリアムがこっそり教えてくれた。

 そういう想いは胸に秘めておきたいのだろう。身内だからこそ知られたくないのかも知れない。こういう処は年相応の女の子だなあと素直に感じる。

 椅子に座って静かに本でも読んでいればそれなりに絵になる。店に花でも活けていれたらなあとたまに考える事もあるが実践してくれた事は一度としてない。その発想すらない。そういう事は気が付いた誰かが先にやる。出遅れた場合、誰かがやってくれると考えてまず手を付けない。それが繰り返される事でそういう考えそのものが浮かばなくなる。悪循環がアリスから余計に女性らしさを奪っているように思えた。顔立ちはそれこそ人形のようだが、それが持続する事は稀だった。そして、袴に袖を通すと人が変わる。イリナやミリアムも目付きが変わるが、アリスほど劇的ではない。どうしてここまで血の気が多いのか、そして好戦的なのか。まだ小さかった頃、近所の子(同い年の女の子ではなく年上の男の子)を泣かせて何度謝りに行ったか判らない。親の贔屓目でなくても充分可愛い女の子なのに。

 考えるといつも憂鬱になる。ああ、勿体無い。あれで男に相手にされるのだろうか。娘の将来を真剣に案じても、「ウザい」の一言で一蹴されて終わりだ。全く以て救いがない。

 黙っていれば多少男も寄り付くだろうが、この調子では当分無理だろうなと冷静に分析する。ただ男性客からの受けはいいので本人も不満は感じていないかも知れないが。

 それにしても。

 何故ミリアムが帰宅した時間をそこまで気にするのか。とそこまで考えた時、脳裏で当たり前のように閃くものがあった。競争していたのだ。それに勝ちたいがために急いで帰って来たのだろう。歩くのではなく、全力で走って。馬と競争して勝てる訳がない。それに冗談抜きで勝つつもりで、本気で走って帰って来ている。しかも、朝から練習でしごかれた締めに全速力で家まで走って帰れるだけの体力がある。家に着いてからも水を飲んだだけでこれと言った休憩は取っていない。疲れた様子もない。当たり前のように平然と動き続けている。店の手伝いは義務だが、無理はしなくていいと言ってはいる。強がっているのか純粋に疲れていないだけなのか、誰一人として根を上げた事はない。本当はヘトヘトでも、少なくともその様子を家族の前で晒す事はなかった。勿論、これはアリスに限った話ではないが。だが体力に関してはアリスが間違いなく突出していた。そこだけ無駄に抜きん出ていた。

 水洗いしたニンニクの芽を一口大に刻んで行く。釜戸に置いたフライパンに油を落とすと傾けて何度かゆっくりと回す。湯気が上がり始めた頃にニンニクの芽を投げ入れた。油が跳ねる音に紛れるようにして溜め息を吐く。虚弱や軟弱よりかはいくらかマシかも知れない。ただ物事にはほぼ例外なく限度と言うものがある。馬鹿とまでは言わない。だが、姉二人と妹と比較した場合、そちらの方は明らかに劣る。

 情熱を注ぐ配分を絶対に間違えている。どうしてもう少しバランスよく物事をこなせないのか。……単純に、頭を使うのが好きではない、いや嫌いなだけだ。それ以外に理由が見当たらない。体を動かす方がアリスの性に合っているのだろう。その気持ちは判らなくもない。体は動かす事に慣れてしまえば多少疲労が溜まっても惰性で切り抜けられる。一方、頭脳労働はそうは行かない。考えがまとまって、頭の中で浮かんだイメージを具体的な形にしなければ何も始まらない。

