第5話 一日目 ~夜~ その弐
スノコに足を置く度、下にある石に当たってカツカツ軽い音を立てる。出来るだけ音は立てたくないけど、足を載せればスノコも下がるからどうしようもない。仕方ないか。カティは速度を緩めると男湯に続く廊下をゆっくり歩いて行く。冷静に考えればそこまで急ぐだけの理由もない。緊張するから早く済ませようとしていただけだ。そんな気持ちでお礼を言うのは明らかに彼に失礼だろう。
男湯の脱衣所が見えて来た。鼓動が速まる。まだ言う事を何も考えていない。背中を壁にくっつけると、中の様子をそっと伺う。脱衣所には誰もいなかった。温泉の方から湯が流れる音に混じって微かに鼻歌のような声が聞こえる。まだ浸かっているとすれば相当な長湯だ。よく逆上せないものだ、カティならとうの昔に茹で上がっている。正面にある棚には脱いだ服を入れるカゴが置かれていけど、一つだけクシャクシャに丸めた服が入っていた。ちょっと肩から力が抜ける。取り敢えず、少しだけ安心出来た。良かった、一人だけで。どうせこの後は食事を取るだろうからその時にしても何ら問題はない。さっきは出来なかったけど、注文した料理を運んだ時に気持ちを言葉に載せて伝えればいい。カティはこの宿の娘だし彼は客なのだから、それが選択肢としては一番全うで無難だろう。でも、それは飽くまで最終手段に留めておきたかった。それが一番確実なのは間違いないけど、そうした場合彼とのやり取りを誰かに見られる事になる。それは絶対に避けたかった。
壁に背中を預けたまま小さく溜め息を吐く。何度も中を覗く勇気はない、そう、色んな意味で。友達にでも見られたら出歯亀呼ばわりされかねない。いや、逆出歯亀か。私が覗いてる訳だし。お礼を伝えに来ただけなのに出歯亀扱いされた日には哀しすぎて涙も出ない。油断してるとたまに温泉浸かりに来たり普通に食事してたりするし。ある意味、家族よりも油断ならない。思わず首を竦めたまま左右を見回す。他に人影はない。風が葉を揺らす音と微かな水音しか聞こえない。その水音が少し甲高い音を立てて跳ねた。雫を滴らせた足音がこちらに近付いて来た。でも、全身びしょ濡れのまま脱衣所に入るのは勘弁して欲しかった。床が濡れてしまう。貼り紙もしているから読んでくれているとは思うけど。
タオルでゴシゴシ体を擦る音に混じって口笛が聞こえる。無骨な外見とは対照的な繊細で品のある音だった。音だけだったらきっと本物の笛を吹いているように聞こえた事だろう。上手い。これからどんな音色を奏でるのか気になって、素直に耳を傾けてしまった。
口笛が不意に止んだ。
「どなた様?」
一瞬誰に言っているのか判らなかった。辺りを見回しても誰もいない。初めてハッとした。
「す、すみません!」
考えるよりも先に声が出ていた。咄嗟に他の言葉が出なかった。
「あ、君か」
拍子抜けするくらいアッサリした声が返って来た。それに不満を感じている自分に驚く。ならば、一体どんな反応を期待していたのだろう。
それにしても、どうして気付いたのか。彼が立っている所から渡り廊下の出入口までは多少距離がある。脱衣所に入ってから、こちらにはずっと背中を向けていたはずだ。背中に目でもついているのだろうか。
「いいねぇ。自宅に温泉があるなんて最高じゃん」
本当に羨ましそうな声だった。それくらい快適だったと言う事だろう。何日もまともに風呂に入っていなければ湯上がりで気分が良くなるのは別に不思議でも何でもない。むしろ当然とすら言えた。
「凄くいい湯だったよ」
ありがとう。特別自分が何かした訳でもないのに、妙に嬉しくなってしまった。頬が熱くなっている事に気付いてビックリする。
「どうしたの?」
何がどうしたのか一瞬判らなかった。焦点がブレるように思考が停止する。
「さっきからずっとそこにいたみたいだから、何かお急ぎの用でもあるのかなってさ」
あ。
思考の照準が元に戻った。どうして考えていた事がポロポロ頭の中からこぼれ落ちるのだろう。
「あ、あの、お礼を言いたくて」
「お礼?」
