黒猫は闇夜に恋と踊る
君影
第1話 0日目/夜
なんて私は馬鹿だったのだろう。
長く軽い髪を弾まれせて駆ける彼女の脳裏に何度目かの後悔の言葉が浮かんだ。
雲一つ無い夜空に煌々と月は光るが、この高くそびえるビルの隙間ではその月明かりも届かない。
この汚く狭い道が愛されていたころの古い灯りだけが彼女の道を照らしている。
彼女は裏路地の治安の悪さは知っていた。それはこの歴史の浅い海上都市に暮らす者にとって常識に等しいことだった。
そして彼女は"嫌な臭い"も感じていた。
しかし、職場での疲れと軽い酔いが彼女に近道を促した。
一時の甘い誘惑と油断が最悪の形となって彼女の現実になろうとしている。
その現実から彼女は逃げ出すために全霊で疾駆する。
この時ばかりは形式張ったハイヒールやスーツの着用を義務付けない会社の方針に深く感謝した。
ウォーキング用とされているスニーカーとサブリナパンツは実に彼女に忠実だ。
裏路地と車が一台分程度の細い通りが交差する十字路に彼女は到達した。
細い通りに沿って人通りのある表通りまで到達できれば完全に逃げ切れる可能性が高い。
だが、左右の道には嫌な匂いを漂わせる車が鎮座しており、その車の中には人影も見受けられた。通り抜けることは避けたほうが良いと判断。
正面の裏路地からもやはり嫌な匂いは漂っているが、左右の待ち伏せされた道よりはその匂いは希薄だった。
栗色の長い髪をした彼女は再びスニーカーで地を蹴って細い裏路地を突き進む。
後ろからは嫌な臭いのする男たちの声がコンクリートに靴音を響かせて近づいてくる。
彼女は生来からの足の速さで奮戦しているが、嫌な匂いは遠ざかることなく、ただただ濃くなっていく。
狭いT字路に出て左右を確認する。
左からは追手の仲間と思われる2人の男が向かってきているのが見える。
右は誰も居ないようだ。
彼女は瞳の情報を元にすぐさま右へ曲がり、全力で走る。
だが進むに連れて嫌な匂いが強くなる。
不吉な予感、最悪の事実が彼女の頭を掠める。
否定をしたくとも彼女の目はそれを認識している。
―――行き止まりだ。無表情な壁がそう告げていた。
足音がゆっくりと乾いた音を立てて近づいてきている。余裕を感じさせる笑い声や罵声が聞こえる。
次第に男たちのシルエットが鮮明になり、一人の明るい髪色をした細身の男が進み出た。
「はぁ、はぁっ!……テメー、ずいぶん脚が速いな。しかもタフ、だっ!ここまで手こずったのは初めてだぜ」
一歩一歩、迫り来る男を彼女は睨みつけて無言を返す。
背中にコンクリートの固く冷たい感触を感じる。
「でも、もう逃げられねー。おとなしくすりゃー……。まぁ、そこまで手荒な事はしねーからよ」
細身の男は悪魔のような含みを持たせた言葉を煙草臭い吐息とともに、追い詰められた彼女に浴びせた。
そうしている間に他の男たちが近づいてきた。
4人。追ってきた人数はもっと多かったようだが、数人は見張りでもしているのか。
「ねー、兄貴!味見しちまっていいっしょ!?コイツ、マジ俺の好みの体してんですわ」
細身の男が品のない言葉で、後からやってきた4人に向かって語りかける。
その中の一人のハンカチで汗を拭っているくたびれた感じのするスーツを着た中肉中背の男が一息ついて返す。
「ハァッハァッ……。ら、乱暴に扱わないなら、多少好きにして、かまわん。クッソ、俺は疲れたから、しばらく座って休むぞ」
「うはっ、やったぜ。」
細身の男は追い詰められた彼女の顎に手で上げて、その顔を視線でねぶる。
「はぁ~、よく見ればカワイイ顔してんじゃん。ちょっと童顔気味だけど、好みだな~。でも、明日にはさよならだかんな。おっしーなぁ」
欲情の対象となった彼女の顔を彩ったのは、恐れか、悲しみか、後悔。それとも諦めか。
否。純然でどす黒い憤怒だった。
追い詰めたか弱い獲物に弾のでない銃口を向けられた細身の男はにわかにたじろぐ。
「こ、こっわい顔すんなよ。わかってんだろ?もうどうしようも無いんだからさ。諦めておとなしくしろよぉ。そしたら俺のスペシャルテクニックで天国を味あわせてやっかんよ」
自身の優位を再確認した細身の男は品のない言葉を饒舌に語り、彼女の柔らかな臀部に手をやり、彼女の豊満な乳房は男の角ばった体を押し付けられて形を歪める。
彼女の表情がどうしようもない無力感によって次第に崩れ、涙が頬をつたう。
怒りが崩れて恐れと後悔と悲しみがこみ上げていき、思考を白く凍結させていく。
抵抗することも、泣き喚くことも出来なくなった彼女は、もはや諦観の名において自身を傍観する他なかった。