 人は易きに流れやすい。早いうちからそれを正すのも親の役目だろう。

「ウィスキー、ボトルで二本追加だって」

 厨房に戻ったアリスは早口にそれだけ言うと、握り締めていた伝票を棚の上に置いた。水切りカゴに立てていたまな板と一緒に包丁を手に取る。

「まさか、バナンじゃないよな」

「ううん、今来た万屋のご主人」

 当然一人で呑み切れる量ではない。キープする事も大いに考えられるが、まだこの時間ならばある程度は空けられる。

「今日はみんな随分機嫌いいね。何かいい事でもあったのかな」

 ボールに山になっていたジャガイモをいくつか手に取ると、細かく刻みながらアリスは言った。

「今日ここに来られたお客さんがあいつらをぶちのめしてな」

「あ、それ知ってる。学校でもその話で持ちきりだったんだよ」

 昼間の出来事が夕方には学校にまで伝わっている。人の口に蓋をするのは容易ではない。

「その人、今日ここに泊まるんでしょ? ね、ね、どんな人なの?」

 年頃の女の子らしく、やはり男の話にはそれなりに敏感なようだ。

「あの馬鹿共を一瞬で叩きのめしちゃったんでしょ? その時ってどんな感じだったの?」

 男そのものよりも、のした事に興味が行く辺りやはり普通の女の子とは明らかに違う。それを、ズレていると言う一言で済ませたくなかった。

「一人の腹を思い切り蹴飛ばしたかと思ったら、もう一人を片手で投げ飛ばした」

「片手で?」

「そう、片手で。投げ飛ばしたと言うより、放り投げたと言った方が正確かな」

 ダンは下手投げの要領でその時の様子を再現する。

「距離にしてどれくらい?」

「家の前から真向かいの家のバルコニーまで、かな」

「嘘でしょ?」

 包丁を握っていた手を止めてアリスは言った。声が裏返っている。黙って頷くと目を大きく見開いた。元々大きい目が更に大きくなる。

「それって凄すぎよ。大の大人を片手で、しかもそれだけの距離を投げ飛ばすなんて有り得ないもん。これは是非とも一度手合わせ願いたいわね」

「腕力があるのは間違いないだろうけど、武道の心得があるかどうかは別だろ」

「そういう事を平然とやれる事自体既に普通じゃないのよ。そういう事に慣れてなければまず動けない。ビビって何も出来ないのが関の山よ」

 流石に実際格闘技を嗜んでいるだけあって、敵と向かい合った瞬間の心理を理解出来ている事に少し感心した。そして、心得がある事と実際に危機に際した時に反応出来るかどうか、そこに大きな隔たりがある事もある程度察している。それは単に格闘技を嗜むと言った水準を超えている事にも繋がる。だとしたら親として非常に嬉しいが、そういう事ばかりに頭が冴えても困るのだ。もっと普通の女の子らしくなってもらわないと。

「後で是非話を聞かせてもらいたいわね」

 いい加減風呂は上がっている頃だろうから、待っていればそのうち食事を取りに来る。それまでにある程度客が捌ければいいのだが。希望的観測は捨てた方が無難だろう。平日だが、今日はかなり盛り上がりそうだ。その波が大きくなる前に戻って来てもらわないと本当に困る事になる。

「全く、何処で呑気に油を売ってるんだか」

 思わず考えていた事が口から出ていた。一人だけ置いてけぼりを食って番を任されたら愚痴の一つも溢したくなる。

「もう戻ってくるわよ。いくらなんでも今がどういう時間かって事くらい知らない訳がないんだしさ」

 熱したフライパンにさっき刻んだジャガイモを入れる。焦げがつかないように素早く木杓子で掻き回す。火は通さないといけないが、強すぎるとジャガイモが崩れてしまう。だから掻き回す時も結構気を遣うのだが、大雑把な性格とは裏腹にそういう点はかなりきめ細かい。指導の賜物なら嬉しいのだが。

「もうしばらくしたら結構忙しくなるだろうけど、これくらいならまだ大丈夫だよ」

 父さんがいるし。目を合わせると無邪気に笑う。年齢に若干不似合いなあどけない笑顔だった。

「それとも、朝から働き通しなのは同じなのに自分一人だけ休憩出来なくてちょっとひがんじゃった?」

 それこそ悪戯小僧のような顔で笑うが、半ば図星だったので言い返せない。苦し紛れに一つ咳払いする。

「晩酌しながらゆっくりさせてもらうさ。その時までお預けにしておくよ」

「じゃ、もう少しだけ頑張ろ。で、皆が戻ったらちょっとだけ休も。ね?」

 私も少し疲れちゃった。ペロリと舌を出す。

 アリスのこういう顔を知っている異性は彼女のクラスに一体何人いるのだろうか。胸の内にあるモヤモヤしたものを思い切り蹴飛ばすように、ダンは火が弱まった釜戸に薪を何本か放り込んだ。



 二人から一通りの話を聞き終えた母は、俯いたまま肩を揺らして笑った。ウォッカはごまかすように苦笑いしながらバサバサになった髪をガリガリ掻いていた。最初こそ顔を背けていたが、雰囲気が和み始めて来るとイリナは微妙に視線を外したまま時折クスクス笑っていた。真っ正面から目を合わせるにはまだ少しバツが悪いのだろう。

「悪気がないのはよく判ったけど、年頃の女性を出迎える格好ではないわね」

 目を閉じたまま、神妙な表情でウォッカは頷いた。

「あなたが良くても、相手がそれを受け入れてくれるかどうかなんて判らないでしょう?」

 面目次第もない、と言う顔で頭を下げる。

「言葉や意思を受け取るならそれに相応しい気持ちや格好で迎えないと、相手に失礼よね?」

 ウォッカは応えなかった。何かを思い出すように、腕を組んだまま身動ぎもしなかった。

「故郷にいた頃、こんな格好で出迎えて、確か思い切りぶっ叩かれました」

 そう言えば。アハハと笑う。

 だったら何故また同じ轍を踏むのか、と思わず突っ込みそうになったがそれすら無駄に違いない。今になって思い出したくらいだから、直後に忘れたのだろう。聞かなくても判る。

「それに、あなたもここに来た時はちゃんと服を着てたでしょう? 表を素っ裸で歩いたらそれこそ大変な事になる訳だし」

 そういう趣味があるなら話は別だが。もしそうならば本日の宿泊は問答無用でお断りするところだ。色んな意味で困る。

 ウォッカは竦めた首を左右に振った。

「あんたは品がなさすぎる。昔女友達に言われました」

 そういう全うな指摘を忘れていた事よりも、この男に女友達がいた事の方が余程驚きだった。一見、いるようにはとても思えない。だが、この得体の知れないウォッカと言う男に少しずつ馴染み始めている自分に気付いて、ミリアムはもっと驚いた。

