第二話 崩壊の箱庭(3)

 午後五時過ぎ、あきらたち四人は東門の脇にある自動販売機の前で思い思いの飲み物を片手に一息ついていた。

 約束の時間までは残り十五分を切っている。想像していたよりも後片付けに時間がかかってしまった。

 あらたの予想通り他のチームも通り雨に降られ、皆測定器具を濡らして倉庫へと集まっていた。そこに、雨が降ったことを察した助手の先生が現れ、測定器具の水滴を丁寧に拭うように指示されたのだ。

 ある程度ふき取ればいいと思っていたクラスの誰もが、巻尺からテープを全て引き出して清掃しなければならない事実に不満を述べた。自分よりも一回り近く歳の離れた子供が二、三十人集まったところで彼の考えが改まるはずもなく、清掃作業は半ば強制的に実行された。

 倉庫の前、つまり土木棟東端の道路では、一年生による巻尺清掃大会が華々しく繰りひろげられ、怒号や悲鳴があちこちで飛び交った。テープで手を切る者、やり直しを命じられて路上にうずくまる者、様々だ。

 晃たちのチームは、几帳面な性格の祐樹ゆうき春奈はるながことに当たったお陰で、厳しいチェックを難なくパスした。

 それでも、二個の巻尺を清掃するだけで一時間を要してしまったことになる。実習最後の総仕上げともいえる補正計算ほせいけいさんを残していたが、時間・体力共に限界だった。

 倉庫前では、まだ数組が残って清掃を続けている。助手の先生もそれに付き添っていたが、彼らがいくら疲れを滲ませようとも一切の手抜きを許さなかった。

 新は炭酸飲料の缶を持ち上げて口に運ぶ。

工藤くどう谷澤やざわ先輩ってさ、すごく似てるよね。外見もそうだけど、雰囲気っていうか存在感がそっくり。まさか祐樹を見たときの反応まで同じだとは思わなかったよ」

「二人とも重度の身長コンプレックスだよな。背が高いっていうのもいいことばかりじゃないんだが」

「祐樹が言うと嫌味にしか聞こえないんだよ。スポーツだって背が高い方が有利じゃねえか。だいたい高身長で受ける不利益ってなんだ?あたしには利点しか浮かばねえよ」

 祐樹は少し考えてからコーヒーを一口含んだ。

「着る服がない」

「それは背が低くても同じだっての。遠まわしに自慢してんのか?」

「まさか。自己否定もそこまでいくと救われないぞ」

 祐樹はしれっと言い放つと、缶をあおった。

 これまで晃が受けてきた数々の屈辱を知らないから、そんなことが言えるのだ。主にスポーツにおいては、もう少し背が高ければなという台詞せりふを聞くことはあっても、逆はない。絶対にない。いつか伸びると自分に言い聞かせてきた者の心情は、きっと一生理解されないだろう。

「まあまあ二人とも。そういうのを無いものねだりって言うのよ。背の高い人には高いなりの役割が、低い人には低いなりの役割があるのよ。ソロではなくマルチでやっていけばいいじゃない」

 春奈が上機嫌で口を挟んできた。晃はカフェ・オレを飲み干しながら、彼女の様子をそれとなく伺う。

 実験室を出てからというもの、春奈は最高に上機嫌だった。き止めていた好感情があふれ出したかのように、にこやかに笑っている。それだけではない。巻尺清掃時には、約一ヶ月ぶりにあっちゃんと名前で呼ばれ、話しかけられた。

 実験室でのあの短い時間に春奈が上機嫌になるようなことが、なにかしらあったのだ。それは間違いないのだが、終始模型の話をしていただけで思い当たることが一つもない。注視していたわけではないので断言はできないが、実験室での春奈は若干つまらなさそうに成り行きを見守っていたように見えた。

 掌の返しっぷりに晃は内心首を捻ってばかりだ。春奈は「そろそろ行こっか。あ、缶は捨ててくるよ」などと言って、手の中から空き缶をさらっていってしまう。

 祐樹と目が合って、晃は眉間にしわを寄せた。

 春奈とは長い付き合いだが、今回ばかりは何がなんだかわからない。乙女心と秋の空とはいうが、季節はようやく春を抜け出したばかりだ。乙女も秋も手の届かない遥か彼方にある。

