第二話 崩壊の箱庭(1)

 衝撃の入学式から一月余り、あきらは上下作業服姿という由緒正しき正装で構内の路地にしゃがみ込んでいた。

 入学式での失態は、安穏とした学生生活に刺激をもたらせたのか、瞬く間に高専内に広がった。晃が構内を歩けば、見ず知らずの生徒や先生にまで声をかけられ、寮内では同学年はおろか先輩までが入れ替わり立ち代り部屋を訪れ、あの日の事件を根掘り葉掘り聞いてゆく。

 入学直後はしばらく、そんな慌しい生活が続いていたが人の噂も七十五日、五月の連休を終えた今は晃の周辺もぱったりと静かになっていた。

 寮と学校を往復する生活にも慣れ、専門の授業も始まった。アットホームで楽しいことが大好きな一年土木工学科のメンバーは、入学式で大騒ぎをした晃を快く迎え入れてくれたし、高専生活の出だしはなかなかに順調だ。

 風薫る五月。山には若々しい新芽の緑が艶やかに広がり、先月よりも幾分色濃くなった青空には、輪郭の曖昧な雲がぽかりと浮いている。

 測量実習中の晃は流れ行く雲を見上げながら、大きなため息を付いた。

 ここ最近、いや、正確には入学式の翌日から急に春奈はるなの態度がよそよそしくなり、四月の半ばからは機嫌がすこぶる悪い。思い当たるのは、二年ぶりに再会した祐樹ゆうきに告白まがいの申し出をしたことくらいだが、それの何がいけなかったのか全くもってわからない。理由がわからないのでは謝りようもないので、ほとほと困り果てていた。

 これが去年までなら、お互いに家に帰って頭を冷やすなんてことも出来たのだが、現在の生活環境はそれすらも許さない。何の因果か春奈とは寮でも同室で、彼女の顔を見ないで済むのは寝ている間だけときた。話しかけても返ってくるのは短い返事と冷酷な瞳だけ。

 晃は視線をアスファルトへ落とすと、再びため息をついた。

 

                 ***


 久我高専くがこうせんは工業専門学校であり、一年次より専門の授業が開始される。ただし、同時に高等学校でもあるので、一般科目の単位も取得しなければならない。一年から三年生までは一般科目の授業も行われ、学年が上がるにつれて徐々に専門科目が多くなり、五年ともなれば一日七時間ある授業が全て専門科目で埋まってしまう。

 当然、音楽や家庭科等の授業は全く行われず体育も三年までしかない。合格通知と共に送られてきた入学案内を見て、みつる兄は「一般科目が少なすぎる。うちの馬鹿な妹が、真の馬鹿になる時がきたか」と失礼極まりない感想を漏らしていた。

 だが、晃はその発言を文句も言わずに聞き流した。兄が恐ろしかった訳ではなく、久我高専を第一志望とした理由がそこに含まれていたからだ。

 晃は英語の授業が心底嫌いだった。憎んでいると言ってもいい。中学時代の定期テストでは、ろくに点数も取れなかった。

 それなのに普通科高校では単に『英語』で括られず、複数の教科に分かれると聞いた。それら全ての授業を受け、あまつさえ定期テストを受けなければいけないなんて、考えるだけで鳥肌が立つ。

 今の時世で『英語』を避けて通るわけにはいかないが、今後のことを考えるとより授業数の少ない学校を選択せずにはいられない。

 そういった浅くて深い理由から工業高校を選び、建築より倍率が低いからと土木工学科を選んだ。後ろ向きではなく、自分にとって最も有利な道を選択したと理解してもらいたい。

 学校や学科に対して明確な意思を持っていない晃の知識では、土木とはビルを造る学科で、パソコンの前に座って設計するのが主な作業だと思っていた。建築工学との違いも判然としない。強いて言えば、建築の方がお洒落なイメージがあるというくらいのものだ。

 だが、その認識は入学二日目で早くも書き換えられてしまった。

オリエンテーションと称されたガイダンスで、晃たち土木工学科一年C組が出会ったのは、五年生になる二人の男子学生だった。

 背が高く、工事現場作業員のイメージにピッタリな強面で屈強な先輩と華奢で少女のような面立ちが特徴の小柄な先輩。二人は在校生を代表して各教室に挨拶回りをしているのだと言った。

