第二話 崩壊の箱庭(2)

 飾り気の無い四角い校舎に挟まれて、あきらは相変わらず一人で基準線きじゅんせんを見つめていた。

 見張りといっても、目盛りがずれなければいいのであって、ずっと見ている必要はどこにもない。けれど動くことはできないので、テープと景色の他にはこれといって見るものも無かった。

 晃は土木棟どぼくとうの東端にしゃがみ込んでおり、春奈はるなたちは反対端で作業をしている。晃の居る位置からは五十メートルほど離れており、彼女たちの声はここまで届かない。祐樹ゆうきと共に野帳やちょうを覗き込んだり、何やら校舎に向かって指を指したりしているが、その行為にどんな意味があるのか、測定そくていは順調に進んでいるのか全くつかめなかった。

 視線を落とすと一匹の蟻がテープの上を横断しようとしている。

自分よりも大きな障害物を越えていかなければならないなんて、蟻の世界も中々に大変だ。だが彼(?)が戻って来た時には、この障害はすでになくなっている。あったはずの物が何処かへ消えてしまったことを、疑問に思うことがあるのだろうか。

 そんな益体やくたいも無いことを考えていると遠くからあらたの声がした。

工藤くどう。そっちはいいからさ、ちょっとこっちに来てよ」

 晃は怪訝けげんな表情で顔を上げる。祐樹が去ってからは話し相手もおらず、暇をもてあましていたので行くのはやぶさかではない。だが、手を離せば風が吹くだけでも目盛りがずれてしまう。

 晃は重しになる物を探して辺りを見回した。しかし、見えるのは青々と茂った芝生やツツジばかりで、手ごろな大きさの石など何処にも見当たらない。

 仕方なく、晃は靴を片方脱いで巻尺の上に置く。何も置かないよりは、少しはましだろう。

 嬉しそうに両手で手招きをする新の元へ、晃は悠然と歩いていった。

「何だよ。測定、終わったのか?」

「ちょっと待って。どうして靴を脱いじゃったの?」

「どうしてって、近くにいい重しが無かったんだよ。安全靴は爪先に鉄板が入ってるから、重さもあって丁度よかったんだ」

 平然と言い放つ晃に、新は顔を歪めて首を振った。

「いやいやいやいや。ない。それはないよ、工藤。そもそも測定は終わったし」

「そういう大事なことは呼ぶ前に言えよ。ってか、終わったなら呼びつける必要は無いだろ」

「うん。でもハルちゃんがね、一通り終わったし、一回くらいみんな測定をやってみた方がいいんじゃないかって言うんだ。もちろん測定値そくていちは採用されないし、一人一回しか測れないけど」

 晃は「おお」と感嘆の声を上げて春奈を振り返った。目こそ合わさないものの、はにかむように笑って春奈はうつむく。

「それいいな。やろう、すぐにやろう。靴を履いてくるから、先に始めててくれ」

 言うが早いか、晃は元居た場所へと駆け出した。

 浮かぶ雲に太陽光が遮られ、地面に大きな影が刺す。晃は靴を履くと空を見上げた。

 日は西に傾き、山の端に近いところまで落ちてきている。測定を始めたばかりの頃よりも幾分雲が増えていたが、まだ青空の占める割合の方が多かった。

 腕時計を確認すると時刻は午後三時半。授業終了まで、残すところ後二十分に迫っている。一人一回ずつ測定をして、後片付けに入ればちょうど良い時間に終われそうだった。

 晃は一応目盛りの位置を確認してから踵を返す。測定値は採用されないのだから、多少ずれても問題はないだろう。基準線きじゅんせんの先では、作業服のポケットに手を入れて佇む祐樹と、巻尺を持った新だけが立っていた。

 歩いて二人に近づいている途中、冷たく埃臭ほこりくさい横風が、晃の髪を巻き上げていった。両側を校舎に挟まれたこの状況で、横から風を受けることはまずない。不思議に思った晃が土木棟に目を向けると、外壁がいへきに取り付けられたドアが大きく開かれていた。

 土木棟の中央出入口よりもやや西側、つまり祐樹たちが作業をしている場所のほど近いところに、スチール製の扉が一つ付いている。何の変哲も無い外開きのドアの向こうには、かろうじて塗装が水色であったことがわかる大型の機械が鎮座していた。