 晃たちは日が落ち、藍色に包まれた構内を約束の場所へと歩き出した。

 夕方も五時を過ぎると構内に人影はまばらになった。私服通学が許されている四・五年生らしき人物がうろうろしているだけで、制服を着た三年までの学生はほとんど姿を見かけない。皆部活に行ったり、家路に着いたりしているのだろう。

 部活動に力を入れているわけではないが、久我高専くがこうせんの部活数はかなり多かった。毎日活動している部もあれば、場所の都合から曜日を決めて活動している部もある。個人が責任を取れる範囲内なら、部のかけもちもできるらしい。各部の先輩方による新人争奪戦は、とうの昔に終結していた。

 晃は部活に所属するどころか、見学にすら行っていなかった。クラスの中には早々と所属先を決めてしまい、青春を謳歌おうかしている者も少なくなかったが、晃は夏休みが明けるまで部活については考えないことに決めていた。

 初めての寮生活、新しい授業や学校に慣れるのと同時に部活にも入る。そんな器用な真似は自分にはできそうにない。幸い、入部は随時受け付けらしいので、焦る必要もなかった。

 遠くから吹奏楽部と思わしき管楽器の鳴る音が聞こえる。晃は道すがら尋ねた。

「なあ、部活ってもう決めた?」

「私は全然考えてない。まだそこまで気が回らないかな」

「模型部はないって言うし、僕も白紙だよ。工藤と祐樹は当然、空手部でしょ?」

「一応候補には上げてる。寮生りょうせいで帰宅部になると、学校が終わってからの時間が長がいからな。つっても、あたしも今すぐ入るわけじゃねえよ。稽古をするなら同じ流派でしたいと思ってるし。その辺を調べたりしてからだな。祐樹だってそう思うだろ?」

 祐樹は返事をするそぶりを見せず、唇を固く引き結んで正面を見つめていた。

 先月、祐樹とは空手抜きで友達になりたいと豪語した晃だが、もし共に稽古ができるのであれば、それは願ってもないことだ。再試合についての遺恨いこんは自分でも驚くほど氷解ひょうかいしているが、やはり空手のこととなると見境がなくなってしまう。なにより勝敗に関係なく、祐樹と稽古をした時間は楽しかった。

「ここの学校はあんまり部活に熱心じゃないし、だらけた雰囲気の中でやっても強くはなれないからな。うちの流派は稽古が厳しいことで有名だし、そういう心配はねえだろ?上手くすれば級位きゅういを引き継げる可能性もあるし、祐樹はどう思う?」

 二度目の問いかけに、祐樹は足を止めるとゆっくりと晃を見下ろした。

「悪いが晃。俺はたとえ同じ流派であったとしても、空手部に入るつもりはない。俺は・・・・・・中二の春に空手をやめたんだ。だからもう、空手はしない」

「え?」

 思いがけない発言に、晃はその場に硬直した。

 止めた?祐樹が空手を?

「じゅ・・・・・・受験の為に一時的に休んでるのはやめたって言わないじゃん・・・・・悪い冗談はよせよ」

 停止しそうになる思考をフル回転させて搾り出した台詞は、思った以上に白々しく、ありえない一言だった。中学二年生の春から好んで受験勉強をする者がいるだろうか。いくら久我高専がそこそこの難関校とはいっても、二年間を勉強に当てるほどでもない。

 晃は『冗談に決まってるだろ』という返事をいつまでも待てる気がして、祐樹の瞳をじっと見返した。しかし、そこにはいたずらめいた光はなく、虚無を見つめる漆黒の瞳があるばかりだった。

「俺はもう道着に袖は通さない。そう決めている」

 晃をその場に残して、祐樹は歩を進めた。完全な拒絶を前にして立ち尽くす晃の肩を、新がそっと撫でていく。春奈が隣に立ち、気遣わしげな視線を投げかけていた。

 三年前の夏の続きを期待していたのは晃の勝手だ。祐樹には祐樹の事情があるのも理解できる。無理を通して空手を再開させるつもりもないが、いまひとつ釈然としなかった。

 なぜなら、晃と同じで祐樹も空手が大好きだったから。

 言葉にしなくても、見ていれば、組んでいればそれくらい伝わる。合宿では学校や家の話しは殆どせずに、寝ても覚めても空手のことばかりだったけれど、それでもずっと笑っていた。瞳を輝かせ屈託なく笑う祐樹を、晃は知っている。

 現実に目の前にいる彼とは、まるで別人だ。

 晃は雑念を振り払うように駆け出した。理由を問いたださずにはいられない。

 追いつき、作業服に包まれた腕を取る。

「ちょっと待て祐樹。やめたって何でだよ。何があった」

「君たち、時間ピッタリだね。どうしたの。取り込み中かな」

 声のした方を振り向くと、ジーンズのポケットに両手を入れ、踊るような足取りで正面から圭吾けいごが近づいてくる。

 祐樹はそっと晃の手を解いてから、圭吾の方へ進み出た。

「大丈夫です。いつものじゃれあいですよ。それより、会議は終わったんですか」

「滞りなく。俺は別件で少し遅くなったけれど、むつみが先に来ているはずだ。ドアは開いてなかったのかい?」

「俺たちも今来たところです」

「そうか、じゃあ中に入ろう。睦は待たせると煩いから」

 晃はドアへ向かう列にしぶしぶ加わった。先ほどまではあんなに楽しみだったのに、今は祐樹のことが気になって心から実験を楽しむ心境ではない。

 でも、自分たちから見せてほしいと言い出したことだ。今更、次の機会にしてくださいとは口が裂けても言えない。

 一行は、雨上がりに晃たちが出てきたドアへと進んだ。先頭には圭吾が立ち、短い階段を上がってノブを捻る。

「あれ?おかしいな、鍵がかかってる」

 圭吾はノブをガチャガチャいわせて数回捻った。外開きのドアは動くこともなく、ぴたりと閉じている。

「睦が先に来ているはずだと思ったんだけど」

 圭吾はノブから手を離すと、握り拳で強めにドアをノックした。

「睦?いたら鍵を開けてくれないか」

 少し待ってみるが、室内からは応答もなく、誰かがいるような気配もない。圭吾はもう一度ノブを回して引っ張ると、諦めたように首を振った。

「駄目だ。正面に回ろう」

 五人はドアの前を離れ、土木棟の正面玄関へと移動した。正面玄関は間口が広く、階段のついた小さなエントランスがある。ドアはスチール格子こうしのガラス張りで、正面には二階に繋がる階段と、奥に同じようなドアがあるのが見えた。棟を通り抜け、裏側へ出られるようになっている。

 圭吾を先頭にして、晃たちは初めて土木棟内へと足を踏み入れた。

 ひやりとした空気が首元を通り抜ける。ホールと呼ぶには狭すぎる空間。天井では蛍光灯が光を放っているが、実験室と同じでなんだか薄暗い。

 向かって階段の右隣には女子トイレがあり、左右はすぐ行き止まりになっていた。重厚な木製のドアが閉ざす先には実験室が広がっている。右手は先ほど入った材料実験室、左手のドアにはかすれた文字で土質どしつ実験室と書かれたプレートが貼り付けてあった。

 圭吾は材料実験室のドアを見るなり「あれ?」と声を上げた。材料実験室のドアは上半分に擦りガラスがはめ込まれ、そこは闇で覆われている。

「中に電気が付いてない。やっぱり、まだ睦は来ていないんだな。仕方ない。鍵を取りに上がってくるから、君たちはここで少しの間待っていてくれるかい」

 そう言い置いて圭吾が階段に足をかけると、上階から睦が降りてきた。

「悪い、遅くなっちまって」

「先に出たから、もう着いている頃だと思ってたよ」

「悪かったって。鍵を取りに二階へ行ったら、土力どりきの教授に捕まったんだよ。午後の授業をサボったのがばれてて、大目玉をくってたんだ」

 言いながら睦は鍵穴に鍵を差し込む。重く軋んだ音が開錠を知らせると、睦はレバー式のドアノブに手をかけた。

 ドアを押し開くと、暗闇が口を開いて待っていた。人の出入があるとは思えない硬質こうしつな静寂が耳を打つ。

 睦はためらうことなく室内に入ると、灯りのスイッチを入れた。

「ドアは開けっ放しにしておいてくれ」

 照らし出された室内には、一時間半前と同じく部屋の中央に模型が置かれている。ただ、今はブルーシートがかけられており、中の様子を見ることはできない。

 睦は壁のフックに鍵を吊るすと、階段を下りて観音扉かんのんとびらの方へと近づいていく。圭吾も後に続くと、先ほど鍵のかかっていた北側のドアを全開にした。

 睦は観音扉の片側だけを外へ開くと、

「この部屋で実験をするときは、基本ドアは全開だ。特に理由はないが、そういうルールになってる。他に窓もないし、換気の意味もあるんだろう」

「確かに。この部屋、ちょっと臭いますよね」

 鼻に手を当てて春奈は顔をしかめる。嗅ぎなれない臭いを不快に思っていたのは、晃だけではなかったようだ。埃とも油ともつかない、これまで一度も嗅いだことのない臭いだった。