まるで心当たりがないのか、語尾が仰角六十度くらいで上昇する。
「あの、昼間、二人組に絡まれたところを助けて頂いたから、そのお礼を申し伝えたくて」
「あ~あれね」
はいはい判りました。とでも言うように、拳骨で掌を打つ音がした。
「いいよ、別にそんなに改まってお礼なんてしなくても。忙しい中わざわざこうして来てくれただけで充分だって」
遠慮するでも、況してやこちらの気持ちを無下にする訳でもない。ただ、こちらの気持ちは間違いなく彼に伝わっている。それだけは判った。雨で濡れたコートを脱ぐように、スッと肩が軽くなる。
「有り難うございます。でも、私からもお礼は伝えておきたいんです。でないと、気持ちの収まりがつかないから。ダメ、ですか?」
語尾が尻切れトンボのように小さくなる。無理を強いて自分の気持ちを一方的に伝えようとしている事に気付いてハッと我に返った。口の中いっぱいに苦い味が広がる。
「判った。じゃあお互い顔も見ずに話すのもおかしいし、中においでよ」
「はい」
ようやく顔を合わせて話が出来る。安心感に気持ちが緩んだ。
入った瞬間、裸の背中と尻が見えた。バネ仕掛けの人形のように慌てて回れ右する。
「どうして何も着てないんですか!」
あ。今気付いたような声だった。露出狂だろうか。それも天然の。
「別に俺は気にしてないんだけど」
「私が気にします! いいから早く服を着て下さい!」
ヒステリックに叫ぶカティの声を聞いても、男のペースは相変わらずだった。万事に於いて、良くも悪くも動じない。
背後でもそもそした衣擦れの音がする。それが止むまでとてもではないが振り向く事など出来ない。
「失礼しました」
どうぞ、と言う声に促されて振り返る。次の瞬間、本当に悲鳴を上げたくなった。まだ上を着ていない。
「だから、どうして服を着ないんですか!」
「だって、まだ湯から上がったばっかりで体も熱いし、それに下履き履いてりゃ問題ないでしょ?」
「大有りです! 早く服を着て下さい!」
「そんな硬い事言わないでさ。女と違って男の裸になんか価値ないし」
そういう問題ではない。半身を反らせて背後を振り返るとまだ上半身は裸のままだった。いい加減泣きたくなる。よく見ると床にシャツが落ちている。慌てて着たせいで取り落としたのか、それとも風で飛ばされたのか。お互いの丁度中間くらいの位置に転がっている。
極力男の方を見ないように目を逸らせながら前に向かう。落ちていたシャツを拾い上げる。
「お願いだから、早くこれを……」
不自然に横を向いたまま前に足を踏み出した瞬間、ヌルリとしたものが足の裏に触れた。と思った時には綺麗に体が宙に浮いていた。この瞬間になってようやく声が出た。間髪入れずに鈍い衝撃が後頭部を襲う。
痛みを感じる間もなく、あっと言う間に意識が遠退いて行った。
エプロンで手を拭きながら決して広くはない廊下を小走りに駆けていく。別段切迫したような雰囲気はなかったが、あの声は間違いなくカティのものだった。人に礼を伝えに行ったはずのカティが何故あんな声を出す必要があったのか。提示された事実を並べてドミノ倒しにするとどうしても嫌な連想が頭の中で渦を巻く。あれこれ気を揉んでいても始まらない。いや、矢も盾も止まらないと言った方がより正確だろう。考えるよりも先に体が動いていた。店の裏手、温泉に通じる渡り廊下の手前でスノコが揺れる音がした。見覚えのある人影がヒョッコリ首だけ覗かせた。件の男だった。すぐこちらに気付いた。安心したように相好を崩す。会えて嬉しいと言うのとは明らかに違った。土砂降りの中、軒先で雨宿りしていたら誰かが傘を持って来てくれた時のような反応だった。つまり、大切なのは傘であって人ではない。見知った顔なら取り敢えず何でも良かった。それが偶々イリナだっただけに過ぎない。そんな表情だった。それだけでどうしてここまでホッとした顔をするのか。
「いや、君で良かった」
一体イリナで何が良かったのかサッパリだった。
「どうしたんですか?」
「実はね」
よく見ると両腕で何か抱えている。カティだった。
黙って男の襟首を鷲掴みにした。
「ちょっと待て。変な想像するなよ、誤解だって」
「何が誤解よ、完全に目ぇ回してるじゃない」
「だから変な想像するなってば。誤解なんだって、誤解」
襟首を掴まれているが、特別苦しそうな表情も見せず、目の前に詰まれた玉葱の山を順次刻んで行くように淡々と言葉を綴る。
「何がどう誤解なのよ」
「俺がこの子に変な事したと思ってるだろ?」
イリナは黙って頷いた。なかなか潔い聞き方だった。恥知らずと言えばそれまでたが。こういう科白を口にするのに、これと言った躊躇いを感じていない辺りにやはり普通とは違うものを感じてしまう。
「そんな事する訳ないだろ、事故だよ事故」
「何がどう事故なのよ」
父に見られたらマズイなあと思いながらも、イリナは掴んだ襟首を放そうとはしなかった。少なくとも、カティが気絶するに到った理由を聞くまでは油断出来ない。
「温泉から上がったらこの子が脱衣所の外にいたから声掛けたんだよ、どうしたのって。そしたら昼間のお礼がしたいって言うから、お互い顔を見ずに話すのもおかしいだろ、だから中においでって誘ったんだよ」
「それで?」
イリナは詰問するように先を促した。そこまでの事情は把握している。問題はその先だ。
「それで、どうしてこの子が引っ繰り返るの?」
「脱衣所に入った途端後ろ向いてさ」
「どうして?」
「俺が服着てなかったから」
今度は両手で襟首を締め上げた。それの何処が誤解なのか。弁解の余地すら残されていないではないか。
「それじゃ単なる露出狂じゃない! そんな格好でどうぞも何もないでしょうが!」
「そうかなあ。別に見せたところで減るもんじゃないし、迷惑って事もないと思うし」
「こっちが迷惑よ!」
耳元で思い切り怒鳴った。カティはまだ目を閉じたままだった。
いきなり男の素っ裸を見せられて動揺しない女などいない訳がない。男は熟考するように目を閉じるとゆっくり息を吐いた。
「まあ、そうかもな」
「そうかもじゃなくて、そうなの」
噛んで含めるように言葉を添えても、男は自身の行動の是非を問うように黙って宙を睨んでいた。そもそもこの男の中にはそういう概念も発想もないのかも知れない。
目尻が微妙に引きつった。
「で、あんたのあられもない姿を見て引っ操り返っちゃったの?」
「いや、それは違う」
そこはキッパリと否定した。否定出来るだけの材料があるとも思えないのだが。
「だったらどうしてこの子は目を回してるの?」
「確かに、すぐ服を着てくれって言われて、まあすぐ着たんだ、一応はな」
「下だけ?」
うん。特別躊躇っている様子はなかった。聞かれた事に素直に応じただけ、なのだろう。
「それで失神した訳じゃないって、本当にそう信じていいのね?」
言葉はなかった。代わりに一度だけ頷いた。感覚が人よりかなりずれている。正直、全うとは言い難い。だが、この目を見ている限りでは男が嘘を吐いているようには見えなかった。馬鹿ではあるかも知れないが。
「ご指摘頂いた通り、下しか着なかったんだけど、そしたら案の定上も着てくれって言われて、床に落ちてたシャツをこの子がわざわざ拾ってくれたんだよ」
それで、何故カティが気絶しなければならなかったのか。言葉をかける代わりに半分閉じた目で上目遣いに睨み付けた。
「床に濡れた雑巾が転がってたんだよ。それを踏んだ途端、思い切り滑って床に後頭部をゴン」
頭を振って壁に後頭部をぶつけて見せた。男の腕の中にいるカティはまるで眠っているように目を閉じている。
襟首から手を放した。男は少し胸を反らせるとゆっくり深呼吸した。
「忙しいところ申し訳ないけど、この子を休ませたいんだ」
いいかな? からかっているのか、それとも冗談を交えて雰囲気を和ませたいのか、そのどちらとも取れる表情だった。冷水に手を突っ込むようにして体全体を覆っていた熱が音もなく引いていく。ゆっくり深呼吸すると、そこから更に力が抜けた。俯くと下唇を噛んだ。さっきとはまた別の意味で頬が赤くなる。真っ先に何をすべきか、少し考えればすぐに判りそうなものだ。
