第4話 一日目 ~夜~ その壱

斧を降り下ろすと軽い音を立てて薪が真っ二つになった。両断された薪を紐で束ねて肩に担ぐ。女らしさの欠片もないとよく言われるが、肩と背中を鍛えるには丁度いいのだ。そもそもそういう発想そのものが女らしくないのだろう。だが、この家にはこういう作業をする人間が必要である事に変わりはない。父にばかり負担はかけられない。ミリアムには安心して任せられるが、アリスはまだしばらく時間がかかる。もっとも本人がやる気満々だから差して問題はないのだが。カティは問題外だ。そもそも斧が持てない。姉三人は体育会系だが、カティだけは極普通の女の子として育っている。故に、こういう力仕事をカティにさせる事を父は極端に嫌がっている。ま、気持ちは判らないでもない。剣を握る事も槍を手に取る事も、握り締めた拳で男を殴り倒す事もない。父親からすれば、そんな男勝りの姉三人に囲まれた中で唯一女の子らしく育てば一際可愛く思うのも道理だろう。

「気持ちは判る」

 人気の絶えた閑散とした客席で椅子に腰を下ろした父は静かに言った。

「あいつらのした事は絶対に許せないし、許す気もない。たださっきの状況だけを見た場合、まずやるべき事が他にもあったと思うんだがな」

 苦虫を噛み潰したような顔をして首筋の辺りを掻きながら父は言った。

「足に何かが引っ掛かったのは間違いないんだよな?」

「うん」

 父の隣に座っていたカティは素直に頷いた。

「カティはその時、何が引っ掛かったのか見たのかな」

 カティは唇を噛んで俯くと首を横に振った。

「イリナは見てないよな」

「見える訳ないじゃない」

 カウンターの向こう側での出来事だ、カウンターの中から、しかも足元など見える訳がない。今度はイリナが苦虫を噛み潰した。

「奴らが足を引っ掻けたのは間違いないだろうな。でもそれを示す証拠はない」

 残念だが。父は短く言い添えた。本当に残念だった。そう言われると返す言葉がない。周りにいた客にしても、あいつらと積極的に関わろうとするはずかない。より判りやすく言えば、絶対に誰からも見られない事をあいつらは確信していた。その上での行為に違いなかった。今になって初めて気付いた。

「もし見た人が誰一人いない状態でこっちが奴らに食ってかかったらどうなるか、それくらいは想像出来るだろ?」

 それこそ奴らの思うつツボだろう。それにアッサリ引っ掛かってしまった事になる。さっきとはまた違った意味で首筋が熱くなった。

「だから、相手が誰であれ通すべき筋は必ず通す、それを忘れるな。確かにカティは俺の娘だしイリナの妹だけど、  客の前に立っている時は一人の商売人に過ぎないんだ。そこですべき事を把握して実践するのが先じゃないのかな」

 俯いたまま硬く拳を握り締める。あいつらが足を引っ掛けた、それ以外の可能性は全く考えなかった。あいつらが足を引っ掛けたのは間違いない。ただ、その瞬間を見た人もいないしそれを示す証拠もない。そんな中で客に手を上げるような真似をしていたら。そこまで考えて背筋が寒くなった。目を閉じるとゆっくり深呼吸する。胸の上に手を置く。気持ちを鎮めると言うよりも、今この瞬間の鼓動を聞いておきたかった。この経験を無駄にしないためにも。

 どのくらいの間そうしていたのか判らない。掌から伝わる拍動が耳の奥に自然に吸い込まれるようになった時、イリナはゆっくりと目を開けた。 今の今まで感じていた拍動は確かに今も手の中に残っている。そう、忘れてはいけない。絶対に。

「彼に感謝しないとな」

 肩を竦めると、イリナは苦笑いして頷いた。件の男は昼食が済んだ後すぐに部屋を取ると盛大に高いびきをかいている。あれだけ食べた後にすぐ寝て胃がもたれるような事はないのだろうか。だとしたら羨ましい。胃にしても腸にしても一体どれだけ頑丈なのだろう。

「イリナも、彼にお礼をした方がいいかもな」

 カティと目が合う。あいつら二人を叩き出した後は周りにいた連中がしきりに彼にご馳走しようとしていたせいで、その忙しさにかまけてお礼の一言も伝えていなかった。食事が粗方片付いたと思ったら姿がない。幸せそうなイビキが聞こえて来た時には一瞬言葉が出なかった。どれだけ寝付きがいいのか。いやどれだけ内臓が頑丈なのか。