「もう忘れないように、しっかり胸に留めておきますよ」

「お願いしますね」

 ピシャリと母は言った。ウォッカは下げていた頭を上げた。その拍子に母と目が合う。今度こそ笑った。ごまかすようないい加減さは全くない。思わず気が抜けるような、それでいて不思議と心を和ませるような、そんな笑顔だった。

 母も屈託なく笑った。

 すぐにイリナに向き直る。イリナも姿勢を正して母と向き合った。お互いの視線が真っ正面からぶつかる。どちらもそれを逸らそうとはしなかった。その気配もなかった。

「あんたがやった事自体は決して間違ってない」

 母は静かに言った。同感だった。深呼吸して気持ちを落ち着かせる。心拍数は普段とそう大して変わらない。それを何処まで維持出来るだろうか。

「ただ、今あなたが置かれてる立場をもう少しわきまえた方がいいわね」

 イリナが初めて目を逸らした。それでも、宙に浮いた視線が元に戻るまで差して時間はかからなかった。改めて母と目を合わせると、一つしか歳の違わない姉は力強く頷いた。母は腕を組んだ姿勢で頷き返した。それを歓迎するように、口角が少しだけ上がった。

 母はもう一度ウォッカを見た。

「それに、あなたはそんな悪い人には見えないわ」

 ちょっと変わってるだけで。いや、かなりか。仮にミリアムが男だったとしても、年頃の異性を素っ裸で出迎える勇気も発想もない。当のウォッカは困ったような顔をして頬を掻いている。

「極悪人かも知れませんよ」

「そういう人は端から赤の他人を助けたりなんかしないわ」

 ウォッカは何も言わなかった。座ったまま、黙って母に深々と頭を下げた。やっぱり、悪人には見えなかった。イリナも膝の高さにあるウォッカの後頭部を見て、込み上げる笑いを堪えていた。

「だから、顔を上げて下さい。そんなに恐縮されたら逆にこっちがやりづらいわ」

 促されて、ウォッカはようやく顔を上げた。まだ顔には気まずさの名残りがあるが、いくらかスッキリした顔をしていた。少なくとも、普通に目を合わせて話せる程度には回復している。良かった。ホッと胸を撫で下ろす。人と人を隔てる垣根はないに越した事はない。だから、必要以上に気にして欲しくなかった。

「そろそろこの子も目を覚ましてくれるといいんだけどね」

 イリナはカティの額に手を当てる。余程見事にぶつけたのか、それとも寝ているだけなのか、目を閉じたままの妹を見ているだけでは判らなかった。

「ちょっといいかな」

 前に進み出たウォッカがそっとカティの頭に手を添えた。

「軽い脳震盪だと思うんだけど……」

 置いた手をゆっくりと前後させる。

 ん? 瞼が意図せず上に引っ張り上げられた。今、ウォッカの手が白く光ったように見えた。光るとは言っても、本当に僅かだった。精々コップに注いだ牛乳をバケツの水で薄めたくらいだ。気付いたのは偶々ウォッカの手元を見ていたからだ。夏の夜に蛍が光を放つように、ホンの一瞬だけ淡い光を放ったように見えた。

 顔が上がった拍子に目の前にいたイリナと目が合った。少し茫然としているようにも見えたが、何かを訴えるようにウォッカの手元を目だけで見た。何が起こったのかを正確に把握出来ていないが故の動揺が顕れていた。黙って頷き返す事くらいしか出来ない。

 視界の片隅で何かが動いた。眩しいのか、頻りに目元を手で擦っている。

「やっと起きた」

 椅子に座っていた母が前に身をのり出した。ミリアムは体を起こしたカティの頬に手を当てる。

「気分はどう? 痛くない?」

 カティは黙って首を横に振った。まだ目が焦点を結んでいない。そのまま胸に顔を埋める。幼いなと思う向きもあるが、こういう処は素直に可愛い。思わず抱き寄せる。

「もう痛くない? 大丈夫?」

「うん。もう、大丈夫」

 息継ぎをするように胸元から顔を上げた。目が合った拍子にニッコリ笑う。頭を両手で抱え込んでもう一度抱き寄せた。やっぱり可愛い。アリスも黙っていれば絵になるのだが、あれが大人しくしている事など殆どない。神妙な顔をしてジッとしている様子などついぞ想像も出来ない。真夏に雪が降る方がまだ有り得そうな気がしてしまう。その点、カティは無意味に肩肘を張る事もなく素直に育っている。年は二つしか違わないけど、ある意味それ以上に幼く見えるしそれが故に可愛さもひとしおだった。一つ下の妹に個性としての可愛らしさが欠如している事も要因の一つだけど。

「ホントに、大丈夫かい?」

 椅子から立ち上がったウォッカはカティの前まで来ると膝を折って目線の高さを合わせる。ボーッとしていた目が焦点を結んだ途端にカティは思い切り仰け反った。抱いていなかったらそのまま後ろに引っ繰り返っていたに違いない。何もそこまでビビらんでも良かろうに。

「ど、どうしてあなたが私の部屋にいるのよ」

 すっかり動揺しているカティとは対照的に、ウォッカは困ったような顔をして頬を掻いている。

「カティも少し落ち着きなさい。引っ繰り返ったあなたをわざわざここまで運んで下さったんだから」

 のんびりと嗜める母の言葉を聞いてようやく少しずつ記憶が整理されて来たのか、さっきまで上下していた肩から力が抜けて来た。首の周りに巻き付いていたミリアムの腕をそっとほどいていく。

「あなたが脱衣所に招いてくれた後から記憶がなくて」

 角のある硬い声でカティは言った。イリナは隣で苦笑いしそうになるのを懸命に堪えていた。表情だけ見たら便意を必死に我慢しているようにしか見えないのだが。

「アラレもない格好のままあんたを呼んだのは明らかに彼の落ち度だけど、悪気はホントに全然ないみたいだからそろそろ勘弁してあげてよ」

「そろそろも何も、今気が付いたばっかりなんだけど」

 ベッドに腰を下ろした姿勢のカティはすぐ脇にいるイリナを横目で睨んだ。目を逸らしたイリナは邪魔をする意思がない事を殊更大袈裟にアピールするように両手を上に上げた。

 ウォッカは使う言葉を探しあぐねるように口元を手で覆ったまま黙りこくっている。目を合わせる様子もなかった。単純に気まずいからではなく、これから使う言葉を真剣に探しているようだった。だとしたら粗野な外見とは裏腹に結構慎重なのかも知れない。

 深呼吸するとウォッカは顔を上げた。膝を折っているので、ベッドに座っているカティを若干見上げる形になる。ウォッカはその姿勢で深々と頭を下げた。詫びを入れると言うよりも、主君に忠誠を誓う家臣のように見える。一瞬本当にそういう想像をして吹き出しそうになった。彼がどうしてカティに忠誠を誓うのだろう。

「ごめん。本当に悪かった。まさか突然素っ裸見せられたら普通は誰だってビックリするよな」

 そう、冷静に考えれば。それを人に諭されて気付くか、それとも自分で気付くか。誰かからそういう可能性を提示されても目を背け続ける輩など腐るほどいる。果たして、彼はどんな類いの人間なのだろう。

「すまなかった」

 立ち上がったウォッカは、改めて深く頭を垂れた。下げた頭を上げる事もしない。

 肩越しに首を捻ってカティの様子を窺う。唇を真一文字に結んではいるが、力を抜いたらすぐに解けそうだった。    ここまで素直に頭を下げられたら、意地で突っ張った体から力も抜ける。逆に意地を通そうとする方が余程難しい。難しいと言うよりも、人としての問題だ。だから、こんな怒りたいのか笑いたいのか解らない表情になってしまっている。それを隠せるだけの余裕もない。

「あなたの気持ちも判るけど、彼もこうして頭を下げてる事だし、そろそろ許してあげてもいいんじゃない?」

 立ち上がった母がカティの頭に手を置く。顔がますますおかしな方向に歪んで行く。振り上げた拳のやり場を無くすと言うよりも、意地を張り通した方が明らかに分が悪くなる事を察している、そんな顔だった。

「取り敢えず、顔上げなよ。ね?」

 イリナがウォッカの頭に手を置く。しばらくはまだ顔を下に向けていた。ミリアムが小さく肩を震わせると、カティも仕方なさそうな顔をして笑った。部屋の空気が和やかなものに姿を変えた時、ウォッカはようやく顔を上げた。バツが悪いのか、ぎこちない苦笑いを浮かべている。平然とされても困るけど。

「今、お店は父さん一人だけよね?」

「そうね、アリスがまだ帰ってなければ」

「私はもう上がっていいんだよね? じゃ、ここで一息入れててもいいでしょ?」

 不自然な早口で一気に捲し立てる。腕を組んでいたイリナは観念したように肩を竦めた。

「カティがそう言うんだし、行きましょうか。いつまでも父さん一人に任せてたら可哀想だわ」

 イリナは右手で母の背中をバンと叩いた。空いていた左手で首根っこを掴まれる。そのまま有無を言わさずドアまで引っ張って行く。

「どうしたのよ、突然」

「突然って、これ以上ここで油売ってたら父さんが噴いちゃうわよ」

 驚く母を全く意に介さず部屋の外に追い出した。この時になってようやくイリナの意図に気付いた。そして、カティの真意にも。

 それもそうねと納得している母の脇をすり抜けて部屋から出る。その後ろからそのまま部屋を出ようとしたウォッカの方に向き直った。

「どんなもの食べたい? 支度してる間もう少しここでゆっくりしててよ」

「何なら、好きな酒でも持ってこようか?」

 隣からイリナが助け船を出した。成程、そういう手もあるか。って、さっきからかなり強引だがウォッカもそれに薄々気付き始めたようだった。

 素早くイリナが目で合図する。明らかに何か言おうと中途半端に開きかけていたウォッカの口が不自然に塞がる。間を置かず、そのまま口元に手を置いてしばらく何か考えていた。ただの振りかも知れないが。

「忙がしいと思うから、手が空いたらでいい。適当に頼むわ」

「判った」

 何と適当なやり取りだろうか。ウォッカは何か持ってきてもらう事を全く期待していないし、イリナもイリナで作るつもりは全くない。完璧なポーズだった。だが、今この状況に於いては正に適当だった。

「何してるの? 先に行くわよ」

「そうして」

 イリナは頭の上でヒラヒラ手を振る。注文取る振りをしてるだけだから、とは言わなかった。それに、母には先に下に行ってくれた方が都合がいい。少なくとも、やり取りを聞かれる事はなくなる。

「少しゆっくりして行ってよ」

「じゃ、お言葉に甘えてそうしようかな」

 片目を瞑って見せたイリナに、ウォッカは至って自然に、何より朗らかに応えた。本当に素で言っているならちょっと引く。だが、さっきの反応を見る限りではこちらの意図をある程度察している節がある。そうならば問題ない。寧ろ歓迎したいくらいだった。硬いところもあるが、結構話の判る男なのかも知れない。

 ドアが閉まる間際、ウォッカはこちらにおどけて敬礼して見せた。外しても滑っても盛大に笑ってごまかせる、そういう図々しさを存分に漂わせていた。 こちらが素で引いたとしても意に介さないくらいの図太さは絶対にある。それを理解し難いと思うか羨ましいと感じるかは個人の感性に依るところだろう。思わず吹き出しそうになったのを慌てて堪える。

 板の間を靴が叩く硬い音だけが聞こえる。足早に階下に急ぐイリナの横に立つと、ミリアムは無意識に声を潜めた。

「ねぇ、イリナ」

 姉は目だけこちらに向けた。

「さっきの、見た?」

「さっきのって?」

 ごまかしているのでも、焦らしている訳でもない。さっき見たものが具体的に何なのか、それをこちらに質している。

「彼の手、本当に薄っすらだったけど白く光ったよね」

 階段の途中だったが、イリナは足を止めた。壁に背中を預けてこちらを見る。

「あんたも気付いてたのよね?」

 無言で頷いたミリアムに、イリナは長く息を吐いた。顔を覆った指の隙間からこちらを見る。ちょっと怖い。

「あれ、何かしら」

「さあ、こっちが聞きたいわよ」

 見も蓋もない応えだった。聞かれたところで、イリナもそうとしか応えようがない事も確かなんだけど。

「私が知る訳ないじゃない」

 馬鹿な事聞かないでよ。腕を組んだまま睨み付ける。

「そんなに気になるなら、ウォッカに直接聞いてみたら?」

「どう聞けばいいのよ。あなたの手が光ったように見えたけど、それって何? みたいな風に?」

 イリナは真剣を装って格好つけようとする男子生徒のような顔をして首を傾げた。自分で話を振っておいて明確に応えられない事をごまかしたいだけだろう。

「聞いたところで応えてくれるとは思えないけど」

 どう考えてもその可能性が一番高い。第一、人の手が松明のように光を放つはずがない。真面目にそんな事を聞いたりしたらこっちが怪しまれかねない。

 ただ、確かな事が一つだけある。

「私も、それにイリナも見た。それは間違いないよね」

 ならば、

「目の錯覚、ではないんじゃない?」

 胸を張った言い方とは言い難い。光った事は事実、かも知れない。だがそれに胸を張れるほどの自信は持てない。ま、当たり前か。人の手が光るなど、普通に考えなくても有り得ない。

 だが、それを複数の人間が見間違える事などそうそうある事ではない。だとすると、やはり光った事は間違いないのだろうか。だがそれを確かめる術は今のところない。

 黙る事しか出来なくなるのも判る気がする。刺激された好奇心を満たす手段が手元にない。 抱え続けたら欲求不満になる事はまず間違いない。

「気にはなるけど、外野の私らがあれこれ詮索しても何にもならないわよ」

 そんな事は言われなくても百も承知だった。それでも気にしてしまうのが人情だろう。だから、それを抑えざるを得ない事が確定したのがミリアムには大いに不満だった。

「それより、早く戻らないと父さんにどやされるわよ」

 肩を叩いたイリナは足早に階段をかけ降りていく。ミリアムも黙ったその後に続く。

「それにしても、随分思い切った事するわよね」

「思い切った事?」

 イリナはようやく真面目に首を捻った。

「よく二人きりにしたなあって」

「あの子がそうして、って言うならそうするわよ」

 薪を斧で真っ二つに叩き割るような返答だった。切るものが目の前にあったから思い切り割りました。そう言っているようだった。

「カティはそう考えてるかも知れない。でも、ウォッカはどうなのかしら?」

「確かに、それは本人に直接聞かない限り判らないわね。でも、別に疎まれたり迷惑がられたりはしてないと思うな」

 それを承知した上での行動である事は確かだった。しかし、それを把握出来たとしてもすぐさま行動に移せるものではない。我が姉ながら恐ろしい。とても真似出来るものではない。したくもないが。

「本人だって悪い気はしないでしょ。年頃の若い女と二人きりになれるんだし」

 男の立場から言わせればそうだろう。それは否定しない。

「ただ、もう少し警戒するものがあってもいいと思うけど」

「何言ってるのよ、気付いてた癖に。だったらどうしてあんたは止めなかったの?」

 そう言われると返す言葉がない。止めるどころか、寧ろ進んで協力していた。

 相当変わっているし、正直得体が知れない。ただ流れ者のウォッカを大した疑問もなく信用している事が不思議だった。イリナにしてもまだ会って半日と経っていないのに、ウォッカの存在に違和感も不自然さも抱いていない。ここにいる人の心の中に馬鹿みたいにすんなり入って来た。その上、不思議な居心地の良さまで感じる。

 やっぱり変な人だった。でも、考えていると形にならないおかしさが込み上げてくる。

「でも、何が一番変かって考えた?」

 唐突に切り出されて応えに詰まる。人も性格も変わっているのに、それ以上におかしなものなんて他にあっただろうか。

「何でウォッカなんて名前なのかしら」

 全くだった。


 部屋のドアが半ば強引に閉められると、彼は何をすべきか思案するようにしばらく腕を組んでいたが、妙案でも浮かぶように無意味に機敏な動作で唐突にこちらに向き直った。椅子に腰かけると組んだ膝の上での頬杖を突く。

「面白いね、君のお姉さん」

 正直応えに詰まる。そうですねと素直に認めるのも若干抵抗があるし、逆に面白いですかねと疑問を投げ掛けるには明らかに行動がそれに伴わない。ごまかすように曖昧に笑って首を傾げるのが精々だった。

「妹思いだし」

 本人は至って普通に口にした言葉なのだろう。でも、誰かから突然言われるとちょっとビックリする。実際、姉三人は小さい頃からよく可愛がってくれた。誰かに苛められたと聞けば、いの一番に駆け付けて(大抵はアリスだったけど)助けてくれたし、判らない事は何でも教えてくれた。皆頼りになるし、何より優しかった。それでいて、厳しくもあった。店に積極的に立つようになった今になって、改めてそう思う。店に出る以上、客と接しなければならない。だから中途半端な気持ちでしゃしゃり出て来られては困る。だから、絶対やらなければならない事、絶対やってはならない事をしっかり教えてくれる。キツイ言い方をされる事も日常茶飯事だ。でも、そんな時は後になってから大抵頭を撫でてくれる。無論フォローがない事もあるが、どんな時でも胸の中には必ず何かが残っていた。それが何なのかすぐに判る事もあれば、そうでない事もあった。一緒に過ごしていると、ふとした時それに気付かせてくれる。

 そういう姉を他人の口から唐突に褒められた事が素直に嬉しかった。自分の事を褒められたように頬が赤くなる。

「どうしたの?」

 突然声をかけられて我に返る。首を傾げていた彼と目が合うと、悪戯小僧のような顔で笑った。

「何か、凄ぇ嬉しそうだけど」

 言われた途端、顔を通り越して耳まで真っ赤になっていたのがハッキリ判った。それくらい、急激に体温が上昇した。嬉しいのは勿論だけど、指摘された事がそれ以上に恥ずかしかった。

 何だか無防備な瞬間を盗み見られたような気がして、思わず睨み付けてしまった。ある意味、着替えを覗かれた時よりも恥ずかしかった。

 でも、彼は相変わらず涼しい顔のまま笑い声を上げた。

「さっき怒らせたばっかりなのに、またそんな顔させるなんて失礼な話だよな。いや悪い悪い。あんまり嬉しそうな顔してたもんだから、何でかなと思ってさ」

 ごまかす事もはぐらかす事もしない。どうしてこんなに素直なのか。それが羨ましくもあり、ちょっとだけ妬ましかった。

 さっきとはまた少し違った意味で顔が熱くなる。ここで顔まで背けたらさっきの二の舞になってしまう。折角イリナやミリアムに協力してもらって二人きりになれたのに、下らない意地を張ってそれすら台無しにしたら流石に頭の一発くらいは叩かれそうだった。

 そう、無防備な表情を見られたくらいで怒っている場合ではないのだ。胸に右手を置くと、肩を上下させてゆっくり深呼吸する。ちょっぴり目を丸くした彼が不思議そうな目でこちらを見ている。今になってようやく緊張して来た。ベッドの背凭れから背中を離すと姿勢を正す。

「あの、昼間は危ないところを助けて頂きまして、本当に有り難うございました」

 ベッドに腰をかけた状態で頭を垂れる。この時になって初めて座ったままではなく立ってすべきだった事に気付いた。頭が痛い。耳が熱い。脱衣所での一件といい、どうしてこう抜けているのか。

「別にそんな大袈裟に頭下げたりしなくていいよ、そんな大層な事をした訳じゃないんだから」

 恐る恐る顔を上げると、彼は食事を取っている時のような和やかな顔で手を左右に振っていた。

「そっか、さっきはわざわざそれを伝えに来てくれた訳ね」

 黙って頷くカティに、彼は苦々しく顔をしかめると低く唸り声を上げて頭を掻いた。

「折角礼を言いに来たのに、失礼千万な格好で出迎えちゃった、と」

 その通りだった。ついさっきまではカティもそう思っていた。実際、普通に考えなくても素っ裸で人を出迎える輩など何処を探しても絶対にいない。

 でも。

 こうして接しているうちに、毒気を抜かれてしまった事も確かなのだ。人よりも相当感覚がズレている事は間違いないけど、悪意や下心なんて無粋なものは全くない。問題が全くないとは言わないけど。それでも、彼の人となりを窺い知るには充分だった。

 だから、誰もいない時に、彼に謝りたかった。そうしたかっただけなのに、どうして相手を前にすると素直になれないのだろう。

 カティはベッドから降りると姿勢を正した。重ねた両手を体の前に置き、いつもより更に背筋を伸ばす。

「有り難うございました」

 深く腰を折る。垂れた髪が頬を撫でた。少しくすぐったい。

髪をまさぐるような、頭を掻くような音が上から聞こえる。でもまだ顔は上げられない。

 何かが動くような気配を感じた。閉じていた目を開ける。目の前に彼の顔があった。ビックリして思わず少しだけ仰け反ってしまった。さっきそうしていたように、彼は膝を折った姿勢でこちらを下から覗き込んでいた。目が合うと朗らかに笑う。

「取り敢えず、顔上げようよ」

 声をかけるならまだ判るけど、お辞儀している人の顔を下から覗き込むなんて考えもしなかった。普通、そういう事は絶対にしない。やっぱり何かが違っている。でもそこが何だか面白い。咄嗟に口元を抑えた。彼は遠慮なく笑った。

 立ってから改めて彼を見てみると、迷子になった子供のように膝を抱えて丸くなっていた。昼間の印象には全くない姿だった。大の大人を片手で豪快に投げ飛ばし、蹴飛ばして店から叩き出したような男が膝を抱えて何やってんだ。

 喉元で辛うじて抑えていたものが一気に込み上げてきた。ダメだ、もう我慢出来ない。

 カティは声を上げて笑った。彼はキョトンとした顔でカティを見上げている。鳩が豆鉄砲を食らったと言うより、いつも通り帰宅したら居座っていた強盗にナイフを突き付けられたような、そんなちょっと当惑した顔をしていた。もっとも、彼なら逆に強盗を蹴散らしそうだけど。その表情が何処か間が抜けていてそれがおかしさに余計拍車をかけた。お腹が捩れて痛い。

 悪いなあとは思いつつも、そのまま一分近く笑い続けていた。いつの間にか椅子に腰を下ろした彼は、嬉しそうニコニコしていた。

 両手でお腹を抱えたまま、カティは力尽きるようにしてベッドに座り込んだ。目尻に浮かんだ涙を人差し指で弾く。笑った記憶が全くないなんて事はないけど、涙が出るくらい笑うなんて事はそうそうない。今日偶々店に来たお客がこんなに笑わせてくれるなんて考えもしなかった。単にカティが笑い過ぎているだけかも知れないけど。

「その方がいいよ」

 ようやく翳りが見え始めた笑いに少しだけ残念なものを感じながら、カティは首を傾げた。

「その方って?」

「笑ってる方が、って事」

 彼は笑いながらカティを指差した。カティも反射的にそれに倣う。指摘されて思わず頭を掻いた。確かに、仏頂面を晒すより笑っている方がいいに決まっている。

「何か、やっと笑ってくれたような気がするな」

 言われて思わずハッとするものを感じた。よくよく冷静に思い返すと、彼に見せていたのは仏頂面か膨れっ面だった気がする。さっきはさっきでロクに話す暇もなく引っ繰り返ってしまうし。目が覚めたら覚めたで今度は素っ裸を見せられた事に抗議するばかりで、最初に伝えようとしていた気持ちを思い出すまで随分回り道をしてしまった。お礼を言いに行ったはずなのに、それをなかなか伝えられないばかりか助けてくれた相手に対して腹立たしさ(彼にも非はあるが)まで感じていた。冷静に考えなくても、どちらが失礼か判りそうなものだった。

 でも。

 ここで俯いたらさっきの二の舞だと言う事はすぐに気付いた。笑った方がいい。彼もそう言ってくれたのだから。

カティはもう一度顔を上げた。真っ正面から目を合わせる。今度は頬を膨らませる事も、目を逸らす事もしなかった。椅子に片肘を突いていた彼は白い歯を見せている。そして、はたと気付いた。目を合わせたまではいいとして、この後一体何をすればいいのだろう。こんな長い間(と言ってもホンの数秒だけど)に異性と視線をぶつけた事なんてこれまで一度もない。クラスメイトと話す事くらいはあっても、互いの目を見ていつまでも何て事は絶対にない。考えただけで恥ずかしい。いや、考えなくても恥ずかしい。それ以上の事を、疑問はおろか抵抗すらなく実践している。