「セメントと機械油の臭い、といいたいところだけど実際はちょっと違うな。鼻の奥に残る嫌な感じは、水の腐敗臭ふはいしゅうだよ」

「水が腐るんですか?」

 睦は晃に向かってうなずくと、開口部かいこうぶを指差して、

「あそこをくぐると、先にもう一つ部屋があって、そこは養生室ようじょうしつって呼ばれてる。床をくりぬいたでかい水槽があって、そこへ実験に使う固まったコンクリートを沈めておくんだ。実験の種類にもよるけど短くて一ヶ月、長いやつは半年くらい沈みっぱなしだから、水槽の水を替えるのは一年に一度あるかないか。湿度も温度も一定で、光もあたらない。水質はアルカリ性に傾いてるからカビや藻が生えたりすることはないけど、長期間放置してあるから腐敗臭だけはさけられないんだよな」

 と、事も無げに笑い飛ばした。圭吾も近寄ってくると、さも当然といった風に言う。

「臭いなら大丈夫。すぐに慣れて、気にならなくなるよ」

 晃たちは引き気味に顔を見合わせた。水が腐るという事実にも驚きだったが、それを知っていてなお平然としていられる二人にも驚きだ。

 やっぱり土木科に長くいると、普通はキタナイと思えることも平気になってしまうんだろうか。それは、なんというか、あまり歓迎したくない状況だ。そう思うと雑然とした室内も、床のシミも全てが不潔めいたものに見えるから不思議だ。

「お。引いてるね。心配しなくても、お前らが想像しているより養生室はきれいだよ。見た目はなんてことない、真っ白な部屋だ。水槽の水だって、色が変わったりしてるわけじゃない。そんな疑うような目で見るなら、後でちょこっと覗かせてやるよ」

 睦は模型へ近づくと、ブルーシートの端を掴んだ。

「それよりも、なによりも、まずはこいつの実験だろ。こいつはな、その名も『液状化現象えきじょうかげんしょう再現装置さいげんそうちくん』だ」

「そのままじゃないか。睦はネーミングのセンスが皆無かいむだな」

「圭吾。笑って毒を吐くんじゃねえよ。お前の顔、怖いんだからさあ。もっと気を使えっての」

 晃は無表情で、春奈、祐樹、新の顔を順に見た。全員が、その行動を不思議そうに見つめている。

「なあ、液状化えきじょうかってなに?」

 祐樹と新は、お互いに目配せをし合った。

「液状化って言えば、あれだよな。地震のとき―――」

「―――地面から水が噴出す。あれだよね」

「あれって?」

 隣で春奈も首を傾げる。よかった、仲間がいた。

「そうか一年だから、まだ液状化がなんだか知らないんだよな。えーっと、どう説明すりゃいいんだか・・・・・・オレはこういうのはパス。圭吾、頼むわ」

「うーん。そうだな。君たちも粉を容器に詰める時、容量がいっぱいになったけれど容器を叩くとかさが減って、結局全部入ったっていう経験ない?それと同じことが土の中でも起きるんだよ。液状化の場合、砂の粒と粒の隙間には水が入ってる。地震が起こると、その隙間がぎゅっと詰まって、中に入ってた水が表面に溢れ出してくるんだ。それが液状化。なんとなく理解してもらえるかな」

 晃たちの間に、ほうっとため息にも似た声が漏れる。

「今の分かりやすかった。やっぱり五年生ってすごい」

「粉を容器に詰める、か。イメージしやすいな」

「テレビとかでよく聞くけど、そういうことだったのね」

「再現装置くんってことは、これからそれが見れるってことか。楽しみだな」

 瞳を輝かせる一年生を相手に、圭吾は少しうろたえた。睦はその様子を見て、腹を抱えて笑っている。

「うん。まあ、大体そんな感じ。詳しいことは来年になってから」

「じゃあ、ご期待に添えるべく、実験開始といくか」

 睦は掴んだブルーシートを勢いよくめくった。バサバサと耳障りな音をたててシートが翻る。

 その下から現れた模型は―――無残にも崩壊していた。


                *・*・*


 睦は苛立ちを隠そうともせず、晃たちを睨みつけて立っている。

 力作である『液状化現象再現装置くん』は、すでに何者かの手によって崩壊していた。

 砂地の表面には水が溜まり、ビルや家は、ある物は倒れ、ある物は傾いて地面にめり込んでいる。装飾そうしょくとして置いてあった木々は水面に浮かび、接着剤が剥げたのか、幹と葉が分離して全体に散らばっていた。土中からは土管に見立てた円筒形の物体が屹立きつりつし、精巧な町並みは見る影もない。

 全員が模型を取り囲み、その惨状に絶句していた。

 静まり返った室内に、睦の険を帯びた声が響く。

「オレの知っている限り、材料実験室に模型があったのを知っているのは、この六人しかいない。圭吾はオレと一緒に直前まで会議に出ていたんだ。お前らの中に犯人がいるなら、正直に言え」

 晃たちは夢中で首を横に振った。突然の状況に、まだ頭の整理が追いついていない。なぜ、どうしてこんなことになったのだろう。

 晃は呆然と崩壊した模型を見つめた。楽しみにしていたのに、睦ほどではないにしろ、こちらだっていきどおりを感じる。

 全員が否定したことによって、睦の声は怒気をはらみはじめた。

「誰も知らないわけがねえだろうが!オレたちが会議に行った後も、お前らはこの辺りで実習をしてたんだろ!」

 憤怒ふんぬの形相で晃たちを睨む睦からは、凄まじいほどの怒りがほとばしっていた。体格の小ささを感じさせない圧力に、春奈が顔を青くして息をのむ。

 晃も思わず身構えながら、固唾をのんだ。

「ちょっと待ってください。谷澤先輩」

 低く凛とした声が緊張に包まれた空気を裂いた。横を見ると、祐樹が瞳を閉じて右の拳を握り締めている。その拳を腰の辺りに構えると細く長い息を吐いた。

 なんだ、こんなときに―――瞑想めいそう

 空手の試合前には、晃もよくやっている。目を閉じて細く息を吐くだけで、緊張が取れて集中力が上がるのだ。それと同じことを祐樹はやっている。だが、今はそんな場合ではないのだ。

 ゆっくりと瞼を開けた祐樹は、切れ長の瞳で睦を射抜いた。

「確かに、俺たちは先輩方よりもこの場所に近いところに居ました。だからと言って、俺たちが犯人だというのは違います。実習の後片付けをしていて、ずっと四人一緒でした。証人も沢山います」

「じゃあ誰がやったって言うんだ」

「犯人を考える前に、この事態をどうやったら引き起こせるか、を先に考えるべきです」

「あん?どういう意味だ」

 睦は少し表情を和らげて祐樹を見上げた。晃にも、祐樹が何を言いたいのか分からない。目の前には崩壊した模型があるのに、どうやったらこの事態を起こせるかというのは愚問な気がした。

「そうか。この部屋、施錠されてたんだ。つまり・・・・・・密室で起こった?」

 新がはっとして顔を上げる。祐樹は首を左右に振って新の言葉を否定した。

「こうして模型が荒らされている以上、密室なんてものは存在しない。どこかに人が出入できる場所があるんだ。そこで先輩。俺たちは実験室に入るのも土木棟に足を踏み入れたのさえ、今日が初めてです。中の状況には詳しくありません。ここへの出入口はいくつあるんですか?」

 睦は不服そうにそっぽを向く。晃たちの中に犯人がいると思っているのだから、面白くないのも当然だろう。

 その質問に答えたのは、圭吾だった。彼はこんな事態にも落ち着いていて、品定めをするような目で祐樹を見ている。腕を上げるとドアを一つずつ指し示しながら説明を始めた。

「四箇所だよ。今入ってきた正規の入口。そして俺と睦がそれぞれ開けたドア。睦が開けた大きな扉は資材搬入口しざいはんにゅうぐちで、俺が開けたのが非常口。最後の四つ目はここから見えないが、開口部を入って養生室の扉の傍にある。養生室の中と、そこの準備室の中には出入口も窓もない」

「なるほど。ありがとうございます。それじゃあ晃。今、寺崎てらさき先輩が言ったことを確かめてこい」

「はああ?あたし?」

 晃は人差し指で自分を指した。睦は舌打ちをしているし、圭吾の証言を疑うようで気が進まない。こんな緊迫した状況下で一人うろうろと動き回るのは、針のむしろに座っているのと同じだ。

 晃は祐樹の隣で背伸びをすると、小声で反論した。

「いやだよ。こんなときばっかり変な役割を押し付けんなよ」

「いいから。鍵がどうなっているかも確認してこい」

 同じく小声で答えて、祐樹は晃の後頭部を押し出した。背中ならともかく、手の位置がちょうどいいからって後頭部を押すな。

 晃は不承不承ドアの確認に向かった。三段ある階段を上がり、開きっぱなしにしてある正規の入口を見る。擦りガラスのはまった、木製のハンドル式ドア。ハンドルの上に鍵穴があり、外からは鍵で、内側からはツマミを捻って施錠する。ドアを閉めてみると、足元に一センチくらいの隙間があった。

 次は準備室といわれた入口すぐ傍のドアを開いた。

 圭吾の言ったとおり中には窓はない。ガラスの引き戸がついた棚が壁際にぐるりと並んでいる。部屋の中央には大きな机があったが、乱雑に物が積んであり、天板てんばんが全く見えなかった。

 晃は一応、中へ入って机の周りを一周する。ガラス戸棚には古い薬品のビンが並んでいるが、それらを詳細に確認している時間はない。ためしに引き戸を開けてみようとしたが、鍵がかかっていてどれも開かなかった。薬品が入っているのだから、鍵がかけられていて当然だ。独り肩をすくめて準備室のドアを観察する。

 アルミ製のノブ式ドア。鍵穴はなく施錠できるタイプではないらしい。次。

 準備室を出て搬入口へと向かう。みんなの傍を横切るが、突き刺さるような視線が痛い。

 スチール製の観音扉。今閉まっている側にはノブがなく、鍵穴ももちろんない。視線を落とすと、ドアの下から突き出た棒が床に開けられた穴へと刺さっている。なるほど、この棒でドアが閉まったままの状態をキープしているのか。とすると、これがこちら側の鍵になるわけだ。

 晃は腰を落としてドアの側面を見た。幅は約三センチ。床に近い位置には長いツマミがついている。手を伸ばしてツマミを上げ下げすると、ドアから突出した棒が連動して上下した。

 反対の開いている側を見る。こちらにはノブがついていて、その下に鍵穴があった。

 室内からはツマミで、室外からは鍵を差し込んで施錠するのは、正規入口と同じだった。

 ここでも一応、扉を閉めてみる。扉自体が大きいので重量もかなりのものだ。蝶番ちょうつがいが錆びているのか、やや閉めにくい。扉の下には五ミリくらいの隙間があった。

 晃は搬入口をもう一度開けると、壁伝いに開口部へと向かう。途中には大型のデジタルはかりが三台並べて置いてあり、どれも使い込まれていて古い。

 開口部を覗くと、すぐ右手にアルミ製のドアがあった。正面にはスチール製のドアがあり、ここが養生室になるのだろう。通路はドア一つ分の長さしかなく、照明器具の類は設置されていなかった。材料試験室からのほの暗い灯りを頼りに、ドアを観察すると、ノブの真ん中にはツマミがついており、今は横方向へ倒れている。晃は開錠してドアを押し開いてみた。

 外気が顔に吹き付けてくる。外にはもう夜のとばりが下りていた。目をらしてみると、正面の白い壁は、どうやら隣の機械科棟らしい。足元には芝生が生え、空には星が瞬いている。扉の外側には鍵穴もなく、施錠は内側からだけ可能のようだ。

 晃はドアを閉めると、養生室の扉を睨んだ。

 腐った水の話を思い出す。睦先輩は、室内はきれいだと言っていたが、キタナイものに慣れた彼らの話を鵜呑みにするわけにはいかない。

 晃は震える手を伸ばしてノブを掴んだ。機密性が高いらしく、ドアは簡単に開かない。全体重を乗せてノブを強めに引くと、薄く開いたドアの隙間から鼻の奥に残るようなあの臭いが漏れ出てきた。