「俺からはお礼は伝えてある」

 父がフォローするように言葉を添えた。いつ声をかけたのか。だったら一言こっちに言ってくれてもいいのに。全く気が利かない。ちょっと頬が膨れた。父が不思議そうな顔をして首を傾げた。それを隣で見ていたカティは可笑しそうにクスクス笑った。

 それが今から四時間くらい前のやり取りだった。日も暮れかけた頃になって静かになった男の部屋をノックした。返事はなかった。イビキが収まっただけでまだ寝てるのかなと思ったが、部屋の前を偶々モップを肩に担いで通りかかった母が、その日の欠席者を読み上げる担任のような口調で言った。

「彼ならさっき温泉に浸かりに行ったわよ」

 だったら何故もっと早くそれを言ってくれないのか。

「だって、そんな事とっくに伝えたものだと思ってたから」

 確かにそうだろう。それは否定しない。だが、今回の当事者は未成年者だし、そういう人間が詫びに行くなら本人の他保護者が同伴するのが自然だ。ある意味当事者以外の人間が大手を振って表舞台に立てる訳だが、本来そういう立場にいる人間はそんな思惑など欠片もなくあるがままを素直に受け入れているようで、そこに慄然とするものすら感じた。

「勿論、彼には娘もお詫びに伺いますとは言ったのよ。でも本人はそんな事全く気に止めてもいないような感じだったし、まあいいかなあ何て考えちゃって」

 母は呑気に笑いながら組んだ両手に傾けた頭を預けた。男の言い分か母の言い分か、どちらを聞くべきかたっぷり三分は思案してから、イリナは決然と頷いた。

 ダメだ、話にならねぇ。

 母が何処まで本気で言っているかは判らない。父の科白ではないが、それでもこちらで通すべき筋は確かにある。それを完全に何処かに置き忘れてきたような返答だった。或いは、端からそんな発想すらなかったのかも知れない。

目の前で笑っていた母の目が不意に糸のように細くなった。

「何て言うと思った?」

「ビックリさせないでよ」

 全身から一気に力が抜けた。母は腰に手を当ててガガガと笑った。女らしさの欠片もない。

「言う訳ないでしょ。まだしばらくは湯に浸かってるでしょうけど、上がったらあなたからもお礼は申し伝えておきなさい」

「そのつもりよ」

 よろしい、とでも言うように母は腕を組んだまま至極満足そうに頷いた。

 それから優に一時間以上は経過している。部屋にも食堂にも姿がない。とすれば、まだ風呂から上がっていないと判断するのが妥当だろう。

 イリナはスイングドアの内側にある戸を閉めた。西の空だけが僅かに日の色を残しているだけで、もう殆どが鮮やかな藍色に染まっていた。随分日が長くなって来た。だが、春はあっという間に過ぎ去る。咲いた花が風で舞い散る頃には春そのものも同じようにして跡形もなく姿を消す。侘しさよりも儚さが先に立つ。この時期にはいつも感じる事だ。

 食堂に取って返すと硬く絞った布巾でテーブルを拭く。そろそろ夜の客が見え始める頃だ。父と母は厨房で仕込みに入っている。こっちが片付いたら中を手伝わないと。腰を屈め、力を込めてテーブルを拭く。