 その機械の隙間から伺える室内は暗く、半対面にあるドアが開いているのが差し込んでいる光でわかる。風は室内を通り抜けて、晃のもとへと届いたのだろう。

 まだ、一度も土木棟へ足を踏み入れたことのない晃は、聞きかじった情報を脳内で再生した。確か土木棟の一階には実験室しかなく、二階は土木学科に所属する先生方の研究室、そして三、四階に学生のホームルームがあるはずだ。とすると、あの機械の向こう側は実験室になっているのか。

 室内を覗きたい欲望にかられて、晃はドアの方へ一歩を踏み出す。と同時に「早く来い。順番が回ってくるぞ」とかす祐樹の声がした。

 晃は後ろ髪を引かれる思いでその場を離れると顎をしゃくった。

「なあ、あそこのドアってずっと開きっぱなしなのか?」

 祐樹は興味がなさそうにドアの方をちらっと見た。

「ああ。この近くで作業を始めたときには開いていた。・・・・・・まさかとは思うが、中を覗いてくるとか言わないよな?」

「大正解。まだ順番は回ってこないだろ?ちょっと覗いてくるだけだから」

 そう言って振り返ろうとする晃の襟首えりくびを、いきなり祐樹が鷲掴みにした。勢い余って後ろにつんのめる。上着の前を閉めていたら、確実に首も絞まっていた。

「やめろよ、殺す気か」

「いいから。お前はちょろちょろせずに、ここに居ろ」

 威圧的に見下ろされ、晃はしぶしぶ従った。

 ふくつらで祐樹の隣に立つと、足元では新がしゃがみ込んでいる。

「ハルの姿が無いってことは、あいつが測点そくてんの方に行ったのか。どういう順番で測ってるんだ?」

「測り終わったら、次は新が測点の方へ行って晃が測定者になる。その次に俺が測定者になり晃が測点に行く。最後は日下部が測定者で俺が測点に行くという順番だ」

「ふうん。ぐるっと一周するってわけか」

 測定値を読み終わった新が、立ち上がって巻尺を差し出した。

「はい、次は工藤の番ね。僕が良いよって言うまで、測っちゃ駄目だからね」

 巻尺を受け取った晃にそう言い残すと、球状きゅうじょう剪定せんていされたツツジの方へと進んでいく。出てきた春奈と擦れ違い様にテープの端を受け取ると、ツツジに隠れて姿が見えなくなってしまった。

「はい、いいよー」

 奥の方から大きな声がする。いいよと言われても、何をどうすればいいのかわからず、晃は巻尺を握り締めて祐樹をじっと見つめた。

 無言の訴えに気付いた祐樹は、小さなため息を漏らす。

「お前、新の作業を見てたんじゃないのか」

「いやー、見るのとやるのとじゃ大違いだな。これを持って、まずはしゃがめばいいんだよな?」

 片膝を地面につけて座り込むと、上方から祐樹の低い声がした。

「テープがゆるまないように、少し力を入れて引っ張れ。・・・・・・そうだ。そうしたらゆるまないように気をつけながら、左右にテープを振る」

「こうか?」

 テープがピンと張った状態を保ったまま、晃は手を左右に大きく振った。基準線に置かれたテープと自分の持っているテープの目盛りが交差する。

 祐樹がかたわらにしゃがみ込むと、晃の手元を指差した。

「左右いっぱいに移動させたときよりも、自分の手前にあるときの方が、交差している目盛りの読みが小さいだろ」

「あ、ホントだ」

「その一番小さいあたいを読むんだよ。それが基準線から直交ちょっこうする最短距離になる」

 晃はふむふむと頷きながら、言われたとおりに目盛りを読んだ。

「最短距離だってのは理解できる。でも、なんで左右に手を振っただけで、それが直交だってわかるんだ」

 顔を上げた晃の目に祐樹の白けた表情が飛び込んでくる。いつも遥か彼方にある祐樹の顔を、こんなにも間近で見る機会はそうない。

「なんでって、円と交わる直線との関係じゃないか」

 晃は「そっか」と言って手を打った。

 晃がテープを掴んでいる位置を固定したまま移動すると、新を中心とした円が描ける。基準線はその円を通る直線になるわけだから、中心と最短距離を結ぶ線が直角になるのも当然だ。

 数学で学ぶ図形の基礎だ。「なるほどなー」と一人納得している晃の横で、祐樹は巻尺を持ち上げる。

「ほら、終わったなら早く新と代わってやれ」

 晃は立ち上がると、ツツジの茂みの方へと進んだ。

「終わったぞ、新」

 ガサガサと草を踏みしめる音がして新が顔を出す。テープの端を手渡されると、晃はすかさず新の腕を掴んだ。

「ところで、測点ってどこだ?これをどうしたらいい?」

「どうしたらいいって・・・・・・知らないの?」

「知らね。一人だけ離れた場所で動くこともできずにずっと座ってたんだ。ハルはともかく、新が作業してるところなんて見えねえよ。測点がどんなものか、このテープをどうしたらいいのかさっぱりだ」

「しょうがないなあ。僕が付いて行って、説明するよ」

 晃は新に続いてツツジの奥へと分け入った。葉や落ちた花弁がかなりの厚さで堆積しており、足を踏み出すと靴底を通してふかふかとした柔らかい感触が伝わってくる。ツツジの裏手にはすぐに校舎の角があり、普段全く日が当たらないせいか、かなりジメジメとしていた。

 新は晃に手招きすると、校舎の角と地面との境を指差した。その長く細い指先には土が付いており、爪の間も真っ黒になっている。

「ここに目盛りのぜろを合わせて、押さえつけるように持っているだけだよ。かなり強めに引っ張られるから、ずれないように気をつけてね」

 晃は頷くと、目盛りの零を校舎の角と地面との境に当てた。

 土は柔らかく、湿度が高いせいで泥状になっている。指先を土に埋めながら、晃は大声で叫んだ。

「いいぞー」

 すぐに予想以上の力でテープが引っ張られる。泥で指先がすべって上手く固定できないので、慌てて両手で押さえた。

 持っているだけと新は言ったが、地味にキツイ作業だ。力を入れて抑えつけているため、指先が白く変色していく。テープを左右に振る振動がダイレクトに伝わってきて、ずれないようにするのは一苦労だった。

「この作業、めちゃくちゃ指が痛いじゃないか。これをずっとやり続けるのは大変だっただろ」

「まあね。見てよ、この指。僕の綺麗な手が台無しだよ」

 新はしゃがみ込むと、晃の目の前で両手を広げて見せた。小指以外の指先が泥にまみれ、赤く腫れ上がっている。痛々しさに晃は顔をしかめた。

「オリエンテーションで、先輩が3Kだって言ってたけど本当だよ。実習なのに、キツイしキタナイ。でもね工藤、この測点はまだ良い方なんだよ。植え込みと測点が近いところなんて、変な虫は出てくるし死骸は転がってるし、一番最悪だったのは鳩の頭が落ちてた所」

「鳩の頭?」

 新は青ざめて頷く。

「たぶん猫の仕業だろうね。僕、そいつと目が合っちゃった。・・・・・・ねえ、これってどう思う。僕、やっぱりたたられたりするのかな」

 晃はそんな新に憐憫れんびんの情をもよおした。測点へ向かう度に精神的苦痛を味わい、追い討ちをかけるように春奈に叱咤しったされていたのだ。

「なんか・・・・・・悪かったな」

 春奈の機嫌が良ければ新への負担も、もう少し軽減されていただろう。罪悪感に襲われて晃は新の手から目を逸らした。

 当の新は、不思議そうに首を傾げる。

「測定を始めちゃったら代わってもらうわけにもいかないからね。それに、僕は基準線の見張りの方が厭だなぁ。あんなに長い時間一人ぼっちでいたら死んじゃうよ。鳩の首の方がまだマシ」

「え、マジで?」

「マジで」

 数秒前まで祟りを口にしていた人間の言うこととは思えない。お前はウサギか?と口をついて出そうになる言葉を、慌てて押しとどめる。

 新を一言で形容するなら『宇宙人』だ。人並みを外れた容姿、頻繁に成り立たなくなる会話に、時々通じない言葉。出合った当初は重度のナルシストかとも思えたが、どうやらそういう訳でもなさそうだ。基本的に可愛いもの、綺麗なものが好きらしく、真紅に染められた髪も色見本を見て、一番綺麗だったからという理由で決めたらしい。

