野蛮人は北へ行く

@kokoiti

第1話 プロローグ

耳に入る鳥の囀りがやたらとのどかだった。日差しは既に暖かいを通り越してむしろ暑いくらいで、春の訪れを感じさせるには充分な陽気だった。芝生に寝転んで昼寝するも良し、川に行って釣糸を垂らすのにも打ってつけの日和だった。実際、今朝方行商人の荷馬車を襲って死なない程度に痛めつけ有り金全て巻き上げた後、酒を飲むか釣りをするか冗談を交わし合っていたくらいだ、手頃な釣竿でもあれば川に出ていたかも知れない。

 だが実際はどうかと言うと、まだ僅かに血の臭いの残った剣を抜いて構えていた。もっとも、握る両手は震えっ放しだが。戦闘に際した武者震いと言った威勢のいい代物などでは断じてなく、純然たる恐怖に依るものだった。いや、後悔が遥かにそれに勝る。

 ついさっきまで威勢のいい声を張り上げていた仲間が半ばヤケクソで切りつけに行って戻ってくるのに三秒もかからなかった。骨の砕ける鈍い音と共に楕円に近い弧を描いたかと思うと、背後にあった木に背中を思い切り叩きつけた後はゼンマイが切れた人形のようにピクリとも動かなくなった。本当に死んでいるのかも知れない。だが到底それを確かめる気にはなれなかった。

 つい四、五分前までは十人いた仲間が気付けば自分一人だけになっていた。目を半開きにして口の端からだらしなく涎を垂らす者、腹を抱えたまま蹲って咳き込んでいるのもいる。口から吐いているのは唾液ではなく正真正銘血だった。歯で口の中を切ったか、或いは内臓の何処かを痛めたのか。想像するだけで腰が砕けて倒れそうだった。さっきからよく立っていられるものだ。唯一、それだけは褒めてもいいと思った。それを情けないと嘲る余裕もない。

 丁度真向かいに立っていた男は足元で伸びていた仲間を軽く蹴飛ばした。痛め付けているのではなく、意識の有無を確認しているのはすぐに判った。完全に伸びている事を確認すると、男はやおら胸元に手を突っ込んだ。乱暴に中をまさぐると何か取り出した。財布だった。適当に中身を覗き見たかと思うと、今度はそれを自分の懐に滑り込ませた。胸倉を掴んでいた手を離した拍子に、微かに硬貨が擦れる音がした。あ、と思った時には腰からぶら下がっていた布袋の口をほどいていた。ズッシリと重い袋の中を覗くと、男はニンマリ笑った。戦闘不能になった仲間の懐から財布を掠め取りつつ、今朝強奪した戦利品を肩から降ろした巨大なリュックの中に次から次へと放り込んで行く。仲良く車座になって十等分した金が男のリュックに吸い込まれるまで二分もかからなかった。

 男が顔を上げた。目が合った瞬間、ニヤリと笑う。背中に怖気が走った。立ち上がると、こちらにゆっくりと歩み寄って来る。逃げたいけど逃げられない。怖くて動けない。下手な素振りを見せたら何をされるか判らない。一つハッキリしているのはロクな目に遭わない という事だった。

 でも、やっぱり怖さがそれを凌いだ。恐怖を回避するという防衛本能が両足に作用した。握っていた剣を鞘にしまう事もせず、体を百八十度反転させて一目散に駆け出した。

 重苦しい衝撃と共に勢いよく前方に吹っ飛ばされたのと頭に激痛を感じたのが殆ど同時だった。目の上辺りを触るとやたら生暖かくてヌルヌルしている。見てみると、案の定血だった。立とうとして立てなかった。足に力が入らないばかりか、動かそうとするだけで右の尻から股関節にかけて激痛が走る。初めて蹴られた事に気付いた。ちょっと待て、蹴られたにしてもどうやって? 逃げた瞬間はまだ男との間に若干の距離はあった。少なくとも駆け出した瞬間に詰められるような間合いではなかったはずだ。体中からドッと冷や汗が吹き出した。冷水をぶっかけられたように全身が恐怖で凍り付く。