「カティ」

 カウンターを拭いていたカティが顔を上げた。額に滲んでいた汗を手の甲で拭う。

「お疲れ様。もう上がっていいわよ」

「いいわよって、これからお客さん入ってくるじゃない。まだやるよ」

「それはそうだけど、あんたまだ宿題終わってないでしょ」

「それは昨夜寝る前に済ませました」

 カティは腕を組むと抗議するようにイリナを睨んだ。

「そりゃ失敬。でも予習はまだよね?」

 痛い所を突かれたと言うようにカティが顔をひきつらせる。全く以て判りやすい。こういう処はアリスにそっくりだ。一つしか違わないだけあってよく似ている。

「あなたはまだ勉強が本分なんだからそっちを疎かにしないの。高等部に上がってまだ一月ちょいしか経ってないんだから」

「でも、毎日予習して来てる子なんていないよ。苦手な科目ならまだ判るけど」

「そういう問題じゃないの。やるべき事をしっかりやりなさいってだけよ」

 誰かによく言われる事だ。自分で言っていて耳が痛い。

「朝からずっと働き通しで疲れてるでしょ? 少し休みなさい」

 目の前に刃物を突きつけられたように身を引く。気持ち少しだけバツの悪そうな表情を見せると素直に頷いた。ま、そりゃそうだろうな。朝から動き通しの上に昼に一度休憩を挟んだだけで後は終始動きっぱなしだ、疲れない訳がない。慣れればどうという事はないが、それまでは相当キツいはずだ。それに、あんな事まであったのに弱音どころか疲れたと言う言葉さえ吐かない。華奢な外見に似合わず、根性はある。体育会系の姉三人に囲まれて育つと自然とこんな風になるのかも知れない。それに体力が伴えば申し分ないのだが、如何せんそれは本人の資質に依るところが大きい。

「それじゃ、遠慮なく」

 布巾をイリナに手渡したカティはふぅ、と溜め息を吐いた。椅子に腰を下ろしたと思ったら目を瞑る。そのまましばらく振り子のようにゆっくり揺れていた。やっぱり、相当疲れてたな。ただそれを表に出さない根性は褒められていい。一分近くそうしていたが、やがて思い出したように目を開けた。焦点が合っていない。これでこの後勉強しろと言われても無理だろうな、と冷静に分析する。仮にやったとしてもまず頭には入るまい。それをカバーする一番手っ取り早い手段が体力なのだ。多少馬鹿でもそれさえあればある程度は充分補える。体を鍛える習慣があればカティもそれを悟れるのにと思うと何とも歯痒いが、それは周りが強制したところで身に付く類いのものではない。 自分の足で、自分の意思で一歩踏み込んで前に進まなければ見える景色は変わらない。それを目にした時、本人がどう感じるかだ。

「大丈夫?」

「大丈夫」

 この「大丈夫」と「何でもない」の二つ程当てにならない言葉もない。大抵の場合まず大丈夫ではないし、「何でもない」と言われても本当に何もなかった試しがない。このままベッドに倒れたら恐らく明日の朝まで意識不明はほぼ確定だろう。これの一体何処が大丈夫なのか。

「どう? 通しでやると結構堪えるでしょ」

「うん」

 半分閉じかけていた瞼を指で引っ張って強引に開きながらカティは頷いてみせた。今度は平手で頬を軽く張る。思わず、酔っ払いかと突っ込みそうになる。

「よくこれでこの後勉強なんか出来たね」

「ま、基礎体力の違いかな。あとは慣れね。あんたも少しは体を鍛えなさい」

「体力と慣れだけで解決出来る問題じゃないと思うけど」

 あとは気の持ちようだ。どれだけ堪えようが打ちのめされようが、最後に立つか寝るかを決められるのは一人しかいない。それに気付くかどうかだ。

「そういう義務から解放されてるなんて羨ましいな」

 羨ましいと言うより、解放されている事を妬むような目で見詰める。とは言ってもつい二ヶ月前に高等部を卒業したばかりなのだから、妹とそれほど差があるとは思っていない。確かに楽しくもあったし充実もしていた。それでもこれからその三年間をやり直せと言われたら全力で断るが。

「殆どやりもしないうちから白旗なんか上げてたらこの先何やっても上手く行かないわよ。取り敢えず、歯食い縛ってやってみなさい」

「そうする」

 どっこいしょ、と歳の割には老けた声を出して椅子から立ち上がった。

「その前に、ちょっとやる事思い出した」

 廊下の手前で振り返ったカティと目が合った。カティがすべき事を頭の中に思い浮かべてみたが考えがまとまらなかった。晩御飯を食べようにもまだ影も形もないし、予習に手を付けられるだけの体力的な余裕もない。おまけに疲労で考えがまとまらない。

「彼に、お礼を言いに行かないと」

 あ。さっきまで行こうと思ってたのにすっかり、いやうっかり忘れてた。さっきまで偉そうな事を言っていた分、余計に格好悪い。顔を背けて咳払いした。カティは人差し指を頬に当てたまま首を傾げている。