顔を上げたが、まだ目は合わせられない。咳払いした拍子に上目遣いに男を伺うと、可笑しそうに笑っていた。イリナも釣られて笑った。
「こっち、来て」
男の前に立って先を歩く。すぐ後ろを足音が黙ってついてくる。
人よりも少し、いやかなりズレているかも知れない。何を考えているかもよく判らない。でも、やっぱり悪人には見えなかった。
首を捻って背後を伺う。目が合うと、やっぱり笑った。思わず毒気を抜かれてしまう、そんな笑顔だった。
部屋に入ったイリナのすぐ後ろを、体を横向きにした男が続く。女性の部屋に入るのだから多少なりとも緊張くらいしても良さそうなものだが、態度も雰囲気も昼間食堂にいた時と全く変わらなかった。抱えていたカティをベッドに横たえるとそのままドアの方に向かって歩いて行く。
「待って」
呼び止めたイリナに首だけ捻って振り返った。
「そんなに急ぐ事ないじゃない。少しゆっくりしましょうよ」
イリナは机から椅子を引くとベッドの脇に置いた。ベッドに腰を下ろして促すように背凭れを叩く。男は困ったような顔をしてガリガリ頭を掻いている。
「風呂上がりでお酒呑みたいのも判るけど、女性の誘いを無下に断るのも失礼じゃない?」
誘いをどうこうするのに性別は一切関係ない。そういう発言はイリナ自身も最も嫌うところだ。でも、今だけはもうしばらくここにいて欲しかった。
「あまり長居されたらその子も迷惑じゃないかな?」
「いいじゃない、目ぇ回してるんなら関係ないわよ」
男は鳩が泣くように喉を鳴らした。ドアノブに伸ばしかけていた手を引っ込めると擦り切れたジーンズのポケットに突っ込む。椅子に腰を下ろした男は頬杖を突いてベッドで横になっているカティを見る。ハァ、と漏れた溜め息が彼には酷く不似合いに聞こえた。少なくとも、無心で食事を掻き込み、無礼者を叩き出していた彼の印象には全くない姿だった。
「何だか悪い事しちゃったなあ」
まだ若干湿り気の残っている頭をガリガリ掻き毟る。
「わざわざ礼を伝えに来てくれたのにさ」
台無しにしちゃったな。ぎこちない動作で口元を押さえる。もう一度漏れた溜め息はやっぱり湿気を含んだように重たかった。
「お礼を言わないといけないのはこっちの方よ」
ベッドに両手を突いたまま、イリナは前を見て言った。顔の左側に男の驚いたような視線を感じる。でも、まだそれを受け止められるだけの準備が整っていない。
「何かしたっけ?」
思い当たる節も、そしてそれを探す努力もなかった。無理もない。彼が直接助けたのはカティだし、間接的に関わった相手がどう感じるかなど、それこそ人の心を読めでもしない限り判らない。
「あの時、私も相当熱くなってて周りなんか全然見えてなかったから」
「身内の人間があんな目に遭わされてて冷静でいろって方が無理な話だと思うけどな」
「それでも冷静でいるべきだろう、ってさっき父に言われたわ」
「なかなか手厳しいご意見で」
感情を抑えるという行為は思った以上に骨が折れる。頭で理解していても、一旦火が点くとそう簡単には消えない。そして、昼間のように発火点を一気に超えるような真似をしてくる輩すらいる。それでも、常に自分を律していなくてはならない。
今度はイリナが溜め息を吐いた。
「それ、考えてる以上にしんどい作業だぜ。親父さん、見かけによらず厳しいな」
「だから最初は少し反発も感じたけど、頭を冷やして考えてみるとそれもやっぱり道理なのよね」
「ただの一般論だよ。それが常に罷り通る訳じゃない」
男はカティを見たまま首を横に振った。
「だから、気にしなくていい」
判った、気にしない。何も考えずにそう言えたら一体どれだけ楽だろう。胸の中からこの気持ちが完全に消えるまで、まだしばらく時間がかかる。でも、かけてくれた言葉はほんのりと温かかった。気休めか、或いは単なる社交辞令かも知れない。それでも胸につっかえていたモヤモヤの幾らかは間違いなく解消された。あと一押しでもっと肩が軽くなる。だが、それはイリナ本人でなければ出来ない事だった。
