第八話 華麗宗密教
求名と供に華麗宗御示威山二王寺を目指した風花太郎平光明は、その予想以上の大きさと荘厳さに驚いていた。
(北国の外れにこのような寺院があるとは)
思わず吐息を漏らした。大伽藍に金色の仏像。黄金は俘囚の豪族、安倍氏が奉納したものらしい。さらに驚く事は、求名がこの寺の『座主』であったことだ。
(そんなに偉い方だったのか)
と無礼の段を陳謝する光明。
「構わんよ」
求名は意に介さなかった。
「それより、これから行われる厳しい修行から逃げ出さないで欲しい。まずは華麗宗の三大経典、『栖語彙項集』、『緋土意安久集』、『苦才堆集』を読んで理解してくれ。お主、漢語は読めるか?」
「多少ならば」
「それは良かった。この三巻、始祖の唐人、嵐真が著したために全編漢語なのじゃ。それに一巻が丸太のように太い代物なので持ち上げるのも難しい。まずそれで、皆逃げてしまうのじゃ。お主は逃げないでくれよ。何年掛かっても良いから読み解いて欲しい」
いきなり気勢を削がれた。しかし自分の身の置き場所はここしかないと諦めた光明は僧名を音読みの『こうみょう』としてもらい、光明法師として、求名の手で得度した。
寺の朝は早い。卯の刻には起こされる。身繕いをした後は寺の掃除、その後朝餉となる。勿論、野菜だけの一汁一菜。米は玄米だ。肉や魚など出る事はない。朝餉が済むと、それぞれの勉強時間になる。各々自分の実力に合わせた経を読む。光明は三大経典の一つ『栖語彙項集』に取り組む事になった。
「経典を読みたいのだが」
と隣に居た求在(ぐざい)に聞くと、
「蔵にあるが一人で持って来られるかどうか」
求在は言った。
「なら、手伝ってくれ」
と言うと、求在は、
「自分の修行がある」
と言って断った。
むきになった光明は、
「じゃあ一人で持って来る」
と言い、書物庫まで行って驚いた。本当に丸太のような経典が三つあり、その一つが『栖語彙項集』だった。光明は驚いたが元は武士の光明、「根性一発」と『栖語彙項集』を持ち上げ教練所まで一人で運んだ。そして、彼を恐れてか、誰も近づかないのをいい事に、四畳ほどの場所を独り占めして経典を読み出した。その内容は案外たいした事はなかった。光明、求名には謙遜したが『論語』を始め、『孟子』『大学』『中庸』の四書に『詩経』『書経』『礼経』『易経』
『春秋経』の五経、それに『韓非子』『孫子』といった哲学から軍事の実践書まで原文で読んでいたのだ。光明は三ヶ月で『栖語彙項集』を読破した。
「だが調子に乗るなよ、光明法師。この寺の中興の祖、空最(くうさい)上人は一晩で三大経典を理解したという。上には上がいるものだ」
求名は光明を戒めた。
続いて光明は『緋土意安久集』を三ヶ月で、『苦才堆集』を四ヶ月で読破した。そのころになると、他の修行僧も、
「光明殿は天才だ」とか「空最上人以来の俊英」と光明を褒め讃えるようになった。それと比例するように光明は禁欲的になり、心身が研ぎ澄まされて来た。
「うん、これなら我が華麗宗の奥義『孤之辺耶苦歳妖』を行えるかも知れない」
と求名が言ったのは入山一年の後であった。
「命を懸けて行います」
と光明が宣言した『孤之辺耶苦歳妖』とは一体何か。それは三年間に渡り、山腹にある不動堂に参籠し、食事も一日一食、睡眠も一刻しか取らずにひたすら護摩を焚き続けるというものである。外に出るのは真夜中、山中を駆け抜けるときだけという過酷を通り越して、狂気の沙汰といわれる修行である。これまでこれを成し遂げたのは中興の祖、空最上人と求名の二人だけである。
「心身を痛めつけるのは武士の時代に慣れております」
そう言って光明は不動堂に入った。一年目、淡々と修行をこなす光明、二年目かなり痩せ、髭茫々となった光明が真夜中喚きながら山中を走り回る声が轟き、他の修行僧達は眠れなかった。そして、三年目。ついに『孤之辺耶苦歳妖』を成し遂げた光明が痩せきった姿で不動堂から出て来る。
「見事」
「満願成就じゃ」
と皆が祝福する中、光明は、
「物足りん」
と言って二回目の『孤之辺耶苦歳妖』に突入してしまった。
「何たる無謀」
求名が止めるが、
「心配ご無用」
と言って参籠した。二回目は静かに行われ、修行僧たちは安眠出来た。ただ一人求名だけが、
「あの過酷な『孤之辺耶苦歳妖』を二度も行うとは尋常な精神力ではない。不動明王のご加護を」
と祈り続けた。
そして三年、通算六年。ついに『孤之辺耶苦歳妖』二周という快挙は成された。さすがに光明は激しく痩せ、目もうつろであったが、
「誰も成さん事を出来た。求名座主、ここに誘ってくれたあなたのおかげです。これからも修行に精進します」
と言ってばったり倒れた。光明はその後五日に渡り昏々と眠り続けた。
回復した光明は他の修行僧から一目も二目も置かれる存在になった。しかし、光明は以前の口達者な性格から無口な男に変化した。それは精神の内面が充実し、外の世界に興味を失ったからである。心の中で自らに問い、自ら答える。他の者の教えなどは必要なかった。
そんな光明を見た求名は、
「これは本当の達観とは違う。このままでは光明は壊れる」
と心配し、ある解決策を見つけた。そして光明を呼び、
「光明、これからお主は修行の旅にでよ」
と命じた。
「私はここに留まりたいです」
と言った光明に、求名は厳命した。
「諸国を巡り、救われない人々に経を唱えて、心の安寧を計るのだ。人々を救済してこその仏教。自分の中だけで完結してしまっても民は救われない。そして良き場所があればそこに寺を建立し住職となれ」
「ここから出て行けと言う事ですか」
光明が不服そうに尋ねた。
「違う、民を救う為に己の力を使えと言う事だ。お主は武士の力と仏教の力の両方を得た。それは、ここに留まって一人問答をしていては宝の持ち腐れだというのだ」
「分かりました。民の救済は武士であったころからの私の願い。きっとその仕事を全うします」
こうして光明は二王寺を離れる事になった。その行く前はどうなっているのであろうか。
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