「そうよね、危ないところを助けてもらったんだから」

 あんただけじゃなく私もね、とは言わなかった。

 ひたすら食べ続ける男に料理を作っていたら、いつの間にか時間だけが過ぎていた。男のお腹は少しずつ膨れて行ったが、それに反比例して皆の疲労は蓄積していった。注文が一段落ついたと知るや否や、空いていた椅子にドッカリと腰を下ろした。 そこでしばらくボーッとした後、厨房から顔を出した時にはもう男の姿はなかった。カウンターには空になった皿が山と積まれていた。男がいたテーブルの真ん中には金貨が何枚か無造作に置かれていた。十分お釣りが来るくらいの額だった。チップなのか、それとも小銭がなかったのか。父は置かれていた金貨を小銭に崩すと「後でお返ししよう」とだけ言った。幸せそうな寝息とイビキが絡まるように聞こえて来たのはそれから程なくしてからだった。

 お礼を言うチャンスは確かにあった。料理を作る手を止めるか、料理を運んだ時に頭を下げればそれで終わりだった。彼は明らかに心の底から食事を楽しんでいた。運んでいる間も子供のような無邪気な顔で皿に盛られた料理をひたすら口に運んでいた。見ていたらそれだけで嬉しくなった。下手に声をかけたりしたら邪魔をしてしまうようで、結局声をかけそびれてしまった。「美味い」を連発しながら、運ばれて来た料理全てを綺麗に平らげた彼は満足そうに笑った。どれだけ腹が減っていたのか、どれだけ食うのが好きなのか。全く、呆れる程の食欲だった。そしてこの後も恐らく何事もなかったかのように普通に食事をしに来るだろう。そう思うと背筋が寒くなった。どれだけ食えば気が済むのか。

 完全に流されてしまった。ただ食っていただけの相手に何故ペースを握られてしまったのか。変な奴だ。その訳の判らない輩に助けられた事も確かなのだ。

「じゃ、行ってくるね」

「ちゃんとお礼申し伝えるのよ」

「判ってる」

 食堂を後にするカティの背中に手を振る。全く、ホントに大丈夫かしら。姉の心配を他所に、妹の足音だけが廊下の奥に消えて行った。

 イリナは椅子から腰を上げた。いつまでも呑気に油を売っている訳にはいかない。客席の下準備はほぼ終わっている。拭き取った汚れが落ちないように綺麗に畳むと手の中に納める。拭き終えたばかりのテーブルに汚れを落として叱られたのがいつの事だったか、今となってはもう思い出せない。

 馬の蹄の音が徐々に近付いてくる。時計を見ると既に六時を三十分程過ぎていた。確かにもう戻って来てもいい頃合いだった。馬屋に入れて食事や水を用意するのにどんなに急いでも五分はかかる。それまでここで待つ理由もない。

 厨房を覗くと鍋を木杓子で掻き回している母の背中が見えた。入口の脇にかけてあるエプロンをかけながら流しの前に行く。

「もう少し休んでてもいいのに」

「馬鹿言わないで」

 洗った手をエプロンで拭う。母は鍋を掻き回す手を休める事もなく、顔だけこちらに向けて笑った。

「昨日今日始めた訳じゃないんだから」

「カティは大丈夫? 相当疲れてるんじゃない?」

「大丈夫だったら羨ましいわ」

 釜戸に薪を放り込みながらイリナは言った。イリナにしても、学校と部活に並行して家業をある程度こなせるようになるまでには何ヵ月かかかった。それが体に馴染むまでと言った方が正確かも知れない。学業は絶対に外せないし、剣術も好きで始めた事なのだからそれを抑え込む事はしたくなかった。かと言って、自分の事ばかりにかまけている訳にもいかない。だから多少大変であっても頑張るしかなかった。それが出来たからこそ今の自分がある。それはミリアムにしてもアリスにしても変わらなかった。

 仕事を通しで一日やっただけでそれに慣れてしまったら、こちらの立場がなくなってしまう。

「少なくとも、もう二、三ヶ月はかかるんじゃない?」

「それくらいで済めば御の字よ」

 母は鍋掴みを嵌めると鍋を隣の釜戸に移した。

「早くそうなって欲しいわ」

 冗談でも嫌味でも願望でもなく、それは母の、そして父の本心でもあった。家族全員が肩を並べて仕事をしたい。単純にそれだけなのだが、全員が自分の足だけで立てるようになるにはまだ少し時間がかかりそうだった。