 湯に逆上せるように顔が熱を帯びていく。いつの間にか逸れていた視線を彼に戻す。相も変わらず呑気に笑っていた。こっちは顔を真っ赤にしているのに、どうして笑っていられるのか。いや、こういう顔を見ているから笑っているだけか、と一瞬考えた。昼に彼と会ってまだ半日しか経っていないけど、どれだけの表情を見せてきたのだろう。泣き顔に仏頂面、膨れっ面もあったかと思えば極々自然な笑顔もある。ホンの数時間の間にこれだけの百面相を披露した経験なんて勿論ない。それに驚くよりも自分自身の感情の忙しさに少し呆れた。そして、それをタンスを開けるように自然に引き出した相手をもう一度見る。立ち上がると、歩み寄って右手を差し出した。

「カティ・ランスローです。よろしくお願いします」

「俺こそ自己紹介がまだだったね」

 カティの手を握り返しながら、失礼したと頭を掻く。表情を作っている訳でもないし、繕うような不自然さもない。飾り気は一切なかった。これが彼本来の表情なのだろう。

「ウォッカ、ウォッカ・レイガンス。好きに呼んでくれて構わないよ」

 改めてカティの手を握る。体同様、手も馬鹿みたいにデカい。昼間はこの手で人の顔を握り潰そうとしていた。今はそんな暴力的な雰囲気は微塵もない。その名残すらなく、カティの手をすっぽりと被っている。温かかった。

「好きに呼んでくれてもって言われても困っちゃいますよ。お客様だし」

「そうかい? 君の姉さんは普通に聞き入れてくれたけど」

「それは姉が特殊なだけです。お客様にタメ口聞くような客商売なんてあっちゃいけません」

 ウォッカは声を出して笑った。そんなに変な事を言ったつもりはないんだけど。

「君は真面目なんだね」

 そうなのだろうか。家族や友人からもよく言われるけど、カティ自身にはその自覚はなかった。あるものをあるがままに受け入れているだけなんだけどなあ。どうしてそれが真面目と言う評価に結び付くのかイマイチ釈然としない。お客様を相手にする以上、失礼があってはならない。ならば礼儀正しく接するのが筋だろう。多少の親しみや慣れは仕方がないにしても、超えてはならない一線は必ずある。その手前に立っているだけだ。何も特別な事をしているつもりはない。

「故郷にも親が食堂やってる奴がいるけど、タメ口でしか話さなかったな」

 腕を組んだウォッカは視線を宙に浮かせた。

「お友達なんですか?」

「親友だよ」

 ウォッカは懐かしそうに笑った。当人の前では決して口にはしない。でも、そうだからこそ互いに信頼している。そんな笑いだった。友達として理想的な関係を築いている事が素直に羨ましかった。

「うちみたいな宿とは違うんですよね」

「ああ。純粋に食堂だよ。よく入り浸ってたな。店の手伝いもしたけど」

 入り浸っている様子を一瞬想像してカティは苦笑いした。きっとさぞかしお店も繁盛した事だろう。

「ま、どう呼ぶかは君に任せるよ。確かに俺がどうこう言う事じゃないからな」

「それじゃあ、ウォッカさんでいいですか?」

 ウォッカは笑いながら親指を立てた。乾杯でもするように、カティはウォッカの右手をコツンと叩く。

「君も呑むのかい?」

「まさか、呑まないですよ。拳骨がグラスに見えたから、つい」

 慌てて叩いた右手を左右に振る。何処からどう見ても未成年にしか見えないと思うんだけど。これまで実年齢より下はともかく上に見られた試しなど一度もない。ウォッカは少し残念そうに笑った。

 唐突に、グゥと何かが鳴る音がした。咄嗟にお腹を抱える。 上目遣いにウォッカを見る。目が合った瞬間、ウォッカは弾けたように笑い出した。カティも声を上げて笑った。

 一頻り笑うと、ウォッカは椅子から立ち上がった。

「そっか、俺が来たせいであれからずっと動き通しだったんだ」

「そうですよ、皆ご飯を食べる暇もないくらい大忙しだったんですから」

 恥ずかしがるのではなく、お腹が鳴るに到った経緯を小匙一杯分の皮肉を交えて説明する。ウォッカは申し訳なさそうに頭を掻いている。それでも顔は笑っているが。

「いや、申し訳ない。まともな食事にありつけたのがそれこそ何日か振りだったもんで、ついね」

あれだけ食べてついも何もないだろう。でも、腹立たしさなんてものはちっとも感じない。不思議な清々しさでいっぱいだった。これからも山ほど食べるのだろう。大変なのは目に見えているのに、憂鬱になる事もなく寧ろそれを歓迎している自分がいる。

「行こっか」

 ウォッカは促すように親指でドアを指した。カティがドアを開けるとウォッカは鼻唄を歌いながら部屋から出て行く。またさっきの口笛が聞きたくなった。

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