第2話 一日目 ~昼~ その壱
固く絞った布巾を広げると、軽く音を立てて皺を伸ばす。綺麗に四角く畳み直した布巾で力を込めてテーブルを拭く。一見綺麗に見えるテーブルだが、もう一度広げた布巾には僅かだが土の混じった埃がしっかり付いている。ま、人の目に見えるものなどこんなものだろう。顕微鏡ほど見えようものなら、使い終わった食器など汚な過ぎて触れる事すら出来なくなる。そうでなくて良かったと馬鹿らしい想像に呆れながら、ダンは腰を屈めて隣のテーブルに手を置く。客がいようがいまいが、テーブルの上はいつも綺麗だった。テーブルを含め、店そのものが汚なかったら誰もそんな所で食事を取ろうとは思わないだろうなだろうなと頭の片隅でのんびり考えながら布巾を握る手に力を込める。
窓から差し込んでいる光は暖かいを通り越して既に暑かった。濡れた手を乾かすには丁度良いかも知れないが、日向ぼっこには明らかに不向きだ。窓枠の形をした光の線が、床に落ちる前に時折不恰好に歪む。モップを握る妻の背中に日の光は無遠慮に降り注いでいた。
不意に妻が顔を上げた。額にうっすら汗が浮かんでいる。
「暑いわね」
「そうだな」
ダンはカウンターに置いていたタオルを手に取るとそれを妻の方に放る。受け取った妻は早速それで額を拭いた。
時折、作業の間隙を縫うようにして木が割れる甲高い音が鼓膜を揺るがしている。驚くのは定期的に聞こえるその音が止まない事だった。薪を切り株の上に置き斧を振り下ろして両断するという一連の作業を機械のように淡々とこなしている。客室の掃除を終えてすぐに取り掛かっているはずだから、少なくとも薪割りを始めてから一時間以上が経過しているはずだが音が途切れる気配は全くなかった。
「暑くないのかな」
「さあ、どうでしょうね」
妻は汗を拭ったタオルを肩に載せると床の拭き掃除を再開した。テーブル同様、床の上にも埃一つない。来る客全てが求めている事はないだろうが、それが彼女の客を迎える上で必要な最低限の義務であり、また商売人としてのささやかな拘りなのかも知れない。それがこうしてこの店には当たり前の形の一つとして浸透している。それがダンには嬉しかった。自分がこの家にいない時から彼女が守り続けて来てくれたものだからだ。それを今更になって改めて口にするのは少し気恥ずかしかった。
薪割りの音が止んだ。薪が割れる音に代わって、今度は紐のようなもので何かをくくる音が聞こえて来た。
「終わったみたいね」
程なくして、束ねた薪を肩に担いだ長女がドアを潜る。
「お疲れ様」
肩にかけていたタオルを受け取ると、イリナはそれで滴る汗を拭いた。首筋に流れる汗が日の光を受けて目映く光っている。
「暑い」
「全くね」
テーブルに置かれていた水差しからコップに水を注ぐと一気に煽る。
「でも、体を鍛えるには丁度良いわ」
およそ年頃の女性らしからぬ発言だが、逆にそれがイリナには相応しかった。
女性にしてはかなり大柄と言っていい。ヒールの高い靴を履けば大抵の男を見下ろす形になる。手足も体格に見合うように長く、全身は引き締まった筋肉で覆われている。履いているジーンズには皺の一つもない。その余地すらない。半袖のジャケットから伸びている腕は女性的な柔らかさよりも彫刻を思わせる逞しさが勝っていた。娘目当てで男が群がるのも判らん訳ではなかった。中には親が目の前にいるのも構わず言い寄る輩もいるので手放しには喜べないのも事実だか。ただ、イリナに限らずダンの娘四人が店の収入に大きく貢献している事も確かだった。昔は可愛らしい娘さんで通っていた四人が、今は立派な看板娘になっている。それが嬉しくもあり、また侘しくもあった。
イリナは顎筋に流れていた汗を指先に絡めて弾いた。滴が日の光を反射しながら宙を舞う。
「カティは?」
「厨房。仕込みの最中よ」
