第3話 一日目 ~昼~ その弐
そもそも昼間に照明など点けていない。単純に室内に入る日差しが遮られたのだ。
顔を上げる。出入口のスイングドアに立っている人影が日差しを完全に遮断していた。
「すみません、ここって食堂ですか?」
真昼の太陽を背負った人影は遠慮がちに言った。大木のようなガッシリとした四肢の真ん中に、それよりも更に太い幹が腰を据えていた。太いとは言ってもその大半が筋肉で占められていて、脂肪が入り込める余地など殆ど残されていない。背中には部屋の荷物の一切合財を全て詰め込んだような巨大なリュックを背負っている。昨夜夜逃げして来てようやくここに辿り着きましたと聞かされても全く不自然さはない。だとしたらあまり積極的に関わりたくなかった。逆光と目深に被った帽子のせいで表情は窺えない。ただ顎の周りは濃い髭で覆われている。
「いえ、宿屋ですよ」
いつの間にか背後にいた父が、作った料理を客の前に置きながら淡々とした様子で応えた。
「宿屋、って事は食事だけじゃなく宿泊も出来るって事ですよね?」
「はい、おっしゃる通りです」
人影は天を仰ぐように天井を見上げると、壁に半身を凭れ掛かせて大きく息を吐いた。左の腰に提げていた剣が音を立てて揺れる。長剣と短剣が一本ずつ、それとその中間くらいのものがそれぞれ行儀よく並んでいる。短剣は長さ一尺くらいだが、長剣は少なく見積もっても有に三尺弱はある。真ん中にある剣はまるでその両者を取り持っているかのようだった。思わず鞘を抜きたい衝動に駆られた。どんな拵えなのか見てみたかった。
「素晴らしい。いや実に素晴らしい」
何が素晴らしいのかイリナにはさっぱり判らない。静まり返った店内で男が鳴らす靴音だけが響いている。
「ご宿泊されますか?」
「はい、お願いします」
男は帽子を脱いで軽く頭を下げた。頭は爆竹を破裂させたように爆発している。庇が外れて光が当たった顔はやはり髭が目立っていた。顎先から伸びた髭はあと少しで揉み上げに届きそうだった。
「見た感じでは宿には見えないですよね」
父が苦笑いしながら言った。男も苦笑いして後頭部を掻いた。フケがボロボロと落ちる。
「正直どういう店なのかよく判らなかったですね。これで平屋かせめて二階建てくらいなら食堂かなとも思ったん ですけど、ここは五階建だし。一階を覗いてみたら皆飯食ってるし。印象としては宿と言うより食堂に近かったかな。ただ食堂にしては多少風変わりな作りに見えたけど」
宿屋か食堂か建物の外観だけで判断するとしたら、確かにこの男の言う通りだった。それは否定のしようがない。木造の五階建、その一階が食堂で二階以上が客室になっている。男が指摘したように、個室を設けてそこの客に料理を提供するなら平屋か精々二階建てが無難な線だろう。それ以上では客にもこちらにも大きな負担がかかる。故に一階は客に食事を提供する事に重きを置く食堂としての機能がメインだった。宿泊客にも基本的に部屋での食事はお断りしている。どうしてもと言うなら相談にも応じるが、そこまで拘る客にお目にかかった試しも殆どなかった。しかしながら、いくら食堂とは言っても当然宿泊の受付も出来る。ただ平日祝日を問わずこの街の住人に昼日中のこの時間帯から宿泊を申し込む人はまずいない。イリナもここ数ヶ月記憶にない。ましてや、今この街はちょっと、いや相当異常な状態にある。地元の人間以外に宿泊を目的とした客が来ようなどとはついぞ考えもしなかった。商売人としてそれでいいのかと突っ込まれると返す言葉もないが。
脇の空席で昼食を取ろうとしていた母が腰を浮かせた。
「折角いらしたんですから、どうぞ、おかけになって下さい」
席を立とうとした母を男は軽く手を出して制した。
「カウンター、空いてますよね。そこで充分ですよ」
飯時ですから。肩からリュックを外し、朗らかに笑う。リュックが床に落ちた瞬間、爆風が四散するように埃が舞い上がった。近くにいた人が思わず身を逸らせる。
「あ、失礼」
床に下ろしたリュックを右手に掴むと、男は周囲の客に詫びながら一旦店から出た。リュックを改めてバルコニーに置いた男は、空になった両手で体をバンバン叩いた。全身からモウモウと煙、ではなく埃が上がる。よくこれだけ埃まみれで平気な顔をしていられるものだ。片手で持ち上げたリュックを空いた手と足で叩いた。埃をまともに顔に受けても、男は噎せ返る事もなく平然と叩き続けている。
「あの、荷物そこに置いててもいいですか? 汚いし」
「はい、結構ですよ」
如才なく応えた母に、髭面が子供のような笑顔に変わった。年齢がよく判らない。