イリナは顔を横に向けた。頬に刺さっていた視線に気付いたのか、男もこちらを向いた。
「ありがと」
誰にかけられた言葉なのか、それを思案するように男は何秒か目を白黒させていた。それが自分である事に気付くと観念したように笑った。そして、笑ったまま首を横に振った。鈍いし、相当変わっている。だが、やっぱり悪人ではなさそうだった。
なかなか治らなかった風邪が全快するように体からスゥ、っと力が抜ける。倦怠感から解放される瞬間がこんなに清々しいなんて考えもしなかった。でも、またこんな気分を味わいたいとは死んでも思わないが。
「さっきの件も謝らないといけないし」
「その必要もないだろ」
そういう訳にはいかない。事故に到る直接的な原因を作ったのは彼だが、さっきのイリナの態度にも問題はある。
「今の話、聞いてなかった? それでも冷静でいないといけない」
「理想はな」
でも現実は違う。その落差がどれだけあるかを知っている人間の言葉だった。
「いいんじゃない? そういう事にすら気付かない連中も大勢いるんだから。でも、少なくとも君はその必要性を知ってる。それだけあれば十分だよ」
そういうものだろうか。理屈だけ理解しても仕方ないと思うのだが。少なくとも、父はそこよりも更に一段高い発想を求めている。
「冷静であらねばならない、か」
男は独り言のように呟いた。
「耳が痛い言葉だな」
誰に向けての言葉なのだろうか。顔がそもそもこちらを向いていないし、内容も自虐的過ぎる。それを誰かの前で平気で言えたとすれば相当精神が病んでいるようにも思えるが、そういう雰囲気は全くなかった。だから余計に気になった。何故、どんな思いで口にした言葉なのだろう。
「そう言えばさ」
膝に肘を突くと、イリナは思い出したように言った。
「あなた、名前は何て言うの?」
眠そうに半分閉じかけていた目がゆっくりと釣竿で引き上げるように宙に浮く。考え事でもしているのかと思ったが、多分この目は焦点を結んでいない。こいつ、何も考えてないな。やがて、切れかけたゼンマイ人形が最後の気力を振り絞るようなぎこちない動作でイリナを見る。
「言ってなかったっけ?」
イリナは黙って首を横に振った。男は記憶の糸を手繰るように眉間に手を添えて目を閉じる。食べるのに夢中ですっかり忘れていたのだろう。考えなくても判る。だがそれを責める気は全くなかった。
「悪い、すっかり忘れてた」
「別にいいわよ」
どうしてこんなに気にするのだろう。余程嫌な思い出でもあるのだろうか。
「何事にも通すべき筋はある」
そうだろ? 同意を求めるようにイリナに目を向ける。その通りだった。
ベッドから立ち上がったイリナは男に手を差し出した。
「イリナ・ランスローよ。好きに呼んで」
男も椅子から立ち上がると汗ばんでいた手をシャツで拭く。風呂上がりだから、まあそれは良しとしよう。
男がイリナの手を握り返す。口が開こうとした時、部屋のドアがノックされた。
「イリナ、入るわよ」
母の声だった。だが一人でないのは気配で判った。元々返事を待つ気もなかったのか、殆ど間を置かずにドアが開く。
「失礼します」
娘の部屋なのにわざわざ断りを入れたのは中に客がいる事を察していたからだろう。なかなか勘が鋭い。
母のすぐ後ろにいたミリアムはドアの間をすり抜けるように部屋の中に入る。男の姿を確認すると姿勢を正す。
「ミリアムと申します」
両手を前に添えて綺麗に頭を垂れる。性格に相応しい堅苦しい挨拶だった。無論、本来こうしなければならない事くらい十分承知している。ただ、この男といるとどういう訳かハメを外したくなる。
「女将さんは、俺の名前はご存知ですよね?」
母は微笑みながら頷いた。既に自己紹介を受けているか、或いは宿帳への記帳を頼んでいたのかも知れない。
今度は男が姿勢を正した。元々デカい体が更にデカくなる。
「ウォッカ・レイガンス。ウォッカでいい」
ウォッカと名乗った男は右手を差し出して改めて握手を求めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます