第3話 春
僕は博士との生活の中で、嬉しいことや楽しいことを沢山体験してきた。でも、日々の生活では悲しいことも起きる。
雨雪さんが来る日。いつものように博士はロッキングチェアに腰掛け十五分間何もしないで目を閉じていた。きっとクリスマス・イブの時のようなキザな冗談を考えているに違いない。ただ、博士の冗談は高尚すぎてあまり他人に理解されない。
十五分が経ち、雨雪さんが来る時間になった。なのに、呼び鈴のチャイムはならなかった。約束の時間を五分すぎると博士は目に見えてそわそわしだした。しかし、博士はかたくなにロッキングチェアから離れなかった。博士は頑固だから、いつもと同じ状態で雨雪さんを迎えたかったのだろう。そんな子供じみた所が博士にはある。
それにしても、時間にうるさい博士の事を良く知っている雨雪さんにしてはこんな遅刻は珍しい。
約束の時間を十分過ぎても雨雪さんが現れないと、意地っ張りな博士も彼女のウェアラブル端末に電話をかけた。犯罪に巻き込まれたとか、そういった異変を感じたのだろう。僕も雨雪さんの身に何か起きたのではないかととても心配だった。
博士がかけた電話は留守番サービスへと接続された。博士は電話を切ると、今度は雨雪さんが所属している会社に電話しようとした。その時、呼び鈴がなった。博士のウェアラブル端末には家の入口にいる雨雪さんの映像が映った。玄関の監視カメラの映像だ。
博士はウェアラブル端末をスリープ状態にして、いつもと同じように神妙な顔つきで雨雪さんが入ってくるのを待った。安堵の為、頬が少し緩んでいたが、それは僕だけの秘密にすることにした。
「遅くなってすいません。じつは……」
「言い訳ならいい。もう十五分も予定の時間がすぎている。早速仕事に取りかかってくれ」
雨雪さんが何か話そうとしたが、博士はそれを遮った。
「はい、わかりました」
雨雪さんは頷くと鞄から各種機器を取り出して博士の健康診断を始めた。
「食欲はありますか?」
「ある」
「睡眠は十分ですか?」
「十二分にとっている」
「無理に仕事してませんか?」
「無理な仕事は引き受けない」
いつもと同じやり取りだが、いつもとは雰囲気が少し違った。雨雪さんはずっと伏し目がちだし、博士もことさら雨雪さんを見ようとしない。
「終了です。今週も大きな問題はありません。検査結果は後ほど送ります。それと……」
「ああ、ありがとう。では講義をするとしようか」
博士は雨雪さんの話を遮って丸テーブルに移動しようとする。
「あの、お話があります」
テーブルに移ろうとしている博士の背中に雨雪さんが呼びかけた。博士は振り向きもせず答えた。
「講義はつまらなかったかい?」
「いえ、そんなことはありません。それは絶対に違います」
雨雪さんは必死になって否定した。彼女の性格からして本当のことだろう。
「いや、今のは冗談だ。気にしないでくれ。実は仕事が残っている。五分ほどですますから、少し待ってくれないだろうか」
「はい」
雨雪さんの返答にはいつものハキハキした明るさが無かった。
「では五分後に戻って来てくれ」
雨雪さんは書斎の隣の部屋へ移動した。
僕は博士が嘘をついているのを知っている。博士はいつも雨雪さんと会う前には仕事を終わらせている。今日に限って仕事があるわけが無い。
僕は博士の側にいるか、雨雪さんの側にいるか迷った。でも、雨雪さんが書斎を出るとき、ついて来て欲しそうに僕を見たので、雨雪さんと一緒に隣の部屋に移動した。
「ポテト」
雨雪さんが僕をなでてくれた。
「お別れだね」
そっと雨雪さんがささやいた。
僕はしゃがみ込んだ雨雪さんの足にまとわりつき、甘える。雨雪さんは無言でそんな僕をなでた。なで続けた。今日が雨雪さんに会える最後の日だと僕にもわかった。僕は時間が許す限り雨雪さんに甘えた。
雨雪さんにどこにも行かないでほしかった。
博士と雨雪さんと僕と三人でいつまでも過ごしたかった。
このまま時間を止めてほしかった。
博士と雨雪さんが幸せになってほしかった。
時計を確認して雨雪さんは博士の書斎のドアを叩いた。最後の五分が過ぎたのだ。
「ちょうど仕事は終わった。やはりこういったやり残しはよくない」
軽薄なまでに、妙に明るい博士の言い方に僕は驚いた。普段はもっと落ち着いた口調なのに。明らかにいつもの博士ではない。
「言うのが遅くなって申し訳ありません。この仕事をやめさせて下さい」
「うん、それはかまわない。仕事をするもしないも君の自由だ。契約にも違反していない。それで、いつやめるつもりかな?」
「はい、できるだけ早く、今月いっぱいか、可能ならば今日で終わりにしたいと考えています」
「いささか唐突だがいいだろう。後任もすぐに決まることだろうから、今日を最後としよう」
淡々と話は進んだ。雨雪さんがやめることに僕は驚かなかった。さっきの五分でその覚悟が出来たからだ。きっと博士も僕と同じだったに違いない。
「今までどうもありがとうございました。講義で教えていただいたことは一生忘れません」
雨雪さんは深々とお辞儀をして部屋を出ようとした。
「結婚するんだね」
その言葉は世界をふるわせた。
「はい」
頷いた雨雪さんは、その先の言葉を詰まらせた。
重い沈黙の後、雨雪さんは「ごめんなさい」と言った。泣きそうな声だった。
「謝る必要は何もない。めでたいことだ。心より祝福するよ。おめでとう」
博士は屈託のない、今までで一番の笑顔で言った。その笑顔ができる博士を僕は尊敬する。
「ありがとうございます」
雨雪さんも、あのいつものチャーミングな笑顔で答えた。泣くよりも笑うことを選んだのだ。
雨雪さんが博士の家を去った。彼女が去った後の博士はまるでバッテリーの切れたロボットのように、身動き一つせずに椅子に座っていた。ただひたすらに雨雪さんが立っていた場所を見つめ続けていた。
優に一時間は経っただろう、おもむろに博士はデスクの引き出しを開け、中から小さな小箱を取り出した。その小箱をデスクの端に置いた。
博士が深く長いため息をついた。
博士はマウスを動かしてコンピュータのスリープを切る。かたかたと、キーボードを叩き、考え、また叩く。バッテリーの充電が完了したらしい。博士はいつもの博士に戻った。
この日からあの小箱はずっと机の上に置かれ続けた。博士が寝入った後に小箱の中を確認しようとデスクに上ったこともあったが、結局僕は小箱を開けなかった。
博士のプライバシーを侵害したくなかったと言うこともある。けれど、そもそも、僕には開けなくても小箱の形状、外皮から何が入っているか想像がついていた。僕の記憶が正しければ、あの種類の小箱の中にはたいてい指輪が入っている。
ロンマンチストな博士はいつ雨雪さんに渡そうかとか、渡すときの台詞とか、日々考えていたに違いない。
雨雪さんも博士の気持ちに気がついていたに違いない。しかし、二人が結ばれるには、年齢差や身分や他にも障害がありすぎた。もし博士が雨雪さんに小箱を渡していたら、雨雪さんを苦しめただろう。だから博士はいつまでも雨雪さんに渡すことができ無かった。
一週間後、雨雪さんの代わりの人が来た。今度は男の人だった。彼は、事務的に博士の体調について調べ、型通りの注意事項を述べ、帰っていった。
検査の後、博士は僕を膝の上に乗せ、誰に語るとも無く話しだした。
「彼女は私にほれている自分に気がついたんだよ。そして、それがかなわぬ恋であることもな。だから彼女はやめたんだ。あの時点ならまだ引き返えせたからな。賢明な選択だ。いかんせん、私も歳を取りすぎたな」
博士は僕を優しくなでた。僕は目を閉じ、博士の膝の上で寝ることにした。僕は知っている、博士も雨雪さんをこの上なく愛し合っていたことを。
博士はいくつもの矛盾を持っている。孤独になりたいと思っているのに、孤独を嫌っている。誰も理解できない高度な思想の持ち主なのに、誰かに理解されたいと思っている。天才ともてはやされることを鬱陶しく思っているのに、天才的な研究や仕事をやめない。
博士の知り合いは、誰もが博士と対等になろうとはしない。博士を天才ともてはやして自分には理解できない存在に祭り上げる。
でも、雨雪さんは博士のことを理解しようとした。博士と対等になろうとした。それは博士を、天才、としてではなく、一人の人間として見ていたからだ。
たとえ能力的に無理であっても博士には雨雪さんの気持ちが嬉しかったに違いない。
※
悲しい出来事の次は嬉しいことが起きるとエネルギー的に安定するのではないだろうか。でも、悲しい出来事の次は嫌な出来事が起きた。
博士の妹の晴子さんの会社が莫大な負債を計上したのだ。
晴子さんと真一さんは博士の前で会社をたたむことを約束してお金を奪っていった。ところが、二人はこのお金で新しいプロジェクトを行い、失敗した。後には莫大な負債が残ったのだ。
その負債額は優に博士の資産を超えていた。
晴子さんと真一さんは失踪し、二度と姿を見せることは無かった。そして、保証人になっていた博士のもとに返済の全ての責任が降り掛かってきた。
博士は仕事に必要な最低限の物以外の資産をなげうって負債の半分を返した。次に、仕事の数を増やし、その報酬を返済に当てた。仕事しながら取れるように食事を流動食に変え、寝る時間を削った。
博士が自己破産するという手もあっただろう。他にも返済義務から逃れる手はきっとあったはずだ。だけど、博士は粛々と負債を返し続けた。博士は律儀な人なのだ。
莫大な負債は少しずつではあるが減っていった。しかし、こんな無茶はいつまでも続かない。博士は過労で倒れた。
博士の体を慮って国が動いた。国は負債を全て肩代わりした。代わりとして国は博士に大きな仕事を与えた。博士がずっと断り続けていた仕事だ。だが、今回は負債を肩代わりしてもらったので断れなかった。
博士に課せられた仕事は打ち込まれたミサイルを効率よく排除し、なおかつ発射された位置を同定し、打ち返す為のプログラムだった。つまり戦争の為の仕事だ。
戦争中であり、軍事機密を扱うため、博士の住まいはあの高層マンションの家から軍の施設へと移動した。僕はどうにか着いて行くことができたが、人間はいっさいの同行と面会を禁止された。
こうして、博士は精神的にも肉体的にも完全に孤立した。その後の博士の生活は地獄だった。その生活は三年に渡って続いた。
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