応えた妻の言葉に、イリナは驚いたように目を丸めた後、悪巧みを企てる悪戯小僧のような目で笑った。
「大丈夫かしらね、あの子一人で」
「出来る出来ないは別にして、まずやってみない事には何も始まらないさ」
カティもそれが判っている。だから、昨夜独りでやらせて欲しいという申し出を受けた時、何も言わずに黙って頷いた。失敗したっていい。それをフォローするのが周りの役割だし、本人もそこから学ぶ何かがあればいい。それを本人が判っての事なのだから、外野が不必要に騒ぎ立てる理由など何処にもない。
ただ、やっぱり気になる。
「イリナ、薪の束はあとどれくらいある?」
「数えてないから正確には判らないけど、少なくとも五、六束はあるんじゃない?」
「厨房に持って行こう。俺も手伝う」
極力自然に切り出したつもりだったが、妻と長女は目を合わせると可笑しそうに笑った。途端に首筋から耳にかけて火が点いたように熱くなる。
「心配だから見に行きたいって言えばいいのに」
妻が笑いを堪えながら言った。図星なだけに言い返せない。ごまかすように咳払いをすると、似た者同士の二人は弾けたように大笑いした。
ダンはさっきイリナが床に置いた薪を肩に担ぐ。よくもまあ、これだけの薪をあの短時間で作れるものだ。我が娘ながら正直呆れる。
「先に行くぞ」
黙って行くのも気が引けたので敢えて声を出した。
イリナがお腹を抱えながら目尻に溜まった涙を指先で弾いていた。
カウンターの奥は壁で仕切られている。その隣にある厨房で作った料理を間仕切りの上にある棚に置いて互いにやり取りをしている。出来る事ならカウンターの中で調理がこなせれば何よりなのだが、それはこの店が出来た時からこういう作りになっているのだから今更文句を言っても始まらない。多少の不便こそあるが、このやり方に全員が慣れてしまっているし、それを敢えて変える事に必要性を見出だせなかった。間仕切りの上は開け放たれていてそこから厨房が覗ける。厨房の手前に娘の背中が見えた。右手で握っている包丁を細かくリズミカルに動かしている。右手の右側で切った白い野菜が積もって小さな山が出来ていた。まな板の前に置いてあるボールには皮を剥いた玉葱が山と積まれている。全てを切り終えるにはまだ若干時間はかかりそうだが、このペースならば一人でこなせるだろう。釜戸に置かれていた鍋の蓋が何かを訴えるようにカタカタ揺れた。玉葱を切っていた手を止めると釜戸から鍋を退けた。蓋を開け、隙間に箸を挟むと改めて玉葱を刻んでいく。さほど距離が離れている訳ではないが、こちらに気付く様子は全く窺えなかった。
「重くないの?」
いつの間にか隣にいたイリナが軽く首を傾げてこちらを見ていた。ダンの左手に視線が注がれている。
「別に、これくらい何でもないよ」
そういう事を言っている訳ではないのは既に充分承知しているが、ダンは気にせず言った。
「床に置けばいいのに」
「音を立てたらカティが気付くだろ。もうしばらく観察したいんだよ」
「あの様子じゃ多少騒いでも気付かないんじゃない?」
「そうかもな」
ダンはずれ落ちそうになった薪を抱え直すと少し上に持ち上げる。左手に負担をかけないよう、右に少しだけ傾けたまま両手で薪を抱え込む。全く意識はしていない。完全に体が覚え込んでいた。
不意に、背中を向けていた娘がこちらに振り向いた。驚いたのか、肩の上で綺麗に切り揃えられた髪が大袈裟に揺れる。
「ビックリしたぁ。いつからそこにいたの?」
「さっきからよ」
イリナは厨房に入ると部屋の隅に薪を置いた。その内の幾つかを束から抜いて釜戸にくべる。
「火が消えかかってるわね、カティ、マッチ取って」
マッチの火を紙に燃え移らせると釜戸の真ん中に置いた。紙の先で燃えていた火が周囲を取り囲んでいる薪にゆっくりと、そして連鎖的に燃え広がっていく。
