第3話 1日目/夜

暖色の中に細長い影を落とす頃、芳乃はいつもよりも早く自分の住んでいるマンションに着いていた。

その日の定時頃に体調不良を偽って翌日の有給を取った。

それは有給そのものがたまってしまっていることもあるが、新しい同居人のための買い物や彼女の事を少しでも知るために取った時間であった。

明日はどう過ごそうかと、少し浮かれた気分で自分の部屋につくと、キッチンの方からなにか物音が聞こえる。

息をこらし、警戒しつながらキッチンの様子を伺う。

そこには冷蔵庫を大きく開けたまま、中を物色し、食べられそうなものを頬張っているヨルがいた。

「何してるの?」

そう冷蔵庫の冷気を座り込んで受けている彼女に問うと、開かれた扉の下から顔を覗かせたヨルは短く「食事」と答えた。

「……ごめんなさい、なにか作っておけば、って、ちょっと無理だったわね」

芳乃は何かしら作って置かなかったことを悔やんだが、今朝は余裕もなかったことを思い出した。

しかし、そうであっても非常用の乾パンやカップ麺ぐらいは教えておくべきだったと、後悔する。

「何か食べられるもの、買ってこようか?」

「いい。食べたから」

その提案は欲求を満たしたヨルにそっけなく流された。

開けたままの冷蔵庫に背を向けて、ヨルは立ち上がりソファに向かっていく。

芳乃が扉を閉じるように言おうとした時、ヨルのまとっている黒いマントが不自然な動きをし、それが冷蔵庫の扉を無造作に閉じた。

一瞬、非常識な光景が現象が芳乃を硬直させたが、すぐに彼女は冷蔵庫の中身を確認しに行く。

記憶と照らし合わせると厚切りベーコン1袋と魚肉ソーセージ1本、トマト1つ、昨消費期限が切れていたはずの刺し身の盛り合わせがなくなっており、その残骸が冷蔵庫の中に放置されていた。

アルコールや漬物は手を付けられていないようだ。

芳乃は残骸を無造作に掴み集め、足で冷蔵庫を閉じた。

「ちょっと、食べるのはいいけどゴミぐらい捨ててよ」

「捨てる場所、しらないもの」

ソファの上で膝を抱え宙を眺めていたヨルが瞳を向けて答えた。

「これね、こののゴミ箱に入れておいて」

そう言って冷蔵庫の横の白いフタ付きのゴミ箱を指差す。

「ただ、瓶と缶だけは出す日が違うから……、まぁ、そのあたりは適当に袋にわけて集めておいて。袋は流し台の下に袋は入れてるから」

その説明にヨルは「ん」と短く答えて、また宙を眺めはじめた。

芳乃は持っていた食事の残骸をゴミ箱に押し込むと、ためらいが滲む瞳で黒い少女に語りかける。

「……ねぇ、横、座っていい」

「お好きに。ここは貴女の住まいよ」

うぐいす色の芳乃の重さを受け止める。ヨルと芳乃の距離は隣というには少し離れている。

「……このソファ気に入ってもらえたの?今日の朝も座ってたけど」

「布のソファは柔らかくて好き。革とかは好きじゃない。少し冷たい」

「そう言ってもらえると、ちょっと奮発して良いの買ったかいがあるな。買ってから私しか座ったことないから、感想聞くの始めてで」

「一人、だったかしらね。貴女」

「そ、そうだよ」

「寂しくないの?」

黒い少女の金色の瞳が芳乃の眼鏡の奥を見据える。

「わかんない。でも、ずっと誰かと居るのは、しんどい、かな。それに、他の人のことわかんないし、怖いし」

「……私は、邪魔?」

「え、いやっ!そんなこと無いよっ!助けてくれたし、それに……」

「……」

「それに、ヨルちゃん。多分だけど、私の事、あんまり気にしてないでしょう?何ていうか、同じ場所にいるのに、同じ場所にいない。人の形をしているけど、人じゃない。だから、何となく平気な感じがするの」

「……貴女の感じていることは間違っていない。私は人間ほど人間に興味はない。だから人間同士ほど、好意も敵意も利害もない。だから、貴女は私がいても大丈夫なのね」

「ああ、そう。そんな感じ、きっと」

「素直ね。見え透いた虚勢で自分を飾る人間なんかより、貴女みたいなのは好きよ」

そう言いながらヨルは体を芳乃に向けて、四つん這いで近寄る。

「す、好き……?」

芳乃の視線が上目遣いの金色の瞳と交わる。

「脆くてガラスみたいでも、自分の心を語れる人間は好きよ」

「……その、ありがと」

不意に向けられた聞き慣れない言葉、向けられた記憶がない好意の言葉。それに芳乃は体温が上がるのを感じながら月並みの言葉で応える。

「それに貴女、なかなかいい毛並みをしてる」

そう言いながらヨルは、芳乃に膝立ちで寄りかかり、その側頭部に顔を近づける。ヨルの静かな吐息が芳乃の眼鏡のツルをかけた耳にあたる。

「ちょっ、え、近っ」

「ふふっ、良い毛並みの雌はそれだけで価値があるわ。貴女、猫だったら雄が放っておかないわ」

ヨルは芳乃の髪に顔を埋め、頬ずりしながら言葉を紡ぐ。一方、予想外かつ記憶に無いほどに人―――人ではないが―――のスキンシップを受けている芳乃は両手も、声も、思考も宙に浮いたままだった。

その髪への愛撫にも芳乃が慣れて、どうすればいいか思案し始めた時、20時を告げる時報が壁掛け時計から響いた。

柔らかな髪の毛の感触に溺れていたヨルは顔を上げて、時計の針を見やる。

「そろそろ出る」

「え……?」

そうヨルはソファの座面に立ち上がって言い、ベランダに通じる窓へ向かう。

闇夜よりも黒いマントが腕のように伸び、闇夜への帳と扉を開け放つ。

涼やかでいて、どこか無機質な風が部屋中を撫でる。

「どこ……、いえ、何しに行くの?」

素足でベランダに立つヨルに問いかける。

ごく僅かな思考の後、闇夜に溶け込まんとする少女が応える。

「……仕事、かしら」

「人を、殺すの?昨日みたいに」

芳乃に背を向けて立つヨルは、わずかに頭を横に向けて呟く。

「それも死神の仕事だから」

直後、黒い少女は身の丈ほどの手すりに手をかけ、悠々と飛び越える。

彼女は地上5階から闇夜に飛び降りていった。

「……死神」

髪を乱された芳乃は呆然と闇夜を見つめる。

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