 言葉の壁はあれども人当たりがやわらかく、いつもニコニコ笑っている。宮沢賢治の『雨ニモマケズ』を連想してしまうような人柄は、当然、女子にも人気があった。

 じっと見つめる晃を、新は微笑を浮かべて見返している。

 すごくいい奴、でも本当は何を考えているかわからない奴。それが新に対する晃の印象だった。

「晃。新。測定が終わったぞ」

 立ち上がり、茂みを掻き分けながらツツジの裏から出ると、祐樹が手を差し出して待っていた。晃を一瞥いちべつして隣に立っていた春奈に話しかける。

「まだ補正計算ほせいけいさんが残っているが、作業はちょうど良い時間に終われそうだな」

「そうね。計算の方は四人で分担しても問題ないし―――」

 春奈は言葉をきって空を見上げた。つられる様に祐樹も空を仰ぐ。

「どうした。上に何かあったのか?」

「今、水滴が顔に当たったような・・・・・・?」

 晃も上を向く。雲は多めだが、先ほどと変わらない空が広がっているだけだ。

「ごめんなさい。気のせいだったのかもしれないわ。とにかく、古村こむら君が測点に行って私が測定をしたら終了だから」

 春奈が巻尺の本体を受け取り、晃はテープを祐樹に渡そうと手を伸ばした。差し出した手の甲にポツリと雫が当たる。

 祐樹と晃はお互いに顔を合わせてから、手の甲に弾けた水滴を見下ろした。

「やっぱり」

「雨か?」

 にわかに天候が変わり、大粒の雨が見る間にアスファルトの色を変えてゆく。地面を打つ音が急激に大きくなり、晃たちは慌てふためいて右往左往した。

「急になんだ。晴れてるのに」

「きゃあ、測定器具が濡れちゃう」

「え。やっぱり祟り?」

 銘々めいめいが思い思いの方向へ走り出したとき、唯一、祐樹だけが冷静に土木棟を指差した。

「全部そのままにして土木棟に入るぞ。まずは雨宿りだ」

 三人は祐樹の後に従って走り出した。すぐさま開いていたあのドアを見つけ、室内になだれ込む。

 早めに避難できたため、びしょ濡れにはならずにすんだが、肩や髪はしっとりと濡れている。

 晃は前髪を掻き上げて外を見やった。空は明るく、太陽も顔を覗かせているが雨は激しく降り続いていた。

「狐の嫁入りか。しばらくは動けそうもねえな」

 祐樹、春奈、新も傍へ近づいてきて空を見上げる。

「巻尺がびちゃったらどうしよう。先生に怒られるよね」

「用具倉庫に行けば拭くものくらいあるだろう。後で丁寧に拭いておけば、簡単には錆びない。心配するな」

「僕のせいだ。僕が鳩と目が合ったからこんなことに・・・・・・」

「ねえ、新君。さっきから言っている鳩とか祟りっていうのは何?」

 新は情けない声で「それが、聞いてよ」と二人に話し始める。

 晃は一人、入口付近にあった機械を避けて部屋の中に進んだ。


                *・*・*


 薄暗い部屋だった。

 照明が点いているにも関わらず全体的にどこか暗い。土のような埃っぽい匂いが部屋中に漂っている。

 天井が高く、異様に広い空間にはコンクリート剥き出しの壁に沿って棚が並び、そこには名前も用途も不明な器具が大きさや種類別に整理されて並んでいる。

 ところどころ塗装とそうさびの浮いた大型の機械が数台、部屋の中央を取り囲むように配置されていた。

 床は深い緑色に塗られ、一部抉  えぐれた部分からはコンクリート打ち放しであることが見てとれる。砂粒一つ落ちていないことから、掃除はまめに行われているのだろう。しかし、黒や灰色のシミがいたるところについており、なんだか雑然とした印象を受ける。

 部屋に出入口は五つ。まずは晃の背後にある、今入ってきたばかりのドアが一つ。そして左手の奥、階段を数段上がったところにある擦りガラスの入ったドアが一つ。これはどうやら土木棟の中央を貫く階段へと通じているらしい。擦りガラスの向こうにはぼんやりと棟内の景色が映っている。

 そのドアをくぐってすぐ左側、つまり晃の居る位置から見て正面左端に小部屋があり、そこへ入るドアが一つ。正面中央に天井まである巨大な観音開かんのんびらきのドアが一つ―――先ほど外からちらりと見えたのはこのドアだったようだ。扉は全開になっており、外の景色が良く見える。最後に正面右端にドアはないが、開口部かいこうぶが一つ。

 実験室とは聞いていたが不思議な部屋だ。晃がこれまでに見てきたどの実験室ともまるで違う様相を呈している。清潔さというか、矛盾を阻むような独特の緊張感がどこにもない。

 晃は周囲を見回しながら部屋の中央へと歩み寄った。

 この広い部屋の中央、面積にして半分以上もあるスペースには机も椅子も無く、がらんとひらけている。

 そこには一際目を引く物体が置いてあった。

 グレー一色いっしょくに支配されたかのような空間において、それは唯一色を持った物だった。

 キャスターがついた、一辺が一メートル程度の金属の箱。ただの台にしては物々しく、機械装置に見える。さらにその上にはアクリル製の箱が乗っていた。

「うわあ、これすごいね」

 背後から新のはしゃいだ声がする。振り返ると、新が真っ直ぐ駆け寄り、祐樹と春奈は部屋中を見回しながらゆっくりと近づいてきた。

 四人はその奇妙な物体を取り囲み、しげしげと眺めた。

 奇妙な物体、それは一種の箱庭と呼べる代物であった。

 アクリルでできた箱の大きさは縦五十センチ、横八十センチ、高さが三十センチくらい。上部にふたは無く、やや広めの箱内にはどこかの町並みが形成されていた。

 立ち並ぶビル、戸建ての家、道路には車が走り、公園には青々とした木々が植えられている。

「ビルも家もずいぶん精巧せいこうに作られてるね。この学校に模型部なんてあったかな」

 新は瞳を輝かせて言う。その隣では祐樹も顔を極限まで近づけていた。

「聞いたことないな。しかし、残念なのは地面が砂地だってところだな。ここまで精巧に作ってあるのに、地面が砂のままってのはどうも中途半端だ」

「でも、少し水を入れて固めてあるみたいだよ。昭和初期のイメージなのかな」

「それにしては全体の雰囲気が近代的過ぎる」

 晃の目には箱庭の良し悪しは判断できないが、手の込んだ作りになっているのだけは分かった。ビルの窓は一つ一つが丁寧に繰り抜かれ、内側から透明のプラスチック板が貼り付けられている。戸建ての家も一つとして同じデザインのものはなく、屋根は瓦葺きであったり太陽光発電が取り付けられたりしていた。ところどころに置いてある車もスポーツカーから乗用車、トラックと種類は様々だ。

 建物と車の絶妙な配置が、実際にある町の縮図しゅくずではないかと思わせる。新と祐樹ほどではないにしろ目を奪われるのには十分だ。

 盛り上がる男子二人を尻目に、春奈は箱庭へ一瞥いちべつをくれると冷めた声で呟いた。

「男の子って、本当にこういう物が好きね」

 その言葉に、晃はふと弟のことを思い出した。

 中学一年生になった弟・ゆずるの部屋にある本棚には、大小様々なフィギュアがところ狭しと並んでいる。ロボットのようなものもあるにはあったが、殆どが異常に胸が大きく着衣の面積が小さい女の子ばかりだ。

 譲は暇さえあればライトノベルを読み漁っている、インドア派の内気な少年だ。以前お勧めの本を二・三冊借りたことがあったが、どれもか弱い女の子が異世界を救ってしまうような物語ばかりだった。

 返却時に不満を述べると「この話を理解できないとは、本当に姉ちゃんの頭は硬いなあ」などと言い返されたので、腹パンをお見舞いしてベッドに転がしておいたのは記憶に新しい。

 春奈の回りにいる異性といえば、彼女の父親を除けばうちの愚兄ぐけい愚弟ぐていくらいだが、祐樹と新を二人と同列に扱うのはいかがなものかと思う。特に、譲だけを見て「男の子」と総称するのは、世の男子に失礼ではないだろうか。

 思わず唸ってしまった晃を春奈が振り返る。自然と見つめ合うかたちになり、晃は久しぶりに正面から春奈の顔を見たなと思った。

「こら、お前ら。それに触んな」

 突然鋭い声がかかり、四人は一斉に振り向く。

 土木棟内部へと通じるドアの方から人影が姿を現した。

華奢で小柄な体躯、少しクセのあるショートカット、中性的な幼い顔立ち―――谷澤やざわ先輩だった。

 先輩は足早に近づいてくると、大きく手を振って箱から晃たちを遠ざける。

「ほれほれ離れろ。これにはオレの貴重な一ヶ月間とレポート一回分の価値が詰まってるんだ。材料実験室は関係者以外立ち入り禁止だって教えてもらわなかったのかよ。って、あれ?お前、晃じゃん」

 呆然と見つめられ晃は苦笑いすると「こんちわ」と会釈を返した。

 オリエンテーション直後は『変わった先輩』という認識だった睦も、現在の晃にとっては最も仲の良い上級生になっている。というのも寮のロビーにて請われるままに鼻血事件を語っていると、それを嗅ぎつけて集まってきた先輩方の中に睦もいたのだ。

 それ以来、すいぶんと気に入られたようで睦の方から何かと声をかけてくる。見たとおり気さくで話しやすく、今では『晃』『睦先輩』と下の名前で呼び合う仲になっていた。

「作業服ってことは実習中じゃないのか。こんなところで何やってる」

「実は途中で急に雨が降ってきちゃって、それでここに非難してきたんですよ」

「雨だって?今日は朝からいい天気で・・・・・・」

 睦は外を見ると顔をしかめた。

「降ってるな。ちくしょお、洗濯物が濡れちまう」

 生活感たっぷりの発言に、晃も内心同意した。寮では食事だけは用意されるが、それ以外は全て自分でやらなければならない。当然、洗濯もその一つだ。

 外では相変わらず日が差している。雨は小降りにはなってきたが、まだ降り続いていた。

「ところで谷澤先輩。この箱庭は先輩がつくられたんですか」

 喜色満面で問う新に睦は「まあな」と胸を張った。

「それは箱庭ではなく正確には実験用の模型だ。自分で言うのもなんだが、いい出来栄えだろ?」

「はい。建物の精緻せいちさは言わずもがな、地面との分量バランスが見事ですね。特に車は興味深いなあ。どうやって作ったんですか?型か何かで?」

「これは内緒だが、車は機械科の友達に頼み込んで3Dプリンタでちょいちょいっとな」

「え?この学校には3Dプリンタまであるんですか?贅沢だなあ。もしかして、模型部とかもあったりします?」

「残念ながら、需要がなくて模型部は数年前につぶれたんだよ。建築科のやつら、三年に上がったらコンペだなんだって模型を作る機会が多くてな、他の学科にも手伝ってもらってる奴が山ほどいるんだ。手伝いって言えば聞こえはいいが、ま、ちょっとしたアルバイトだな。そのせいで部活でまで模型を作りたいって人間が減っちまって・・・・・・いまからでも創部は出来るけど人数の期待はしない方がいい」

 生気を失って徐々に項垂うなだれていく新の背中を、睦は優しく叩いた。

「元気出せ。お前も三年になったら嫌でも頼まれるから。そうなったら作りたい放題だ」

 いつも飄々ひょうひょうとした新が、こんなにも模型に興味を示すとは意外だった。思い返してみると、新が何かに執着しているところを見たことが無い。

「では先輩、下が砂地のままなのも実験用だからですか」

 祐樹の声に振り返った睦は、一瞬、動きを止めて目をしばたかせた。緩慢な動きで顔を上げると驚愕に顔を歪める。

「お前・・・・・・いくつだ?」

「は?」

 晃は思わず両手で顔を覆った。どこかで見たことのある光景だ。指の隙間から様子を伺うと、祐樹は少し目を泳がせて「ああ」と呟く。

「百八十八、いや、この間の健康診断では百八十九センチになっていました」

 睦はその答えに衝撃を受けて後退あとじさる。晃には睦の気持ちが痛いほどよく分かった。女である自分が低身長を気にするほどだ。男性である睦が気にしていないわけがない。

「成長期を前にしてその身長・・・・・・お前は東京に次々と建つ電波塔か」

 沈痛な面持ちで睦はあさってのほうを向く。

 例えが分かりづらいが、要するにどんどん伸びていくと言いたいのだろう。祐樹の身長よりも、例えでそれがするりと出ることの方が驚きだった。

「えっと、その、先輩、大丈夫ですか?」

「なんでもない。オレは平気だ」

 睦は何事もなかったように復活すると、模型を指差した。

「これは土質力学どしつりきがくの再現実験で使われる模型だ。だからあえて地面は砂地になっている。それもただの砂じゃなく、よく見れば粒が揃ってるだろう」

 晃たちは模型の側面に顔を近づけた。透明アクリルで出来ているため、側面からでも中の様子がよく見える。

 砂は箱の高さの中ほどまで入っていた。睦の言うように粒子りゅうしが揃っており、まるで砂浜の砂のようだ。見た目でわかるほどに湿り気を帯び、濃い褐色をしている。

「土質力学を習うのは二年からだから、実際に見るのは来年の話だな。オレは卒業してここにはいないが、この模型はその時もきっと使われているはずだ。去年まで使っていたのは古くなったんで、今回、土力どりきの教授と取引をしてオレが新しく作り直したんだ」

「レポートでしたっけ」

「そう。って、何で知ってるんだよ。最重要機密事項だぞ」

「先輩、さっき自分からそう言っていましたよ。それで再現実験だとおっしゃいましたが、何の再現なんですか」

 祐樹の質問に、睦は腕を組むと意地の悪い笑みを浮かべた。

「来年になるまで待つんだな。それまで高専に残れていれば見れるだろうさ」

 箱の中を楽しそうに眺めていた晃は、弾かれたように顔を上げた。

「え?授業で使う前に試してみたりしないんですか?あたし、来年まで待てません。見てみたいです」

「くくく。残念だな晃。オレはこれから生徒会の会議に出席せねばならん。留年せずに無事、二年になることだ」

「そんな!睦先輩がそんな酷い人だったなんて思わなかった」

「ふははは。人生とは上手くはいかないものなのだ。諦めるがいい」

「え、何この小芝居」

 急に近くで声がして、晃は体がびくりと跳ねた。振り返ってみると、そこには強面こわもての圭吾が立っている。睦との小芝居に興じていたとはいえ、近づいてくる足音にさえ気付かなかった。

 圭吾は足音も立てずに晃と祐樹の間を通り抜ける。

 肩幅が広く胸板も厚いため、圭吾のほうが大きく見えるが、実際に並んでみると身長は祐樹よりもやや低い。それでも百八十センチは下らないだろう。晃にとっては十分、巨人の部類に入る。

 圭吾は彫りが深く角張った印象の顔をしている。落ち窪んだ眼窩がんかには人を射竦いすくめるような瞳。スーツを着込んで出かければ、警察に職質をかけられること間違いなしといった風貌だ。

 けれど、それがまるきり外見だけということを晃は知っていた。圭吾と睦は、まるで太陽と月の様に性格も外見も正反対だ。だが、彼らは生徒会の役職を超えて、プライベートでも仲がいい。晃が構内で出会うときは、必ずといっていいほど二人一緒にいる。パワーと光溢れる睦の傍で、圭吾は静かに、でも打ち消されることなく鋭く光っている。

 以前、圭吾は外見で損をしているんじゃないかと睦に聞いたことがある。口を開けば、穏やかで優しい人柄だとすぐにわかるが、そこに至るまでが難しいのではないかと。でも、それを睦は一笑に付した。その為に自分がいるのだとも言った。