「さっき炊き上がった以外にお米の用意は?」
「あるよ。隣の鍋に研いだのが入ってる」
取っ手を掴んだイリナはそのまま釜戸の上に鍋を載せる。カティは薪置き場に走ると何本が取って鍋を置いた釜戸にくべた。
昨夜水切りカゴに置いていた食器は全て棚にしまわれている。代わりに、仕込みに使った調理器具が窓から入った日の光を受けて眩しく光っていた。片付けながら作業をこなさなければ、いつまで経っても効率は上がらない。一つの作業を完璧に終わらせて次に移らないと、やり残した事が後で無駄に大きくなって圧し掛かって来る。直近の作業を集中して終わらせた方が結果的にかかる時間は短くなる。やっている最中に他の作業が舞い込んでも、すべき義務が見えていればさほど戸惑う事はない。さすがに、一つの作業をしながら次の作業の流れを事前に考えておくと言った芸当はまだこなせないが、早いうちからあまり多くを望む事もない。中に詰め込むにはまだ経験が絶対的に足りない。それはこれから積めばいいだけの話であって、もっと重要な事が他にある。
「手伝うか?」
「いい、大丈夫」
末娘は玉葱を刻みながら首を横に振った。
「それに、皆もやってる事だし」
だから、私だけ弱音なんて吐いてられない。そうとでも言うように、カティはまな板に落とした視線を逸らす事なく目の前の作業に集中する。
「玉葱刻んだ後に何をやるか、判ってるよな?」
「すぐに炒めたいところだけど、こっちが先だよね?」
カティは苦笑いしながら足元のカゴを爪先で突っつく。玉葱ほどの量ではないが、土が付いたままのジャガイモがゴロゴロ転がっている。それを洗って皮を剥くのが先だった。
切り終えた勢いそのままに炒める方に直行するかと思ったが、順番を把握出来ていた事に内心ちょっと胸を撫で下ろした。玉葱は最低でも一時間は炒めたい。でないと味が出ないからだ。飽くまで最低限の時間であって、短縮出来る類いのものではない。だが、皮剥きは慣れ次第でいくらでもスピードアップ出来る。簡単な仕事から先に手をつけた方が最終的にこなせる作業の量は増える。いつも口癖のように言っている事だ。それをしっかり理解していたのでホッとしたものを感じた。ただ、欲を言うならジャガイモの皮剥きから始めて欲しかった。そうしていれば、玉葱を刻み終えたらそのまま炒める方に移行出来た。そこが姉三人との違いだった。
「お客さんは?」
「気の早いのが来るにしても、まだかなり余裕はあるよ。慌てなくていいからゆっくりやりなさい」
「そっか。じゃあ今日の皆のお昼ご飯、私が作ってもいい?」
「別に無理しなくていいんだぞ。そんなのいくらでも作れるんだから」
末娘は包丁を握る手を止めると笑いながら首を横に振った。
「前、失敗しちゃったでしょ? だから、次はそうならないようにするから私にやらせて」
「本当に上手く出来るの?」
からかい半分に人差し指で頬を突っつく姉に、カティはキッパリと言った。
「でないといつまで経っても出来るようにならないから」
少し大袈裟に目を丸めたイリナは可笑しそうにクスクス笑いながら妹の頭に手を置いた。
「今日は美味しいの作るからね」
目を合わせるとニッコリ笑う。裏も表もない笑顔だった。
素直と言えばそれまで知れない。それでも三人の姉と比べるとそれ以上に幼さが際立つ。子供らしさと言い換えた方が正確かも知れない。そろそろ背伸びをしてもおかしくない年頃だが、本人はどう考えているのだろう。親の立場から言わせてもらえば、少しでも長く今のままでいて欲しかった。時が経つに連れ、やがて失われてしまうものだからだ。自分の手の中にあるものがどんなものなのか、きっと本人も知らないに違いない。
薪を右腕で抱えると空いた左手をカティの頭に載せた。
「無理はするなよ」
「うん」
載せた手をゆっくり前後させると、年端のいかない幼子のように無邪気に笑った。数年前だったら抱き締めるか抱き上げるかしていただろう。
末娘は頭に載った左手を両手で握った。根元の部分から欠けた薬指と小指をすっぽりと包み込む。温かかった。もう完全に塞がっている切断面を撫でて少しだけ顔を曇らせた。
「それじゃ、任せるからしっかり頼むぞ」
離した左手の人差し指で娘の頬を撫でる。視界の片隅に包丁を握り直した娘の横顔が映った。出来る事なら玉葱の残りを刻むかジャガイモの皮を剥くかしたいところだ。だが、それは誰のためにもならない。料理にしても、作る事自体にはそこまで大きな問題はない。ただ、安定しない。上手く行く時もあれば、多少派手な失敗に見舞われる事もある。身内ならそれで済まされる向きもあるだろう。だが、飽くまで商売として客と接する以上、そんな中途半端な気持ちで厨房に立たれては困る。金を返せと言われたら、それこそ返す言葉もない。もっとも、この街でそんな事を言う輩がいるとも思えないが。
だが、それに甘えるつもりは更々なかった。仕事は仕事だ、この店に来てくれるお客にそんな失礼な真似は出来ない。無論、それに関しても例外はある。基本的にあいつらの来店はごめん被りたい。それでも来る。今日も来るだろうか。考えてうんざりした。誰からも歓迎されないのに、歓迎どころか疎まれ大いに嫌われているのに全く意に介さずここに来られる神経がそもそも理解出来ない。やはり、あの手の人間は人として必要な何かが確実に欠けている。
「どうしたの?」
「いや、何でもない」
苦笑いして言うと、イリナは少しだけ眉間に寄った皺を人差し指と中指の先端で揉みほぐしながら首を傾げていた。
「行くか」
「そうね」
掌にまとわりついていた木の屑を払うと、ダンは気を引き締めるように両の頬を平手で叩いた。
人の談笑する声や食器が触れ合う音の間隙を縫うようにして、厨房から肉や野菜を炒める音が聞こえる。注文してからそこまで時間は経っていないにしても、提供する時間が短いに越した事はない。隣では出来上がった料理を両手に持ったカティが足取り軽やかにテーブルに運んでいた。席はカウンター以外ほぼ全て埋まっている。正午前にテーブル席が満席ならば、平日にしては客の入りは上々だった。注文を取っていないテーブルもない。後は料理が出来上がるのを待つだけだ。厨房との間仕切りの棚の上には出来上がった料理が次々と置かれていく。全体的なバランスを考えれば今は厨房に入るべきだろうが、これを捌き切るまで待った方が無難だった。伝票を確認するとすぐに皿を手に取る。戻って来たカティにそれを渡した。
「これ両方とも七番ね」
「判った」
頷く妹に背を向けるとそのまま厨房に取って返す。案の定、棚の上には新たに出来上がった料理が既にいくつか置かれていた。少なくとも、カティが入り込める余地は無さそうだった。まだこのペースに着いて行けるだけの技量はない。
棚の皿を取ると同時に、空いたスペースに出来上がった料理が姿を現した。
「残りは?」
「一番と四番、それと七番。あと、五番はまだあと一品上がってないかな」
「じゃ、これで最後だな」
父は茹でた鶏肉の載った大皿をイリナの目の前にドンと置いた。両手で掴むとゆっくり持ち上げる。これはさすがに片手では運べない。
「空席は?」
「二番だけ」
了解、とだけ言うと、父は手についていた滴を前掛けで拭って厨房から出て来た。棚の上の料理を両手に持って客席に向かう。どれだけ客が来ようと、どれだけ注文が殺到しようと、急ぐ事はあっても決して動じない。淡々と作業をこなして行く後ろ姿にはいつも頼もしさを感じる。もっとも、それを口にした事はない。何度か言おうとした事はあったが、いつも口元がむず痒くなって止めてしまう。だから、父を含めて誰にも言わずにいようと思っている。その内、自然に言える日が来る。そう思う事にした。
