第2話 冬


 やけに寒いその日、今年初めての雪が降った。でも、雪とは関係なく、博士はいつもと同じように朝から仕事をしている。


 僕は暇つぶしに窓の外を眺めていた。ここは近隣で最も高い高層マンションの最上階なので周りに遮蔽物は一つも無い。無限に広がる窓の外に小さな雪の粒が舞っている。

 雪の粒は一つとして同じ動きをしない。見ていて全然飽きない。雪の舞いはとても面白い。


 ふと気がつくと博士が僕の隣に立っていた。音も立てずに横に来るとはまるで猫のようだ。この雪の舞いを見て博士は何を思っているのだろう。


「雪や虹を見て綺麗だと思うこと、それらは小さいときから繰り返し刷り込まれた人為的な知識だ。現代に置いてこれらの既成概念から完全に自由になることは難しい。それが既成概念だと気がついたときには、あまりにも染まりすぎている」


 博士は僕に聞かせているのだろうか?それとも独り言か? ところで、雪が綺麗? どうしてそう思うのか僕に分からなかった。僕は、雪はおもしろい、と思う。


「感動している自分がいると、客観的に見ることで多少は既成概念から離れることはできる。しかし、では、我々は生まれて初めて雪を見た時どう感じたか? それを思い出すことは出来ない」


「でも、これほどまでに既成概念が世間に浸透したから、私たちは他人のことがわかるのかもしれません」


 突然、後ろから女性の声がした。雨雪さんだ。


「朝日は清々しい、自然は美しい、友情は尊い、そういった共通概念があるから人は他人のこと察することができて、思いやれるのではないでしょうか」


 博士はくるりと身軽に体を回転させた。僕も後ろを向く。雨雪さんがいた。


「その考えは正しい。現在の社会は他人も同じことを考え行動している、言い換えれば同じルールを行動の規範としているという想定のもと成り立っている。交通ルールはその典型だ。赤信号なら皆止まると思っている。だが、そう言った既成概念が人の意志や思考を束縛しているのも事実だ。人は生きやすい社会を手に入れる為に思考の自由を失った。つまり、生きる為に人はレベルを下げざるを得なかったということさ」

「そうなのかもしれません。でもそれは悲しいことではないと思います。私は博士のような天才ではありませんから博士の自由な意志や思考を理解してついていくことはできません。でも、既成概念があるからこそ、私でも博士の気持ちを想像でき、博士のことを分かろうとできます。本当に博士の気持ちを理解できているかは分かりませんけど、努力すれば必ずできると私は希望を持っています。これは既成概念がここまで広まった恩恵です」

「その考えに共感できる部分は多い。だが、その一方で他人に与えられた概念から完全に自由になることを望んでいる。自分でもおかしいと思うほどの矛盾を内包したものだよ。ふふ、いかんな。歳を取るとどうも皮肉っぽくなる」


 博士は頭を掻く。薄くはなっているが、まだ十分な頭髪がある。


「しかし、今私が考えていることと同じことを、君も考えていると信じたい」

「私もです」

 博士はニヤリとわらい、雨雪さんもチャーミングな笑顔で返す。


「メリークリスマス」

 二人の声が重なる。そう、今日はクリスマス・イブなのだ。しかし、この一言の為にずいぶんと長い前降りを考えたものだと僕は博士に感心した。博士は何に関しても妥協をしないエネルギッシュな人だ。


 後にわかったことだけど、この日、博士が雨雪さんをアフタヌーンティに誘ったのだ。ただ、博士が紅茶やお菓子を用意することはない。雨雪さんが用意することになる。

 博士は天才だけど、ところどころ常識が抜けているところがあると僕は思う。


「お茶を入れてきます。台所をお借りします」


 雨雪さんは軽く会釈して部屋を出て行った。


 数分後、紅茶が入ったカップとクッキーが乗ったお皿をトレイに乗せて雨雪さんが戻って来た。

 博士はデスクから、いつも講義をする丸テーブルに移った。雨雪さんがテーブルに紅茶とクッキーの乗ったお皿を並べる。博士は雨雪さんにイスに座るように促した。


 博士はクッキーを手でつかみ、口に入れた。一つ目のクッキーを食べ終えた博士はすぐに二つ目を食べる。博士は無言だったがこのクッキーが気に入ったみたいだ。何故なら、博士は気に入らないお菓子は一つ食べて止めるからだ。


「それ私が焼いたクッキーなんですけど、どうですか?」

「どうりで、見慣れないクッキーだと思ったよ」


 それだけ言って博士は黙ってしまった。僕は心の中で声を大にして博士に「とても美味しかった。また作ってきて欲しい」と言えと、叫んだ。その思いが届いたのかどうかわからないが、博士は長い沈黙の後に言った。