男は改めて店に入った。よく見ると本当にデカい。父もかなり大柄な方だが、それよりも更に頭半分は大きい。手足もそれに釣り合うように太く長く、そして引き締まっている。全身が筋肉の鎧で覆われているようだった。甲冑を纏った兵士が前進するよりも遥かに砕けた雰囲気でカウンターに近付く。目の前を通り過ぎた時、これまで確実に嗅いだ経験のある酸っぱい臭いが鼻を突いた。この様子だとここ数日まともに風呂に入っていないに違いない。川か沢でもあれば水浴びくらい出来るだろうに、それすらしなかったのだろうか。
カウンターにどっしりと腰を下ろした男の前に、父が水の入ったコップを置く。
「それにしても、よくここが食事をする場所だって判りましたね」
「いや、昼時だから色んなところから飯作る匂いはして来たんですけど、ここが一番美味そうだったんで」
お世辞でも上辺だけのおべんちゃらでもなく、感じた事を素直にそのまま言葉にしたような言い方だった。裏も表もないのではなく、表しかない。父の様子を伺うと、不器用ながらも頬を綻ばせていた。何も考えずに素直になれればどれだけ楽だろうと思える事もあるが、それが叶わないのが現実だった。だったら、この男は一体何なのだろうか。
「あと、気のせいかな、微かに硫黄の臭いもするような気がするんですよね」
「いや、気のせいではないですよ。裏に温泉があります。よろしかったら食事の前に汗を流すのも悪くないと思いますよ」
まさか店に来た客を前にして臭いますとは言えない。遠回しに言うにしてもこれが限度だった。そこに気付くかどうかは甚だ疑問だが。
「確かにそうした方が落ち着いて食えるとは思うんですけど、ここ数日まともな飯を食ってないんでそちらから頂けると非常に有り難いなあと……」
遠慮がちではあるが、そこには妥協を許さない見えない一線が確かに引かれていた。それだけお腹が減っているなら、臭いのは別にして先に空腹を満たすべきだろう。彼がここに来た最大の目的は入浴ではなくそこにある。
それにしても、
「ここの匂いが一番美味そうだってのは判ったけど、そもそもよくそれが判ったなと言うか、鼻に届いたな」
一体どういう嗅覚なのか。
テーブルのすぐ隣のカウンターに腰を下ろした男に、ヨハンは旧知の友人に接するように極自然に話しかけた。こいつは基本的に人見知りというものをしない。初対面の時からそうだった。開けっ広げ過ぎて、逆に相手の緊張や遠慮が何処かに消し飛んでしまう。
「これだけいい香りなら嫌でも匂うよ。飯時ってのもあるだろうけど、ここが一番美味そうだったし。他と比べると匂いの種類が明らかに多かったからな」
匂いをかぎ分けられるという事だろうか。だとすると、どれだけ鼻が利くのだろう。実際、温泉から湧く硫黄の匂いも捉えている。犬には及ばないだろうが、それでも並みの嗅覚ではない。
不意に、男のお腹からグゥ~という音が轟いた。周囲にいた人達は弾けたように笑い出した。ひとえに、それだけ空腹という事だろう。
「ご注文は、何になさいますか?」
母が差し出したメニューを、男は少ない小遣いを上手に遣り繰りする子供のような真剣な眼差しで捲っている。肉か野菜か、ご飯かパスタか。テーブルに肘を突くと、もどかしそうに空いた右手の指先で叩き始めた。どれにすべきか、物凄く真面目に、そして真剣に悩んでいる。 すぐ食事にはありつきたいけど 好きなものを、美味しいものを食べたい。お腹が空いていると言うより、それくらい食べる事が好きなのだろう。すぐに決まらないと察した父は軽く会釈するとテーブルから離れる。
「イリナ、まだ空腹は我慢出来るか?」
「出来るけど、どうして?」
首を傾げたイリナに、父は仕方なさそうに笑いながらまだ悩んでいる男を見た。
「俺とイリナの分、あの方に差し上げてもいいかなと思ってな」
「別に私は構わないけど」
父の背後で話を聞いていたカティの顔色が曇った。詰め寄って抗議しようとした娘の頭に父は優しく手を置く。
「カティはライザと先に食べてなさい。差し上げるのは俺とイリナの分だけだから気にしなくていいよ」
「違う! そういう事じゃなくて!」
カティから言わせれば全くトンチンカンな受け答えだった。隣にいる母も呆れたような顔で肩を竦めている。
「私達に食べて欲しいのよ」
あ。という顔をして父の表情が一瞬固まる。全く、本当に子供心が判ってない。こういうところは昔から変わらない。
「元々私達が食べるために作ったものでしょ? 彼が本当に腹ペコなのは判るけど、頼まれたのならともかくそうでないならそこまで急ぐ事もないんじゃない?」
「ま、確かにそういう考え方もあるよな」
たしなめる母の言葉に、父は腕を組んだまま宙を睨んだ。
「ただ、お客様に召し上がって頂いて率直な意見を聞くのも悪くはないと思うけどなあ。どの道、いずれお客に召し上がって頂く事になる訳だし」
同意を求めるように片目を瞑る。確かに、そう言われると返す言葉に詰まる。今はまだ修行中の身だ。その期間が短いに越した事はない。それを先伸ばしにするか少しでも縮めるか。
「ここで押し問答してても始まらないな」
グラスに水を注ぐと、父はまだメニューを決めかねている男のテーブルに置く。
「お決まりですか?」
「いえ、まだ……」
メニューと睨めっこしたまま、男は身動ぎもせずに言った。ここまで真剣に悩んでくれると何だかそれだけで嬉しくなる。食べるどころかまだ作ってすらいないのに。
「ご希望に添えるかどうかは判りませんが、今すぐご用意出来るものもあります。お客様さえよろしければすぐにお持ち致しますよ」
男はメニューを閉じると俯き加減のままこめかみの辺りをコリコリ掻いた。急かされていると思ったのかも知れない。
「正直どれも美味そうなんで決めかねてたんですよ。そうですね、逆にそうして頂けると助かります」
座ったまま申し訳なさそうに頭を下げる。見た目とは裏腹に、案外腰は低いのかも知れない。それにしても、いつまで悩むつもりだったのだろう。放っておいたらメニューの料理全てを注文されそうで怖い。
「だそうだ。すぐに温めて」
飽くまで父は淡々と言った。目の前に客がいなければ思い切り肩を竦めていたところだ。露骨にムッツリとした顔をして席を立とうとしたカティの間に割って入ると、やはり隣にいた母も先に立ち上がって妹を制した。
「疲れてるでしょ? あなたは先に食べてなさい」
「でも!」
「いいからあんたはしばらく座ってじっとしてなさい」
上から見下ろしながら有無を言わさぬ口調でジッと睨む。カティはそれ以上何も言わず、黙って椅子に腰を下ろした。逆らって敵う訳がないのだ。それは身に染みて承知している。それを逆手に取った事に若干の後ろめたさを感じながら、イリナは空のグラスに水を注ぐ。男の前に置くと、店に入って来た時のように軽く手を上げて頭を下げた。
「お疲れかい?」
男はグラスを唇につけたまま明日の天気でも聞くように言った。
「少しね。さっきから立ちっぱなしの動きっぱなしだから」
「だったら少し休むのも悪くないだろ。その方が効率も上がるしさ」
視界の片隅に厨房に向かう父と母の姿が見えた。母はさっきまで食べようとしていた料理を間仕切りの棚の上に置いた。それを厨房から手に取った父は再び鍋に落とす。ホンの一瞬だけ、何かを警戒するような目でこちらを睨んだが、すぐに首を引っ込めるとそれっきり出て来なかった。
「忙しいなら仕方ないけど」
「じゃ、お言葉に甘えさせてもらおうかしら」
イリナは男と一つ開けた席に腰を下ろした。新手のナンパかも知れない。と一瞬思ったが、そういう連中が必死に出すまいとする下心がこの男からは見えない。気の合う仲間に酒を勧めるような気安さだった。でも馴れ馴れしさは感じない。
「なあ、あんた何処から来たんだ?」
隣のテーブルにいたヨハンが警戒心や緊張とは全く無縁な口調で聞く。どうしてこいつはこうも開けっ広げなのか。
「あんたね、初対面の人を相手にどうしてそこまで無警戒になれるのよ。相手が緊張するとか逃げ腰になるとか考えないの?」
相手の反応を考慮せずモノを言うからストレスも溜まらないのだろう。こいつが能天気な理由がようやく判った気がした。その隣では親方がうんざりとした様子で溜め息を吐いている。
「別に普通に聞いてるだけだろうが。いちいち横から口挟むなよ」
「それの何処が普通なのよ。相手の反応とか気持ちなんか欠片も考えてないじゃない」
「何だ、お二人さん随分仲がいいねえ。恋人同士かい?」
「冗談。誰がこんな無神経男なんか恋人にしますか」
「誰が無神経男だ、この怪力女」
「聞きたい事だけズケズケ聞いてりゃ充分無神経だろ」
最後の一口を口の中に放り込むと、親方は果物の種を吐き捨てるように言った。
「お前はもう少し相手をよく見てから話をした方がいいかもな」
いいかもではなく事実その通りだとイリナは思うが、断定しない辺りにやっぱり親方のヨハンに対する愛情を感じる。何だかんだで弟子は可愛いのだろう。
「他の人がどう思うかは知らないけど、俺そういう事は別に気にしないから」
手をヒラヒラさせながらあっけらかんとして言った。気を遣っている訳でも空気を読んだ訳でも何でもなく、純粋に気にしていない。この男も同類項なのかも知れない。
「積極的に用があって寄ったとかそういう訳じゃなくて、単純に道に迷っただけなんだけどな」
面白味の欠片もない回答だが、事情を知っている人ならまずこの街には近付かないだろう。実際に街の外の様子を目にした訳ではないからどのような状況なのかはイリナにも判らないが。そういう意味では、この街だけに止まらず彼はこの界隈の土地やその事情をを全く知らない。確かに、何処からどう見ても根無し草のような雰囲気しか感じない。
「ところで、この店の雰囲気は和やかでホッとするけど、街は何だか随分殺伐としてるんだな。俺がこんな事言うのもおかしいけど、帯刀してる兵士崩れみたいな連中がウロウロしてるし。自警団にしちゃガラも目付きも悪すぎるしな」
あいつら何?