「残りは?」
駆け込んで来たカティに、イリナは棚の方を顎で示した。すぐさま残りを手に持つと、カティは回れ右して客席に戻って行く。昔は転びやしないかとヒヤヒヤしたものだが、今ではすっかり慣れたものでどんな重そうな皿でも危なげ無く運んで行く。姉妹の中で一番非力ではあるが決して鈍くはない。抜けた部分がある事は否めないが。
「粗方片付いたみたいね」
振り向くと、母が最後に残った料理を持って客席に向かおうとしていた。あれだけの注文を捌いたばかりだが、別段疲れた様子もない。経験の成せる技だろうか。
「一段落ついたし、カティにお昼でも作ってもらおうかしら」
「そうね」
母はイリナの後に続いて客席に向かう。一見おっとりして見えるが、父と同様、あれだけの量の注文を難なく捌けるだけの経験と処理能力を当たり前のように備えている。自分も含め四人の娘を育て上げただけあって、そこから培って来たものが間違いなく活かされていた。ならば、そんな母と肩を並べて働いている自分は、一体将来どんな人間になるのだろう。胸を張れるような母親になれるだろうか。前に鏡がなくて良かった。こんな顔はたとえ家族であっても見られたくない。他人ならば尚更だった。両手で抱えていた大皿を握り直すと客席に向かう足を速める。しっかり熱が通って解れた鶏肉の香りが鼻から吸い込まれる度にお腹が音を立ててクツクツ動くが、空腹を我慢して仕事に集中する事にはとうの昔に慣れた。この波を越えれば食事にありつけると思えば忍の一文字で耐えるのが商売人としての務めだろう。
客席に入ると馴染みの客の何人かが大袈裟に拍手して出迎えた。慣れた事とは言え、毎回やられると反応に困る。無論、嬉しくないと言えば嘘になるが。
「お待ちどう様」
「遅いよ、イリナ。待ちくたびれたぜ~」
既にテーブルに置かれていた小皿を各々の前に並べ、切り分けるナイフとフォークを隣に添える。一人一人切り分けて差し出すべきか意見が別れそうなところだが、この店は問答無用でセルフサービスだった。この街の住人にそういう事を望む者はいない。別に店に来なくても、この街にいれば大抵何処かで誰かと顔を合わせる。互いに住む家も違うし、当然血の繋がりはない。だが、殆んど家族も同然だった。それほど皆近しく、そして親しかった。
だから、イリナにはそれをぶち壊しにしたあいつらが許せなかった。何のためにここに来たのか、何が目的でこんな真似をするのか。それが判らないから尚更腹立たしかった。ただ、仕事をしている最中にそれを顔に出すのはあまり上手くない。
顔を上げてふぅ、と軽く息を吐く。それまで無駄に突っ張っていた肘や肩から力が抜けた。考えて胸クソが悪くなるくらいなら、そんな事は考えない方がいい。いつだったか、父がそんな事を言っていた。そういう時ほど、やらなければならない事が目の前に転がっている、とも。実際その通りだった。表のスイング・ドアが開いて客が入って来た。
喉元まで出かかっていたいらっしゃいという挨拶は吐き出される事なく登場する機会をなくした。
「よぉ」
入って来た男性二人組の若い方が手を上げて挨拶する。
「なあんだ、ヨハンかあ。もっといい男だったら歓迎してやろうと思ったのに」
「こんないい男捕まえて何言ってやがんだ。お前こそ少しは女らしさってものを磨けよ」
「何ふざけた事抜かしてんだ、この唐変木が」
ヨハンの背後にいた初老の男性が太鼓でも打つように彼の後頭部を叩いた。やたらいい音がした。
「親方さんも、いらっしゃい」
会釈したイリナに、親方と呼ばれた男性は軽く手を上げて応える。
「これはよく来ますけど、お二人で来られるなんて珍しいですね」
「今日は近くで仕入れがあってな」