 恐る恐る中を覗く。まとわり付くような高湿度の空気が充満しており、光一つ見えない闇が広がっていた。

 光がないということは、それだけで室内には開口部がないということにも繋がる。晃はドアを閉めようとして逡巡しゅんじゅんした。

 この状態で、はたして確認したといってもいいものだろうか。祐樹のことだから、電気をつけて中を見なかったことに不満を漏らすに違いない。

 晃は意を決すると、体を半分だけ中に滑り込ませた。入口近くの壁を手探りすると、スイッチらしきものに指先が触れる。オンにすると小さな明滅の音を立てて、室内に明かりが灯った。

 中は真っ白で本当にきれいだった。壁にも天井にもシミはなく、実験室内の何処よりも片付いている。睦が言っていた水槽には、白い蓋がしてあり中を見ることはできない。実験の途中だと言うし、蓋をあけてまで確認はしなくてもいいだろう。

 晃は安心して養生室を後にした。

 実験室に戻ると、面白くなさそうな顔の睦といきなり目が合う。全員が晃の挙動を見守っていて、いたたまれない。残すドアは非常口だけだ。手早く済ませよう。

 晃は機械を避けながら、足を速めて非常口へ向かった。

 非常口は、入ってきたときに圭吾が開いたままになっていた。スチールのノブ式ドア。ツマミがノブのすぐ下についており、外側には何もない。ここも内側から施錠する使用らしい。ドアを閉めてみるが、大きな隙間もなく特に異常は見当たらない。

 晃は祐樹の元へ駆け戻ると、今見てきたことをかいつまんで説明した。

「そうか悪かったな。ところで、先輩方にもう一つ聞きたいことがあります」

「何だ」

 睦が険しい眼差しを向ける。

「この模型をどうすれば、今みたいな状態になるんですか?見たところ同じ金属の箱の上に乗っていますし、全体の位置も変わったようには見えません」

 圭吾が「ああ、それなら」と言って、模型の乗った箱の下へと手を入れた。探るような手つきをした後、電源ケーブルを掴んで引き出す。

「これをコンセントに差し込んで、スイッチを入れるだけ」

 言いながらデジタル秤の方へ歩いていく。壁際に着くと、しゃがみ込んでコンセントにケーブルを差し込んだ。

 戻ってきた圭吾は、箱の側面に空いていた小さな穴へ人差し指を入れる。

「ここが開くようになっていて、その中にスイッチがあるんだ。これをオンにすると下の箱が動く」

 カチリとスイッチが入る音と共に、急激に模型が左右に振動し始めた。下の箱が微動だにしないところを見ると、内部に振動する装置が組み込まれているのだろう。その上に模型が乗せてあるのだ。

 古いせいか、機械はかなりの轟音を立てて動いている。長時間聞いていたら鼓膜が麻痺してしまいそうだった。

 圭吾がスイッチをオフにすると、同じ実験室内とは思えないほどの静寂が耳をうった。

「こうして模型自体を揺らすことで、地震を再現してるんだ。スイッチを入れて液状化するまでは、長くて三十秒くらいかな。それ以上やっても状態は変わらない」

 三十秒。思った以上に早い。

 晃は揺れの余韻で、水がたゆたう模型を見た。睦はこの模型を仕上げるのに午後の授業をサボったと言っていた。そんなに時間をかけて作っても、たった三十秒で全てが崩壊してしまう。壊す為に作ったとはいえ、なんと空しい作業だろうか。

 だが睦の立場から考えると、問題なく液状化するまでが制作になるはずだ。メインともいえる作業を、何者かに奪われたことになる。犯人を捜したくなるのも無理はない。

 祐樹は圭吾へ向かって丁寧に頭を下げた。

「なるほど。ありがとうございます、寺崎先輩。しかし、実際に見られなかったのが残念でなりません。とても面白そうな実験なのに」

「そんなことより、お前はさっきから何を言っているんだ。適当なことを言ってはぐらかそうとしても無駄だぞ」

 怒りの治まらない睦に、祐樹は微笑を浮かべた。

「そんなつもりは毛頭ありません。これは俺達が犯人ではない、ということを証明するための手続きです」

「お前らが犯人じゃない?どういう意味だ」

「睦。落ち着いて。とりあえず彼の話を最後まで聞いてみよう」

 静かだが有無を言わせない声で圭吾がたしなめた。

 祐樹はもう一度圭吾に頭を下げると、壁の時計を見上げた。

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