何気無く口にした言葉には違いなかった。だが、それまで和やかだった店内の雰囲気が透明な水にインクを垂らしたように一瞬にしてイビツなものに姿を変えた。すぐ脇のテーブルでは、カティがスプーンを握っていた手を止めると口に運ぶ事もなく皿の隅に置いた。親方は腕を組んだまま口をへの字に曲げている。 周囲を見回しても、誰もがどういう表情をしていいのか判らずに、ぎこちなく表情を歪めている。少なくとも笑っている人は一人もいない。あいつらを歓迎する輩など、何処を探してもいる訳がないのだ。
背凭れに背中を預けると、男は事の他大きく鼻から息を吸い込んだ。厨房から料理を両手に持った父が皿を静かにカウンターに置く。鼻が利くのか、それとも空腹の成せる技なのか。そっと横顔を伺う。相当空腹だったのだろう、さっきとは目の色が違う。
「お待たせしました」
カウンター越しに声を掛けた父に深々と頭を下げる。前に皿を置くと両手を合わせて目を閉じた。
「頂きます」
外見に似合わず律儀だった。身なりを整えればそれなりにまともにもなるだろうが、埃と泥にまみれた格好を意に介さず食事するところを見ると、そんな日が来る事は恐らく一生ないだろうなと思った。
スプーンで掬ったオニオンスープを口に運ぶ。スプーンを咥えた瞬間、顔がクシャクシャになった。思わず胸の辺りがギクリとする。確かに、手際はともかく、カティは筋はそこまで悪くない。基本的な味付けをしくじるような事は絶対にしないはずだ。作った張本人も改めて食事の手を休めて男の一挙一動を、固唾を呑んで見守っている。一番緊張する瞬間だ。手で顔全体をズルリと撫でる。目元の辺りが潤んでいるのを見て驚いた。すぐさま二口目を掬って口に運ぶ。飲み込んだと思ったら、今度はご飯を盛大に掻き込んでいる。咀嚼している間に野菜炒めを箸で摘まんでご飯に載せ、胃に落ちたと思ったらすぐさまそれを口に運ぶ。バイタリティー溢れる食べ方だった。手が全く休む事をしない。
「何か、無茶苦茶嬉しそうだな」
「うん」
元気いっぱいにモグモグしながら男は言った。
「幸せ」
声を掛けたはいいが、その先が続かなかった。無神経を絵に描いたようなヨハンでも、ここまで夢中で空腹を満たそうとしている人を妨害するような真似は出来ないのだろう。もっとも、声を掛けたとしても耳には入りそうになかった。今は何を言っても右から左に違いない。
店にいる誰もが男の食事風景をただ呆然と眺めていた。掛ける言葉が見つからない。一体どれだけお腹を空かせていたのだろうか。
「カティ」
カウンターから身を乗り出すと、父は妹に囁くような声で言った。
「悪いが、食事が済んだらすぐ厨房に戻ってくれ」
出来るか? 笑いながら首を傾げた父に、妹ははしゃぎたいのを懸命に我慢する子供のような顔をして頷いた。釘を刺さなければ本当にガッツポーズをしそうだった。気持ちは限りなくそこに近いところにある。
「で」
剥いた鮭の皮で巻いたご飯を口に運びながら男は言った。
「何者なのよ、あの柄の悪い連中は」
「部外者ですよ」
腕を組んだ父はうんざりしたように顔をしかめた。その受け答えはいかがなものかと思うが、意味合いは間違っていない。部外者である以上にただの邪魔者でしかないのだが。
「その部外者がこの街で、何でまたそんなデカい面して歩いてんですか?」
父は男のグラスに水を継ぎ足す。別のグラスに水を注ぐと、今度はそれを男とイリナの間に置いた。
「隣、よろしいですか」
「どうぞどうぞ」
激しく顎を上下させながら男は言った。父がカウンターから客席に来る間も食事の手を止める気配は窺えなかった。
男とイリナの間の椅子に腰を下ろした父は、これから使う言葉を探すようにしてゆっくりと溜め息を吐いた。
「今でこそ寂れちゃいますが、一昔前までは結構この街も栄えてたんですよ」
もっとも、私はその頃この街にはいませんでしたが。父はグラスの水で口を湿した。その頃この街にいた男は子供と老人くらいなものだった、と幼い頃に母から聞いた記憶がある。
「一昔前ってのは、大体どれくらい前の事なんですか?」
「統一戦争真っ盛りの頃ですよ」
スプーンで掬うのが面倒になったのか、スープの入った器を両手で持った男は縁につけていた唇を離すとカウンターに置いた。
「街の立地自体は決して良くはない。でも、だからでこそ前線になるような事は絶対になかった。むしろ、前線への物資の供給や兵士の休憩にこの街が当てられた」
「中継地点ですか」
父は黙って頷いた。男もそれ以上口を挟む事はしない。スープを啜る音だけが聞こえる。
「前線でなくても、中継地点として担っていた役割が大きければ叩かれる事もあったんでしょうが、ここは良くも 悪くも酷く中途半端だった。相手からしてみればわざわざ兵と時間を割いて襲うだけの価値もなかった」
だから、戦禍を免れる事が出来た。実際、イリナ達家族が暮らしているこの店も幾度か手は加えているものの大部分は元からあるままの姿で今を迎えている。正確にいつ建てられたものなのかもハッキリと把握していない。それがこうして今でもその姿を残している。当時の事情を考えれば何の前触れもなく何百何千もの兵士が突然雪崩れ込み、一夜にして焦土と化した土地などそれこそ枚挙に暇がない。生まれてからある程度年を経てからそんな事実を知った時、時代に置き去りにされたようなこの街に生まれた事を初めて幸運だと思った。
だが、その時ここに残された余計な置き土産が災いの種になっている事もまた事実だった。それを思うと素直には喜べない。
「その時、領主がここに砦を建てたんですよ。前線に備えるためにも兵士が休める場所を与える必要がありましたからね」
「それがまだ残ってるんですか?」
「ええ。街の北側にある山の上に」
「全体を見下ろせそうな場所ですね」
男にどんな意図があって口にした言葉なのかは判らない。だが実際その通りだった。もっとも、本来そこから見張るべき場所は勿論街ではなく、外敵への監視が主だった。多少はそういう意味合いもあるが、当時に比べれば今は全くその逆になっている。
「戦時中は勿論ですが、戦後もしばらくは使われていました。戦争が終わったとは言っても、何処もかしこも治安はまだまだ不安定でしたからね」
そうでしょう? 父は男の目を覗き込むと同意を求めるように笑った。男も苦笑いして髭だらけの顎を掻き毟る。
「その頃はまだこの街にも人の行き来があった。街道からかなり外れたところですが、都会の喧騒を逃れるためにわざわざ足を運ぶような奇特な方も何人かいましたしね」
そう言えば、もう何年も前にそういう物好きがここに来てやたら感激していた記憶がある。都会で生活している人間からすれば、ここは穴場的な位置付けに当たるようだった。馬鹿にされているようにも聞こえたが、特別腹も立たなかった。見方は人それぞれだ。
今思えば、そんな風に旅行者が当たり前の顔をしてこの店に来てくれた時が随分と懐かしく感じられる。あいつらがこの街に来てからはとんと見られなくなった。人の往来が途絶え、空気は荒み、やがて活気も失われていく。 だから、せめてこの店に来てくれた時だけはそういう気持ちを忘れて欲しかった。 仏頂面より、笑ってくれた方が絶対いいに決まっている。
「でも、その砦が大きな災厄をもたらす元凶になったんですよ」
男は空になった器をカウンターに置くと暇を弄ぶように空いた手をブラブラさせている。父は脇のテーブルに座っていたカティを見た。目が合うと厨房に戻るよう催促する。
「まだありますが、いかがですか?」
「お願いします」
ご飯が盛られていた大きめの器を差し出しながら男は言った。待ってましたと言いたくなるような反応だった。父がずっと話していたから言い出しづらかったのかも知れない。しかし、二人前の料理を数分でペロリと平らげてはいるがにまだまだ満腹とは言い難い雰囲気だった。むしろここからが本番と言う気さえする。並の胃袋の持ち主ではない。僅かに残っていた鮭を素早く口に放り込むと空になった皿をおずおずと父に差し出す。
「これも一緒にいいですか?」
父は相好を崩すと右手の小指でコリコリ頬を掻いた。イリナも込み上げそうになった笑い声を慌てて口を塞いで抑え込む。ここまで真面目に一生懸命食べる人を見るのは久し振りだった。見ているこっちまで食べるのを応援したくなる。
立ち上がろうとしたイリナに、父は手を差し出して首をゆっくりと横に振った。
「もう少し休憩しなさい。その方が集中力も効率も上がる」
「だったら、父さんもその方がいいんじゃないの?」
「俺はもう十分休んだよ」
父は椅子から立ち上がると男に軽く一礼する。彼への説明の続きは誰がすればいいのよ、と言おうとした時には暖簾を別けて厨房に入るところだった。イリナは半分浮かせていた腰を最近ガタつき始めて来た椅子に再び据えた。
「何処まで話したっけ?」
完全にタメ口になっていたが気にしなかった。男も至って平然としている。むしろ余計な力が抜けた分、話しやすそうに見えた。
「砦がどうとか、ってところまで」
「ああ、そうだったわね」
そこまで進んでいれば多少は楽だった。ただ、それ以降は非常に話しづらいのだが。
「何処の誰から聞いたのかなんて知らないけど、ロクでもない暇人共がその砦に目を付けたの。傭兵崩れみたいな奴とか、仕官出来ずに浪人やってるような連中とか」
「まあ、後は賞金首なんかもいるだろうなあ」
ヨハンの隣で黙って腕を組んでいた親方が口を開いた。
「ゴロツキ共の集まりさ。そういう大馬鹿者共が大挙して押し寄せて来たと思ったら、その砦を根城に好き勝手やり始めた訳よ」
「でも、この街を治めていた領主が建てたのであれば、当然その後の管理もそこがやる訳でしょ? いくら手薄になっていても、そんなところを自分達のものにするなんて……」
「終戦と同時にそれを手放したんだよ。放棄と言った方がいいな。元々辺境の土地に立てられた小さな砦だ、人と時間と金を割いて管理するのが馬鹿らしくなったんだろうな」
普段口数が少ないせいか、要所要所を押さえて淡々と話すので聞いていて楽だった。ヨハンとは日常的にこんな風に話しているのだろうか。
「空になった砦は、ここにも一応自警団みたいなものはいたからその人達が使ってたの。だから全盛期ほどではないにしても誰かしらがそこにいた」
「まず奴らはそこにいた自警団を全員殺した。その後は街の住民を拐って牢屋にぶちこんだ」
親方は苦々しく顔をしかめたままだった。誰も口を利こうとしない。やり忘れた仕事を思い出したように気不味い沈黙だけが重苦しくのし掛かる。
「牢には何人くらい収容されてるんですか?」
「大体五十人前後かな」
「それが現在の人質の人数って事ですね」
誰も返事はしなかった。それを見越していたのか、男は考え事でもするようにボンヤリと宙に視線を漂わせていた。居眠りでもするようにだらしなく曲がっていた背中が不意に真っ直ぐになった。
「だから、悪い事は言わない。あなたもここで食事を済ませたらすぐにこの街から離れた方がいい」
厄介事に巻き込まれたくないならね。父は料理の載った皿を男の前に置くと、申し訳なさそうに言った。
「もしこの後奴らに見付からずにここから出られたら、最寄りの街に行ってここの現状を伝えた上で助けを求めて欲しい」
事情を何一つ知らなかった男には気の毒だが、この街の住民からして見れば彼の来訪は願ってもないチャンスなのだ。奴らに知られずに外部に助けを求める事が出来れば、今のこの状況を打開する足掛かりになる。飽くまで、見つからなければの話だが。
「これまでにこの街の住民がそういう行動に出た事はないんですか?」
「あるよ。でも、すぐに見つかって殺された。その家族も含めてね。それから夜の見回りが更に強化されたし、恐ろしくて誰もそんな事は出来なくなった」
父は遣り切れないとでも言うように大きく息を吐くと、汗が滲んだ前髪の生え際を右手で少し乱暴に掻き毟った。こんな片田舎の街を牛耳ったところで、一体何のメリットがあるのだろう。思うがままに好き勝手に出来る事は奴らにとってそこまで魅力的なのか。だとしたら理解に苦しむ。そんな下らない事のために平然と人が殺せるのだとすれば、やはりイリナの理解を遥かに越えている。元より理解する気も更々ないのだが。
男は合わせた両手の親指と人差し指の間に箸を挟むと改めて頭を下げた。頂きますの仕切り直しと言ったところだろうか。
「取り敢えず、こいつを片付けてもいいですか」
料理の盛られた器を手に持つと、実に嬉しそうに口に運ぶ。緊迫感はおろか、焦った様子も動揺した素振りもない。空腹を満たす事を純粋に楽しんでいる。
継ぐべき言葉が見つからなかったのか、父が間を取るようにぎこちなく咳払いした。男は無心で箸を動かしていた。顔を上げる気配すらない。
「これ美味しいです、凄く」
「ありがとうございます」
父が背中をギクシャクさせながら会釈した。カウンター越しに厨房を覗く。こちらに背中を向けている妹は声を出さずにガッツポーズしていた。
イリナは壁の掛け時計を見た。昼の一時までにはまだにはかなり間がある。その間いつ奴らがここに来るか判らない。父も同じ事を考えているのか、時折指先でカウンターを叩きながら男の食事風景を見守っている。
でも。
たまたま折悪しくこの街に来てしまった彼にそこまで求める事にいくらか躊躇いを感じるのも事実だった。今、この街は確かに危機的な状況に置かれている。現状を打破する手立てが少しでもあればそれに縋りたいと思うのは人情だろう。だが、全く関係のない彼をそれに巻き込むのは胸が痛む。出来る事なら、この後誰にも見付からず無事に逃げおおせて欲しい。そして誰かに助けを求めてくれれば。正直、のんびり飯を食ってる場合じゃないだろうと背中を蹴飛ばしたい気持ちも若干、いや相当ある。でも、出来ない。こんなに美味しそうに、そして楽しそうに食事をしている人の邪魔なんて、イリナには絶対に出来ない。出来る事なら何泊かして欲しい。宿を営む人間として、純粋にそう思った。
バルコニーの階段を上がる音が背後で聞こえた。続いて軋んだ音を立ててスイングドアが開く。見覚えのある品のない顔が二つ、下卑た笑みを浮かべて立っていた。
「いらっしゃいませ」
普段と殆ど変わらない声音で父が挨拶した。背中を向けていて良かったとイリナは思った。しかめた顔など見られた訳がないし、舌打ちこそしたもののこの距離ならまず聞こえないはずだ。一方、父は仏頂面を晒す事もしなければ落胆している様子もない。どうしてここまで平然としていられるのか判らない。
「客が来たんだからもう少し嬉しそうな顔しろよ」
「既に十分嬉しいですよ。ただそれが顔に出ない質なんで」
そういう嘘八百を笑いながら言えるところを見ると、やはり年の功の成せる業なのだろう。素直に羨ましいなと思った。
「なんだ、満席かよ」
腰から提げていた剣を差し直した方が言った。極端に背が低い。頭はかなり寂しい状態で頭皮の占める割合の方が遥かに高かった。それを笑いに変えるだけの器量もない上にこれだけ態度がでかければ女からはまず相手にされないだろう。客でなければ鼻っ柱に拳を入れているところだ。
もう一方の兵士も片割れと比べれば遥かに大柄だった。だが態度にも雰囲気にも品性と言うものが感じられない。そして足が極端に短い。体はでかいがその大半を胴体が占めている。子供の頃から短足と詰られ続けていたであろう事は想像に難くない。頭に回るべき栄養が体に行き過ぎてしまった典型のような風貌だった。こんな所で無駄に威張り腐るだけなら何処かの劇場で漫才でもやらせた方が遥かにお似合いだった。客は一人も来ないだろうが。
二人は我が家に帰って来たような気安さで店内をぐるりと見回すと、カウンターにいた先客に目を留めた。
「なんだお前」
初対面の相手に対して吐く言葉ではない。
「ただの客だよ」
「だから、ここで何してるのかって聞いてんだよ」
「飯食ってる」
目も向けない。二人が件の連中の一味なのは明白だろうに、それを気にかける様子もなく純粋に食べる事に集中している。初めて父の顔が引きつった。
「んなこた見れば判るんだよ。何者だって聞いてんだからさっさと応えろよ」
「旅の者だよ」
嘘ではない。だが馬鹿者二人組が求めていた回答でない事も確かだった。
「別にいいだろうが。こっちは飯食いに来たんだから他人は放っとけば」
その通りだった。たまにはまともな事を言う。常にそうなら有り難いのだが。いきり立つ連れの肩を軽く叩くと、短足兵士は男と一つ席を空けたところに座ると注文を催促するようにカウンターを叩いた。
「取り敢えず、酒な」
真っ昼間から酒かよ。全く、結構なご身分だ。いかにも下っ端的な雰囲気を漂わせている癖に、やる事は無駄に見栄っ張りだから余計に小物っぽく見える。実際小物だった。なのに態度だけはでかい。どうにかして欲しいなあと思いながら椅子から腰を浮かせた。
「ご注文、何になさいます?」
胸ポケットから伝票を出すとオーダーを確認する。誰に対してもやるべき事だが、こいつらが相手だと明らかにテンションが下がる。声のトーンも相当落ちた。
「酒のつまみになりそうなものなら何でもいい」
思わずイラッと来たが、顔には出さずに何とか踏み留まる。だが目尻が痙攣するのは抑えられなかった。じゃあお前が思うつまみになりそうなものってなんだよ、もっと具体的に言えよ。だったら思い切り値が張るものを用意したとしても文句を言われる筋合いはない。実際にやったら確実にトラブルに発展するだろうが。
「じゃ、お薦めのもの、ご用意しますね」
苛つく気持ちを抑えつつ、極力にこやかに言った。そのままの姿勢で一歩下がると踵を返して厨房に向かう。こいつらの手の届く範囲に近付かない事が第一だが、仕事上それが叶わない事もある。ならば、少なくとも背中は見せてはいけない。このスケベジジイ共が。ハエを叩く振りをしてお盆でひっぱたいてやろうと思った事はそれこそ一度や二度ではない。
「酒のつまみを適当にだって」
「もう用意してある」
父は出来上がったつまみを皿に盛り付けながら言った。速い。
「よく注文も取らずに作れるわね」
「ああいう輩が考えそうな事くらい想像つくさ」
薄切りにした鶏肉に塩コショウをまぶし油でサッと炒めただけだった。後は細かく刻んだ唐辛子を少しだけ振りかける。唐辛子は人に依って好みが分かれるところだ。イリナだったら振りかける事はせずに皿の隅に添えるだけにする。そうすれば、それを使うかどうかを客自身で選ぶ事が出来るからだ。
「酒が呑みたいって言うなら呑ますさ」
調理器具を流しに置きながら父は言った。
「だったら、さっさと酔っ払ってもらって出てってくれた方が助かる」
もう一皿に盛り付けたつまみをイリナに手渡す。辛さで喉が渇けばその分酒も進む。成程、それで唐辛子を使ったのか。
取り敢えずやるべき事さえしっかりやっていれば、まず文句は言われない。よしんば出たとしても、最低限の筋を通している事くらいは相手に伝わる。それでもまだガタガタ言いたいなら好きにやらせればいい。いつだったか、父にそんな事を言われた。商売人としての義務を全うしろ、と言う事だろうか。父にその真意を確かめた事はないが、イリナはそう解釈している。どんな相手でも、それが厄介な奴なら尚更、相手に付け入る隙を与えるな、という事だろう。全く、筋が通り過ぎていてぐうの音もでない。ただ、あんな馬鹿連中相手を下手に焚き付けて時間を無駄にするくらいならば、取れるものはさっさと取って叩き出し方が余程いい。何より経済的だ。
「ところで、母さんは?」
「地下の倉庫に酒を取りに行ってる。夜までに用意しておけばいいと思ってたんだが」
甘かったな。父は顔をしかめて舌打ちした。昼日中から呑めれば酒呑みには最高だろう。だが実際にそれを行動に移すかどうかは別だった。考えていたら腹が立って来た。
父が作ったつまみを運ぼうと間仕切りの棚の上を見て眉間に皺が寄る。皿がない。見るとカティがその皿を持って客席に向かっていた。前にカウンター越しに料理を渡そうとして思い切り怒鳴られたばかりなのにその借りを返すように率先して前に出る根性は褒められるが、相手を選ぶだけの観察力と冷静さはまだ養われていないようだ。父が静止する声を上げるより先に、イリナは厨房から飛び出していた。
すぐにカティの背中が見えた。カウンターではなく客席に向かう。ちょっと胸を撫で下ろしたが、まさか客に提供する直前に横から割って入る訳にも行かない。不自然に思われないくらいの速さで走った上で余裕を持って追いつけなければ意味がない。だが、こちらの思惑など全く意に介さずカティはカウンターの向こう側に廻ると二人組の丁度間に立った。失礼します、と一つ会釈する。ここまで来たらもう止められない。顔を上げたカティが皿をカウンターに置こうと前に出た瞬間、皿が割れる派手な音が響いた。同時に「あちちち!」と言う品のない声が耳に入る。
短足が太股に載っていた鶏肉を手で払い除けた。床に落ちたそれを靴底で思い切り踏み潰す。床に倒れ込んでいたカティの首根っこを乱暴に掴むと無理矢理立たせた。今度は襟首を掴み上げる。
「てめえ、何しやがんだ!」
「す、すみませんでした! 足が何かに引っ掛かって……」
「下らねぇ言い訳してんじゃねえよ! 火傷したじゃねえか、どうしてくれんだよ、コラァ!」
こいつらっ……!