 裏口の戸が開く音に続いて、足音が近付いてくる。厨房の戸が開いた。

「ただいま」

 身の丈を遥かに超える長さの木槍を厨房の隅に立て掛けると、ミリアムはさっきイリナがしたように壁にかけていたエプロンを手に取って腰の後ろで結んだ。流しでサッと手を洗う。

 淡い栗色をしたやや長めのショートヘアだがイリナと同様背が高いせいか少年のような雰囲気を漂わせている。だが、胸元を見れば一発でそれが誤りだと悟る事になる。馬鹿げてデカい。イリナもある方だがミリアムには劣る。当の本人は特徴的なセックスシンボルを誇らしげに掲げる様子もなく、むしろ「動く時邪魔」と不満を漏らす事すらある(それでよくアリスと喧嘩になる)。確かに邪魔は邪魔だが、ないよりあった方がいいし、利用価値も十分にある。それを活かせるくらいの知恵としたたかさも持ち合わせている辺り、やっぱり母の娘だし、何より私の妹だなと改めて実感する。

 それくらいの気概がなければ、男に囲まれた中で剣や槍は振るえない。いくら好きでやっている事とは言え、「女だから」と言う訳の判らない理由で舐められたり馬鹿にされたりする程腹の立つ事はない。ちっぽけな自尊心だが、それがイリナ達姉妹を奮い立たせる起爆剤になっていた。同時に、それは家業にも大きく貢献している。

「いい汗流せた?」

「まあね」

 顔は向けず、前を見たままミリアムは言った。そんな妹の横顔を窺う。スッキリした笑顔だった。ちょっと羨ましい。

「イリナ姉もたまには顔出してよ」

「時間がある時にね。それに、今はあんた達が引っ張っていかなきゃいけないんだから、まずは自分達で何とかしなきゃ」

「それは判ってるけどさ、骨のある奴がいないのよ。どいつもこいつも根性ないし」

 組手の五本や六本でへばるなっての、十五本だったら流石にキツいけどさ。今は組手一本当たりが何分間かは知らないが、イリナがいた時は三分だった。今もそのままだとすれば、五本連続でやった場合十五分間動き続ける事になる。それを練習の締めに平然とこなせるだけの持久力と、帰宅後に家業を手伝い、それが済んだ後更に勉強に充てるだけの体力を備えている。これが殆ど毎日続けば、多少動いた程度では堪えないくらいの体力は養われるらしい。イリナ自身、ここ数年動けないくらい疲れたという記憶も経験もない。練習中にへばっている男子部員を見掛けた時は思わずイラッとしたものだ。だからミリアムの気持ちもよく判る。このくらいでバテてんじゃねえよ、この根性なし共が。と言おうと思った事は一度や二度ではない。

「だったら、あんたが鍛えてやればいいじゃない」

「そう思って私が練習メニュー考えたら一週間でダウンしちゃった。新入部員は二人も辞めるし」

「厳しすぎるのよ」

「みんなにも同じ事言われた」

 嗜める母の言葉に、珍しく顔を俯けた。そんな娘の頭を母は軽く撫でる。ミリアムはまだ顔を上げなかった。

「もう少し、力を抜いてみたら?」

「そうしたいんだけど、どのくらい抜けばいいか検討もつかなくて」

 本当に困った顔でミリアムは言った。つまり、今までそれだけ力が入っていた事の顕れでもある。力が入っているのが自然な状態だから、抜いた感覚が掴めないのだろう。

 良くも悪くも真面目なのだ。手を抜く事を知らない。その発想もない。自分が思い描いた理想に向かってひたすら突っ走る。それを休みなくこなせるだけの根性と体力がミリアムには備わっている。イリナにはないものだった。体力と根性はともかく、無理だと判ったら途中でやり方を変える。どちらが正しいかという事についても興味がない。過程や結果を見ればある程度は朧気ながらに見えてくる。正しいならば続ければいいし、間違っていたら改める。その繰り返しだ。