別にぶっきら棒と言う訳でもないのだが、人より口数が少ないので多少無愛想で偏屈な人物と言う印象を受ける。それでかなり損をして来ているのではと思うのだが、当の本人は別段それを気にかける様子もなく今日も憮然としている。そこが好きだった。
「あ、ヨハンさん。親方さんも。何か二人揃って来店なんて久し振りですね」
食器をテーブルに置いて空になったお盆を前に抱えたカティが会釈した。親方が目尻の皺を更に深くして相好を崩す。
「やあ、カティ。店の手伝いはしっかりやってるかい?」
「見ての通りですよ。さっきから大忙しです」
「何が見ての通りよ。さっきまで捌き切れなくてヒーヒー言ってた癖に」
イリナが人差し指で頭を突っつくとカティはぷうと頬を膨らませた。
「だって本当に大変だったんだもん」
「うちのレンももう少し手伝ってくれれば俺も助かるんだがなあ」
「ほら、親方のところは完全な力仕事だから。レンも奥さんの手伝いはしっかりしてくれてる訳だし。それに、力しか取り柄がないこれもいるんだからそういうのを思い切りこき使ってやればいいんですよ」
「お前、人の事なんだと思ってやがる」
「何って、決まってるじゃない。好きなだけこき使える奉公人みたいなもんでしょ 」
聞くなり、親方は弾けたように大笑いした。
「奉公人か、そりゃいい。そういう訳でヨハン、帰ったらしっかり働けよ」
「言われなくても毎日しっかり働いてますよ」
子供のように唇を搾めたヨハンはカウンターのすぐ脇にあった空席に勝手に座る。
「そっちもしっかり働けよ。客が席に着いたんだからさっさと注文取りに来い」
「まだメニューも決まってないのに偉そうな事言うんじゃないの。ねえ、親方」
親方は頷く代わりにガガガと笑うとヨハンの向かい側の椅子に腰を下ろした。
「たまにゃあこうして外で飯食うのも悪くねえわな」
「やっぱり、一番は女将さんの手料理ですか?」
からかうヨハンを上目遣いに睨み付けて黙らせる。こういうところがこの人の愛すべき点だと改めて思う。
イリナは壁にかかった時計を見た。十二時半前に満席なら、平日にしては客の入りは上々だった。注文もほぼ取り終えている。普段ならばここで一息入れる頃合いだった。だが、今日はまだその支度が出来ていない。
「カティ、ここはいいから厨房戻って。後は私がやっておくから」
「でも、まだ親方さんとヨハンさんの注文取ってないし……」
「そんなの私一人いれば十分よ。私達のお昼、作るんでしょ?」
言われて初めてハッとしたような顔をした。この鈍さは一体誰に似たのだろう。
「でも、いいの?」
「これくらいなんて事ないわよ。後は食べ終えた食器を片付けるだけだしね」
実際それくらいしかやる事がない。他には思い出した頃にカウンターの掃除でもしていればいい。週末はカウンターも含めて全て埋まる事もあるが、平日は稀だった。仮に今それだけの客が来ても十分対応は出来るが。
「それじゃ、よろしくね」
「美味しいの期待してるから。失敗したら承知しないわよ」
おっかなビックリ首を竦めた妹は、お盆を抱えたままそそくさと厨房に姿を消す。
「妹には随分優しいんだな」
「別に。普通よ」
「剣を握ってる時とは大違いだよ。俺が相手してた時はまずあんな顔しなかったぜ」
「そりゃそうよ。飽くまで稽古なんだから。どんな時でも真剣に向き合うのが相手に対する礼儀でしょ」
「で、お前は一度も勝てなかったと」
隣で聞いていた親方が静かに止めを差した。より正確に言えば勝てなかったのではない。一本すら取れなかったのだ。
「どうしてそういう余計な事を言うんですか」
「余計な事も何も、事実だろうが」
親方はメニューから顔を上げもせずに言う。別に悪びれた様子もない。
「曲がりなりにも刃物を扱うのがお前の仕事だろ。それすら満足にこなせなきゃ一人前とは言えねえなあ」