 男は春の昼下がりにのんびりと散歩でも楽しむように、実に悠然とした雰囲気でこちらに歩み寄ってくる。案の定ロクな目に遭わなかったが、本能に勝る意思はなかった。背中は怖くてこれ以上見せられない。両腕で上体を支えながら後退りする。逃げられないと頭では理解していても、感情がそれを受け入れる事が出来なかった。男が足を踏み出すたびに確実に距離が縮まって行く。怖くて泣きそうだった。頭が固い何かにぶつかった。石だった。左右のどちらかに避けなければこれ以上先には進めない。絶望に打ちのめされて視線を前に戻した瞬間、固くて重い何かが顔面に当たった。後頭部が再び石に打ち付けられる。押さえた指の隙間からドッと鼻血が溢れ出した。痛い、物凄く痛い。声を上げて泣きたくなった。間髪入れずに胸倉を乱暴に捕まれる。

「この期に及んで逃げるとか止めようよ、格好悪いから」

 な? ここで安易に首を横にでも振ろうものなら問答無用で拳が飛んで来そうな勢いだった。アグレッシブに首を横に振る勇気などあるはずもない。小刻みに震えながら首を縦に振ると、男は満足そうに笑った。黙って右手を差し出す。

「い、今は持ち合わせがなくて……」

 砲撃のような現実離れした勢いで放たれた拳が鳩尾に深々と入った。上体が崩れるより速く、間髪入れずに右の拳が頬骨にめり込む。見事なワンツーだった。悲鳴を上げる間もない。満足に呼吸する事すら出来ない。酸素が肺に入っても今度は内臓が巨大な歯車で引き潰されたような激痛に襲われる。男は苦痛にのたうつ様になど目もくれず、懐に手を突っ込んで財布を引っこ抜くと腰から提げていた布袋を自分の持ち物を取り返すような態度で奪い取る。元々誰のものかと聞かれても答えに詰まるのだが。

「あんたのしてる事って、ただの強盗じゃ……」

 苦痛に顔を歪めながら吐き出した言葉は事の他アッサリと受け流された。

「それはそっちだろ。こっちはただのんびり歩いてただけなんだからよ」

 その通りだった。朝に荷馬車を襲って金品を強奪し気を良くした勢いで、その後街道を歩いていたこの男たまたま見かけてを襲ったのだ。 どちらに否があるのか、考えなくても判りそうなものだった。

「でも、ここまで痛めつける必要なんて……」

「別に痛めつけてねえだろ。斬りかかって来たのはそっちなんだから正当防衛成立じゃねえか」

 たとえ正当防衛が成立する状況でも相手が失神する程の強さで殴り付けるのは一般的に過剰防衛に該当すると思うのだが、下手にこの男の前でそんな事を口にしたらそれこそ過剰に殴られそうだった。余計に蹴られても不思議はない。だから黙っていた。

「これに懲りたら、今後追い剥ぎなんて阿呆な真似は止めとけよ」

 余計なお世話だ、と言おうとして慌てて喉元で言葉を飲み込んだ。顔を微妙にひきつらせながらぎこちなく笑う。男も和やかに笑った。ただ、目は笑っていなかった。今日何度目かの後悔だった。ヤバい、と思って殊更大袈裟に笑おうとすると、男は穏やかな声で言った。

「今、余計なお世話だとか思った?」

 目尻の辺りがひきつったのがハッキリと判った。改めてヤバいと思った時、男がもう一度笑った。つられて笑おうとした瞬間、右の拳が鼻っ柱にめり込んだ。

 仰向けに倒れる間際、晴れ渡った空をトンビが一匹、上昇気流に乗って悠然と舞っているのが見えた。改めて思った。こんな奴、襲わなければよかった。今日で最低三回は感じた後悔だった。完全に陥没した鼻を見て、トンビもさぞ馬鹿にしている事だろう。自分に呆れつつ納得すると同時に、それまで辛うじて残っていた意識は角砂糖が熱湯に溶けるようにして一瞬で消えた。

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