「普段からもう少し力を抜いてみるとか」

「それが出来ないから苦労してるんじゃない」

 ま、それもそうだ。人に言われて気付くか、それとも自分で気付くか。そのどちらかしかない。後は本人に任せればいい。ここで背中を叩いても怪訝な顔をされるだけだろうな、きっと。だから何も言わなかった。ミリアムも黙ってジャガイモの皮を剥いていた。

「ところで」

 剥いた皮を足元のゴミ箱に捨てると、ミリアムは別のジャガイモをザルに放り込んだ。

「何か、変な客が来たんだって?」

「別に変って事はないけど」

 思わず返答に詰まった。多少風変わりな部分はあるが、それでも普通とは言い難いものがあるのも確かだ。少なくとも、柄の悪い客を店から叩き出した後にのんびり食事に興じる豪胆さなど普通の人にはない。それに、普通の食欲でもない。

「でも、普通ではないか」

 それは認めておいた方がいいだろう。別に否定する理由も必要もない。隣では母が懸命に笑いを堪えながら頷いている。

「面白い人よ」

 母が隣から助け船を出した。男のどのような部分を見てそういう印象を抱くに到ったのか非常に気になるところだが、いちいち聞くのも面倒臭いので黙っていた。

「あいつらをぶちのめしたみたいじゃない」

「耳が速いのね」

 どういう過程を経て情報が伝播していったのか純粋に知りたくなってしまった。正確さに欠ける点は否めないが、人並み程度の慎重さがあれば十分に補う事も出来る。元々人の少ない田舎町だ、噂が街を一回りするのにそれほど時間もかからない。

「どんな感じだったの? 聞かせてよ」

 イリナは母と目を合わせた。 さて、何処から伝えればいいものか。事実をありのままに伝えるのは案外難しい。

「昼過ぎにあいつらが来て……」

「あいつらって、あの馬鹿共?」

 あの腐れ外道共を上手く形容する言葉が他に見当たらない。でもまあ、伝わっているので良しとしよう。軽く頷くと、ミリアムも何度か細かく頷き返した。

「カティの足を引っ掛けて転ばせたの。まさかそこまで露骨なやり方で因縁吹っ掛けてくるとは思わなかったけど」

 それまで比較的和やかな雰囲気で会話に興じていたミリアムの表情が凍りついた。二の句を継げずにいるミリアムに、母が隣から言葉を添えた。

「あわや殴られそうになった時に、彼が助けてくれたの」

「颯爽と?」

 何を期待してこういう質問を投げ掛けて来るのか甚だ疑問だった。ふざけているようにしか思えないが、当人は至って真面目な表情だった。

 だが、強ち颯爽と言えない事もない、ような気もする。目の前から視線を外したのは確かだがそれはホンの二、三秒に過ぎなかった。だが男が立ち上がった音も聞こえなかったし、気配も感じなかった。目の前に巨大な壁が突然現れたようだった。大の大人の男を片手で軽々持ち上げて豪快に投げ飛ばし、握力だけで顔を骨ごと粉砕出来るくらいの怪力の持ち主でもある。その後はひたすら食ってばっかだったが。何をしに来たかと問えば、「飯を食いに来た」と即答されるのはまず間違いない。

 食欲には忠実だが、それ以外は何を考えているのか全く判らない。正直得体が知れない事も確かだった。だが、悪人には見えなかった。そんな人がわざわざ大好きな食事を中断してまで誰かを助けたりするだろうか。……するな、飯の邪魔なら。

 彼が何に基づいて行動するか把握出来ない限り、彼の人となりは正確に判断出来ないように思えて来てしまった。本当に、何を考えているのか。何のたまにこの街に来たのか。

「何考えてんだかサッパリ判らないけど、少なくとも悪人ではないかな」

「どうしてそんな歯切れが悪いのよ」

「得体が知れないからよ」

 即答したイリナに、母も反意を示さなかった。カティを助けてもらってはいるが、まだ完全に気を許した訳ではないのだろう。

「でも、悪い人ではないんでしょ? 実際にカティも助けてもらってる訳だし」

「そうねぇ」

 母は頬に手を置いて呑気に応える。煮え切らない反応に焦れたのか、ミリアムの目が糸のように少しずつ細くなっていく。

「いいじゃない。話聞いてても悪そうな人には思えないし」

「そうね」

 イリナと目を合わせて微笑む。肩から少し力が抜けたような気がした。

 彼がどんな輩であれ、カティを助けてくれた事は紛れもない事実なのだ。あれこれおかしな事にまで思いを巡らせるのは失礼だろう。彼の事が判らないならば色々と話してみればいい。幸い、こちらから声をかけなければならない理由もある。そうそう、変に疑うのは良くない。

「ところで、アリスは? てっきり一緒に帰って来ると思ってたけど」

「声はかけたんだけど、走って帰るって」

「練習が終わった後に、走って?」

 隣で母が目を丸くしている。ま、そりゃそうだろうな。ここから学校まで軽く一里以上はある。その距離を練習で体を酷使した後に走って帰るのはやろうと思ってもそうそう出来る事ではない。普通なら誰もやらないだろうが。

「百本組手やるならそれくらいの体力がなきゃ始まらないでしょ、だって」

 確かに、考え方は間違っていない。だが、組手を百本連続でやる事自体がそもそも不可能なのだ。仮にアリスにそれを実現出来るだけの体力があったとしても、肝心の相手がいない。そういう事に思いが到らない。またそんな発想もない。 百本組手も実際に組手を百本やる事を目的にしているのではない。鍛練の一環でそういう誇張した表現が生まれたに過ぎない。要はシゴキだ。

 それに気付かず真っ正面から受け止めて実践しようとする行動力に勇ましさよりも愚かしさを感じるのは恐らく自分だけではないだろうな、とイリナは思った。

「その情熱を、もう少し勉強の方に向けられないものかしらね」

 母が頭を抱えながら溜め息を吐いた。ミリアムは端から相手にしていない。

「で、今日こそ私に勝つとか言ってたし」

 ミリアムは野菜を刻むように淡々と言葉を繋げる。

「馬に勝てる訳ないじゃん」

 それを本気で言うのがアリスの恐ろしいところだ。本人は「今日こそは勝つ」事を信じて疑っていない。そして「今日も勝てなかった」事を本気で悔しがる。故に頭で考えるよりも先に体が動く。

「あの子の頭の中ってどうなってるのかしら」

「脳細胞の代わりに筋肉が詰まってるんじゃない?」

 感情を交えず飽くまで淡々とミリアムは応えた。熱しにくく、熱くなってもすぐ冷める。イリナも感情より理性が勝る方だが、ミリアムには劣る。そういう意味では姉妹の中で一番大人びている。すぐに熱くなるアリスとは対照的だった。

「だから、少なくともあと三十分くらいはかかるんじゃない?」

 ミリアムが家に帰ってからまだ五分ほどしか経っていない。練習前ならともかく練習で思い切りしごかれた後だ、三十分でも速い方だろう。

「三人で頑張りましょう」

 母が仕事の手を速めた。今日のところはアリスを戦力に含んでいない。 それでも勉強はさせるはずだ。最低限宿題くらいは。出来ていなかったら「教えて」とせがまれるのは目に見えている。全く以てウンザリだった。

「そう言えば、父さんは?」

 ミリアムが辺りを見回しながら言った。

「さっき買い出しに行ったわよ」

「さっき? どうしてこんな遅い時間に」

 意外を通り越して純粋に驚いた声でミリアムは言った。その日に使う食材がなくなる事などそう滅多にある事ではない。在庫の少なかった食材を余程大量に消費するか、昼間に団体客が来て食料を粗方食い尽くされるかしない限り、まず有り得ない。可能性として考えられるのは明らかに前者だが、今回は後者だった。団体ではなく一人だが。

「まさか、一人で食べちゃったとか」

 母は黙って頷いた。ミリアムは事の真偽を確かめるようにイリナを見た。イリナも頷いただけだった。否定する理由もない。ミリアムは誰が見ても子供の落書きにしか見えないような文字を必死に解読しようとする学者のような顔をして何度か曖昧に頷いた。理解の範疇を超えているのか、想像が追い付かないのか。ま、いずれ判る。その時思い切り呆れてくれればいい。

「見れば判るわよ」

 ミリアムは知りたくもないという顔をして首を横に振った。イリナは母と顔を見合わせると思わず苦笑いした。

廊下の奥の方から女の叫ぶ声が聞こえた。嬌声という程艶かしくもなく、悲鳴のような切実さもなかった。ハッキリ言えばかなり間抜けな声だった。三人は交互に顔を見合わせた。

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