「まだまだ半人前で結構です、修行中の身ですから。それに、こいつにまともに勝てた奴の方が遥かに少ないんですよ? それを忘れないで下さい」
親方は物も言わずにヨハンの後頭部を平手で叩いた。
「そんなの理由になるか。少しは精進しろ」
このボケが。態度にも口調にも遠慮がない。だが、そこにこの人の弟子に対する愛を感じる。本人がどう感じているかは謎だが。当のヨハンはすっかり剥れたように顔を歪めて頬杖を突いていた。小学生か。
どの程度腕が立つのか、正直イリナ自身にもよく判らなかった。少なくとも、この街でイリナが勝てなかったのは師匠を除けば一人しかいなかった。それがどの程度の腕なのか。或いは技量と言える域にすら達していないのかも知れない。あいつらに太刀打ち出来る程度のものなら、いつだって剣を手に取る覚悟はある。ただ自分一人だけでは無理だった。勇敢と無謀の違いくらいは流石に理解している。
「どうした?」
「何が?」
「さっきから凄ぇ物騒な顔してるぜ。久し振りに相手してやろうか?」
「丁度いいわね。私もそう言おうと思ってたトコよ。近々軽くやりましょうか」
「今度は手加減しねえからな」
そう言って負けるのがこの男の常だった。そして懲りない。稽古の相手としては兎も角、憂さ晴らしには打ってつけだった。
「ところで……」
ヨハンは幾分か声のトーンを落とすと周囲の様子を伺った。
「確か今日は開校記念日で休みだったよな。実際カティはここにいる訳だし」
「そうだけど、それがどうかしたの?」
「いや、何でもない」
何でもない訳がない。それを装っているが哀しいまでにバレバレだった。ヨハンがここに来る理由の大半、いや殆ど全てがそこにあった。
「今頃は槍を置いて汗でも拭きながらお昼ご飯食べてるんじゃない?」
そうか、と納得したように頷くと赤点を取った落第生のような顔でメニューに視線を落とした。良くも悪くも純情な男だ。だから何でも気持ちを伝えられる。そういう意味では貴重な存在だった。
「イリナ、注文取っていいかい?」
親方が声をかけた。ヨハンはまだメニューと睨めっこしたまま溜め息を吐いていた。
親方とヨハンの料理が運ばれてからしばらく経っても、イリナ達四人の昼食は姿を見せなかった。二人もある程度のサポートはしているだろうが、これだけ時間がかかるようでは客に出せるのはまだまだ先の話になりそうだった。味付けも、そして手際もそこまで悪くはない。ただ要領が悪いのだ。それだけに勿体なかった。客が食べ終えた食器を片付ける傍ら厨房を何度か覗いたが、包丁を握り締めた妹はまな板の上にある食材と格闘していた。
食器を片付けたテーブルを布巾で拭く。そこに新たに来た客が入る。それを何度か繰り返すうちに、厨房の方からそれらしい香りが漂って来た。注文を取った料理が上がるにしては些か早い。それに、いい加減出来ていないとさすがに困る。
「ちょっと外すね」
周りの客も顔を上げて手を振る。ある程度事情を察していてくれるので正直有り難い。
間仕切りから厨房に顔を覗かせると、カティが出来上がったばかりの野菜炒めを皿に取り分けているところだった。
「お疲れ様」
「ごめん。すっかり遅くなっちゃって」
思いを言葉にするのも面倒だった。正直な気持ちを伝える事には何の意味もない。当の本人がそれを何より理解しているからだ。 後は結果を招いた原因を自分自身で考えて、次から失敗しないように工夫すればいい。後はひたすらそれを繰り返す。それだけだった。
「私はまだいいから、あんたは先に食べなさい」
「そんな、悪いよ。散々待たせちゃったのに」
「バカ、そういう事を言ってるんじゃないの。まだ消化してないオーダーもあるでしょ? 皆が一度に休憩に入ったら、誰がそれを受け持つの?」