不自然に倒れたとは思ったが、そんな汚ない真似をしてまで因縁吹っ掛けて来るなんて、ホントにこいつら人間のクズだ。首筋から耳にかけて火が点いたように熱くなる。
仕事の性質上、過程はともかく結果だけ見れば頭を下げるべきところだろう。申し訳ございませんでしたと深く腰を折れば大抵の人はそれで納得してくれる。だがこいつらは普通の人間ではない。そんな奴らに筋を通す道理などない。
カウンター越しにカティの顔を見る。今にも泣き出しそうだった。まずは頭を下げろと僅かばかり残っている理性が叫んでいるが、感情が頑なにそれを拒んでいた。 カウンターの縁に右手を置くと同時に一気に躍り越える。
「イリナ!」
一喝する父の声を聞いて初めて我に返った。険しい表情をした父がこちらを睨んでいる。カティは助けを乞うような目で父とイリナを交互に見た。今にも涙が零れそうな目だった。二人組は父とイリナを交互に見ると、文字通り鼻で笑った。耳や首筋を通り越して、全身が熱くなった。拳を思い切り握り締める。腕がガクガクと音を立てて震えた。視界の片隅で誰かが椅子から立ち上がるのが見えた。ヨハンだった。目が合う。イリナと同様拳を握り締め、更に腕捲りしていた。イリナも頷き返した。前に視線を戻してちょっと仰け反った。目の前に巨大な壁が立っていた。否、壁ではなく背中だった。 壁は機敏なのか緩慢なのか判断しかねる速さで歩くと、カティの襟首を掴んでいる腕を鷲掴みにした。それをそのまま捻り上げる。
「あいてててて!」
堪らずカティの襟首を掴んでいた手を放した。さっきまで威勢が良かっただけに、叫ぶ声が殊更情けなく聞こえる。
「人が飯食ってる脇でさっきからガタガタうるさいんだよ」
握る手に更に力を込めたのか、悲鳴のトーンが上がった。男はお構い無しに腕を締め上げる。
「何だコラァ、てめえには関係ね……」
「お前もうるさい」
途中まで言いかけたところで男は大柄な方の兵士の口を掴んだ。
「少し黙ってろ」
兵士の足が何の抵抗もなく浮いた。まるで重さを感じさせない。口を思い切り押さえ付けられているので呻き声すら満足に上げられない。せめてもの抵抗なのか、足だけバタバタさせているが子供が駄々をこねているようにしか見えなかった。
「黙れって言ってるんだけど」
聞こえない? 男は持ち上げている兵士を横目で睨んだ。何かが軋むような音が微かに聞こえる。兵士の呻き声が悲鳴に変わった。顔が顎の関節周辺を中心にして少しずつ歪み始めている。顎を握る手にちょっとずつ力を加えているのだろう。万力の中に突っ込んだ顔をゆっくり締め上げるのと何ら変わらない。考えてゾッとした。痛みか、それとも顔を破壊される恐怖に依るものか、見開かれた兵士の目から涙が流れていた。
腕を取られている兵士が苦しげな声を上げ始めた。両手に込めている力を微妙に調整している。抜くのではなく、入れる方に。
「とっとと失せろ」
クソ野郎共が。男は左手に大男を掲げ、右手に一人を引き摺りながら入口に向かって歩いて空く。側のテーブルについていた客は椅子から立ち上がって道を譲る。男は一人一人に軽く手を上げて詫びを入れながらスイングドアを押すと店から出た。
「邪魔」
言うが早いか、腕を掴んでいた兵士の腹を立て付けが悪くなったドアを蹴破るような感じで蹴飛ばした。
私は今お腹を思い切り強く蹴られましたと言う事を殊更大袈裟にアピールするように両手と両足を前に突き出して、大砲の直撃を受けたようなスピードで後方にぶっ飛んで行く。そのままの勢いで向かいの家にあるバルコニーの階段を見事に破壊するとそのままぐったりと動かなくなる。死んだのかも知れない。
「お前も」
そのままゴミをゴミ箱に投げ捨てるように(実際ゴミ同然だが) 、大柄な方を放り捨てる。殆ど喜んでるとしか思えない声を上げながら、理想的な放物線を描いて宙を舞う。悲鳴が少し間延びして来たかなと思い始めた頃、階段を破壊した兵士の上に無事着地、否直撃した。蛙が踏み潰された時の鳴き声を数倍歪めたような声が聞こえた。それっきり完全に動かなくなった。ピクリともしない。
男は掃き掃除を終えた後のようにパンバン手を叩くと、仏頂面を隠そうともせずに再び席に着く。落ち着いて食わせろとか飯が不味くなるとかブツクサ言いながら箸を取ると、やっぱり目を閉じて両手を合わせる。律儀云々ではなく、食事を始めるための儀式なのだろう。千切った鮭をご飯に載せて一緒に口に入れる。ニッコリ笑った顔が殊更印象的だった。どれだけ腹が減ってるんだ。
「兄ちゃん、何か食うかい?」
近くのテーブルにいた馴染み客の一人がメニューを片手に席を立った。
「これ、まだ箸付けてないから良かったらどうだい?」
「箸付けてなくてもそんなもん誰も食べたがらねえよ」
なあ? 同意を求められた男はモグモグしながら首を横に振った。
「だろう? じゃ、これ、遠慮しないで食べてくれ」
「え? いいんですかぁ?」
「いいんだって遠慮なんかしなくて。ささ、こっちも食いな」
「ホントですかぁ? 嬉しいなあ」
カウンターには次々に料理の載った皿が運ばれて来る。イリナは慌てて席を立った。
「イリナ、何か適当に美味そうなもの持って来てくれよ。俺の驕りだから」
さっき以上に適当なオーダーだった。だが素直に頷ける。さっきまで床に倒れ込んでいたカティがいつの間にか厨房に向かって走っていくのが見えた。珍しく立ち直りが早い。これは負けていられないな。
肩越しにカウンターの男を振り返った。箸を忙しなく動かしながら、時折スープを飲んでいる。実に嬉しそうな笑顔だった。
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