第2話 1日目/朝
温暖化の急激な進行による海面の上昇が起こってから出来たこの新しい海上都市。
この狭い都市には所狭しとビルがハリネズミの様に聳えている。
それは居住区でも変わることはないが、中心に近い経済特区や行政特区に比べれば控えめだった。
その居住区の一角にあるやや高めのマンションの5階角の部屋。その寝室に目覚ましの無機質な電子音が響く。
薄い掛け布団から腕が伸びて、ベッドのヘッドを手探りする。しかし、目的のものは得られないようで、しばらくすると諦めたように腕は布団の中に戻っていき、布団を跳ね飛ばすように人が姿を現す。
「……あれーー……。スマホ、何処おいたっけ……」
一糸まとわぬ姿で上半身をを起こし、周囲を寝ぼけ眼で探る。
アラームの音は窓際からなっているらしく、そこを見ると自分が昨日来ていた服が無造作に重ねられていた。
フワフワと大きくはねた髪と豊満な乳房を揺らしながらカーテンで閉めきった窓際へ向かう。
「何でここに……?あれ、メガネも……」
そう独りごちながら彼女はメガネをかける。鮮明になった視界は彼女の脳が覚醒させ、悪夢を呼び起こし始める。
「っ!……昨日、そう昨日、私は……」
思いついたように彼女は雑に積まれた衣服から昨日来ていたチノパンを掘り返し、僅かな逡巡の後にその股間部を鼻に近づける。
「……臭う、ということは昨日のは夢じゃない……?そうね、裸で寝るなんて、なんてよっぽど酔ってるか、暑い夜だし……。でも、何で……」
思案の蔵に篭ってしまうところを、二度目のアラーム音が現実へ引き戻した。
「あとにしよ……。とりあえず会社、行かなきゃ」
気だるそうに彼女は立ち上がると、シャワーを浴びるため自室の引き戸を開ける。
狭めのリビングダイニングに出るとテレビの中で女子アナウンサーが最近リニューアルしたというショッピングビルのリポートをしていた。つけた覚えのないテレビの音量はかなり小さく絞られていた。
しかし、彼女を驚かせたのはそれではなかった。
テレビと自分の間にある濃いうぐいす色のファブリックソファ。そこに座る黒髪の小さな頭だった。
時間が止まる。テレビのアナウンサーは笑顔でパスタを頬張り、何か言っている。
その静止を鈴の音のような声が壊す。
「おはよう」
「ひあへっ!?」
間抜けな声を出してメガネを掛けた彼女はバランスをを崩し、尻餅をつく。
「ったた……」
「何してるの」
尻餅をついた彼女はその声を見上げる。
黒い少女はまるで重さがないのようにソファの背もたれの上に立っていた。
その姿は間違いなく昨夜に見た凄惨劇の主役の姿だった。
「……」
メガネを掛けた彼女は暴風のように脳のかき乱す恐怖に屈服しそうな意識を繋ぎ止めて現状を整理する。
少なくとも彼女を見下ろす黒い少女には敵意、殺意はないと判断できた。その証拠に自分はまだ生きている上に、自分の部屋に運んでもらっているのだから。
「……おはよう」
黒い少女は再度、変わらない表情で朝の挨拶をする。
「あ、え、あの、お、おはよう」
彼女の答えを聞いた黒い少女は軽くソファの背もたれを蹴って方向転換し、ボフッという軽い音とともに再び座ってワイドショーを見始めた。
メガネを掛けた彼女は自身のお気に入りのソファでひどく音声を絞ったテレビを鑑賞する彼女に、自分に対する悪意は無いことを確信した。正確には無理やり自分に確信させた。そうでなければ前に進むことが出来そうになかった。
彼女は起き上がり、黒い少女の座るソファの横に間を開けて座る。過度の緊張のせいか彼女は暑さすら感じていた。
「あ、あの、昨日は助けてくれて、その、ありがとう、ございます……」
「……」
黒い少女はテレビに顔を向けたまま、言葉を発しない。唇が微かに動いたような気がしたがそこからは明確な言葉は生まれなかった。
「……貴女が私をここまで運んでくれたの?」
「ええ」
今度は問いかけにすぐに答えが在った。だが、相変わらず彼女はテレビの方を見続けている。
普通ならば目の前の小さな少女が自分をここまで運ぶのは難しい。しかし、彼女は昨夜の非現実を見ている。それは些細な疑問に対して決定的な回答だ。
彼女は黒い少女の意図を探るため、次の問いを投げかける。
「ね、ねぇ、お礼がしたいんだけど、なにか困っていることとか、して欲しいこととか無い?その、私にできることで…」
そうメガネを掛けた彼女が言うと、黒い少女は振り向き、じっと彼女の顔を見る。
僅かな時間ではあったがその無言の見つめられる時間は彼女にとってどれだけ長く感じただろうか。
黒い少女はテレビの方に向き直り、短く言った。
「しばらく住まわせて」
「え?」
「貴女の生活の出来るだけ邪魔はしないし、貴方の行動範囲から外れたところに居座る」
黒い少女は続けて言った。その気を使ったような言葉にメガネの彼女は不意をつかれ、反射的に応える。
「別にいいけど……。一人暮らしだし」
「助かるわ」
同居生活を承諾した彼女に対して、視線を合わせることなく言った。
「じゃあ、よろしくね。……えっと……」
メガネの彼女は握手を求めようと手を出しかけたところで、彼女の名前を知らないことに気付いた。その彼女の心を読んだかのように黒い少女は呟く。
「好きに呼べばいい」
「好きにって……」
「私にはアナタ達みたいに定められた名前なんてない」
その言葉はこの黒い少女は人間でないことが浮き彫りにさせる。そして彼女自身もそれを十分に把握していることも。
「そう言われても……、今までどう呼ばれたことがあるの?」
「少し前に住まわせて貰った人間は私をクロと呼んでいたわ」
『前住まわせてもらった人間』という言葉が少し彼女にとってほんの少し耳障りに感じる。
彼女は黒い少女の姿を見て言った。
「……そのままね。他には?」
「ノワール、ニュイ、ミネ、ネコ、シャトン、タマとか。別に適当でいい。私は気にしないもの」
黒い少女はテレビから視線を外し、身体の重みをソファに預けながら言った。
今までの呼ばれ方はあまり目の前の少女にふさわしくないように思えて、彼女は自分で考えることにした。
眼前の少女の印象、ふさわしい響きは何かと、考えてみると、もうひとつしか答えは出てこなかった。
「ヨル、って呼んでいい?」
「……ヨル?夜、ね。悪く無い」
心なしか満足気な響きのある言葉だったが、リアクションが薄すぎて黒い少女――ヨル――の気持ち、思考を読み取るのは困難だった。
「貴女は?」
「あ、そうね。私は巣花茂 芳乃(すかも よしの)。……ただの人間の女よ」
メガネの彼女――巣花茂 芳乃(すかも よしの)――は目の前の人間ではない少女に対して即興ではあるがベストだろうという自己紹介をした。
「……」
「……ど、どうかした?」
芳乃は何故かじっと自分の顔を見つめるヨルに問いかける。
「……別に。私がここに飽きるまでだけど、よろしく」
ヨルはそっけなくそう言って右手を差し出してきた。芳乃も右手で答える。
「うん、よろしくね」
「ところで……」
ヨルはテレビのやや上に視線を移し、ポツリと言った。
「あなた、仕事してないの?」
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