あ、と言う顔をして片手で頭を抱える。普段ならば気付いていた。だが今日はずっと厨房に入っていたせいで客席の様子が把握出来ていない。更に言えば、状況を確認するという発想がない。表情に若干疲労の色も見える。今の状態でかなりいっぱいいっぱいなのだろう。最初は誰でもそうだ。通るべきところを通って少しずつ前に進めばいい。カティが持っていた皿を取るとそれをカウンターに置く。
「お疲れ様。後はやっておくから、あんたはここで少し休んでなさい」
「ううん、まだ大丈夫だよ、これくらい」
頑張っているのも、無理をしているのを悟られまいとして背伸びをしているのもよく判る。早く皆と肩を並べて一緒にやりたい。その気持ちが先に立ちすぎていて、まだ周りが見えていない。そんな妹の頭の上にポン、と手を載せる。
「いいの、後は私と父さんでやっておくから。あんたは母さんと二人で先に休んで」
「でも!」
尚も食い下がろうとした妹の頭を軽く掴むとちょっと怖い顔をしてカティを睨む。
「あんたが頑張ってるのはよく判ってるから。だから、疲れた時くらいはしっかり休みなさい」
ようやく、カティは観念したように頷くとカウンターの空席に腰を下ろした。背中に少しだけ悔しさが滲み出ていたが、疲れているのは隠しようがなかった。そんな妹の頭をもう一度撫でる。返事はなかった。イリナも特別求める事はしなかった。
厨房に顔を覗かせると、母が昼食の支度に使った調理器具を片付けていた。その隣では父が湯気の立っているオニオンスープを器に盛っている。
「母さん、カティと先に休憩入って。後は私と父さんで回すから」
父も黙って頷く。母は前掛けで手についていた滴を拭うとふぅ、と息を吐いた。
「それじゃ、頼むわね」
鮭のソテーを器に盛りつけた父は間仕切りの前で母にそれを手渡した。父は父で、オニオンスープの入った器を持って厨房を後にする。
「それ、焼いといてくれ。上がったら六番な」
出ていく間際、父は釜戸に置いてあるフライパンを右手の親指で示した。水で濯いだ手を拭くと、イリナは薪を足して火を強める。ゆっくりする時間はないし、そもそもその気もない。やれる事はさっさと片付ける。その方が後が楽なのだ。
客席から父が戻るまで三分もかからなかったが、それでもその時間を呆然と過ごすより遥かにマシだった。
「イリナも先に済ませてていいぞ」
腹、減ってるだろ。焼きすぎて黒く焦げた鶏肉の切れ端を口に放り込みながら父は言った。
「別に構わないわよ、私は」
峠さえ越えれば空腹を堪える事はそれほど苦痛ではない。今日に限って言えば、それもほぼ越えている。集中力さえ切らさなければ、持ちこたえる事は十分に可能だった。
「頼もしいな」
父の言葉に、イリナは笑って肩を竦めた。それくらい難なくこなせなければ、この家の娘は務まらない。
「ついでに、それ頼むわ」
八番な。父はこちらを見もせずに右手だけ上げて言った。身内だから出来る事だった。クタクタの状態でそんな事を言われたら、それこそ音を立てて心が折れそうな気さえしてしまう。そう、慣れていない人ならば。カティもこれまで店の手伝いはしっかりやって来てはいた。だがそれは飽くまで仕込みや下準備、後片付けが主だった。客席の様子を窺いながら仕込みの流れを考えたり、受けたオーダーを最初から最後まで通して受け持つようになったのは今月に入ってからだった。慣れないのも当然だった。むしろ、最初から全て一人でこなせたらこちらの立場がなくなる。この流れが体に馴染むまでには少なくとも二、三ヶ月はかかる。 後は皆で後押しして行けばいい。焦る必要なんて、何処にもない。
両手に皿を持って客席に向かう。お冷やと前菜のサラダしか置かれていないテーブルにそれを加えた。
「鶏肉の照り焼きの香草和えが二つね」
腰を屈めてテーブルの前に立った時、不意に辺りが暗くなった。
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