 華奢な先輩は教壇に立つと、春の日差しのような愛らしく可憐な微笑を晃たちに送ってきた。その微笑み一つで教室中に和やかな雰囲気が溢れる。

 それほどまでに先輩の容姿が可愛らしいのだが、襟元からちらりと見える喉仏は大きく膨らんでいる。ちょっと倒錯的な気分がしないでもない。

 先輩はおもむろに拳を握り締めると、力強く教卓を打った。

「ようし、よく聞け、野郎共!っと、今年は女子も結構いるな。じゃあ、よく聞け、諸君!数ある高校の中から、よくこの久我高専を選んでくれた。そしてまた、よくぞ万難を排して入学してくれた。オレは新たに仲間となったこの四十人を、心から歓迎している」

 想像よりも低く張りのある大声に、クラスの全員が度肝を抜かれたように押し黙った。先輩は拳を力強く振り上げ、選挙活動中の議員さながらに話し続ける。

「オレは、久我高専生徒会長、土木工学科五年の谷澤睦やざわむつみだ。そこに立っているのは副会長を務める寺崎圭吾てらさきけいご。同じ学科だから言うわけじゃないが、困ったことがあれば何でも相談してくれ。

 各個人にどんな理由があろうとも、まずはこの学科を選んでくれてありがとう。工学は複数あるが、たぶん最も敬遠されるのが土木だと思う。その理由は、土木を選んでくれたお前らなら、よく知っているだろう。昔からこの学科は3Kと呼ばれ、うとまれてきた」

 晃は小さく首を捻った。敬遠?疎まれる?そもそも3Kって何?

 ちらりと周囲に視線を走らせるが、同じような反応をしている者はいない。皆、谷澤先輩が何を言っているのかわかっているのだろう。

 いきなり不穏な単語を羅列され、少し先行きが不安になってきた。

「キツイ、キタナイ、ここまで聞いたら普通の神経をしている人間なら、嫌だと思うだろう。避けて通れる道ならば、避けるのが人情ってもんだ。そして最も重要な最後のK。それは―――クサイだ」

 一瞬、頭の中に疑問符が飛んだ。

 教室のあちらこちらでは、くすくすと笑い声が上がっている。察するに、最後のクサイは冗談だったようだが、晃にはそれのどこに笑える要素があるのかもわからない。

 キツイとキタナイは理解できる。先輩に言われるまで失念していたが、土木は何も設計だけが仕事ではなかった。屈強な先輩を見て道路や工事現場で働いている人を思い出せたのが良かったのかもしれない。土木作業員は土や機械油にまみれて汚れる上にその作業の大半が力仕事だ。皆は笑っているけど、クサイと言うのもあながち間違いではないだろう。働き汗をかけば匂うものもあるだろうし、夏場は特にそれが顕著なはず。

 なるほど、この三拍子が揃うだけでイメージは最悪だ。この世界に喜んで入ってくる人がいないのもわかる。

 晃は誰にともなく頷いた。

 でも、そんなの清掃員だって同じような条件だ。スーツを着てデスクに座っているだけが仕事じゃない。まだ将来の仕事について何の展望もないが、一日中机に向かっている職は自分の性格に合ってないと断言できる。意図したわけではないが結果的に良い学科を選んだ。

 谷澤先輩は笑いを取れたことに満足した様子で、にやりと笑う。

「当然、今のは冗談だ。だが、オレらの学ぶ土木という分野は、インフラストラクチャ、つまりは社会のハードウェアを整備する重要な技術だ。道路、鉄道、港湾、上下水道に河川、およそ公共事業として行われる工事の大部分がこれに該当する。

 だから全員、誇りを持って学んで欲しい。末は地中をい回るモグラだとしても、オレらの持っている技術は日本を支えている。今日からの五年間で、土木工学に関する基礎知識を頭と体に叩き込んで社会へ出てもらいたい」

 そこまでを一気に熱く語った谷澤先輩は、振り上げた拳を急にすとんと落とすと窓の外に目を向けた。

 今日初めて会ったばかりの人だが、谷澤先輩は土木工学を心から愛しているのだろう。話している間の表情が輝きに満ちている。

 今は何も知らないけれど、五年後は谷澤先輩のようにこの学科が好きになっているのだろうか。そういう魅力が、この学科にはあるのだろうか。

 外を見つめていた先輩は大きな瞳をゆっくりと伏せた。少し離れた場所からでも解るほど長い睫の上に、柔らかく甘やかな光が降り注いでいる。

 クラスの全員がその光景に見惚れている中、先輩は腕を組むと自嘲の笑みを浮かべた。

「何処の学科も似たようなもんだが、とにかく分野が広くて科目も多い。測量そくりょう構造力学こうぞうりきがく材料工学ざいりょうこうがく水理学すいりがく、都市計画、土質力学どしつりきがく、交通工学、河川工学・・・・・・あー、他になんだ、関係のある分野で言えば港湾や環境、応用力学や機械なんてのもあるな。

 高専は五年間あるが、それで全てを学べるとも限らん。どの科目をとっても数式と理論の応酬だ。必ず苦手な科目は出るし、それが進級の大きな壁にもなる。―――時にはこの学科を選んだ自分さえ憎むほどにな」

 先輩は厳しい目つきで一年生を見下ろす。小柄なはずの体が一瞬大きく見えた。

「だが、分野が広いってことは、自分に合った科目が見つかる可能性も高いってことだ。一つ嫌いになったからといって全てを否定しないでほしい。入学した以上は卒業に向かうのが当然だが、ただ学んで試験をクリアすることだけを目標にしないでくれ。これは個人的な意見だが、何か一つでも好きがあると人間意外と頑張れるものだ」

 谷澤先輩は瞳の色を和らげた。同じ学校に在籍しているから忘れがちだが、彼らは今年二十歳  はたちになる。高専という枠の中で、きっと色々な経験をし、考え、乗り越えてきたのだろう。

 先月中学を卒業したばかりの晃の目に、急に二人が大人に映った。たった五歳の差が異様に遠く感じる。

 大人である谷澤先輩は、ゆっくりとクラス中を見回して嘆息した。

「しかしなあ、お前ら同じクラスに女子が五人もいるなんて奇跡だぞ。今の四・五年は男ばっかりだ。三年にも一人いたけど、すぐ学校を辞めちまったし、二年には二人しかいない。男子は全員この幸運をしっかりと噛み締めろよ。青春真っ盛りの十代に色気の無い生活をお前らは想像したことがあるか?知らないと思うから教えておくが、ここは先生も男ばかりだ。あまつさえ事務系の女性は全員年配・・・・・・いや、年配が悪いって話じゃない。女子高生には女子高生のいいところがあるだろうって話しだ。しかもなんだ、このクラスは女子のレベルが異様に高くないか?偶然だってわかっちゃいるが、羨ましいを通りこして腹が立ってくる」

 前言撤回。やっぱりそう違わないのかもしれない。

 晃は目をすがめて谷澤先輩を見つめた。隣に座っているハルも、冷めた表情で壇上を睨んでいる。数十秒前までは、挨拶に相応しい内容だったのに残念でならない。

 その時、黙して見守っていた寺崎先輩が音も無く動いた。谷澤先輩にそっと近づくと、その細い肩を叩き外見に似合わない優しい口調で諭し始める。

「睦。挨拶に来たのに、愚痴ったら駄目じゃないか」

「あ?圭吾だって一年ばっかり良い思いして、理不尽だと思うだろ」

「男として羨ましいとは思うけど、そこまでじゃないよ。むしろ、女性もこういう分野に進出してきたんだなって感心するほうが大きいかな」

「お前、顔に似合わず本当に真面目な。オレらの青春、男ばっかで灰色よ?気付いてる?」

「気兼ねなく好きなことができて、それなりに楽しい思い出もあると思うけどね。俺たちは卒業までまだ一年あるし、この中から睦を好きになってくれるがいるかもしれないじゃないか」