 最初の壁さえ取り除けば、有能なのはむしろ圭吾の方だと言って誇らしげに笑う睦からは、圭吾に対する絶大な信頼が見てとれた。

 圭吾は静かに睦の傍らに並ぶと、模型を覗き込んだ。

「睦にしては綺麗な模型に仕上がったね。これなら教授も納得してくれそうだ」

「そうだろう。オレの一ヶ月を全てここに注ぎ込んだからな」

「でも、車は必要なかったんじゃないかな。実験をするときには除いちゃうわけだし」

「オレはディテールにこだわるタイプなの」

「それにしたって、今日の午後からある授業を丸々サボったのが知れたら怒られると思うよ。せっかくのこだわりも半減だね」

「お前、笑顔でそういうことをさらっと言うなよ」

 睦は思い出したように時計を見上げた。観音扉かんのんとびらの脇にある柱には、大きめの掛け時計が設置されている。時刻は三時四十五分を回ろうとしていた。

「あれ?まだ七限目は終わってないよな?圭吾もサボりか?」

 圭吾は軽く首を横に振った。

「七限目が少し早く終わっただけだよ。今日はこの後会議があるし、様子見がてら寄ってみただけ」

「そうか、じゃあちょうどいいからオレも一緒に行くわ。戸締りを手伝ってくれ」

 動き出そうとする睦と圭吾を、晃は両手を広げてさえぎった。

「睦先輩。まだ、あたしとの話が終わってません」

 きょとんとする睦の横で圭吾がくすくすと笑い声を上げる。

「晃ちゃん、そんなに実験をするところが見たいの?二年になったら誰でも見られるんだよ」

「はい。進級できる保障はありませんから、できれば今すぐ見たいです」

 晃の返事に圭吾は笑い声を大きくする。その隙をついて、手を上げながら新が進み出てきた。

「はい。進級する自信はありますが、僕も見たいです。祐樹も何の実験か気になるよね」

 いきなり水を向けられて祐樹は面食らうと、気圧けおされたように頷いた。同意を得て、新は鼻息も荒く春奈を見る。

「え?私?」

 春奈は人差し指で自分を指すと、助けを求めて視線を漂わせた。

「私は、そう、そうね。どんな実験か興味はあるかも」

 圭吾は柔和な笑みを浮かべて四人を順に見ると、睦へと視線を送った。

「って言ってるけど。どうせ教授に引き渡す前に試験はするつもりだったんでしょ?それなら、意地悪を言わないで見せてあげたらいいじゃないか」

 睦は押し黙ったまま、晃たちを睥睨へいげいする。固唾を呑んで見守っていると、時計を再度見上げてからゆっくりと口を開いた。

「生徒会長として会議を欠席するわけにはいかないから、今すぐにというのは無理な相談だ。そうだな・・・・・・九十分後の午後五時半に、お前らがもう一度ここへ集まれるのならば試験を実施しよう」

 晃と新は歓声を上げてハイタッチをした。祐樹は口の端を上げて微笑み、春奈は憮然としている。

 晃はいそいそと自分の腕時計を見下ろした。一時間半もあれば、測定の続きと後片付けをしても十分に間に合う。それどころか少し余るくらいだろう。

 待つのは苦ではない。土質力学どしつりきがくがどのような授業なのか寡聞にして知らないが、一年生はまだ誰も入ったことのない場所で未来の実験を目にすることができるのだ。むしろ待ち遠しくて仕方がない。

 その時、遠くの方で授業終了のチャイムが鳴り響いた。

 圭吾が顔を上げ、話は終わりだというように手を叩く。

「さあ、もういい時間だ。雨も止んだみたいだし君たちは実習の続きに戻った方がいい。五時半になっても作業が終わってないようじゃあ、約束は反故ほごになってしまうからね。睦は準備室でブルーシートでも探してきなよ。俺は養生室ようじょうしつの戸締りを見てくる」 

 ドアの外を見ると、圭吾の言うとおり外の雨はすっかり上がっていて、濡れたアスファルトが陽光を反射して煌いていた。

 睦は小部屋の中へと入っていき、圭吾は開口部かいこうぶへ向けてゆったりと足を運ぶ。

 晃たちも機械の間を抜け、入ってきた入口から外へと出た。目の前には夕日に照らされて白い線のようにテープが伸びている。雨が降り出す前と何も変わらない。

 全ての出来事に満足した様子で新は大きな伸びをした。

「順番に測定していた途中だったよね。次はハルちゃんが測定の番だったかな。どうする?続きからで構わない?」

「差し迫って急ぐこともないし、できればそうさせてもらいたい。日下部くさかべはそれでいいか」

 祐樹はこちらを振り返ると小さく首を傾げた。

「晃。日下部はどうした」

 続いて外へ出てきていると思っていた晃は、ドアを振り返る。そこに春奈の姿はなく、ドアの向こうには虚空がぽっかりと口をあけているだけだった。

「あれ?いない。先輩に呼び止められてんのかな」

 踵を返すと、春奈が慌てた様子で姿を現した。その後ろに圭吾が続き、ドアノブに手をかけてから晃に手を振る。

「五時半にここに来てもドアが開いていないようなら、正面の入口で待ってて。そんなに長引くような会議じゃないから、時間には俺か睦がいると思うけど」

 笑顔の残像を残して圭吾は扉を閉める。春奈が三人のもとへ駆け寄ってくると、ドアからはガチャリと鍵をかける音が聞こえた。

「測定の続きからだったわよね。じゃあ、私が測るから、古村君は測点へ移動してくれる?」

 何事もなかったかのように指示を出す春奈に、新は、

「僕はもう何もすることがないから、倉庫へ雑巾でも探しにいってくる。きっと他のチームも器具を雨で濡らしているだろうから、競争になる前に一枚くらい確保しておくよ」

「手持ち無沙汰はあたしも一緒だ。新についていくよ」

 晃と新は、その場に二人を残して倉庫へと向かった。 

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