「悪くない。なかなか美味しかった」

 それだけだった。

 博士は天才だ。しかし、こんなときに言う台詞にその才能は役に立たないことを僕は知った。


「君にプレゼントがある」


 博士は席を立ち、デスクの下に置いてあった小包を持ってくる。これには雨雪さんも驚いたらしく、目を瞬かせる。


「そんな、プレゼントなんてもらえません、私何も用意してませんし」


 包装紙を破る博士に、雨雪さんは慌てて固辞した。


「気にする必要は無い。それにプレゼントなら既にもらっている」


 博士は机の上のクッキーを指差した。


 博士が用意したプレゼントは最新式のウェアラブル端末だった。好きな女性に物を送るならもっと、こう、なんと言うか、指輪みたいな貴金属とかが僕はいいと思う。それにこんな高価なものは受け取りにくいと思う。案の定、雨雪さんは困った顔をしている。


「こんな高価なものもらえません」

「お金の問題ではない。気持ちの問題だ」


 そう言う台詞は安い物のときに言うもんである。少なくても僕ならそうする。

 雨雪さんは何度も固辞したが、博士は言葉巧みに雨雪さんに受け取らせてしまった。そして、半ば強制的に初期設定や、パスワード設定を行ってしまった。ちなみに、この最新型は指紋と脈拍と網膜パターンでユーザーを認識するタイプである。


 そんなこんなで博士と雨雪さんのクリスマス・イブはすぎて行った。


 これが僕達三人で過ごす最後のクリスマス・イブとなった。


 大晦日も、正月も博士の生活は全く変わらない。新しい年になることも博士に取っては些細なことである。

 何も代わり映えしない日々。博士の望んだ生活だ。しかし、この世に変わらない物など無いのだ。


 博士の妹が普段よりも頻繁に訪れるようになった。お金の無心のためだが、額が徐々に増えていった。いまや、その額は常識的な範囲を大きく越えていた。


「晴子、この事業は失敗だ」


 晴子とは博士の妹の名前だ。


「この事業は成功しないと前に私は忠告したはずだ」


 下を向き黙って座っている晴子さんが顔をあげた。


「お兄さん、もう一度だけ融資を。あと少し、あと少しで軌道にのるんです」


 晴子さんは深々と頭を下げた。

 博士は大きくため息をついた。


「何回も同じことを言った。私から、お前にしてやれるのはこの忠告だけだ」 


 博士は数秒間宙を睨み、ゆっくりと口を開いた。


「今すぐこの事業を放棄しなさい。駄目な物はいくらやっても駄目だ。負債がかさむだけだ。今中止すればまだ私の財産でどうにか後始末できる」


「放棄だなんてひどいわ、お兄さん。どうかお願い、あと一回だけチャンスを頂戴」


 晴子さんは博士にすがりつき懇願した。


「無理だ」


 博士の返答は素っ気ない。後に分かることだが、博士の言ったことは正しく、この時、晴子さんの会社の負債額は博士の財産とほぼ同じ額にのぼっていた。


「わかりました。おじさま」

 晴子さんの隣にいた真一さんが言葉を発した。

「真一?」

 晴子さんは息子の言動が信じられなかったのか、目を大きく開いて真一さんを凝視した。


「お母さん、おじさまの言う通りだよ。僕達の会社は限界だ。景気の良い時期もあったけど、いまや完全に時流に乗り遅れた。結局、全ておじさまが予言した通りだった」

 博士のは予言ではなく、予想である。ただ、必要な情報を集め、的確にそれを判断しているので的中する可能性が非常に高い。だからまるで予言のように見えるのだ。


「しかし、おじさま。会社はたたむとして、滞っている銀行への返済、下請け会社や、社員への支払いがあります。どうか会社を倒産させるだけの資金を頂けないでしょうか?」


 真一さんは深々と頭を下げた。晴子さんはただ、おろおろするばかりである。


「真一、そして晴子、私は人の善意と言うものを信じたいと思っている」


 博士はゆっくりと真一さんから晴子さんへと視線をずらした。


「今までお前達は私の忠告を聞かなかった、いや、それはかまわない。しかし、お前達には善意が見られなかった。ひたすら私からお金を奪うことしか考えていなかった。しかし、最後にもう一度だけお前達の善意を信じようと思う」

 

博士は机の上の契約書にサインをした。


「お兄さん、ありがとう」

「ありがとうございます、おじさま」


 晴子さんは涙を流して喜んだ。


「もう一度だけ言う。これが最後だ。そして今回が私にできる限界の額だ。これ以上は私の財産を超える。その点をよく理解しておいてほしい」


 二人は博士に何度もお礼を言って、帰って行った。もしこれが雨雪さんなら、博士の忠告を素直に受け入れただろう。しかし、晴子さんも真一さんも雨雪さんでは無かった。

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