 寺崎先輩を否定するつもりはないが、晃は希望的観測だなと瞬時に思った。

 谷澤先輩はなかなか男らしい性格のようだが、いかんせん外見が可愛い過ぎる。一年女子をレベルが高いと評してくれたのは素直に嬉しいが、それでも先輩に敵う気はしない。告白云々以前に、恋愛対象として見てもらえるかどうかが怪しい。

 寺崎先輩の言葉に谷澤先輩は嬉々として破顔した。

「そうかなあ。そうだよなあ。可能性が無いわけじゃないもんな。十代最後に、オレにも浮いた話の一つくらいあったっていいよなあ」

「谷澤君、寺崎君」

 先輩方の脱線により、ゆるい空気に包まれ始めた教室に張りのある声が響いた。

 声のした方を振り向くと、濃紺のスーツに細い黒縁眼鏡をかけた男性が窓際に佇んでいる。まだ三十代半ばと思しきこの男性は名を荻窪おぎくぼといい、晃たち一年C組の担任であり、材料工学の若き教授でもあった。

 先生は柔和な笑みを浮かべて教壇の二人を見ていた。

「挨拶が終わったのなら、教室に帰ってもらって構わないのですよ。君たちには授業を抜けて来てもらっているのですから」

 口調は柔らかいが、眼鏡の奥にある瞳は笑っていない。谷澤先輩は咳払いを一つすると、表情を引き締めた。

「とにかく、普通の高校生と違って特殊な環境下にあるとはいえ、ただの十代であることに変わりはない。校則の範囲内で、しっかり学んでしっかり遊べ。うちは自主性を重んじる校風だ。何か新しくやりたいと思ったら遠慮なく生徒会室のドアを叩いて欲しい。以上だ」


                 ***


 久我高専は田舎の小さな港町に、広大な敷地を有して建っている。

 敷地は東西に長く、南半分をテニスコートや校庭、陸上競技場が占め、北半分に校舎や図書館等が建っていた。

 測量実習そくりょうじっしゅうで使用される範囲は、主に北半分の建物が密集している地帯だ。東側から順に、校舎、図書館と二棟ある体育館が平行に並び、食堂、寮と続いている。晃たち四人は、その中でも校舎のある部分に振り分けられている。

 薄汚れた白い校舎は、長辺を北に向け事務棟じむとう普通科棟ふつうかとう土木棟どぼくとうと並び、その横に建築棟けんちくとう電気棟でんきとう機械科棟きかいかとうと並んでいる。つまり土木棟の隣には機械科棟があり、正面は普通科棟になるわけだ。

 晃たちは、土木棟と普通科棟との間で作業を行っていた。

 西にやや傾き始めた日差しを浴びている晃の右手には普通科棟があり、二年生までは四学科全てのホームルームがここにある。そして三年からは、左手にある土木棟で本格的に土木工学を学んでいくのだ。

 初夏を迎えた構内には、そこかしこに赤紫の紙を散らしたようなツツジが咲き誇っている。芝生のわずかな隙間から伸びた雑草も白や青の小さな花を付け、強い日差しの下では全てが色鮮やかだ。

 晃の傍らには小さな藤棚ふじだながあり、クマバチが蜜を求めて飛び回っている。その唸るような羽音の合間に、春奈の不機嫌な声が聞こえていた。

「ちょっとあらた君。ふらふらしていないで早く測点そくてんに向かって。そんな調子じゃ、いつまで経っても終わらないじゃない」

「でもハルちゃん。今日は天気も良くて気温も高いし、もう少しのんびり慎重にやってもいいんじゃないかな」

「熱中症になるほど暑くもないし湿度も低いから、むしろ快適。文句言ってないで働きなさい」

 晃のしゃがみ込んでいる位置から数十メートル前方には、鬼の様な形相で指示を飛ばす春奈と、情けない表情で首をすくめる新が、一つの巻尺を二人で持ち合って忙しなく動いている。

 テープの端を持った新が逃げるように植え込みの影に走り込むと、今度は春奈がしゃがみ込み、長さを大声で読み上げていく。そんな作業をかれこれ一時間近く繰り返し行っていた。

 晃たちが今行っているのは巻尺測定といって、測量の初歩技術だ。巻尺だけで構内の対象物を測り、地図を作成するまでが課題になっている。

 土木工学科に入り、最初の専門科目がこの『測量』だった。測量の授業は理論や計算を学ぶ座学ざがくと実際に外へ出て作業をする実習に分かれている。

 入学して一ヶ月、回数はまだまだ少ないが、晃はすでに座学が苦手になりつつあった。

 教科書は小難しい専門用語が並んでいて、見ているだけで目が痛くなってくる。測定の原理や計算方法は数字や数式ばかりでノートをとるのも一苦労だ。おまけに座学を教えてくれる教授は、ランダムに板書ばんしょをするので、ちょっと目を離すと何処を説明しているのか解らなくなる。

 久我高専は二期制なので、来月末には前期中間試験が始まってしまう。最近はノートを開く度に、そのことを思い出すので授業が憂鬱になりつつあった。

 反対に、測量実習は明確で解りやすかった。実際に手や体を動かして測定していると、理屈が自然と頭に入ってくる。肉体的な労をいとわない晃には非常に向いていた。

 土木に特別興味の無い晃だったが、『測量』という言葉自体は、歴史の教科書に載っていたので知っていた。江戸時代に伊能忠敬という人が、測量を用いて正確な日本地図を作ったと書かれていたはず。でも、測量とは具体的に何を測っているのか、と聞かれたら今までの晃には何も答えられなかっただろう。

 『測量』とは、読んで字のごとく、高さ・長さ・角度を測り、対象物が地球上のどの位置にどんな状態で存在しているかを数値や地図で表すことを言う。

 例えば広大な敷地にビルが一つ建っているとする。そのビルが、土地のどの位置に建っているか、地表からの高さはどのくらいなのか、地面に対して垂直に建っているのかそういったことを測定するのが測量だ。

作業内容は単純かつ明快。巻尺を二個使用し、一つを基準線きじゅんせんもう一つを測定に使う。

 基準線とは、巻尺本体からテープと呼ばれる目盛りの付いた部分を引き伸ばし、測量鋲そくりょうびょうと呼ばれる小さな円錐同士を一直線に結んだものをいう。

 つまり道路の真ん中で目印と目印の間の距離をずっと測り続けている状態と言えばイメージし易いかもしれない。

 そして測定は二個目の巻尺で建物の角や植木(測点)から、基準線までの直線距離を測る。ここで基準線と測定に使われた巻尺のテープ部が十字に交差するわけだが、もちろん基準線側の目盛りも読む。

 そうすることによって、測点のX軸とY軸の距離が求められるのだ。この作業を測点ごとに繰り返し、紙面上にプロットしていけば地図が出来上がる。

 長さを測るだけの単純作業。開始前はそう思っていたが、考えが甘かったことをすぐに思い知らされた。構内には測点が多く膨大な作業量を要する。そして、ただ測るだけでは正確さは得られないため、精緻せいちな巻尺操作も必要だった。

 単純だからこそ奥が深いとは、誰が言ったのかは知らないが言いえて妙だ。今更ながら伊能忠敬の名が歴史に刻まれたのにも納得がいく。

「あっ!もう、新君!零点ぜろてんを離さないでって言ってるのに」

「ごめん。でも、葉っぱが顔に当たって痒いんだもん」

「そんな言い方したって可愛くないんだから。しっかり持ってよ」

 測定も終盤を迎え、美形コンビの表情にも疲労が色濃く出ている。春奈の口調にも険がたち始めていた。

 晃は、その日何度目かのため息をアスファルトへ吹きかけた。そもそもの理由が自分にある気がして暗澹あんたんたる思いがする。

 目の前には、プラスチック製の赤い円錐が、銀色に鈍く輝くびょうで道路に打ち付けてあった。街中でもよく見かけるが、これを測量鋲そくりょうびょうという。

 その鋲の中心から目盛りの零が動かないよう抑えているのが、この測量実習における晃の役目だった。

 測量実習班は四人。基準線を晃が見張り、測定を美形コンビが行っている。そして、測定値の記録をになう最後の一人が―――。

「お前ら、喧嘩でもしているのか?」

 いわずもがな、祐樹であった。

 彼は青空を背にして黙々と深緑色の手帳にペンを走らせている。その手帳は野帳やちょうといい、測量における絶対必需品だ。

 晃はしゃがみ込んだまま、狐を思わせる切れ長の瞳を見上げた。

「んな訳ねえだろ。文句を言われてるのは新じゃねえか」

 祐樹は野帳から顔を上げると、美形コンビに視線を向ける。

「そうか?俺には、新が八つ当たり攻撃目標にされているだけにしか見えない。実際に喧嘩をしているのは、晃と日下部くさかべだろう」

 当たらずとも遠からずな発言に、晃は思わず渋面じゅうめんを作った。

「なんでそう思うんだよ。教室でも、いつも通りに話してるじゃねえか」

「表面上は変わらないように見えるが、日下部は明らかにお前の顔を見ようとしないし、お前は日下部を見る度に溜め息を付いている。そんな状況が続けば、誰だっておかしいと思うのが普通だ」

 祐樹の言葉に晃は目をみはる。人目のある場所での春奈は完璧に擬態していた。

 いつも通りの笑顔を浮かべ、晃に対する冷淡な態度などおくびにも出さない。祐樹の言うように、目を見て話したり名前を呼んだりしてくることはないけれど、全てはさりげなく行われるので、寮で共に生活している人間でさえ気付かないほどだった。

 二年前より確実に鋭くなった観察眼に、再び晃は深い溜め息をつく。

「喧嘩をしてないってのは本当だ。ただ、どうも機嫌が悪いみたいでな、避けられているというかなんというか・・・・・・」

「そういう状態を普通は喧嘩って言うんじゃないのか?ともかく、あの調子ではこっちもやり難い。基準線の見張りは代わってやるから、さっさと謝って来いよ」

 手を伸ばしてくる祐樹を遮って、晃はかぶりを振った。

「それが出来ないから困ってるんだよ。心当たりが無くもない、が、それで機嫌が悪くなる理由がちっとも分からない。いつもみたいにスパッと言ってくれた方が、まだマシだ」

 冗談のような軽い言い合いならば何度もやっているが、実のところ喧嘩らしい喧嘩は一度しかしたことがない。

 過去一回の喧嘩から学んだのは、春奈を怒らせると何かと面倒くさいということだ。後々まで根に持つ事はないけれど、怒りが長期間持続するタイプらしい。前回も仲直りするまでにゆうに三ヶ月はかかった。そう言えば、あの喧嘩の原因は何だったのだろう。最終的にどうやって仲直りしたのかも、よく思い出せない。

「その心当たりが間違っているという可能性は?」

「ほぼない。その話をにおわせただけで、あからさまに避けるからな」

 祐樹はふうんと気の無い返事をして、ペンを指先でくるくると回した。

 あの『付きまとってやる』とも取れる告白から約一ヶ月経つが、今のところ、同じクラスの友人として他の人と変わらない関係を保っていた。

それもそのはず、こちらが隣に居ることを一方的に宣言したのであって、祐樹の意見や意思を確認・尊重しているわけではない。意味も無くべたべたと付きまとうのは晃の趣味ではないし、もしやったとしても、それが高じてストーカー認定されたら目も当てられない。

 出るに出られず、引くに引けず。でも、今の状況でも十分だと晃は思っていた。

 同じ年頃の女子ばかりの寮生活、学内の噂話に異様に詳しい先輩、ちょっとしたことでもむやみやたらと盛り上がるクラスメイト、何より登校すれば隣の席には祐樹が座っている。

 新生活は始まったばかりで話題には事欠かない。下らない話しをしたり、こうやって一緒に実習をしたり、去年までの自分には想像もできなかっただろう。

 女友達、クラスメイト、肩書きはどれでも結構だ。

 祐樹は大柄な体格と鋭い目つきで女子に敬遠されがちだが、元から彼を知っている晃には何の抵抗もない。話してみれば意外といいやつなのに、と余計なことまで考えてしまうくらいだ。

 だが、引っかかることが一つだけある。春奈だけではなく祐樹も、あの一件を避けている節がある。新が何度かあの日の話を蒸し返した事があったが、その度に何処へとも無く姿を消すのだ。

 春奈のように、祐樹からも避けられている感覚は全く無い。でも、あの日の話はしたくないという明確な意思は伝わってくる。

 保健室での出来事は、次第に四人の間で禁句になりつつあった。

「どこか曖昧な話だが、喧嘩じゃないというならそうなんだろう。こっちも女同士の諍いに首を突っ込もうとは思っていない。だが、教室では静かなのに、実習になると急に荒れ始めるのは何故なんだ?」

 澄んだ瞳に疑問の色を浮かべて、祐樹は晃を見下ろした。

 それについては、確実に言えることがある。しかし、春奈のプライベートに関わることでもあるため口にするのは躊躇ためらわれる。

 晃は乱暴に頭を掻いた。

「祐樹は普段、ハルとどのくらい会話をする?」

「出席番号が続いているせいで何かと同じチームになるから、それなりに話しはしているつもりだが・・・・・・あらたほどではないだろう。クラスでも、日下部が積極的に話しかけるのは、お前か新だけに見える。人のことは言えないが、あまり人付き合いは得意じゃなさそうだな」

 祐樹の言葉に晃は軽く頷く。

 その見解は間違いではない。人付き合いが苦手というよりも、春奈は人と関わること自体を避けていた。そんな春奈が自ら新に話しかけたときには驚きを隠せなかったが、彼女自身が変わることを望んでいるのは痛いほど解った。

 決して楽しい話ではないが、これからも春奈と関わりを持ち続ける祐樹には、知っておいて貰いたいとも思う。

「ハルはな、小・中と酷い嫌がらせをされていた時期があって、それで少し人間不信なんだ」

 祐樹の方眉かたまゆが、ぴくりと跳ねる。

「あいつ顔が良いだろ。だから気を引きたい男共や、それをやっかんだ女子からかなり酷い嫌がらせをされてきたんだ。周りに自覚はなかったんだろうが、殆どいじめだよ。途中、庇ってくれる子や仲のいい子もいたんだけど、結局はみんな離れていった」

 晃の脳裏に、うつむいたままランドセルを背負って登下校をする春奈の姿がよぎった。同じクラスになれば四六時中一緒に居てやれたが、いつでもそうあるとは限らない。実際、晃が春奈と同じ教室で机を並べていたのは、九年間の内の半分にも満たなかった。

「あたしも出来る限り一緒に居たんだが、学年が上がるに連れて、それも難しくなった。そのうち、あいつ、すっぱりと友達付き合いを止めちまったんだ」

 晃はしゃがみ込んだ膝の上に顎を固定すると、春奈たちを見つめた。新に文句をいいつつも、春奈は時折楽しそうな表情を浮かべている。

 中学の卒業式の日『私、変わるから』と宣言した彼女の横顔を思い出した。

「だからハルにとって新は、初めて出来た男友達なんだよ。あいつ、入学式のときに同姓に嫌われていたとか言ってたじゃねえか。境遇が似ているから親近感が沸いたんだろうな。それに祐樹が言ったように、今は何かと四人で居ることが多いだろ。からこもる必要が無い分、自分を出しやすいんじゃねえかな」

 語り終えると、二人の間に静かな沈黙が流れた。

 一日の授業も最後の時間を迎え、構内には人影が少ない。日もやや傾き、辺りは薄っすらと黄金色に輝き始めていた。

 藤棚からは青々とした鮮烈な香りが漂い、一匹のクマバチが目の前を飛び去って行く。

 祐樹は野帳を開くと、口の端を少し持ち上げて笑った。

「そうか。ならば新には悪いが、日下部のしたいようにすればいい」

 そうしておもむろに歩き始めると、振り返りもせずに言った。

「余計なお世話だろうが、なるべく早く仲直りしろよ」

 春奈たちの方へ去って行く後姿に、晃は「出来るならもうやってる」と小さな声で返した。

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