諦めのギロチンが彼女の心を殺そうとした刹那、小さな鈴の音のような声が響いた。
「何、しているの?」
その声の主にこの場にいるものすべてが視線を向ける。
そこにいたのは黒い少女だった。
膝裏まで届きそうな絹糸のような漆黒の髪、闇夜よりも暗いと思わせるほどに黒いマントを羽織り、その隙間からは雲間に垣間見る月のような真っ白い肌が見え隠れしている。その様子はまるで白い月が闇夜に浮かぶようだった。
その顔は闇夜と絹糸のカーテンに隠れて見えないというのに、蠱惑的な美しさを確信させる。
少女はひたりひたりと無防備な小さな素足で人間たちに向かっていく。
「ねぇ、何をしているの?」
その問いを紡ぐ声からは何の感情も読み取ることが出来ない。
異様なモノを目の当たりにして悪漢たちは沈黙を守っていたが、リーダー格と思われるアニキとスーツを着た男がそれを破った。
「……ガキには関係ない。さっさと帰れ。そうじゃないとひどい目に合わすぞ」
「まぁまぁ、いいじゃないですか。ヒヒヒ、知ってるでしょう?コレぐらいの年のほうが高く売れるんですよ?……俺に任せてくださいよ?グヒヒ」
4人のうち一番体格の良い男が下卑た声で少女に近づいていく。その股ぐらは暴力的に膨らんでいる。
「……ふん、好きにしろ」
呆れ投げ捨てるようにリーダー格の男が言った。だが彼は怪訝な顔で黒い少女に注意を払い続けている。
栗色の髪の彼女を押さえつけている男も始めは不意をつかれ表情を失っていたが、再び下卑た笑みを浮かべて興味深そうに黒い少女と仲間の動向に注意を向けている。
大柄の坊主男は少女の前にしゃがみこんだ。小柄な黒い少女はすっかり坊主男の影に隠れて、その場にいる誰からの視界から消えてしまう。
「ねぇ、何をしているの?」
少女が無味乾燥な声で三度目の問を掛ける。
「何って楽しくて、気持ちのいいことをあそこのお姉さんにしてあげるところだよ。君も仲間に入れてあげようか?お兄さんが教えてあげようね」
優しそうな声を出しているつもりだろうが、それはあまりにも気持ち悪く不快な本性があらわになっていた。
その声を切り刻むように少女が短く、小さく、ナイフのように言った。
「……うそつき」
その声が空気を震わせた瞬間、男がしゃがみこんだまま形のまま宙に浮いた。
異常な光景に誰もが目を剥き、言葉を失う。
坊主男は地面から突き出た何かに、突き上げられ、串刺しにされていたのだ。
ピクピクと痙攣する串刺しのオブジェの横を通り、少女が進み出る。
少女は静と顎を上げる。
淡い明かりに照らされたその顔は金色の瞳をもった可愛らしくも美しいものだった。その端麗な容姿が一層この凄惨な状況の現実味を淡くする。
「あなた達のようなのがいるから、獲物に悩まなくて済む」
少女は涼やかに言った。
そこ言葉に明確な殺意を感じた男が一人が悲鳴を上げ、駆け出す。少女は道を開けるようにひらりと身を躱した。
その男は果たして逃げ切れたであろうか?
否、少女のすこし後ろでカエルが潰れるような擬音とともに2つ目のオブジェと化していた。
「くっ、こいつはっ!おい!ヤシロ!得物出せ!こいつ、ヤバいぞ!」
スーツの男の声に呼応して髪の色の薄い細身の男は、黒い少女の方に向き直りポケットから折りたたみ式ナイフを取り出して構える。スーツの男は拳銃の銃口を少女に向ける。
その様子を少女は静かに無表情に眺める。
体にまとわりつくような重い空気が沈黙と共に流れる。
どれだけの時間がたっただろうか。時間の感覚が麻痺をしかけた頃に、ナイフを構えた細身の男が少女に向かって駆け出し、リーダー格の男が発砲する。
しかし、しようとしたに過ぎなかった。彼らは人間以上の何かに立ち向かうには鈍すぎたのだ。
二人が動く兆しが見えた瞬間に壁から生えた黒い槍のような何かで、二人の男は頭を串刺しにされた。
「遅い」
少女がそうつぶやくと串刺しにされていた男たちは、まるで体中の水分を吸われていくように干からびていく。
人の形をした干物が出来上がると黒い槍は地面や壁に吸い込まれるように消えていった。
残された襲われていた彼女は脳が締めあげられるような不吉な"臭い"とフィクションのような凶行を目の前にして、腰が抜け立つことも出来ず太ももに感じる不快な暖かさを感じていた。
彼女は黒い少女と目が合う。黒い少女は人形のような無表情でひたりひたりを彼女に近づいて行く。
悲鳴にすらならない声をあげながら彼女は黒い少女から少しでも離れようと両の脚で後ろに下がろうとするが、コンクリートの壁が冷たく阻んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます